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日本一周の旅

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  • from: orimasaさん

    2008年10月24日 09時40分43秒

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    日本周遊紀行(7)下田3 「露使節・プチャーチン」

    ロシアと北方四島・・、ペリーが下田を去って間もない同年(1854年)、ロシア使節プチャーチンが日露和親条約交渉締結のためディアナ号で下田に来航する、日


    ロシアと北方四島・・、

    ペリーが下田を去って間もない同年(1854年)、ロシア使節プチャーチンが日露和親条約交渉締結のためディアナ号で下田に来航する、日米和親条約締結の話を聞きつけ、再び來日したもの・・。幕府役人の数度による交渉の結果、同年、長楽寺にて日露和親条約が締結される。 
    日米和親条約と大きく異なるのは、日露の国境が決められ、択捉島とウルップ島の間に国境線が記載されたこと・・、この日を北方領土の日(2月7日)としている。
    因みに、先の大戦以降、未だに北方領土はロシアに占有されたままである・・、長年に亘って日・ロとの返還交渉が成されてきたが、現代に到るまで解決されてない・・。その返還については日本の長年の悲願である。北方領土とは北海道東方、歯舞(ハボマイ)、色丹(ソコタン)、国後(クナシリ)、択捉(エトロフ)の四島のことであり・・、昨年10月東日本一周の際、北海道東方沿岸で国後島を遠望し、納沙布岬では歯舞諸島を真近に望めた。これら地域、特に根室半島は北方領土返還の拠点になっていて、立て看板や石文が辛く、切なく、それらを物語っている。 

    蛍の光と北方領土・・、
    ところで「北方領土」に因んで・・、「蛍の光」という唱歌があるのは周知だが、最近はあまり歌われていないようである・・?。この歌は、明治14年(1881年)に尋常小学校の唱歌として小学唱歌集初編に載せられた。作詞は稲垣千頴(いながき ちかい)、作曲者は不詳であるがスコットランド民謡である。
    明治10年代初頭、日本で小学唱歌集を編纂するにあたって、稲垣千頴が作詞したものが採用され、「蛍の光」となった。歌詞の舞台は大きく異なるが、遠く離れた友を思う心根は、原曲であるスコットランドも日本も共通である。
    大日本帝国海軍では「告別行進曲」という題で、やはり各種学校の卒業式典曲として「仰げば尊し」と一緒に、最近まで使われ歌われた。
    現在は『蛍の光』は二番までしか歌われていないが、本来は四番まである曲であった。
    三番と四番は、辺境の地であっても、それは日本の守りのためであり国のために尽くす、というような歌詞であり、この内容が敬遠されて戦後には歌われなくなったようである。
    以下の歌詞は、小学唱歌集初編(明治14年11月24日発刊)に掲載された時のものである。前述の通り、戦後・昭和24年以降はこの中の1番と2番のみしか歌われていない・・。

    『蛍の光』詞:稲垣 千頴  スコットランド民謡
    一、                    二、
    蛍の光  窓の雪               止まるも行くも 限りとて
    書(ふみ)読む月日 重ねつつ        形見に思う 千万(ちよろず)の
    いつしか年も すぎの戸を           心の端を 一言(ひとこと)に
    開けてぞ今朝は 別れゆく          さきくとばかり 歌(うと)うなり

    三、                    四、
    筑紫(つくし)の極み  陸(みち)の奥     千島の奥も 沖縄も*
    海山遠く 隔(へだ)つとも          八島のうちの 守りなり
    その真心(まごころ)は 隔てなく       到らん国に 勲(いさお)しく
    ひとつに尽くせ 国のため           努めよ我が背 つつがなく

    ※ 歌詞の内容に問題があるとされ、現在音楽の教科書等では第三節以降が省略されている。
    この「蛍の光」は、悲しいまでに美しい旋律(メロディー)である。幼少の頃は歌詞を理解してなくとも、歌ったり、聞いたりしただけで胸にジーンときたものであった。しかも、1番から4番まで理解して歌う時、万感迫るものがある・・。
    「蛍の光」の1、2番は同窓の友や師との告別の意味であるが、3,4番は、将来は国のために心を合わせて協力するという歌である。「蛍の光」を、この形、1から4番までしっかりと歌い続けていれば、北方領土の問題は日本人の意識にもっと深く存在し得たはずであろう・・。
    戦後の風潮、教育でこれらの感慨を全て捨て去った現在、所々にそれらの付けが回ってきている。日本人の精神そのものが、今の北方四島を見ているようである・・。
    尚、「蛍の光」のメロディは、本国のスコットランドや日本だけでなく、その他の各国にも浸透している。 イギリスやアメリカ合衆国などでは新年(スコットランドでは大晦日から)を祝う歌であり、台湾やフィリピンでは新年と卒業式の両方で歌われ、かっては大韓民国(韓国)の国歌でもあったという。

    次いでながら、「蛍雪の功」という言葉がある。
    「蛍の光」の歌詞の冒頭「蛍の光 窓の雪」とは、「蛍雪の功」と言われる。 一途に学問に励む事を褒め称える中国における故事が由来となっている。東晋の時代の車胤は、家が貧乏で灯す油が買えなかったために蛍の光で勉強していた。 同様に、同じ頃の孫康は、夜には窓の外に積もった雪の反射する光で勉強していた。そして、この二人はその重ねた学問により、長じて朝廷の高官に出世している。

    尚、プチャーチン提督が来日していたこの年(安政元年)、東海地方を巨大な地震が襲う、「安政の大地震」と言われるもので、この下田も津波によって全滅に近い甚大な被害を被っている。津波てロシア軍艦・ディアナ号も大破し、亡くなっ水兵は今もこの玉泉寺の敷地内に眠っている。 長楽寺は了仙寺の近くに在る・・。
    詳細については西伊豆・「戸田」の項で記載します。

    序ながら、下田と吉田松陰のこと・・、
    浦賀に四隻のペリー艦隊の来航を見て、アメリカの文化文明に興味を抱いた「吉田松蔭」は、外国留学の意志を固める。ペリーが日米和親条約締結のため再度来航した際に門弟2人とポータハン号へ赴き、密航を訴えるが拒否されてしまい、幕府に申し出るが逆に松蔭は長州藩へ檻送され野山獄に幽囚される。その後幕府が勅許(天皇の免許、許可)なく日米修好通商条約を結ぶと、攘夷論者の松陰は激しくこれを非難、幕閣の暗殺を企てるが失敗して再び松陰は投獄される。
    大老井伊直弼の「安政の大獄」が始まると、幕府は長州藩に松陰の江戸送致を命じ、松陰は老中暗殺計画を自供して自らの思想を語り、江戸伝馬町の獄において斬首の刑に処される。 1859年・享年29歳。 
    これ等の事件をきっかけに、江戸期は幕末の動乱の時代に突入、南西諸藩(長州、薩摩、土佐、・・)は倒幕のために立ち上がり、明治の御世へと時代は激しく移行してゆく・・。下田に居留していた当時の吉田松陰の居蹟、旧村山邸は蓮台寺の「お吉の淵」の近くに在る・・。(平成17年:2005年5月23日訪問)

    次回は石廊崎まで行きます




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  • from: orimasaさん

    2008年10月24日 09時02分20秒

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    日本周遊紀行(7)下田 「ハリスとお吉」

    総領事・ハリス・・、先刻、通ったR135より爪木崎方面へ向かう途中に「玉泉寺」があった。先の了仙寺とは対照的に人っ子一人居ない静寂の寺院であった。門前


    総領事・ハリス・・、

    先刻、通ったR135より爪木崎方面へ向かう途中に「玉泉寺」があった。
    先の了仙寺とは対照的に人っ子一人居ない静寂の寺院であった。門前に”安政年間・日本最初・米国領事館”の石碑があり、石段を登った本堂右手に「ハリス記念館」があった。 
    ペリーが去って、1856年7月、日米和親条約の規定に基づき初代日本総領事「ハリス」が下田に着任し、この玉泉寺に日本最初の米総領事館が設置された。
    それから3年もの間オランダ人通訳ヒュースケンと共に下田に滞在し通商条約締結に向けての幕府との交渉に臨む。そして、翌1857年に下田協約(日米通貨協定、領事裁判権等)を結ぶ。
    又、初め江戸入府を許可されなかったが、後に許されて陸路天城を越えて(前に記した天城峠越え)江戸城へと向かう。ハリスは外国人としては初めて将軍・家定に拝謁し、家定は、「遠方からの書簡、又、口上、満足である。幾久しく交友したいと大統領に申し上げてもらいたい」と述べている。その後、幕府と根気強く条約交渉を進めた結果、1858年6月日「米修好通商条約」を横浜艦上で調印することに成功する。 
    ハリスは実は親日家であった。
    ハリスの滞在日記『ハリス日本滞在記』の中で「私は、日本人は喜望峰以東のいかなる民族より優秀であることを、繰り返し云う・・。日本の国民に、その器用さと勤勉さを行使することを許しさえするならば、日本は遠からずして偉大な、強力な国家となるであろう・・」と記している。 日本人を「特異で、半ば野蛮な国民」と称したペリーとは大違いである。

    「唐人お吉」について・・、
    下田一と評判の高い芸妓だった「お吉」が、17歳でハリスの世話人として上がる。病弱で動けなくなったハリスは、身の回りの世話をしてくれる女性を幕府に要求していた。
    幕府は交渉を優位に進めようと政略をもってお吉を送り込むが、そのことを知ったハリスは激怒し、3日で帰宅させてしまう。その後、ハリスの人柄も聞かされ、支度金として受け取った25両のこともあって、改めて彼女の家族側から領事館にお願いし、奉公することになった。
    ハリスに仕えた期間はほんの僅かだったが、その後のお吉は不運だった。「唐人」とののしられ蔑まれて、その後三島や横浜と移流する。後には下田での商売はうまくいかず酒に溺れて、遂に明治24年豪雨の夜、下田蓮台寺の稲生沢川の淵に身を投じ自らの命を絶っている。波瀾にみちた51年の生涯は、あまりにも哀しい終幕で、この事件は幕末開国に伴う一悲話として小説や芝居の題材にもなっている。お吉は身よりもなく「宝福寺」の住職に法名を戴き境内に厚く葬られた。
    先代の水谷八重子の舞台が評判になったのをきっかけに、芸能人達によって墓石も寄進され、法要祭は下田の女連によって今でも行われている・・。
    宝福寺は下田駅と了仙寺の中間、通称「まいまい通り」に在る・・。

    引続き「下田」である。




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  • from: orimasaさん

    2008年10月24日 08時52分54秒

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    日本周遊紀行(7)下田 「黒船祭とペリー」

    下田黒船祭・・、今井浜温泉、河津浜温泉からR135は内陸の高所を行く、再び白州の浜に出た、伊豆白浜という。白浜の地名は他に安房の白浜、南紀の白浜を記憶


    下田黒船祭・・、

    今井浜温泉、河津浜温泉からR135は内陸の高所を行く、再び白州の浜に出た、伊豆白浜という。白浜の地名は 他に安房の白浜、南紀の白浜を記憶している・・。
    スイセン(1月頃30万本の自然のスイセンが咲きほこる)と須崎御用邸(昭和46年に三井の静かな入江に御用邸がたてられ、天皇陛下や、皇室関係の方が、海洋生物の研究やお休みにお出でになる)で有名な爪木崎を左に見ながら、とりあえず伊豆急の下田駅に向かう。駅は鉄道・伊豆急の終着駅で東京から下田は凡そ2時間半で結んでいる・・。

    観光案内所で歴史的名所のガイドを伺いながら、パンフを戴く・・、聞くところによると5月20日〜22日つまり本日まで「下田黒船祭」の真っ最中で、各処々でイベントが行われているとか・・、ソウ云われれば、商店大通りでは賑やかに出店や露天商が並んでいて、着物のお嬢さんのソゾロ歩きや港街らしくセーラー服の若き水兵さんの姿も見かけた・・。黒船祭は、当時亡くなった米兵の供養祭から始まり、現在は日米両国の親善を深めるため、下田条約が締結された5月に、毎年行われてる。
    思えば今年は種々の記念の年に当たっている様だ・・。太平洋戦争の終戦60年、日露戦争の終結100年、そして江戸末期の開国から150年・・と。この下田こそが、江戸期の長い鎖国から世界への扉を開いた地である・・、先ずそれらの跡を訪ねて観よう・・、駅前から稲生沢川沿いを行くと、下田公園の手前に「ぺりー艦隊上陸の地」があった。 

    船体を真っ黒なタールで塗りつぶした4隻の艦船が「浦賀」に来航したのは、1853年6月であった。母国アメリカを出航した後、大西洋からアフリカ喜望峰を回りインド洋を抜け、香港・琉球(沖縄)を経由し226日にも及んだ長い航海の末、日本へとやっと到達した。ペリーは久里浜(浦賀)にて、開国開港を要求する国書を幕府に受け取らせると、翌年再び来日し返答を聞くことを約束して一旦日本を去った。 
    時を経て再び来日したのは翌年1854年、今度は9隻の艦船を率いて、無断で江戸湾(東京湾)の測量や乗組員を強引に横浜に上陸させ、条約草案を押し付ける等、威圧行為を行いながら、幕府との話し合いの場を設けることに成功する。
    強引な手段に出たのには、前任の東インド艦隊司令長官が浦賀奉行に呈よく追い帰されたという経緯があった、そのため万が一の場合には「武力行使も辞さない」といった断固たる決意で臨んだ為といわれる。腹を決めた幕府は江戸近隣での開港を嫌い、下田・函館両港の開港案を提示する。
    ペリーはさっそく下田周辺の海洋等の事前調査を行う、外洋と接し安全かつ容易に出入りが出来る下田湾を、当時ペリーは「天然にしてこれほどの良港は望めない」と絶賛したそである。遂に艦隊を集結させたペリーは乗組員と共に、この地に上陸する・・。


    写真 ぺりー上陸地(下田黒船祭にあたり、胸像には花輪と花束が手向けてある)

    上陸地の園地にはペリーの胸像があった。
    ここから「了仙寺」までは300mもあろうか・・、石畳の道に風流な弥治川、ナマコ壁の屋敷前に架かる朱色の橋、小公園やガス灯など情緒あふれる散歩道、下田の町の風情を感じさせ、若者に人気のおしゃれストリートになっている。通称「ペリーロード」と呼んでいる、その先に了仙寺は在った。
    さすがに大きめの駐車場の横は土産店が並び、その前に紫色の花木鉢が並んでいる。聞くと「アメリカジャスミンでこの寺の名所名物だよ・・中庭は今が盛りだよ・・、」と言う。成る程、肩ぐらいはあろうかと思われる位のその名もアメリカジャスミンが庭一面に今が盛りと満開の花を咲かせていた・・。本堂も古式な由緒を感じさせる。 


    写真 了仙寺と真盛りのアメリカジャスミン庭園

    ペリーや艦船の乗組員たちは、このペリーロードを軍楽隊の演奏と共に派手に行進をしながら了仙寺へと入ったことだろう。
    ペリーは下田の町家を下見、見聞しながら幕府側代表と何度も交渉を進め、念願の全12ヶ条から成る日米和親条約(神奈川条約)を締結したという。 
    初め、街を歩く白い色や真っ黒い鬼のような形相の大男に恐れをなして家の中に閉じこもっていた下田の町民も、フレンドリーでユーモラスなアメリカ人とすぐに打ち解けることができ、敵対心を抱いて接していた幕府役人を尻目に、友好関係を築き上げていったという。又、ペリー一行が下田に上陸して最初受けた日本人の印象は、自分たちが考えていた一見した以上に、生活や教育水準の高さ、職人たちの手の器用さに驚き、尚且つ、日本の風習にも相当なカルチャーショックを受けたようである・・。

    引続き下田での「ハリスとお吉」




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  • from: orimasaさん

    2008年10月23日 09時33分57秒

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    日本周遊紀行(6)伊東 「東伊豆」

    『湯の町エレジー』詞野村俊夫曲古賀政男唄近江俊郎伊豆の山々月あわく淡い湯の香も路地裏も灯りにむせぶ湯のけむり君住む故になつかしやあああ初恋のあああ忘ら



    『湯の町エレジー』 詞 野村俊夫 曲 古賀政男 唄 近江俊郎
    伊豆の山々 月あわく     淡い湯の香も 路地裏も
    灯りにむせぶ 湯のけむり   君住む故に なつかしや
    あああ 初恋の        あああ 忘られぬ
    君をたずねて 今宵また    夢を慕いて 散る泪
    ギターつまびく 旅の鳥    今宵ギターも 咽(むせ)びなく

    「伊東温泉」・・、
    熱海のはずれにある網代温泉からは海岸近くでもかなり高所を走るようになる、屈曲した道をしばらく行き最高所から一気に下った処は宇佐美の海岸である。湾曲した砂浜の海辺は透明度も良く、夏は海水浴客で賑わう、民宿の町といってイイほど民宿が多く、我が家も毎年ここにはお世話になるところである。
    ここは、すでに伊東市であった・・。
    東海岸のR135沿いは大温泉タウンが並ぶ、湯河原、熱海、そして伊東温泉だ。
    温泉街は熱海にも劣らぬ程のホテルや旅館が並ぶ、温泉は源泉の数が780本、毎分の湧出量は34,000Lもあり熱海より多い、又、飲食店も多く昔の歓楽街的温泉の要素も多く現存する。
    ところで熟年の方なら存知よりも多いと思うが、あの古賀メロデーの元祖ともいえる「湯の町エレジー」はここ伊東を舞台に生まれたともいう・・。
    あのギターの奏でる前奏、間奏のメロデーは、なんとも湯の街の哀愁にピッタリの曲で、小生、若かりし頃ギターをカジッタ時に最初に覚えた曲でもあった・・。 

    東伊豆・・、
    また伊東はもう一つの顔がある。
    南部は概ね丘陵地帯になっていて、大室山の麓にある伊豆高原や一碧湖周辺は四季を通じて一大レジャー基地になっている。城ヶ崎海岸は大室山の大噴火で溶岩が海に落ち込んだ際に形成されたリアス海岸で、断崖絶壁は見る者を圧倒する景観だ・・、特に門脇崎の吊橋から、絶壁に白く飛沫を上げる波濤を見下ろすときは冷や汗ものだ・・。
    伊豆高原から赤沢温泉、北川温泉を経て熱川温泉へ、この辺りは天城山系の最高峰、百名山でもある「天城山・1406m」がいきなり海岸へ落ち込んでいるところで、そのためR135も細々と通っている。
    かなりの高所の国道沿いに標識があり、細い急な路地を下ると、まもなく海岸沿いに熱川の細長い温泉街があった。

    高磯の湯・・、
    処々のホテルには温泉の掘削井戸があって、そこからモウモウと噴気煙が上がっている、源泉温度はほぼ100℃に達しているという高温泉である。温泉街の外れに目的の波打ち際の「高磯の湯」があった。季節的に水を抜かれた青いプールの脇を通って露天風呂へ、ライダー連が数人いて些か騒々しいが、やはり露天風呂はいい・・、湯は真透明でごくわずかに細かい白っぽい湯の花があるようだ、海岸なのでやや塩味がする。しかし周囲は野生味が感じられないのは残念、コンクリートの床で海際は鉄柵で囲ってある、湯に浸かると紺碧の海原は見えない、人工物が自然を邪魔しているのだ・・、早々に退散した・・。 ついでに熱川温泉は大田道潅が発見したといわれるが・・。

    天城トンネル・・、  
    稲取温泉から河津浜へ・・、 ここは伊豆半島中央を貫く幹線路R136、R414、修善寺、湯ヶ島、湯ケ野の合流点になる、通称中伊豆とも称している。こちらも趣のある温泉地や自然が多い、なかでも何かと有名な天城峠は御存知だと思う・・が、川端康成の「伊豆の踊り子」は天城峠つまり旧天城トンネルが舞台になている。
    明治38年に完成したトンネルは全長445メートル、アーチ・側面などすべて切り石で建造され、石造道路トンネルとしては日本に現存する最長のものであるとか。有形文化財に登録され、2001年には道路トンネルとしては初めて国の重要文化財に指定されている。 また、「日本の道百選」にも選ばれている。
    今は静寂を保つこのトンネルは歴史的にも、文学的にも観光の名所になっている。
    トンネルの手前には旧峠道が延びている、トンネルができる前の往時の路は、急峻な地形や切り立った崖の上で、そのため天城越えで尊い命を落とした人もいたという。
    幕末アメリカ領事館の初代総領事ハリスが通商条約締結のため, 下田より江戸に上ったときに通ったのがこの峠である、そのときのハリス一行の日記には,
    『路は狭く, 鋭角で馬の蹄を置く場所もなく、ようやく峠を越えて湯ヶ島に着く。 今日の路は道路ではなく通路とも言うべきものだ. 』
    と記されていることから, 相当な難所であったことが判る。
    旧天城トンネル、更に新天城トンネルの完成で北伊豆と南伊豆の距離は一挙に短縮された。

    次回、伊豆南端の下田は、「黒船祭り」の真っ最中であった。




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    2008年10月23日 08時49分57秒

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    日本周遊紀行(5)熱海 「熱海・湯の町」

    「熱海温泉」・・、総じて云える事だが、伊豆半島は山岳半島であろう、多くの山々は海岸線まで迫り出している。特に東海岸のすぐ後ろは箱根高地から伊豆箱根スカ



    「熱海温泉」・・、
    総じて云える事だが、伊豆半島は山岳半島であろう、多くの山々は海岸線まで迫り出している。 特に東海岸のすぐ後ろは箱根高地から伊豆箱根スカイラインが天城高原、天城山辺りまで天空を走っている。このスカイラインの下、伊豆半島の付根部分を丹那トンネル(たんなトンネル)が1934年に開通している。 東海道本線の熱海駅〜函南駅間にある複線規格のトンネルで総延長7804m、完成当時は清水トンネルに次ぐ日本第2位の長さで、鉄道用複線トンネルとしては日本最長であった。火山地帯特有の断層と温泉湧出という難工事で16年の長期間と事故による67名という犠牲者を出している・・。 
    それまでは箱根の連山をぐるっと北側を廻る、現在の御殿場線が東海道線であった。このトンネルの開通で日本の大幹線といわれる東名阪の交通事情は大きく進展したといわれる・・。 
    この丹那トンネルの東の入り口が「熱海」である、古くからの温泉地であり、地名は「海から熱い湯が湧き出ていた」ことからであろう・・。山地丘陵地の狭いエリアに大型ホテル・旅館が立ち並び、国鉄東海道本線開通以降、首都圏からの保養客が押し寄せ一大保養地になった。かつては新婚旅行や社員旅行の定番の行き先であったが、社員旅行自体の衰退と大型宿泊施設を敬遠するムードから斜陽傾向にある、2000年代に入り温泉を引いたマンションが増加しているという。 保養マンションが主であろうが新幹線を使用すれば首都圏へは通勤圏内でもある。


    写真 熱海海岸


    写真 寛一お宮

    熱海温泉は日本の三大温泉(熱海、別府、南紀白浜)の一つ。 また、日本の三大温泉場(別府、熱海、伊東)の一つとされ、源泉湧出数500本以上、古くは大半の源泉が硫酸塩泉であったが、近年ボーリングによる源泉開発を多数行った結果、海沿いの源泉は海水の混入量が増えているという・・。
    熱海のスポットと言えば海岸にある「お宮の松」と「寛一・お宮の像」であろう。 尾崎紅葉の「金色夜叉」から模じったもので、その前に砂浜のサンビーチが広がっている。 

    市街地より東方山地に「伊豆山神社」がある。
    頼朝が鎌倉に幕府を開くに及んで、幕府最高の崇敬社として箱根とともに二社を関八州鎮護とした。 元はといえば頼朝の恋人であった北条政子が、密かに逢瀬を楽しんだ神社といわれる。父に逆らって恋人の元に抜け出してゆく「政子」は、後に政権を握ることなど考えもしなかったに違いない。源氏旗揚をした後、この社にせっせと戦勝祈願をしたという。

    『新金色夜叉』 曲・詞・宮島郁芳 
    熱海の海岸を散歩する     僕が学校おわるまで
    貫一お宮の二人連れ      何故(なぜ)に宮さん待たなんだ 
    共に歩むも今日限り       夫に不足が出来たのか 
    共に語るも今日限り       さもなきゃお金が欲しいのか

     
    次回は、伊東温泉・・、


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    2008年10月22日 09時06分38秒

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    日本周遊紀行(4)湯河原 「温泉と土肥氏」

    「真鶴・岩」・・、いわゆる西湘バイパスから小田原の石橋を抜けると、間もなく「真鶴」である、半島の手前に「岩」という小さな海岸が在る。夏になると孫達を連


    「真鶴・岩」・・、
    いわゆる西湘バイパスから小田原の石橋を抜けると、間もなく「真鶴」である、半島の手前に「岩」という小さな海岸が在る。 夏になると孫達を連れて、海水浴をしに海辺の民宿に数回泊まりに来た事があった。波の小さな入り江の砂浜と端には適当な岩場があって磯遊びも出来る。 正面には真鶴道路の岩大橋が高方に架かる。
    この「岩」にも中世に歴史の一コマが有った・・、
    平治の乱で敗れた源氏頼朝が伊豆へ流されて20数年、北条氏の庇護のもと娘・政子を妻に娶って更に強固な姻戚関係を結んでいる。
    一方中央・都では奢れる平氏を打つべく、後白河天皇の皇子「以仁王」が諸国の源氏に令旨(皇太子、親王等の命令を伝える文書・勅書に次ぐ物)を出し、伊豆の頼朝にもその親書が届けられる。頼朝は、これを期に北条時政や土地の豪族を頼って、伊豆に威を張る平兼隆を討つ、そして正規に平家打倒の旗を挙げる。しかし次の「石橋山の戦い」では三百騎を率いる頼朝を討つべく集まった、平家に仕える地族ら三千余騎との戦いに敗れ去る。
    その際、土肥実平の案内で土肥の山中に逃げ込み、平家方の追っ手から逃れる。土肥実平は土肥郷に勢力をもつ武士であり、その土肥郷とは現在の伊豆の土肥ではなく湯河原町,真鶴町,小田原市の一部であったとされる。
    追ってを逃れた頼朝は更に真鶴から海路安房の国への逃走を成功させる、逃亡する際に船出した港がこの「岩」海岸と伝えられている。

    湯河原について・・、
    湯河原、熱海は伊豆半島の首根っこ、付根の部分である。伊豆半島は伊豆箱根富士国立公園と合い間って、富士火山脈の中枢に当たる。
    ある機関によると、伊豆半島は富士火山脈の上にあり地質上地殻変動のために割れ目が多く、また火山活動が活発で、周囲を海に囲まれ、降水量は年間3,500mm内外で、年平均気温は16℃内外と高温多湿で、植物の生息に好適な気象条件を備えている。それ故、植物の育成が良好で、森林区域は半島面積の74%に達し、したがって地下水の保水量が多く、温泉湧き出しには好条件であるという。
    静岡県は温泉湧出量が全国で有数の温泉県になっていて、源泉数は大分、鹿児島に次いで三番目であり、その殆どが伊豆半島に占められている・・。 
    失礼・・、「湯河原」は神奈川県でした・・が、県境の川を隔てて静岡県熱海市泉地区にも温泉宿があり、伊豆湯河原温泉と称している。温泉場の中央、千歳川と富士木川が合流するところに万葉公園がある。これは万葉集にあやかって名付けたもので、湯河原温泉は万葉集にも詠われている程の古湯で、それが為か往時は文人の湯とも言われた・・。
    湯河原の地域以外に「万葉の湯」という名称の湯館があるが、湯河原の温泉湯を持ち込んでその名を付している。
    湯河原駅から千歳川の谷を遡るように温泉街が続いている、隣の熱海には巨大温泉ホテルが林立しているが湯河原は日本形旅館が主体で、古くからある「温泉街」の風情が残っている。
    湯河原吉浜海岸は長大な砂浜が広がっていて、遠浅なのでサーファーやファミリーにも最適な海水浴場になっている・・。

    土肥の庄・・、
    湯河原は歴史の舞台でも著名なところである、平安期の頃は「土肥の庄」と呼ばれていた・・。その土肥の統領・「土肥実平」は頼朝の熱い信頼ある御家人だった
    頼朝の源氏旗揚げの時は、平氏の嫡流の身でありながら、土肥の郷主・土肥二郎実平は源頼朝に付き、奮闘貢献し平氏滅亡に寄与している。 ・・。
    湯河原駅北側に城願寺という立派な寺院がある。 後年、実平は土肥郷内に寺院を創建し、其の後土肥氏の総菩提寺となっている。一時、土肥一族は鎌倉で滅亡したと言われたが、実平の子孫は着実に有ったという、孫は安芸国(広島県)に移り「小早川」を名乗り、後に毛利家の筆頭家老となる小早川家の祖となっている。また四代目は越中・富山郷(富山県)に移り、土肥称を名乗り、戦国期、江戸期を生き抜いて実平から800年以上、土肥氏は今も其の地で繁栄を続けているという。 富山周辺地域は今も土肥称が多いという・・。 
    土肥郷の城願寺には越中の土肥氏の多くも葬られているという・・。

    城願寺本堂左方に土肥氏一族の墓所、66基の墓石がある。
    墓石は重層塔、宝筺印塔、五輪塔などの各種の墓型が揃っていて、このように一墓所に各種の墓型がそろっているのは、関東地方ではめずらしく貴重なものだそうだ・・。 
    一角に七騎堂なる御堂がある。
    頼朝が石橋山に陣を布き、手勢300騎で平家方の大庭景親軍3000騎と対戦したが、多勢に少勢、勿ち敗走して土肥の山中の洞窟に身を隠し、真鶴海岸から房州に落ち延びた。
    この時、同船して落延びたのが頼朝以下主従七騎であったので、世にこれを頼朝七騎落と呼んでいる。 七騎堂にはこれら七士の霊を弔っているという・・。又、境内には迫力の樹木がある・・、土肥実平が寺院創建時に、自ら植えと伝えられる「ビャクシン」の大樹で、幹のねじれが著しく、小枝もよく茂った古木である。 樹齢約800年(推定)といわれ、国の天然記念物に指定されている。
    因みに、このビャクシンという樹は長寿で、樹齢約1500年に達するものもあると言われている。

    次は「熱海温泉」です・・。



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    2008年10月22日 09時00分29秒

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    日本周遊紀行(3)葉山 「湘南・・、」

    『瀟湘湖南』(しょうしょうこなん)・・、三浦半島最南端、城ヶ島や油壺は通年人々で賑わう観光地である。城ヶ島西端の入り組んだ入り江である長津呂湾は、岩場


    『瀟湘湖南』(しょうしょうこなん)・・、
    三浦半島最南端、城ヶ島や油壺は通年人々で賑わう観光地である。
    城ヶ島西端の入り組んだ入り江である長津呂湾は、岩場に囲まれた天然のプールになっていて、我も時折・・?夏になると孫共と一緒にはしゃいだもんでであった。
    また三崎漁港は我が国有数の漁業基地、特にマグロの水揚げは焼津に次いで2番目をキープしている・・。詩歌人の北原白秋は27歳、東京を引き払って家族とともに三浦三崎に新居を構える。三崎は白秋の新生の地となって白秋文学のうえでも、新しい境地がひらかれるきっかけとなった。白秋は三崎を訪れた数多い詩人の誰よりも三崎を愛し、なつかしんだ人でもあったという、三崎時代のも多くの作品がのこされている。

    『城ヶ島の雨』 詩:北原白秋 曲:梁田貞
    雨はふるふる 城ヶ島の磯に
    「利休鼠の 雨がふる」
    雨は真珠か 夜明けの霧か
    それともわたしの 忍び泣き

    舟はゆくゆく 通り矢のはなを
    濡れて帆上げた ぬしの舟

    因みに、「利休鼠の雨」とは・・、
    茶道の「千利休」、即ちお茶、抹茶の色、利休鼠は抹茶の色と鼠色を合わせた色のことのようである。 利休鼠は江戸時代後期から明治時代にかけて利休茶とともに流行した染色の色名で、鼠のような灰色のこと。 利休という字が付く染色名は利休鼠、利休茶、利休白茶、利休色、濃利休、薄利休、錆利休、藍利休などの8色があるといわれる。
    戦国期、利休は秀吉の勘気に触れ天承19(1591)年2月28日京都・葭(かや)町の自邸で切腹を命じられている。2月28日は旧暦で現在の太陽暦になおすと4月9日前後で、その日は霰をまじえた大雨が降るなど異常な天気であったという。 このことから利休鼠の雨の語源があるという説がある。 元より、利休は華美を嫌い鼠色を好んだといわれ、利休鼠の色は暗い灰色で英語のストームグレーのような色を指しているとといわれる。

    R134は三浦半島を北上する、内陸部から海岸に出る。葉山、逗子の海は既にウィンドウサーフィンやボードセーリングを楽しむ若者達で賑わっている。
    葉山は明治期から保養地として注目されていた、皇室関係者や貴族の別荘も多く、明治26年、明治天皇の御用邸が竣工され、今の御用邸に継続されている・・。「昭和」の年号はこの葉山から発せられたという・・。大正天皇は病気療養のため葉山御用邸付属邸に行幸されていた、 しかし、国民の平癒祈願も空しく崩御された。 お見舞いのため滞在中の皇太子・同妃両殿下(昭和天皇・皇后)は、直ちに「践祚(せんそ)」の儀を行われ、付属邸において天皇の位を受け継ぎ、「 昭和」と改元された。 
    葉山御用邸を挟むかたちで、長者ヶ崎、一色海岸、森戸海岸、逗子海岸と海のレジャー基地が並ぶ。小生も若かりし頃、葉山の一色海岸に会社の保養所があったので、海水浴等で青春を謳歌したものであった。

    「湘南」について・・、
    普通に湘南(しょうなん)といえば、神奈川県の相模湾沿いの地方のことを言い、厳密な定義はないようだ。 概ね大磯〜葉山のあたりを指すが、それとは別に大磯以西を西湘(せいしょう)と呼び、三浦半島は湘南に含めないこともある。元々は、中国湖南省の瀟水、湘江を含む洞庭湖一帯を「瀟湘湖南」と呼ぶところから来ていると言われている。なんでも、その風景が相模湾一帯とよく似ているそうで、江戸時代、盛んに中国へ渡来していた禅僧たちが、その《湘南》という言葉を日本に持ち込んだという説が有力である。
    石原慎太郎(現東京都知事、石原裕次郎の実兄)の著作「太陽の季節」から太陽族やその映画の主役石原裕次郎、また若大将シリーズの加山雄三が湘南のシンボルだった1950年代には、ヨットやクルーザーなどのマリーナがある地域(葉山から江ノ島)が湘南と考えられた。
    なお現在、神奈川県の行政区域名としては、平塚市、藤沢市、茅ヶ崎市、秦野市、伊勢原市、寒川町、大磯町、二宮町を湘南と規定する。国土交通省陸運局の自動車ナンバープレイトに「湘南」がある、湘南族のとって秦野、伊勢原、寒川の内陸地が何で湘南なんだ・・ヨ、という異論もある。

    【注記】 鎌倉そして江ノ島から小田原にかけての湘南地区は別項として記載してます。
    鎌倉編:http://blogs.yahoo.co.jp/orimasa2007/folder/214607.html?m=l&p=2 
    湘南編:http://blogs.yahoo.co.jp/orimasa2007/folder/214602.html?m=l 

    従って次回からは、湯河原へ飛びます・・。


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    2008年10月21日 11時40分35秒

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    日本周遊紀行(2)浦賀 「開国の町」

    『太平の眠りを覚ます蒸気船たった4杯で夜も眠れず』浦賀は、嘉永6年6月9日(1853年7月14日)、アメリカ合衆国東インド艦隊司令官ペリー提督が日本上


      『 太平の 眠りを覚ます 蒸気船 
          たった4杯で 夜も眠れず 』
    浦賀は、嘉永6年6月9日(1853年7月14日)、アメリカ合衆国東インド艦隊司令官ペリー提督が 日本上陸の第一歩をしるした地である。 
    ペリー提督の一行はアメリカ人として初めて日本の土を踏み、アメリカ合衆国大統領の親書を幕府側の代表奉行に手渡し、日米の友好と通商を求め、港を開くよう要求した。
    はじめは鎖国政策を押し通そうとした幕府も、欧米の最新の文化、強力な軍事力を目のあたりにし、時代の潮流には抗しきれず、ついに長い間の鎖国政策を転換して、翌、嘉永7年3月3日(1854年3月31日)、再び伊豆の下田へ来航したペリー提督との間で「日米和親条約(神奈川条約)」を結び、下田、函館の2港を開港した。
    日本は世界に向けての第一歩を踏みだし、「日本の近代化」がここから出発したといってよい。

      『 泰平の 眠りを覚ます 上喜撰 
            たった四杯で 夜も眠れず 』
    江戸庶民が詠った狂歌である。
    うららかな日に、たった4杯の高級なお茶(上喜撰)で眠気がすっとび不眠になってしまったように、たった4隻の黒船(蒸気船)による開国の要求に日本は平和ボケから目を覚まされ、開国以外に選択の余地のないところへ追い込まれた・・と。 

    江戸中期、この浦賀に陸の関所ならぬ海の関所といわれる広大な奉行所が置かれていた。江戸の発展増大に伴う人口の流入、商品流通を掌握するため、江戸に近く港も広い浦賀港が下田より移されたと考えられている。小さな藩の転封(諸大名の領地を他へ移しかえること。移封、国替)みたいなものだ・・下田奉行の守をはじめ、下田奉行所に付属する一切の施設、役人、回船問屋の人々まで浦賀に移り住んだという。戸数10数戸の小さな漁村だった浦賀の町は、そのために1000戸にも以上にも達し、相模国では小田原に次ぐ街に膨れ上がったという。
    業務内容は、船の積み荷の検査(船改め)、海の関所、三浦半島の天領(幕府の直轄地)の支配、沿岸警備、海難救助、地方行政、警察、裁判所など・・、江戸後期には外国船が来航するようになり海防の仕事も加わって更に忙しくなったという。海防の指揮や監督、外交交渉の窓口として、浦賀奉行所の重要性が増大し、地位も長崎奉行の上席に昇格した。
    この奉行所は、1868(慶応4)年、幕府滅亡により廃止された。

    横須賀港と浦賀港は歴史的ヒニクで繋がっている・・?。
    横須賀と浦賀の街について簡単にいってしまうと、横須賀は近代海軍によってひらかれた街であり、主にそこで働く職人たちの街として繁栄した。 一方、浦賀は元々「開国の町」であり、それによって海防の総合力が発揮され、豪商や財力で「浦賀ドック」に見られるように造船技術も発達し、栄えた港町であった。

    浦賀ドックについて・・、
    浦賀での造船の歴史は1853年(嘉永6年)のペリー来航まで遡る。この時幕府は大船建造禁止令を解いて浦賀造船所を設置、直ちに軍艦の建造を始め7か月を掛けて国産初の洋式軍艦「鳳凰丸」を建造したところである。また1859年(安政6年)には日本初のドライドック(船の建造や修理などを行う施設)が完成し、アメリカへ向かうための咸臨丸の整備が行われている。
    戦時下では戦艦を造り続け、特に駆逐艦の造船は有名であると・・、戦後も自衛艦艇建造を続け、米空母ミッドウェイの大規模改修や日本丸建造なども行われたという。そして浦賀地区は工場集約のため近年の2003年(平成15年)に閉鎖された。
    現在、浦賀船渠の第1号ドック(通称浦賀ドック)は世界に4か所にしか現存していないレンガ積みドライドックのうちの一つであり、国内でも明治期のものとして「浦賀ドック」は貴重な文化遺産である。

    今と昔の差異はあろうが、三浦半島先端に発達した海防の町は、どちらも大江戸そして大東京を守る要なのであり、国防の港であった。現在は浦賀は行政上横須賀市に統合されたものの、歴史が異なるため居住者の意識にも若干の差異があるというが・・?。
    一昨年(2003年)、日米開国150周年に当たりワシントンでその祝賀行事が小泉総理とブッシュ大統領の下で行われた。
    この浦賀港を今は久里浜港と称している、三浦半島と房総半島、久里浜・金谷を結ぶフェリーが片道40分で往来している。ここは広い東京湾の出入口に当たり直線距離で15kmと最狭部になっている、晴れた日には東京湾を往来する大小多数の船舶が望めるところでもある。

    次回は、「湘南・葉山」

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    2008年10月21日 11時32分32秒

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    日本周遊紀行(1)横須賀 「軍港・横須賀」

    『出発』・・・、いよいよ後半、「西日本方面」への出発の運びと相成った。以前、東日本方面の時の準備と経験が大いに役立ち、概ねそれらと同様に実施する事に成



    『出発』・・・、
    いよいよ後半、「西日本方面」への出発の運びと相成った。
    以前、東日本方面の時の準備と経験が大いに役立ち、概ねそれらと同様に実施する事に成り、当初、考えていた梅雨入り前のゴールデンウイーク明けということで本日を向かえた。
    大雑把に見積もっても東日本方面と比較して地形的にも、都市部というか人口の集約度も高く、観光名所も多い・・これらを考察しても相当の日数と距離がかかりそうで、妻にはそれなりに話しておいたが・・、ところで、妻と娘家族が故あって6月の初め鹿児島方面へ旅行するらしく、その時の再会を楽しみに・・・。

    前日、娘家族が見送りの為に来てくれて、旅先への思い入れ等を話す。6時に起床した時は妻は既に台所に立っていて、朝の支度に余念がなかった・・? 軽く挨拶を交わして6時40分には家を出た。
    R246から東名の横浜町田IC近くよりR16の保土ヶ谷バイパスへ、八王子、相模原、東名高速のICと大横浜市を結ぶ唯一といってもよいぐらいの幹線道路は平日だと早朝から慢性渋滞の常連地である・・、しかし、さすがに日曜日の早朝(・・でもないかな、)とあってスイスイと走り抜けた。新保土ヶ谷ICからは横横道路(横浜・横須賀道路)の有料道路に入る、初めに三浦半島の横須賀へ向かう。

    『戦艦三笠』・・、
    一昨年から昨年に掛けて、司馬遼太郎作の「坂の上の雲」の大長編を読破した。明治時代、伊予松山の秋山兄弟と正岡子規はその時代どように生きたか、明治国家の背景は・・?、兄好古は陸軍騎兵の創設者、弟真之は日本海海戦の名参謀、文壇俳句の大元、子規・・と三人三様が明治の日清・日露戦争にどのように拘わっていくのか・・?極近年(2009年・・?)、NHK大河ドラマ(日曜日・・?)がこのスペクタクル大叙事詩を放映するとか・・。

    写真 「戦艦三笠」

    2005年の今年は、日本海海戦の大勝利と講和発行の日露戦争終結から100周年に当たり、それは奇しくも五月であった。
    日本海軍の旗艦であった「三笠」の等身大のレプリカが横須賀港の三笠公園に停泊している。まだ時間的に開館前であったが、半開きの門をカメラ片手に忍び入った、中央に元帥・東郷平八郎の立像が三笠を背にして立っている。見据える先は東京の国会議事堂か、はたまた皇居か・・? 殆ど灰黒色に鋳ぬられた本艦横に「日本海海戦100周年」の横断幕が張られて在った。

    時は明治・・、
    日露戦争前後の世界情勢は帝国主義の真っ只中にあり、外交官と軍人が最も活躍した時代であった。日本は日清戦争(1894年)に勝利し、翌年には、日本有利な下関条約を締結したものの、ロシア・フランス・ドイツの、いわゆる三国干渉によって、遼東半島(朝鮮半島の北にあり、北を渤海、南を黄海に囲まれており、最西端部に旅順や大連などの都市がある。全体に山がちで平野は少ない)の租借権(ある国が他国の領土の一部を借りること、原則として租借国が統治権を行使する)を清に返還せざるを得なくなった。
    ところがロシアは、日本が手放した租借権を得て遼東半島へ進駐、旅順にロシア太平洋艦隊を配置した。これにより日本における対露感情が決定的に悪化し、民衆は臥薪嘗胆(復讐の為に耐え忍ぶこと、また、成功するために苦労に耐えるという意味)というスローガンの下に重税に耐えて働き、富国強兵政策が推進されていった。
    その後ロシアは満州へ侵攻、全土を占領下に置いた。ロシアは清朝を脅迫し、満州の植民地化を既定事実化しようとしたが、日英米がこれに抗議、ロシアは撤兵を約束した。
    ところがロシアは履行期限を過ぎても撤退を行おうとせず、むしろ駐留軍の増強を図った。
    日清戦争で実力を知ったイギリスは日本と同盟(日英同盟)を結ぶ、これによって国内世論も定まり、積極的な戦争準備を開始した。
    ロシアは朝鮮半島北部へ侵攻領有する構えをみせ始め、日本側では朝鮮半島にロシア側の利権がどういう形であれ、入ってくるのは日本本土の防衛上不利と考え、開戦へと国論をまとめた。当時の日本の外務大臣小村寿太郎はロシアに国交断絶を言い渡した。かくして、ロシア皇帝・ニコライ2世は、1904年、日本との戦闘行為を容認し、事実上日本との戦争を決断した。

    「戦艦三笠」は避けられないロシアとの戦争に備えて、1896年の10ヵ年計画における4隻の新造戦艦の4番艦として、1902年3月に完成していた。
    その設計は英国のビッカーズ社のJames Dunn氏を中心として、当時の英国戦艦にさえ導入されていない最新の技術が盛りこまれた、当時世界最大最強の戦艦であった。 
    1904年に始まった日露戦争では、東郷提督の率いる連合艦体の旗艦として、ロシアの太平洋艦隊との黄海海戦で勝利を収め、その経験を生かしてバルチック艦隊との日本海海戦では、ロシアのほとんどの艦艇を沈める戦果を上げた。 
    大陸陸上部では日本陸軍騎兵隊指揮いる秋山好古が、ロシアコサック騎兵隊を悩ませ勝利に導いていく。又、秋山真之は旗艦三笠を指揮いる東郷司令長官の横に居って作戦指揮し、名参謀ぶりを発揮する。
    日本海海戦出撃の際の報告電報の一節『本日天気晴朗ナレドモ浪高シ』は、短い文章で多くのことを的確に伝えた名文として評価されている。またZ旗の信号文『皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ』も彼の作である。 

    三笠公園への途中、間違って「アメリカ海軍横須賀基地」(横須賀ベース)に入ってしまうところを黒人の米兵に止められて「ミステイク・・ソリー・・」といってUターンしたが・・、
    横須賀基地(よこすかきち、JMSDF Yokosuka Naval Base)は、海上自衛隊及び在日米海軍司令部の基地で第7艦隊の前方展開拠点として置かれている。基地には、以前は空母ミッドウェイ、空母インディペンデンス、最近では空母『ジョージ・ワシントン』の寄港地として有名。また、イージスシステムを搭載したミサイル巡洋艦及びミサイル駆逐艦(イージス艦)といった軍艦が事実上の母港としている。
    米海軍の基地としての是非はともかく、自衛隊とともに、日本国土や首都・東京の防衛に当たっていることも確かである。
    基地内部には一般人は立入れないが、年に1、2度公開され、空母の中にも入れることがあるという。昔の核持込疑惑の頃は船が入る(空母が入港することを地元の人間はこう呼ぶ)度に大騒ぎだったが、最近はとても静からしい・・?。

    R16からR134を行く、細長く入組んだ浦賀湾を左に見ながら一つの丘を越えると再び見通しの良い湾に出た。その名も「開国橋」と名の付く橋を渡って間もなく「ペリー公園・ペリー上陸記念館」があり、園の中央に「北米合衆国水師提督伯理上陸記念碑」(伊藤博文・書)の大きな文碑がある、海岸には錨のモニュメントがあった・・。

    次回は、・開国の町・「浦賀」・・、




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    2008年10月20日 15時53分52秒

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    日本周遊紀行・「西日本編:はじめに」

    『国に山河在り、人に歴史有り』主に沿岸地方であったが・・、「日本一周」を無事大過なくやり過ごすことが出来た。そして概ね、「日本という国の形」を歴史文化


    『国に山河在り、人に歴史有り』         

    主に沿岸地方であったが・・、「日本一周」を無事大過なくやり過ごすことが出来た。
    そして概ね、「日本という国の形」を歴史文化、自然風土に素人的に触れることが出来、この国の活力を感じ入った次第である。これだけでも今回の周遊の旅の目的が達せられたと満足しているが・・。
    「東日本編」に引き続き今回、特に印象に残った地方、地域の「歴史的側面」を主に、温泉、絶景等の観光面をピックアップして、当サイトに紹介致します。

    周遊は『西日本編』に移り、神奈川県厚木市を出発して、以下の各県順に巡りました。
    『西日本編』: :行程・・・神奈川県厚木市(出発地)⇒ 神奈川⇒ 静岡⇒ 愛知⇒ 三重⇒ 和歌山⇒ 大阪⇒ 兵庫⇒ 四国全県(時計回り)⇒ 岡山⇒ 広島⇒ 山口⇒ 九州全県(福岡より西回り)⇒ 山口⇒ 島根⇒ 鳥取⇒ 兵庫⇒ 京都⇒ 福井⇒ 石川⇒ 富山⇒ 新潟⇒ 長野⇒・・・神奈川着

    尚、「日本周遊:東日本編」の記録・・・http://blog.goo.ne.jp/orimasa2005 
    第1回は、神奈川県・三浦半島からです。




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