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from: orimasaさん
2009年05月18日 11時26分11秒
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日本周遊紀行(188) 米子 「倭国大乱」
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2世紀頃、この地方に大乱、所謂、「倭国大乱」があったとされる。
倭国大乱(わこくたいらん)は、弥生時代後期の2世紀の末に倭国で起こったとされる争乱である。中国の複数の史書に記述が見られる。列島規模であったとする見方もあり、日本史上初の大規模な戦争(内戦)だとする意見もある
記紀には若干の記載がある程度だが、中国の正史である三国志(魏志倭人伝)や後漢書(東夷伝)には大略記述され、尚且つ、出雲風土記や日野郡誌にも記録があるという。
後漢書「東夷伝」(東夷は、元々は中国の山東半島一帯に住んでいた実在の民族の事を差していた様だが、主に、朝鮮、日本(倭)の事を差している事が多いともいう)によると、「2世紀に倭国は大いに乱れ、互いに戦い、何年もの間、主となる王を立てられないほどだった」とある。 この争いは後に「卑弥呼」を共立する事によって収まったとされているが・・。
この時期の古事記の条を見ると「大吉備津日子命と若建吉備津日子命は、共々に播磨口を入口として、吉備国を平定なさった」とあり、吉備津彦命が大乱に関連していると考えられ、近畿、中国地方においては2世紀後半に出雲や吉備、九州筑紫地方で戦乱、つまり倭国内での大乱があったようである。
又、地元の「日野郡誌」には、中国地方(出雲国・伯耆国・吉備国)には孝霊天皇及びその関係者の伝承が散在しているとして、この伝承が倭の大乱に関連しているともしている。
大山北麓の「孝霊山」に関して・・、
大和の国から遠征してきた孝霊天皇は、日本海から上陸して孝霊山に居を移したとある。この遠征の最終目的地は出雲周辺であり、大和と出雲の騒乱は「倭の大乱」として表していると想像される・・とある。
孝霊山麓には「妻木晩田遺跡」というのがあり、弥生期の二世紀頃の遺跡とされ、全国最大級の規模という。 郡誌は、孝霊天皇は孝霊山頂に居を移したとあるが、実際には,妻木晩田遺跡のすぐ近くであり、伝承では孝霊天皇は朝妻姫に恋して姫を皇后にしたとあり、孝霊天皇の皇后の出身地であることから最大級の遺跡になったとも考えられる。
すぐそばに高杉神社があり、孝霊天皇が祀られていることは前述した。
倭の大乱以前・・?の出雲統治圏については先の出雲の項にも記したが、その領域は山陰・北陸地方から信濃の国、瀬戸内海沿岸地方から筑紫の国であったとされることから、「倭の大乱」後は、出雲国造の統治領域は出雲国のみとなっているのである。
出雲神話によく登場するが、大国主が戦さに敗れて「国譲り」を行い、出雲一国の国王になってしまったことをも表わしてもいる。
出雲の国王は、出雲地域を離れる事は無かったが、出雲に対するリーダー(吉備の主とも言われる)は各地を巡り、倭国という「連合」を作り上げたのではないか。 ともかく倭国大乱の始まりから、倭国連合の最終的決着まで数世代はかかったとされ、統一された連合が「大和朝廷」で最初の統治者が「卑弥呼」であるとされる。
考古学の見地からも「倭国大乱」、つまり出雲、吉備(大和)地方においても争いがあったことは裏付けられているという。
この戦乱の時代背景は・・?、
2世紀頃というと、日本史の流れからすると弥生時代の後期にあたり、この頃は既に稲作文明が広く一般化し、九州、近畿はおろか中部から関東地方にまで及んでいた。
稲作を施す工具にしても、金属の青銅器はおろか鉄器が普及し、製鉄技術も朝鮮半島から伝わってきていて、砂鉄の産する出雲地方では既に製鉄が始まっていたことは既に記した。
ただ、稲作を施すには個人や部族という小規模地域では困難があり、どうしても地域の拡大や組織化された人々の連携が必要になってくる。更には土地そのものが必要で、それも小規模からより大規模になってゆくのは必然であった。 そこには組織化されたリーダーが必要になってきて、必然的に集落や部族間で争いが起こり、土地の収奪や新しい機器の導入のための争奪も起こってくる。
国内において、当時の現状は部族や地域のリーダー、豪族はいたものの大地域の統治者というのは未だ存在してなく、まして、国としての体裁はなく、真の国王などは存在していなかった。 邪馬台国とか倭国という国名・・?は中国において日本につけた名称であった。 ただ、自称・王朝なるものは存在していたらしく、そのことは九州王朝説や近畿王朝説があったとする。
「後漢書」によると・・、弥生時代の倭国は多くの政治勢力(国)に分かれており、倭国王は政治勢力間の利害を調整するために置かれていたとしている。そして、倭国大乱の原因としては、倭国の王位の座をめぐる争いということになっている。
ただ、国内事情においては前述した稲作文明の波及、鉄器及びその製造文明等、いわば時代の革命時期であり一大転換期、過渡期でもあった。そして、このような時期は必然的に領土的主権を合い争う時代でもあったのである。 このような理由で倭国大乱は必然であった。
また、時節的に見ても、弥生期は2世紀後半より始まった地球規模の寒冷化の影響を受けたとされ、土地の収奪争いは一層顕著になったとする。 いずれにせよ、2世紀後半から3世紀にかけて、近畿から瀬戸内一帯までの広域に出現した「倭国大乱」は、生活様式、気候的変化をも合わせて、集落に変化を生じさせ、所謂、「高地性集落」を営むようになったとされている。
次回は、「妻木晩田遺跡」
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