サークルで活動するには参加が必要です。
「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
※参加を制限しているサークルもあります。
-
from: 花岡 実太さん
2012年03月25日 17時29分32秒
icon
「バブル後の日本 今、世界が学ぶ」リチャード・クー氏
2012/3/25 16:58 ニュースソース 日本経済新聞 電子版
「ジャパン・アズ・ナンバーワン」から「ジャパナイゼーション(日本化)」へ。日本経済の評価が時代とともに移り変わるなか、エコノミストのリチャード・クーさん(58)は「日本の教訓」を世界に向け発信し続けている。今や世界的な市民権を得た「バランスシート不況」理論の生みの親。その素顔は、論争を恐れぬ熱血漢でもある。
2008年のリーマン・ショック以後、先進各国の経済は日本の後を追うようにデフレの淵をのぞき、「日本病」やジャパナイゼーションと呼ばれた。「日本の経験を教えてほしい」。世界中から引っ張りだこのクーさんは、さながらバランスシート不況論の「伝道師」のごとく駆け回っている。
世界中から講演を依頼され、昨年は1年の3分の1が海外でした。日本がバブル崩壊後苦しみ抜いてきた経験に今、世界が学ぼうとしているのです。
米国のサブプライムローンバブルの破裂でも欧州のソブリン危機でも、問題の本質はバランスシート不況にあります。一度バブルができあがってしまうと、それが崩壊する過程では必ずバランスシート不況に陥るのです。保有する資産価格が大きく下がり、企業も家計も借金返済を優先してバランスシートを身軽にしようとする。個々の経済主体にとっては当然の行動ですが、みんなが一斉に同じ行動に走れば、マクロ経済的には資金需要の減少を通じて国内総生産(GDP)を押し下げてしまう。
そうしてバランスシート不況に陥ると、中央銀行がどんなに金利を低くしたところで資金の借り手はいません。ゼロ金利でも誰もお金を借りようとせず、行き場を失ったマネーは国債市場に流れ込むしかなくなるのです。
米国の経済学の泰斗たちはかつてデフレに苦しむ日本にこう言った。「デフレから脱却するには日銀がケチャップでも何でも買って大胆な金融緩和をすればいい」と。その彼らも今や、バランスシート不況理論に一目を置く。
日本が「独り負け」だった頃は米連邦準備理事会(FRB)のセミナーで講演しても、完全に「頭のおかしな人」扱いでした。「日本というヘンな国のヘンな理論」という感じで。日本はツベコベ言わず、うんと輪転機を回してお金を刷れと。同時に銀行を潰して不良債権問題を片付け、構造改革を断行すれば経済は回復するんだと一方的に言われ、もうサンドバッグ状態でした。
変われば変わるものです。2010年7月、FRBのバーナンキ議長が議会証言をする時に、私も民間の参考人として呼ばれ同席しました。バーナンキ議長が米経済の先行きについて「異例なほど不確か」と発言した、あの時です。待合室で一緒になったので自分の本を渡そうとしたら、「いらない」と言う。「もう読んだよ」と。そして「バブル崩壊後の日本に関する記述はとても参考になった」と感謝されました。
その本の英題は「The Holy Grail of Macroeconomics」(マクロ経済学の聖杯)といいます。大恐慌研究の第一人者であるバーナンキ議長がかねて「大恐慌に陥ったメカニズムを解明できれば経済学の聖杯を手にできる」と言っていたのを拝借したのです。本ではバーナンキ議長の研究成果をボロクソに書きました。目の前にいる本人からそれをもう読んだと言われて、ちょっと赤面しました。
他にも学者や政府関係者を相手に数々の激しい論争を巻き起こしてきた。
別に論争好きなわけじゃありません。でも、たくさんやりましたね。日米貿易摩擦を背景に1994年に書いた「良い円高 悪い円高」では、「米国が貯蓄不足だから貿易赤字が減らない」というIS(貯蓄・投資)バランス論の大家、小宮隆太郎先生にかみつきました。当時の自動車摩擦で米国の企業努力が足りないのはその通りでした。でも、だからといって「悪いのは米国だ」と決めつけ、構造改革努力を怠って市場を開放しなかったら、円高で苦しむのは日本だよ、と伝えたかったのです。もちろん日本を救うためです。
あの時は「米国の手先」と呼ばれました。その後「何十年に1回起きるか起きないかというバブル崩壊後のバランスシート不況下では、財政出動をためらうな」と主張しました。すると、今度は構造改革を主張する人たちから「裏切り者」と随分批判されました。邦銀への資本注入や不良債権処理では米政府も敵に回しました。
日米両国の良好な関係を願うのは生い立ちにもよる。1954年、台湾出身の父と上海出身の母の間に誕生。生まれは神戸、育ったのは東京。そして国籍は米国だ。
ウェブサイトのウィキペディアには「台湾籍」とありますが、正確ではありません。台湾、中国、日本、米国……私のアイデンティティーは、自分でも複雑だと思います。いわゆる故郷といえばサンフランシスコの家が浮かびますが、一番長く住んでいるのは日本です。子ども時代の13年と野村総合研究所時代の28年。もう40年を超えました。長くなりますが、順を追ってお話ししましょう。(山本由里)
野村総合研究所主席研究員。米ジョンズ・ホプキンス大学大学院修了。ニューヨーク連銀を経て1984年野村総研に「外国人研究者第1号」として入社。
http://s.nikkei.com/GRd8OL-
サークルで活動するには参加が必要です。
「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
※参加を制限しているサークルもあります。 - 0
-
サークルで活動するには参加が必要です。
「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
※参加を制限しているサークルもあります。 - 0
icon拍手者リスト
-
コメント: 全0件