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  • from: orimasa2007さん

    2007年12月17日 13時48分33秒

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    古都鎌倉(26) 「鎌倉編まとめ・・Ⅰ」


     《 鎌倉編 》 巡った寺社、史跡の順番・・。
    鎌倉駅⇒鶴岡八幡宮⇒若宮大路・段葛⇒白旗神社⇒源頼朝の墓⇒大江・毛利・島津の墓⇒三浦一族の墓⇒東勝寺跡・高時やぐら⇒安養院⇒鎌倉宮・護良親王の墓⇒瑞泉寺⇒杉本寺⇒建長寺⇒円覚寺⇒明月院>⇒東慶寺⇒常楽寺⇒高徳院・鎌倉大仏⇒長谷寺⇒光明寺⇒稲村ヶ崎>⇒満腹寺⇒龍口寺⇒⇒常立寺⇒「鎌倉まとめ」・・《 引続き湘南編へ続く 》

    古都鎌倉(26) 「鎌倉編まとめ・・Ⅰ」


      相模湾に南面し、四方を山に囲まれた、この地鎌倉に源頼朝が入ったのが1180年、1192年には武家政権・鎌倉幕府を創生した。以来150年の間、鎌倉は日本の政冶の中心となり、それに伴なって鎌倉文化も華開いている・・。
     現在、古都鎌倉を巡るとき、神社仏閣70数箇所、古跡名所を含めると実に300ヵ所以上と言われる。小生今回巡ったのは20箇所程度にすぎないが、各箇所においての歴史や文化の背景を探る時、若干でも往時の鎌倉が垣間見え、その時代の息吹きが感じられた・・、やはり鎌倉は凄かった・・。
     尚、鎌倉開府の折、頼朝に伴なった創生人(家人衆)達を列記してみた。
     そして往時の鎌倉を唄った、小学校唱歌「鎌倉」を付してみた・・。
     


    《 関東御家人衆  (50音順) 》

    『安達 盛長』(あだち もりなが)
    出身は陸奥国安達郡(福島県安達郡)・・?通称は藤九郎、妻は源頼朝の乳母比企尼の娘丹後内侍(宮中の女官)。 奥州藤原の氏流、 源頼朝が伊豆の流人であった頃から仕える。1180年の頼朝の挙兵以来、これを援け関東武士の糾合に活躍。
    石橋山の戦いの後、頼朝とともに安房に逃れる。
    頼朝が再挙して、鎌倉に本拠を置き関東を治めると、奉行人として重用される。
    1189年、奥州合戦に従軍。頼朝亡き後、有力御家人となっていた安達氏は、執権北条氏に自分の娘を嫁がせ、執権の外戚として権力を振るった。
    また、同じ御家人で勢力を持っていた三浦氏との戦い(宝治合戦)に勝利するなど、一時は北条氏と並ぶ権力を持っていた。
    安達盛長の屋敷は現在の甘縄神社であった。 神社の前に「安達盛長邸址」の石碑が建っている。

    『梶原景時』(かじわら かげとき)
    鎌倉幕府初期の有力御家人。
    家系は桓武平氏の流れで、三浦家流派。頼朝の曽祖父 八幡太郎義家の家人として「後三年の役」で活躍した鎌倉権五郎景政の末裔・・、子に景季がいる。教養があり、和歌を好み、武家百人一首にも選出されている。
    1180年の石橋山の戦いで平氏に属し、敗軍の頼朝を見逃してその危機を救い、後に重用される。 頼朝の命により上総広常を謀殺。 源義仲追討軍に従軍。 平家追討に参加し義経の参謀、戦況を常時頼朝へ報告(一部、讒言ととられる)、その功で播磨、美作守護職を与えられる。 源義経が後白河法皇に頼朝追討の院宣を出させると、これを頼朝に知らせる。
    頼朝の死後は、源頼家を補佐する。1200年、所領の相模国一ノ宮より上洛の途中、幕府軍と戦闘、嫡子景季と共に討たれる。

    『千葉上総介広常』(ちばかずさのすけひろつね)
    千葉の豪族、千葉常澄の子、源頼朝挙兵の際は当初これに加担せず,同族の常胤が頼朝に加勢するに及んで,兵2万騎を率いて参陣した。 しかし彼の遅参を頼朝は怒り、会おうとしなかった。
    広常はその仕打ちに「これこそ大将の器」とかえって感じ入り、あらためて忠誠を誓った。富士川に参戦。坂東有数の大豪族という自負から驕慢なふるまいが多く、頼朝に勢力の強大化を恐れられ,1183(寿永2)年に謀反の嫌疑をかけられて梶原景時により殺害された。

    『河越 重頼』(かわごえ しげより)
    現、「川越」の豪族、平氏方。石橋山の戦いで敗れた頼朝が安房国で再挙して、武蔵国に入ると参陣・・、御家人として重く用いられる。
    一ノ谷の戦い後、頼朝の命により、娘(郷御前)を義経に嫁して舅となる。
    1185年、頼朝と義経が対立し、義経が後白河法皇から頼朝追討の宣旨を受けると、重頼も頼朝から敵対視されるようになった。
    同年11月、重頼は所領を没収され、間もなく嫡男の重房と共に誅殺された。しかしさすがに「あんまりだ」と思われたのか、その所領の大半は重頼の老母に譲渡された。なお妻は頼朝の乳母比企禅尼の娘である

    『熊谷直実』(くまがい・なおざね)
    通称、次郎直実・・、武蔵熊谷郷(現在の埼玉県熊谷市)の出身。
    源頼朝の挙兵の時、初め平氏側についたが、のち源氏側についた・・、「平家物語」に述べられる一ノ谷の戦いでの平敦盛との対戦は有名である因みに。
    子孫は京都と東京で鳩居堂(銀座鳩居堂は地価日本一の所)という和文具・香道具屋を営んでいるといわれる。

    『佐々木秀義』(ささきひでよし)
    近江源氏嫡流、平安末期の武将。近江の佐々木庄を地盤、伊豆で流人生活をしていた頼朝を世話するべく、息子定綱・盛綱らを派遣した。
    頼朝旗挙げの際にも、定綱、盛綱のみならず次男の経高や当時京にいた四男の高綱をも呼び寄せてサポートした・・、その功により本領を安堵され佐々木庄へと戻る。
    平家の残党狩で近江権守を贈られる。

    『土肥 実平』(どい さねひら)
    生年不詳 ・・、実平は相模国西部の有力豪族・中村氏の出で、土肥郷(神奈川県湯河原町)を本領とし、源頼朝が挙兵すると嫡男の遠平ら中村一族を率いて参じている。
    石橋山の戦いで敗北すると、頼朝と共に落ちのび、頼朝主従が「しとどの窟」に隠れていたのを梶原景時が見逃した逸話はこの時のこと。 この後、実平の用意で真鶴から房総半島の安房国へ脱出した。
    一ノ谷の戦いでは源義経に参軍。壇ノ浦後には平宗盛の護送もつとめた。
    義経都落ちのあとは、京都の治安維持を任され、疑り深い頼朝にすら終生信頼され続けた稀有な武将である。
    1189年、奥州合戦に参加・・、この記述を最後に実平は史料から姿を消している。 しかし、実平の子孫は着実に有った、孫は安芸国(広島県)に移り小早川を名乗った。
    後に毛利家の筆頭家老となる小早川家の祖となる。
    また4代目は富山郷(富山県)に移り、土肥称を名乗り、戦国期、江戸期を生き抜いて、実平から800年以上土肥氏は今も繁栄を続けているという。
    富山周辺地域は今も土肥称が多い・・。

    『土佐坊昌俊』(とさのぼうしょうしゅん)
    渋谷重家(東京・渋谷地方の領主)の子。
    頼朝の父、義朝に小姓として仕えていたが,1159(平治元)年の平治の乱で義朝が敗れて横死した後は出家、その後,土肥実平の仲介で源頼朝に仕えた。
    1185(文治元)年に頼朝の命を受けて京の源義経邸を襲撃(いわゆる「堀河夜討」)するが敗れ、斬首されたという。(義経が許して放免したとする説もある)

    『那須 与一』(なすの よいち)
    栃木・下野国の生まれ、与一は通称で本名は宗隆、妻は新田義重の娘。
    「平家物語」には弓の名人で、源平合戦では源氏・源義経に属し、1185年の屋島の戦いで扇の的を射抜いた話が記されている。 80メートル先の的にでも当てることのできたとされる弓の名手。
    源平合戦後、鳥取城初代城主に任命される。

    『畠山重忠』(はたけやましげただ)
    桓武平氏の一党、 武蔵国男衾郡(おぶすまのこおり)畠山郷(現・埼玉県大里郡川本町)生れ。
    源頼朝の挙兵に対し、重忠は当初、平家側につき、祖父の三浦義明を討ち取った・・が、しかし源頼朝が鎌倉入りした際、重忠は先祖が八幡太郎義家(源義家)より賜った家宝の白旗(源氏の軍旗)を持って帰参し、頼朝の為、各地の戦線に参戦、忠勇無双の士として名高い。
    頼朝に九郎暗殺を頼まれて、これをきっぱりと拒んだという、九郎に理解を示していた数少ない坂東武者のひとりであった。
    頼朝の二度の上洛には、いずれも先陣を務めた。その後、北条時政から謀反の疑いを掛けられ、武蔵国二俣川(現・神奈川県横浜市旭区)において鶴ヶ峯の戦いに敗れ討死。

    『比企能員』(ひき よしかず)
    鎌倉幕府の有力御家人。 源頼朝の乳母の比企尼の養子で、当初、藤四郎と称した・・、平氏追討に従軍。
    1189年(文治5年)義経の奥州征伐には北陸道大将軍に任命。
    源頼朝とともに上洛、右衛門尉に任ぜられる。頼朝の信任が厚く、上野国・信濃国守護に任命される。
    1199年十三人の合議制の1人に加えられ、梶原景時排斥にも荷担。 娘の若狭局が源頼家に嫁して、子、一幡を生み、外戚として権勢を振う。
    威力権勢を振るう北条時政の追討密議が事前にもれ、時政の自宅で謀殺された。 さらに比企の屋敷(現:妙本寺)にも兵を送られ、若狭局や一幡ら一族を滅亡させられた。


    続いて、Part Ⅱをどうぞ・・。

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  • from: orimasa2007さん

    2007年12月17日 13時47分15秒

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    古都鎌倉(25) 「鎌倉編まとめ・・Ⅱ」



    古都鎌倉(25) 「鎌倉編まとめ・・Ⅱ」


    <font size="2" color="#0000FF">引続き、鎌倉創世記の主な武将について・・、

    『北条 時政』(ほうじょう ときまさ)
    桓武平氏の流派、伊豆北条庄を拠点とした北条氏の当主。
    源頼朝が伊豆に流されその監視役となり、初期の勢力は、伊東や大庭に囲まれていたことから勢力的には不安定であった。
    頼朝の登場により家運が上昇し、娘の政子が頼朝の妻となった縁から、幕府が創立されると重用され頼朝の外戚として勢力をふるう。 源平合戦の間はつねに鎌倉にあり、幕府創設に尽力した。 北条幕府・初代執権
    1199年、頼朝が死ぬと北条氏の権力強化を図って、有力御家人であった梶原景時や比企能員らを誅殺、さらに1205年には有力御家人の畠山重忠父子を謀反の罪で滅ぼす。
    その後は子の北条義時と政子に強制的に出家させられ、隠居の身分となって以後、政治の表舞台に立つことなく生涯を終えた。

    『北条 政子』(ほうじょう まさこ)
    鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室である。 北条時政の娘、源頼家、源実朝の母で「尼将軍」と称された。
    鎌倉では頼朝の良き理解者、協力者、意見者であり、幕府創立の陰の功労者であった。
    1199年に頼朝が死去すると、落飾して尼御台と呼ばれ、2代将軍の源頼家を補佐し、父時政や弟の北条義時とともに北条氏による合議制を確立する。
    1203年には頼家を修善寺へ幽閉して殺害し、外戚として勢力を持った比企氏を滅ぼす。さらに義時とともに父時政を失脚させる。
    1221年(承久3年)には、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して倒幕の兵を挙げた「承久の乱」では、動揺する御家人を前に頼朝以来の恩を説き鎌倉方をひとつにまとめる等、政治的辣腕を振るう。
    義時の没後は甥の北条泰時を執権に据えて、1225年に死去、享年68。
    墓所は神奈川県鎌倉市の寿福寺

    『三浦義澄』(みうらよしずみ)
    桓武平氏の流派、三浦半島に根拠をもつ名門で、平安中期奥州の乱(後三年の役)で源義家と共に活躍。 この時「義」の字を賜り、以降三浦家は「義」の名称が多く、同時に源氏方に成る。
    平安時代末期〜鎌倉時代初期の武将・御家人で、三浦義明の次男、三浦家当主、子は三浦義村。
    1180年、源頼朝が石橋山の合戦で挙兵した際には悪天候のため参戦できず、引き返す途中で父・義明を討ち死にさせてしまう結果となったが、その後房総半島へ渡ってきた頼朝に味方し、平家方の畠山重忠を破って頼朝と共に鎌倉に入る。
    義澄は千葉常胤・上総広常・土肥実平らと共に頼朝の宿老となり、その後も、一ノ谷の合戦や壇ノ浦の合戦、奥州征伐に参戦して武功を挙げる。
    1199年、頼朝が亡くなった後には2代将軍源頼家を補佐する十三人の合議制の一人となる。翌年、梶原景時の鎌倉追放に加担し、梶原一族が討たれた3日後に病没。享年74

    『和田義盛』(わだ よしもり、)
    鎌倉幕府の御家人 三浦氏の一族であり、子は和田常盛、和田義直、朝比奈義秀。
    鎌倉幕府侍所初代別当(長官)。三浦一族とともに1180年に挙兵した源頼朝に属し,同年の鎌倉幕府成立後に侍所別当に任ぜられた。
    その後,平氏追討,奥州藤原氏征伐にも従軍して活躍。
    九郎義経の首実検に梶原景時とともに立ち会った際には、そのむごたらしさに涙する人情家の一面もあった。 幕府成立後は幕政の中枢にあって北条時政・義時らとともに1199年の梶原景時の弾劾・追放,1203年の比企能員の乱の制圧などで主要な役割を担った。
    しかし次第に義時との対立が高じ,1213年に義時の執拗な挑発に乗って鎌倉府内で挙兵。当初は味方を約束していた三浦義村らが離反したため敗北,討死した(和田合戦)。
    享年67、尚,木曾義仲の愛妾・巴御前を後妻に迎えていたとする説もある


        《 京・公家出身の鎌倉事務官衆 (50音順) 》         

    『一条 能保』(いちじょう よしやす)
    平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての政治家で、妻は源頼朝の同母妹。
    頼朝の縁者に当たったことから、左馬頭・右兵衛督・参議・左兵衛督・検非違使別当・権中納言・従二位と異例の栄進をする。
    能保自身は後白河天皇(法皇)に仕えて重用され、妻や娘は後鳥羽天皇の乳母となった。さらに頼朝から京都守護に任命されるなど、頼朝からの信任は厚い。
    頼朝の義弟であるため代官的役割を担い、京と鎌倉をつなぐパイプラインとして活躍した。京都守護にあたっては謀反人九郎義経の探索に精を出した。
    頼朝にも、後白河法皇にも重用されたエリート官吏だった。

    『大江 広元』(おおえ の ひろもと)
    鎌倉幕府の政所の初代別当(長官)。
    源義家(八幡太郎義家)に兵法を教えたとされる大江匡房(おおえ の まさふさ)のひ孫で、広元には兄の中原親能がいた。
    親能は源頼朝と親しく、その縁から1184年に広元も召しだされて頼朝の家臣となり、政所の前身である公文所の別当として辣腕を振るった。
    1185年に頼朝が守護・地頭を設置したのも、全ては広元の献策によるものであると言われている。 むしろ政治方針のほとんどは頼朝ではなく彼が決めていたとも言われる。
    頼朝の死後は、北条義時や北条政子と協調して幕政に参与し、承久の乱のときも、政子に協調して幕府軍を勝利に導いた影の功労者のひとりとなった。
    広元の死後、大江氏は鎌倉幕府の幕政になおも参与したが、1247年の宝治合戦で三浦泰村に協力したために、一族のほとんどを誅殺されて衰退してしまう。
    しかし、このときに生き残った広元の子孫が、後の戦国大名となる安芸国や出雲国の毛利氏(わが町、厚木の毛利の庄の出身・広元の子・季光)や、三河国の海東氏や酒井氏、備後国の長井氏、越後国の北条氏(きたじょうし)、出羽国の寒河江氏などの祖につながることになるのである。

    『三善 康信』(みよし やすのぶ) 
    鎌倉幕府の初代問注所執事。 元々は、公家で算道(平安時代の大学寮の四科の一。数を計算する法。算法。算術。)の家柄の出身。
    源頼朝の乳母の比企尼が母の姉であった関係で伊豆国に流された頼朝に、京都情勢や朝廷、平氏の動向を逐一報告した(京都定期便)。 後に頼朝に呼ばれ、大江広元と共に下向、幕政の屋台骨として頼朝をよくサポートし、政務を担当した。初代問注所執事として裁判事務の責任者となった。
    頼朝死後、二代将軍源頼家の独裁ぶりに不安を抱いた御家人の代表による十三人の合議制にも参加。
    1221年(承久3年)の承久の乱に際しては病身の身で会議に参加、大江広元の即時出兵論を支持した。同年、承久の乱後に没した。
     

    文部省唱歌   「鎌倉」  作詞 芳賀 矢一   作曲 不 詳

    1  七里ヶ浜の いそ伝い      2  極楽寺坂   越え行けば
       稲村ヶ崎 名将の           長谷観音の  堂近く
       剣投ぜし 古戦場           露坐(ろざ)の大仏  おわします

    3  由比の浜辺を 右に見て     4  上るや石の  きざはしの
       雪の下村   過ぎ行けば       左に高き    大銀杏
       八幡宮の   御社(おんやしろ)   問わば遠き  世々の跡

    5  若宮堂の  舞の袖       6  鎌倉宮に   もうでては
       しずのおだまき くりかえし      尽きせぬ親王(みこ)の みうらみに
       かえせし人を しのびつつ       悲憤の涙   わきぬべし

    7  歴史は長き  七百年      8  建長円覚   古寺の
       興亡すべて  ゆめに似て       山門高き    松風に
       英雄墓は  こけ蒸しぬ        昔の音や    こもるらん


    次回からは、引続き「湘南編」へと繋ぎます、乞う御期待・・!!。

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  • from: orimasa2007さん

    2007年12月16日 11時21分52秒

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    古都鎌倉(25) 蒙古ゆかりの「常立寺」


     《 鎌倉編 》 巡った寺社、史跡の順番・・。
    鎌倉駅⇒鶴岡八幡宮⇒若宮大路・段葛⇒白旗神社⇒源頼朝の墓⇒大江・毛利・島津の墓⇒三浦一族の墓⇒東勝寺跡・高時やぐら⇒安養院⇒鎌倉宮・護良親王の墓⇒瑞泉寺⇒杉本寺⇒建長寺⇒円覚寺⇒明月院>⇒東慶寺⇒常楽寺⇒高徳院・鎌倉大仏⇒長谷寺⇒光明寺⇒稲村ヶ崎>⇒満腹寺⇒龍口寺⇒⇒常立寺⇒・・・・「鎌倉まとめ」・・《 引続き湘南編へ続く 》

    古都鎌倉(25) 蒙古ゆかりの「常立寺」

    <font size="2" color="#0000FF">「江ノ電」で江の島駅、丁度モノレールの江ノ島駅の裏側に「常立寺」がある。
    寺院は、近くの龍ノ口刑場で処刑された人達を 弔うために建立されたお寺で、尚、モンゴルに所縁のあるお寺である。 知る人ぞ知る「枝垂れ梅」の名所でもある。

    現在、大相撲界においてモンゴル勢(旧元)が数多く活躍していることは大抵の人はご存知であろう・・。
    小生も微々ながら大相撲ファンの一人で・・、モンゴル力士といえば、先ず横綱・朝青龍 関脇・白鵬(当時・・、現横綱) 旭鷲山、旭天鵬、朝赤龍、安馬、時天空等・・。
    この四月(2005)大相撲地方巡業として神奈川・藤沢場所が開催された・・、これに先立って、横綱・朝青龍以下、モンゴル出身の幕内・十両力士20余人が、場所前日に 片瀬の「常立寺」を訪問、境内にあるモンゴルゆかりの「元使(現モンゴル)・五人塚」へ参拝したという・・。


    鎌倉期、蒙古(現モンゴル国)の 国王・「フビライ」は、大軍をもって日本に襲 来したが失敗した。
    翌年の建治元年(1275年)今度は、五人の国使を日本に送り 降伏を要求してきたが、しかし時の鎌倉幕府はこれを拒否 、国使 五人を9月7日龍ノ口刑場で処刑し、死骸をこの常立寺に埋葬したという・・。
    ここに五基の五輪塔が建てられ「五人塚」と呼ばれている。

    鎌倉期、大陸の王国「元」はアジア内陸をほぼ制圧し、その後、朝鮮半島の「高麗」、中国南部の「南宋」を落とした。当時、日本(鎌倉幕府)と南宋は交易関係にあり、黄金の国・日本の情報を得て、いよいよ日本に食指を延ばしてきたのである・・。
    国王クビライは日本に通商を求めるべく使者を派遣するが断られる。 クビライは、その後も何度か日本に使者を出したが全て無視された。
    この間、朝廷と幕府で話し合いをもち、朝廷内では「元の要求に屈するべきではない」という強硬論が強かった事から、国書を黙殺する事になったといわれる・・。 
    クビライはこれを機に、武力侵攻を決定した・・、「元寇」である。 「寇」とは外から侵攻することで、侵略する敵のことをいう・・。

    先ず「文永の役・・」 である・・、
    文永11年(1274)高麗を出航した元軍は対馬、壱岐を襲撃し平戸の松浦党を全滅させた・・、そして遂に博多に上陸する・・。

    戦役で、外国軍が日本本土へ直接上陸したのは、この時と、後年、太平洋戦争で米軍が沖縄へ上陸したのと2度だけであったが・・。
    日本側は少弐氏(しょうにし:武蔵国の武藤氏が大宰府の次官である大宰少弐に任命されたことから始まるという)や大友氏をはじめ九州の御家人を中心として大宰府に集結していた。
    日本の武士は、当初は名乗りをあげての一騎打ちや少人数での先駆けを試みるだけで、たた一方的に損害を受けた。 
    しかし直後には集団戦術にも慣れて対応することができ、また増援の到着により反撃に転じた。 海岸付近で激しい矢戦となり戦線は膠着し内陸への侵入を阻止した。 やがて日没とともに戦闘を解き、日本軍は「大宰府」に帰った。
    一方、元軍は日本軍の抵抗のため海岸へ上陸したものの前進できず、終日の激戦で矢が尽き、日本軍に大損害を与えたものの「元」の損害も大きく、軍の編成も崩れた。
    元軍は、戦況を不利とみて大宰府攻略を諦め、博多に火をかけて焼き払い、船団へ撤退していった。
    その後は日本軍の夜襲もあり、我先にと錨を上げて撤退し、おまけに、風雨激しき玄海灘で多数が遭難した。
    翌日、元の船団は姿を消しており、「文永の役」は終結する。 元・高麗軍の不還者は1万3500余人とされる。

    日本軍は、初めて異国軍と戦い、武士達は面食らったらしい・・。
    「やあやあ、我こそは・・・」と言って一騎ずつ戦う武士に対し、大男が集団で喚声を上げながら襲いかかり・・、又、兵器の面でも元軍は火薬を使い、その轟音と閃光には肝を冷やしたという・・。

    さて次に「弘安の役」であるが・・、 
    翌年(1275)クビライは再び日本に使節を送った。 時の執権・北条時宗はこの使者を全員斬首に処したという。 これは、使者が日本の国情を詳細に記録・偵察し、即ち、間諜(スパイ)としての性質を強く帯びていたためと言われる・・。
    元は使者が殺されたことを知らないままに新しい使者を送り、再び殺されている。(総計、5名という説が有力)
    再度にわたる使者を処刑されて激怒した「クビライ」は、日本への再度の攻撃を計画した。
    そして、文永の役から7年目(1281、)高麗軍を主力とした東路軍四万と、旧南宋軍を主力とした江南軍十万、計14万の軍が日本に向けて出発した。
    しかし日本側は既に、海岸一帯に防衛体制を整えていた。
    博多沿岸に約20Kmにも及ぶ防塁を築いてこれを迎えたのである。 いち早く到着した東路軍は防塁のない「志賀島」に上陸するが日本軍の「切り込み」を受ける。

    小生、西日本周遊で「志賀島」に立寄っている・・。
    福岡市(博多)の北部に、東西10kmにも及ぶ細長く延びた半島で、通常「海の中道」と呼ばれている。 ここへ上陸して内陸へ攻め込もうとしても、難攻好守の地であることは明らかで、地形を知らない元軍は日本軍の餌食になった。
    今ではこの地は主に海のレジャー基地になっているが・・。

    「文永の役」によって元軍の戦法を承知していた日本軍は優勢に戦い元軍を海上に追い落とし、更に積極的なゲリラ戦術により、大いに元軍を悩ませたという。
    大陸育ちの精悍な荒くれも、こと海上では要らぬ時間を費やし、士気は全く衰えていたし、飲食料の調達も大変なはずであった・・。 
    そこへまたまた暴風雨が襲来し、元の軍船は浮いているだけの必死の状態となっていて、これを好機と見た武士らは勇躍して元軍に襲い掛かり、元軍を殲滅したという。
    元軍で帰還できた兵士は後に開放された捕虜を含めて全体の1、2割だとも言われる。
    尚、日本軍は高麗人とモンゴル人、および漢人は捕虜として捕らえずに殺害したが、かって日本との交流のあった「南宋人」だけは捕虜として助命したという。
    それ以降、博多の唐人町は「南宋人」の街であるともいわれる。

    この戦いによって元軍の海軍戦力の七割以上が失われ、残った軍船もかなり破損されたという。
    近年の調査では、博多湾の底で見つかった元の軍船から農業用の鋤(すき)や鍬(くわ)などが見つかり、このため、戦争に勝利した後には入植を目的とし、明確に侵攻侵略を意図したものと見られている。
    通説では14万人という過剰な人員も、そのために必要だったと考えられているし、実際の「戦闘員」はかなり少なかったのではないかとも云われる・・。 
    この時の日本軍は10万人を超え「元」よりも兵力は多かったともいわれるし、元よりこの時期は、北条・鎌倉幕府の絶頂期でもあった・・。

    この時、「元」の使者を斬首したのがこの地「龍の口刑場」で、後の世、この地に「常立寺」を建立し彼等を弔っている・・。 
    日蓮宗の龍口山・常立寺は、總寺院・龍口寺を護る寺の一つになっていて周囲に八ヵ寺(本蓮寺・常立寺・東斬寺・勧行寺・本龍寺・妙典寺・本成寺・法源寺)があり、明治時代まで順番で龍口寺の行事などを行ったことから「輪蕃八カ寺」と呼ばれていたという。


    次回は、 「鎌倉まとめ」

    長らくの御精読有難う御座いました。
    「古都鎌倉めぐり」は一先ず終了しますが、機会があれば他の寺社をも巡って再度記載したいと存じます・・、その節は宜しく。
    尚、引続き・・、「江ノ島」など湘南編を載せたいと存じます・・。

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  • from: orimasa2007さん

    2007年12月15日 17時59分45秒

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    古都鎌倉(24) 「法難の寺・龍口寺」

    写真:鎌倉唯一の「龍口寺・五重塔」

     巡った寺社、史跡の順番・・。
    鎌倉駅⇒鶴岡八幡宮⇒若宮大路・段葛⇒白旗神社⇒源頼朝の墓⇒大江・毛利・島津の墓⇒三浦一族の墓⇒東勝寺跡・高時やぐら⇒安養院⇒鎌倉宮・護良親王の墓⇒瑞泉寺⇒杉本寺⇒建長寺⇒円覚寺⇒明月院>⇒東慶寺⇒常楽寺⇒高徳院・鎌倉大仏⇒長谷寺⇒光明寺⇒稲村ヶ崎>⇒満腹寺⇒龍口寺⇒常立寺⇒江ノ島・「江ノ島弁天」


    古都鎌倉(24) 「法難の寺・龍口寺」

    <font size="2" color="#0000FF">満福寺を江ノ電の路面に沿って行くと、間もなく大きな十字路に出る・・、この辺り「江ノ電・江ノ島駅」や湘南モノレールの「江ノ島駅」に近く、かなりの賑わいを見せている。往時とはいえ、この地に、おどろおどろした龍ノ口刑場が在った事等、想像に難い・・。「龍口寺」(りゅうこうじ)はこの十字路にあった、階段の正面に堂々たる本堂があり、境内には立派な日蓮上人の墓廟と立像がある・・。
    また鎌倉唯一にして県内最古の五重の塔も聳える・・。
    山号を寂光山と称する、これは法難に際して上人が「龍の口に日蓮が命をとどめおくことは、法華経の御故なれば、寂光土(仏のいる極楽のような所)ともいふべきか」と申したことに由来しているという。
    鎌倉時代、日蓮聖人が幕吏の手によって処刑寸前のところを奇跡により危うく難をのがれたという龍の口刑場跡に建立され た「霊跡寺院」という変わった名が付いた寺院でもある。
    五重の塔、大本堂は「神奈川建築物百選」に選定されている。


    「法難」・・仏教国の日本にとって、法難という用語がある・・。
    広義には仏教に対する弾圧事件のことであり、仏法にとっての災難あるいは難儀であるため、仏教側からの用語として、このように呼ばれる。

    弾圧する当事者側からでは、廃仏という用語がある。
    端的な例は、戦国時代の織田信長による「比叡山焼き討ち」や、明治新政府の神仏分離政策によって起こった「廃仏毀釈」運動(明治初年の仏教排撃運動。1868年に神仏分離令が出されたのをきっかけに、神道家などを中心に各地で寺院・仏像の破壊や僧侶の還俗強制などが起きた。)である。
    狭義に解すると「仏師が、仏法教法を布教する際に受ける迫害」のことでである・・。

    「日蓮」が各地で日蓮宗の布教活動を行う際、数々の法難を受けている・・。
    主なものに松葉ヶ谷法難、伊豆法難、小松原法難、龍ノ口法難、佐渡法難がある。
    日蓮が鎌倉にきて初めて道場として庵をむすんだのが松葉ヶ谷の岩窟(現、材木座、安国論寺)で「立正安国論」が書かれた地という。 この立正安国論は鎌倉幕府に治世の建白書として提出された。 その約一ヶ月後、念仏宗の僧および信徒が徒党を組み、松葉ヶ谷の草庵を襲撃した、この事件を松葉ヶ谷の法難という。
    その後も日蓮は布教活動を続け、幕府および関連者にも建白の意義を申し立てるが聞き入れられず、遂に捕らえられ、ここ腰越の龍ノ口刑場にて処刑される破目になる(龍ノ口法難)・・、しかし天運によって一命はとりとめ、佐渡へ流される(佐渡法難)・・。

    余計だが・・日蓮は佐渡への途中、小生・住地の近く厚木・「依知」の妙純寺、蓮生寺に滞在していたといわれる・・。


    鎌倉期になって、「鎌倉仏教」と言われるほど多くの仏教宗派が創生している。
    それ以前は奈良朝においては聖徳太子を中心に、社会秩序の確保と国家の安泰に向 けられる国家仏教の性格が強く、この時期、国分寺の造営など盛んに行はれた・・。
    平安仏教では,最澄の天台宗は比叡山,空海の真言宗は高野山など,主要寺院が山岳に営まれ、政治から一定の距離を置くことを意味した。 仏教教団が国家からある程度の独立性を確保したといえる。 

    そして鎌倉仏教は法然の浄土宗 親鸞の浄土真宗 一遍の時宗 栄西の臨済宗 道元の曹洞宗 日蓮の日蓮宗と多彩であるが・・、いずれも各々の特徴が有るが、総じて、これら仏教の教義目的は「個人や民衆の救済」を主としたものであった・・。 
    ただ、日蓮の日蓮宗は仏教では珍しく他の宗派に対して排他的性格を持ち、特に念仏仏教(浄土宗)を激しく攻撃した。

    彼の著に代表的な「立正安国論」がある・・、
    これは「法華経」のみが末法(仏の教えがすたれ、修行するものも悟りを得るものもなくなって、教法のみが残る時期、日本では1052年(永承7)に末法に入ったとされる)における絶対の救いであり、「南無妙法蓮華経」(全身全霊を尽くして法華経に従うという意味)という題目のみを唱えるだけで仏になることができると説いた。
    又、打ち続く天変地異や社会不安が起きた結果、正法である法華経によって国が救われ、安泰になると確信して書かれている・・。 そしてこの著書は時の執権・北条時頼に建白(政府・上役などに自分の意見を申し立てること)の意味を込めて上呈された。 この時期、幕府、北条家は主に禅宗(臨済宗)を教義とし、大衆も浄土宗をはじめ自由宗派を信仰していたが、日蓮の排他的独善性の教義には戸惑い、曰く、法難を浴びる結果になっていった・・。


    小生、昨秋東日本周遊の際、千葉の安房小湊(現、鴨川市)を訪れている。
    旧国道沿いに名所「鯛の浦」や「誕生寺」がある・・、この地が日蓮大聖人の誕生の地である・・。

    12歳のとき、すぐ近くの清澄寺へ入り、16歳前後のとき出家得度している・・。
    比叡山や高野山で勉学に勤しみ、その際全ての仏経典を読破し研鑽した結果、妙法蓮華経(法華経)が釈迦の本懐であるとの結論に至っている。
    清澄寺に帰山後、「南無妙法蓮華経」の題目を唱え始め、立宗開教(現;日蓮宗)を確立した・・。
    鎌倉へ入って松葉ヶ谷に草庵をむすび、伝道活動を開始する・・が、この時期、他宗徒によって法難をあびている。(松葉ヶ谷法難)。
    弘長元年(1261年)幕府によって伊豆の伊東へ流罪(伊豆法難)。
    文永元年(1264年)房州小松原(現在の千葉県鴨川市)にて法難・・。
    文永8年(1271年)、幕府や諸宗を批判したとして佐渡流罪の名目で捕らえられ、腰越・龍ノ口刑場(現在の龍口寺)にて処刑されかける(龍ノ口法難)。しかしこの時、刀が段々に折れ曲がるという怪異現象が発生し中止・・、そのまま佐渡へ流される(佐渡法難)。
    3年後、文永11年(1274年)春に赦免となり、すぐに幕府評定所へ呼び出され、蒙古来襲の予見を聞かれると、日蓮は「よも今年はすごし候はじ」と予言し答えたという・・。
    その後身延山を寄進され身延山久遠寺を建立した。(今の身延山久遠寺)。
    日蓮が予言した5か月後に蒙古襲来(文永の役)・・、 弘安4年(1281年)兵力を増した蒙古軍が再び襲来(弘安の役)。 
    1282年、武蔵国池上(現在の池上本門寺)61歳で死去(入滅)。入滅の際に大地が震動し晩秋から初冬にかけての時期にもかかわらず桜の花が咲いたと伝えられている。立正安国論・・他、著書多数。波乱万丈の大宗教人といえる・・。




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  • from: orimasa2007さん

    2007年12月14日 11時11分44秒

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    古都鎌倉(23) 「満腹寺:義経の腰越状」・・Ⅰ

     巡った寺社、史跡の順番・・。
    鎌倉駅⇒鶴岡八幡宮⇒若宮大路・段葛⇒白旗神社⇒源頼朝の墓⇒大江・毛利・島津の墓⇒三浦一族の墓⇒東勝寺跡・高時やぐら⇒安養院⇒鎌倉宮・護良親王の墓⇒瑞泉寺⇒杉本寺⇒建長寺⇒円覚寺⇒明月院>⇒東慶寺⇒常楽寺⇒高徳院・鎌倉大仏⇒長谷寺⇒光明寺⇒稲村ヶ崎⇒満腹寺⇒龍口寺⇒常立寺⇒江ノ島・「江ノ島弁天」

    古都鎌倉(23) 「満腹寺:義経の腰越状」・・Ⅰ

    「満腹寺」は江ノ電・腰越駅の至近にあり、「源義経」に縁のある寺院である。
      
    『・・源義経おそれながらもうしあげます。気持ちは鎌倉殿のお代官の一人に撰ばれ、天皇の命令のお使いとなって、父の恥をすすぎました。そこできっとごほうびをいただけると思っていたのに、はからずも、あらぬ告げ口によって大きな手柄もほめてはいただけなくなりました。私、義経は、手柄こそたてましたが、ほかに何も悪いことを少しもしてはいませんのに、お叱りをうけ、残念で涙に血がにじむほど、口惜しさに泣いています。あらぬ告げ口に対し、私の言い分すらお聞き下さらないで、鎌倉にも入れず、従って日頃の私の気持ちもお伝えできず数日をこの腰越で無駄に過ごしております。あれ以来、ながく頼朝公のいつくしみ深いお顔にお会いできず、兄弟としての意味もないのと、同じようです。なぜかような不幸せな巡り会いとなったのでしょう・・・・・・・』
      
    有名な義経が兄頼朝への嘆涙の「腰越状」の一端である・・、。

    海岸沿いのR134から小動岬の手前を江ノ電に沿って右折すると、すぐに「腰越」駅がある。右手に 「義経腰越状旧跡 満福寺」 の石碑が目に付く、お寺の目の前を江ノ電が走っていて、踏切を渡るとすぐにお寺への階段になっている。
    NHK大河ドラマ:「源義経」の影響か、赤青の旗のぼりが立っている・・、源平の義経であるから「白」又は、「赤白」でいいものを・・、と思うのは余計だが・・。
    今は訪れる人もなく静寂の中に本堂はあった。これまで大伽藍を目にしてきたためか、思っていたより小さなお寺であった。

    お寺の地域は、江ノ島の近くで藤沢市に近いが、鎌倉市腰越である。 ただ、往時としては鎌倉府からは遠い距離にあって、他国、又は隣国のような地であったのだろう・・。
    その昔、今から約800年も前の世、ここに「義経」がいたのだ・・、と云うより留め置かれていた・・、と言ったほうがよかろう・・。

    何故・・?この地に義経が・・を主題に・・、 
    本堂の正面頭上に木彫りの精密な彫刻が施してあり、それは「義経が弁慶に、例の『腰越状』を本筆又は清筆させている風景“であった」 
    その「腰越状」は満福寺本堂・玄関ショーウインドウで見る事が出来る。

    本年(2005)NHK大河ドラマ「源義経」もいよいよ佳境に入ってきた・・。 
    義兄弟の木曾義仲を打ち破り、一の谷、屋島、そして壇ノ浦で平家一門を壊滅させた、その最大の功労者は源義経であることは衆人が認めるところである・・。
    しかし、その戦功を上げるに逆比例して、兄頼朝との間が遠のき、軋轢を生じ、遂には殺してしまうのである。  
    英雄義経が哀れな失脚をしたのは、一般に兄に憎まれたためといわれる、「判官びいき」という言葉があるくらい、この武将の悲劇的な末路に我々は同情的である。それが為、現世までいろいろな形で語り継がれている・・。


    義経は、兄頼朝の代官として「西国攻め」に出陣し、その期待に応えて義仲も平家一門をも滅亡に追い込んだ。
    ところが、その彼に頼朝はろくな恩賞を与えない・・。

    --これには後例がある、徳川家康が天下を掌握した折、大名衆は譜代(代々その主家に仕えること)大名と外様(譜代以外の外部)大名に分けられるが、その時の恩賞は外部に多く、身内に少なかった、 それどころか一旦与えた恩賞を取り上げてしまうこともあった--・・。

    それどころか、鎌倉まで来て弁明しようとした義経を、腰越に止めて対面もせず都に追い返してしまうのである・・。

    源平合戦の最終局、「壇の浦の合戦」では、平家の総帥であった平宗盛は、その最後があまり見苦しいので平家の侍達に海の中へ突き落とされたが、泳ぎが達者だった宗盛は死のうとしないで泳ぎ回っているところを他の侍に助けられたと言われる。 合戦後には、源義経に捕らわれて鎌倉に送られる。
    その時、宗盛は頼朝に対面しているが、見苦しい様を見せて頼朝を呆れさせ、鎌倉方の侍達の笑い物になった。
    この時、宗盛親子を捕虜として連れてきたのが義経であった・・、 この事は「若宮大路と段葛」の項で既に述べた・・。

    腰越に止めおかれて、義経が腰越状を書くに至った場所がここ「満福寺」であった・・。満福寺に5月15日から6月9日まで滞在したといわれる。
    この間義経は、頼朝宛に異心のないことを切々とつずった書状をしたためた、世に言う腰越状である。
    しかし思いは届かなかった。
    その後、頼朝との敵対関係を知らされた義経は京に戻り戦線を開くが、既に戦意戦力は無く、追い詰められた義経はその後、態勢を立て直すべく九州へ逃れようとするが、嵐に遭い船は沈没、更に吉野山に逃れる。 ここは愛妾「静御前」との悲しい別れの地でもある。静はこの時、義経の子を身籠っていたが、頼朝の追っ手に捕らえられ、静かは母の磯禅師と共に鎌倉へ護送される。
    鎌倉で無事出産したが、男児だったため、由比ガ浜の海に沈められる・・。 
    頼朝に命じられ、八幡宮の「舞殿」で舞ったのは有名な話である・・が、静は舞いながら

       『吉野山  峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の  跡ぞ恋しき』

       『「しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな』

     と義経を慕う歌を唄い、頼朝を激怒させるが、妻の北条政子がとりなして助けられる。

    この吉野でも追われた義経は北陸路を辿って奥州へ逃れる。 また長い逃避行の後、安住の地を奥州平泉に求めた。 
    しかし、養父と慕う藤原秀衡とは間もなく死別、その後ろ盾を失った義経は、頼朝指令によって、秀衡の子の泰衡の手により討ち取られ、その生涯を閉じた。 、

    義経が衣川高館で討たれたのは、1189年4月30日のことである。
    その首は黒漆の櫃(ひつ)におさめられ、清酒に浸されて鎌倉に送られた。 しかし、首実検が行われたのは腰越の浜であり、義経は首になっても鎌倉に入ることはできなかったという。

    「義経の腰越状」・・Ⅱ、に続く・・。



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  • from: orimasa2007さん

    2007年12月14日 11時10分08秒

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    古都鎌倉(23) 「満腹寺:義経の腰越状」・・Ⅱ



    古都鎌倉(23) 「満腹寺:義経の腰越状」・・Ⅱ


    肉親であり、兄弟である頼朝、義経が何故不仲になったのか・・?、
    その理由として、世間では諸々言われてはいるが・・、それらの諸説について列記してみた・・。

    『讒言(ざんげん)説』:頼朝は、突然奥州から現われた義経に疑念を抱き、代官・梶原景時にその行動を監視させた。一の谷の合戦以降、梶原景時の讒言(人をおとしいれるため、事実を曲げ、また偽って、目上の人にその人を悪く言うこと)が義経に対する憎悪をさらに強めたといわれる。

    『藤原隠密説』:西の平家と北の藤原家に挟まれた鎌倉・頼朝にとってはどちらも脅威であった。そこへ藤原家の家人「佐藤忠信・継信」を引き連れて義経がやって来た、義経はもしや藤原家の隠密では・・?と疑念を持つ・・。

    『戦功嫉妬説』:余りの戦技、戦術、戦略(本当の意味の戦略があったかどうかは疑問・・、戦略は施策、政策、政治が絡む幅の広い意味で、むしろ頼朝にあった・・)上手に、ねたみ、恐れをなした・・。

    『任官嫉妬説』:京にあって公家、法皇と頻繁に接触し、勝手に任官した・・。

    『私情公情説』:これは、お互いの思想、思考或いは哲学の相違であって、義経は身内、知人、周辺人に親しく、現実温情主義であった。頼朝は近隣御家人の組織均衡を重視し、未来志向主義で、遠く将来を注視していた・・。

    『兄弟不感説』:義仲、義経、範頼と次々兄弟を抹殺してゆく、ここには兄弟という肉親の情は無く、善悪功利要不要の原理が先行する。この時代は親子といえども平気で争う時代であったのだ・・。

    『義経脅威説』:義経の行動思考に劣等感を抱き、次第に脅威に感ずるようになる・・。又、奥州藤原氏が原因かもしれない・・。

    『御家人謀略説』:特に北条氏は義経抹殺を望んだ。頼朝の係累がいなくなればなるほど、北条氏の天下が 近くなる……。現に二代頼家、三代実朝は北条氏による謀殺説がつよい・・。

    『源氏不称説』:義仲 討伐以降、頼朝は身内、親類、係累に対して公式な立場では「源・源氏」を称えることを禁じていたようだ、これに対して義経の文面は度々「源」を用い、現に「腰越状」には末尾に「源義経」の署名がある。 これには頼朝は相当に不快感を示したらしく、さらに彼自身、源氏称には余りこだわってなかったようだ・・。

    『後白河法皇』:平清盛の京での実権から、東国・鎌倉での頼朝の覇権に到るまで後白河法皇は院政を満足に執り行う事が出来ず、不満が生じていた。こんな時期、義経に官位を授けたことから、兄の頼朝と軋轢が生じているのを知り、間に入って更に策術を弄し、兄弟の溝を深くしていった。義経はその術中に完全にはまってしまった。頼朝に云わせれば、後白河法皇は「天下の大天狗」とやら・・。
     

    義経、頼朝は育った環境も違っていた、義経は幼少には京・鞍馬寺にあり、成人して遠方の地・奥州藤原家にあって人情の機微に触れ、現世に依存してゆく・・。

    一方、頼朝は伊豆の蛭ヶ小島で捕虜の身であるが、勉学、信仰に勤しみ、時には都の情報等を耳にしながら平家の状況など覗っている。 


    近江の佐々木庄を地盤とする近江源氏嫡流の佐々木氏は伊豆で流人生活をしていた頼朝を世話するべく常時派遣し、頼朝旗挙げの際にも参画している。 
    頼朝を育てる乳母の関係からも、何にかと知らせが入ってくる。武蔵野国比企家からは比企能員が通っている。
    又もう一人の乳母の関係は京の公家・三善康信である、康信は流人の頼朝へ毎月三度も手紙を出し、そこには京の情勢が豊富に書かれていたという。 
    又、流人の生活を過していた頼朝を京の僧・文覚が訪ね(伊豆に流されてきたらしい)、平氏打倒の挙兵を勧めている、当時、頼朝は無視しているが・・、腹に一物はあったろう・・?。 

    頼朝は伊豆の空の下で、常に情報を得ながら、頭の中は遠くを見つめ、未来の構図を描いていたし・・その中から確乎たる信念が芽生えていたに違いないのである・・。


    義経は温の人、頼朝は冷の人と言われるが・・、しかし、新たな時代を切り開くには冷徹さが必要なのである。 
    上に立つものは己の権力を強固なものにしないと、凡そ近世以前の政権など成立するはずもない。
    何事も話し合いで仲良く、などというのは現代人の妄想に過ぎないのである。
    後の世に下り、新しき時代を切り開いた人物、織田信長、徳川家康、明治新政府を磐石たるものにした大久保利通、いずれも冷徹さを持ち合わせていた。

    頼朝が義経を生かしておけば、必ずや義経を利用して叛乱を企てるものが現れただろうし、また義経自身が叛乱を起こしたかもしれない、つまり、このような時代なのである。
    それに何よりの誤解は「義経に落ち度が無く、無実の罪で一方的に死に追いやられた」と、いくら本人に悪気が無かろうと、彼自身の思い込みや官位を勝手に受けたことは、頼朝や関東武士団が苦労を重ねて築き上げつつあった鎌倉幕府を一挙に瓦解しかねない危険な行為、罪深い行いだったのである。 

    嘆涙の「腰越状」を読むに当たって、頼朝は情に流されず、確乎たる信念のもとに冷徹な『断』を下したのであった・・。



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  • from: orimasa2007さん

    2007年12月13日 09時48分03秒

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    古都鎌倉(22) 「稲村ヶ崎と七里ケ浜」

    稲村ヶ崎

     巡った寺社、史跡の順番・・。
    鎌倉駅⇒鶴岡八幡宮⇒若宮大路・段葛⇒白旗神社⇒源頼朝の墓⇒大江・毛利・島津の墓⇒三浦一族の墓⇒東勝寺跡・高時やぐら⇒安養院⇒鎌倉宮・護良親王の墓⇒瑞泉寺⇒杉本寺⇒建長寺⇒円覚寺⇒明月院>⇒東慶寺⇒常楽寺⇒高徳院・鎌倉大仏⇒長谷寺⇒光明寺⇒稲村ヶ崎⇒満腹寺⇒龍口寺⇒常立寺⇒江ノ島・「江ノ島弁天」

    古都鎌倉(22) 「稲村ヶ崎と七里ケ浜」

    材木座海岸、由比ガ浜、稲村ガ崎、七里ヶ浜そして江ノ島と湘南海岸に面した秀美な景観が続く・・。 
    この「稲村ガ崎」、「七里ヶ浜」にもそれなりの歴史があったので紹介しておこう・・。

    鎌倉幕府の140余年にわたる北条家の長期政権も、どうやら綻びが見え始め、凋落を辿るようになる・・。   
    鎌倉末期、いわゆる、南北朝時代の主要な登場人物は「太平記」等でお馴染みの後醍醐天皇、足利尊氏、楠木正成、そして新田義貞など著名な人物が次々登場する。

    其の頃、鎌倉では・・、
    新田軍が極楽寺坂、化粧坂(けわいざか)、巨福呂坂(こふくろさか)などの北条幕府軍の防衛網を突破することができず苦戦していた。 

    この当時、新田家も御家人として鎌倉に屋敷を持ち、義貞は数度この地を訪れていた。
    鎌倉は、周辺三方を小山に囲まれた天然の要害であること・・、その間にいく筋かの「切通し」があり好守難攻の地であること・・、そして「稲村ガ崎」の海岸に立ち、潮の具合もある程度承知していたはずだが・・。

    新田義貞は、切り通しで苦戦する中、迂回して海岸へ向かった。そして、この海に祈りを捧げ、家宝の剣を海中に投げ入れると、潮はたちまち引いた。
    騎馬武者は稲村ガ崎の海ずたいを走り抜き、若宮大路、段葛を一騎加勢に鎌倉の府へと攻め上った・・。
    1333年、鎌倉・北条政権は遂に落ちたのである・・、最後の執権は「北条高時」であった・・。新田義貞が無位無官の身で、日の目を見ることのない存在であったのが、たった150騎という少数で新田郷にて挙兵して、それから、わずか14日の後の事だった。

    新田義貞は、正統源氏・八幡太郎義家の直系の家柄で、河内源氏の一門として上野の国・新田郷に土着していた。
    元弘3年(1333年)後醍醐天皇による倒幕の宣旨(平安末期以降、天皇の命を伝える公文書)の呼びかけに応じ、一族を集め鎌倉幕府討伐のため挙兵した・・、義貞32歳である。

    新田軍は東山道を西へ進み、上野国の守護所を落とし、利根川を越えた時点で足利尊氏の嫡子・千寿王(足利義詮)の軍と合流する。
    嫡男を奉じた新田軍は数万規模にも膨れ上がったと言われる。

    源頼朝、新田義貞に共通するのは、必ずしも多くの勢力をもつ武士団を統率していたわけではなく、頼朝も石橋山の合戦に立ち上がった時は少勢であった・・。
    それに、もともと源氏色の濃い関東武士団であり、平家の出である北条政権には少なからず反感をもっていたし、常に八幡旗の下に統領を求めるのが関東の武士団の特性でもあった。

    さらに新田軍は鎌倉街道を進み、入間川を渡り小手指ヶ原(埼玉県所沢市小手指町付近)に達し、遂に幕府軍と衝突する。
    兵数は幕府軍の方が勝っていたが、同様に幕府へ不満を募らせていた河越氏(埼玉県川越市)ら武蔵の諸侯の援護を得て新田軍は次第に有利となる。
    新田軍は一度は敗走するが、翌日には援軍に駆け付けた三浦義勝(相模の国)ら数千の兵を合わせて、分倍河原(ぶばい・東京都府中市多摩川河畔)で幕府軍を撃破する。

    この頃、足利尊氏は幕府の命で京の反乱軍(後醍醐天皇、楠木正成等)を鎮圧すべく上京するが・・、民意動向により寝返って、鎌倉の出先である京の「六波羅探題」を逆に滅ぼしている・・。
    これらの情報が関東の戦場にも伝わり、幕府軍内の謀反などがあって、戦況を有利に導いていったと思われる。 
    藤沢まで兵を進めた義貞は、軍を極楽寺坂切通し方面と巨副呂坂切通し方面にわけて鎌倉への総攻撃を開始する。 難攻するうちには新田義貞は「稲村ガ崎」へと向かうのである・・。  


    湘南海岸沿いにR134が走っている。
    稲村ガ崎から江ノ島辺りの七里ケ浜は、特に景色が良く、遠く富士を仰いだ北斎の絵にもなり、日本の渚百選にもなっている。
    風が通るところで、そこそこ波もあり、今は若者のサーフィンのメッカになっている・・。稲村ガ崎あたりから名物の「江ノ電」も海岸近くをゆき、行合川の袂に「七里ケ浜」の駅もあった・・。
    ここの沖合いで、一昔前或る悲劇が発生している・・が、今では相当年配の方しか御存知無いかもしれない。

    明治43年1月、隣町の逗子開成中学のボートが風に煽られて沈み、乗っていた生徒12名全員が死亡した。
    寒風吹きすさぶ中、雄々しき若者が懸命の命の叫びも虚しく、波間に飲まれていったのである・・。 

    当時この事件は全国的に大ニュースとなり、数度映画化もされ、七里ケ浜哀歌として「真白き富士の嶺」で歌にもなっている。
    この歌は悲しき唱歌として昭和の時代まで歌われていたが・・、いまでは遠い記憶になってしまったようだ・・。



    「七里ケ浜の哀歌」(真白き富士の嶺) 作詞者 三角錫子  作曲者 ガードン

    ♪♪真白き富士の嶺緑の江ノ島    ♪♪ボートは沈みぬ千尋の海原
      仰ぎ見るも今は涙              風も浪も小さき腕に
      帰らぬ十二の雄々しき魂に        力もつきはて呼ぶ名は父母
      捧げまつる胸と心              恨みは深し七里が浜辺

    ♪♪み雪は咽せびぬ風さえ騒ぎて
      月も星も影をひそめ
      み魂よ何処に迷いておわすか
      帰れ早く母の胸に・・♪♪





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  • from: orimasa2007さん

    2007年12月12日 11時33分53秒

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    古都鎌倉(21) 「光明寺」



    (市内でも屈指の大寺院で、山門は関東一の偉容を誇る)

     巡った寺社、史跡の順番・・。
    鎌倉駅⇒鶴岡八幡宮⇒若宮大路・段葛⇒白旗神社⇒源頼朝の墓⇒大江・毛利・島津の墓⇒三浦一族の墓⇒東勝寺跡・高時やぐら⇒安養院⇒鎌倉宮・護良親王の墓⇒瑞泉寺⇒杉本寺⇒建長寺⇒円覚寺⇒明月院>⇒東慶寺⇒常楽寺⇒高徳院・鎌倉大仏⇒長谷寺⇒光明寺⇒稲村ヶ崎⇒満腹寺⇒龍口寺⇒常立寺⇒江ノ島・「江ノ島弁天」

    古都鎌倉(21) 「光明寺」

    <font size="2" color="#0000FF">次に、長谷寺より海岸伝いの2kmほど南下した材木海岸に沿って「光明寺」がある。
    総門より、巨大な山門をくぐると本殿があり、ここでは大殿と称しているが・・、その横奥に「内藤家」の廟所がある。
    磐城・平藩の初代から日向・延岡藩の幕末まで、代々の墓所が一同に祭られている・・。
    このように江戸初期から末期まで代々の大名の墓が全部一箇所に揃っているのは大変珍しいという。
    墓石が順よく並ぶ姿は美的でもあり、壮観である、鎌倉市の史跡に指定されている・・。

    小生の実家・田舎は福島県「いわき市」で、江戸期においてはこの地方を磐城平藩と称して、鳥居、内藤、井上、安藤の四大名が統治していた。 
    中でも内藤家は永く、江戸初期の1622年から1747年まで125年間、六代のながきに亘って治めていた。
    内藤家は徳川家譜代として戦国期より活躍し、大阪の陣では江戸城の留守居役を任されるなど、江戸幕府を開くにあたり功績は大きい・・。 

    江戸中期、六代目内藤 政樹の代の磐城平藩では、天変による洪水や凶作、また悪政などにより藩財政の破綻がつずき、そのため重税で苦しめられた領民の不満が鬱積していた・・。そして遂に元文3年(1738年)に「元文百姓一揆」と呼ばれる大規模な百姓一揆が発生する。
    四方から平城下に押しよせた一揆勢は凡そ二万人、富豪や商家を打ち壊し乱入、 役所、獄舎をも襲った・・。 
    4日間、武士団に抗し訴え続け、ついに減免に成功したという・・、 がこの騒動で領主・内藤政樹は、日向(宮崎県) 延岡城7万石へ移封となり、磐城平を去ることになる・・。去るに及んで次の歌を残したという。

      『 日に向ふ 国に命を 延べおかば またみちのくの 人に逢うべし 』 

    九州、日向延岡・内藤藩は、磐城平藩と同様の年月(124年)に亘り藩政を治める・・。
    江戸幕末、薩摩藩を筆頭に倒幕派の南九州諸藩の中にあって、徳川譜代藩であるがゆえに佐幕の立場を採らざるをえず、苦況に立たされるが・・・。

    内藤家・江戸上屋敷は、江戸城外郭門の「虎の門」に続く外堀辺りにある・・。
    磐城・平藩より財政難の連続で、内藤貧乏の守と・・、そのあまりの質素な暮らしぶりを揶揄されたほどの内藤本家である。
    しかし、七万石の小藩ながら、その後もなお私財をつぎ込み城下町の再興に尽くすなど、民衆に支持された名家である。

    そんな生活ぶりの中、内藤家は代々「浄土宗」を崇拝信仰する。 菩提寺は、鎌倉材木座の天照山蓮華院「光明寺」である。
    「光明寺」は浄土宗の七大本山の一つで、江戸時代には徳川家康によって関東十八檀林(だんりん・仏教の学問所、平安時代の檀林寺に始まるが、学問所を檀林と呼ぶようになったのは室町末期で、近世は各宗で設けていた)の一つに数えられ、その筆頭に位置づけられた名刹である。
    創建は、鎌倉時代の寛元元年(1243)で、鎌倉幕府・第四代執権・北条経時による・・。
      
    延岡城の内藤家は、日向灘の海に面した高台にあるとか・・。
    江戸住まいの日々、彼岸や盆の参詣のひと時には、内藤家の人々は鎌倉・材木座の海に重ねて、日向灘を思いだしていたに違いない・・・。

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  • from: orimasa2007さん

    2007年12月11日 10時27分10秒

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    古都鎌倉(20) 「長谷寺」

     巡った寺社、史跡の順番・・。
    鎌倉駅⇒鶴岡八幡宮⇒若宮大路・段葛⇒白旗神社⇒源頼朝の墓⇒大江・毛利・島津の墓⇒三浦一族の墓⇒東勝寺跡・高時やぐら⇒安養院⇒鎌倉宮・護良親王の墓⇒瑞泉寺⇒杉本寺⇒建長寺⇒円覚寺⇒明月院>⇒東慶寺⇒常楽寺⇒高徳院・鎌倉大仏⇒長谷寺⇒光明寺⇒稲村ヶ崎⇒満腹寺⇒龍口寺⇒常立寺⇒江ノ島・「江ノ島弁天」


    古都鎌倉(20) 「長谷寺」

     大仏さんの前の道路はお土産屋が並んでいて賑やかである・・、が車の通りが頻繁なのがいささか難儀である。
    「長谷寺・長谷観音」は、大仏さんから2〜300m南の方角へ行ったところに在った。
    広い駐車場の入り口近くに拝観料の受付がある・・。 昨今は些か有名になると、何処も拝観料を取るようになり、駐車場料金等を合わせると、拝観数にもよるが少なからずの出費で大変である・・。 
    立派な門かぶりの松を抱いた山門を入ると、すぐに緑濃き回遊式の庭園が控え、四季折々の花が取り囲む、実に美的景観である・・。
    つずら状の階段をゆくと、間もなく煌びやかな本堂に出た。近年に再建された本堂の中は、鎌倉時代の作とされる9mもの巨大な観音像が立つ、その金箔は、足利尊氏の寄進と伝えられるが・・。 
    由比ガ浜が一望できる広場の一角に、「経蔵」があって目を引いた、先般、京都の嵯峨野の「清涼寺」を拝観した時、同じ造りの「経堂」があったのを思い出した。 回転する「輪蔵」があり、その中に一切経の経本が収められている。人の手によって一回周すると、一切経読誦の功徳があるといわれる・・。
    経蔵、経堂とも「浄土宗」特有の建物で、釈迦の教えである経典「一切経」が内臓されている・・。 
    他にも長谷寺は梵鐘や弁天堂と洞窟佛と見るべき所は多い・・。

    鎌倉には七十余の寺があるといわれるが、大仏さまと長谷観音が最も有名で、八幡宮周辺の史蹟と共に鎌倉観光のベストコースになっている。
    巡礼者のほか、多くの一般の人々が日々参詣している。
    坂東三十三観音の第4 番札所である

    私事になりますが・・、
    小生宅のすぐ近くに「飯山の観音さん」「縁結びの観音さま」として知られる長谷寺(通称飯山観音、神奈川景勝五十選、花の名所百選)が在る。 桜の名所で、春にはお花見客でも賑わい、坂東三十三ヶ所巡礼の第六番札所である・・。
    小生の第一子が誕生した折、こちらの観音さんで「御七夜」の祈願を行ったところでもある。


    「長谷寺」は、信州善光寺や京都清水寺など、名の通った寺院とともに全国的な広がりのある寺院であり、一般に「長谷観音信仰」といわれている。その根本に位置するのはご存知、「奈良大和の長谷寺」である。
    観音様は、「本尊十一面観世音菩薩」といわれ右手に錫杖を執り、 方形の台座に立つ、 いわゆる 「長谷寺式」 と称する独特の形式で現代に至るまで広く信仰を集めているという。

    日本三大長谷寺(大和・奈良の長谷寺、鎌倉の長谷寺、三番目は各寺が名乗りを上げてる・・)をはじめ、長谷寺の分布は全国に200個所以上の関係寺院があるという。
    その開祖の歴史は古く、奈良朝の初期までさかのぼる・・。 
    播磨の國の「徳道上人」が楠の霊木から十一面観音を刻み、これを本尊として大和の国に長谷寺を開創したのが始まりという、これはあくまで伝承ではあるが・・。

    ついでに・・、
    ある日、徳道上人が病のため危篤状態になってしまう、そのとき、夢の中で閻魔大王が「おまえはまだ死ぬことは許さない。三十三カ所の観音霊場を造り、人々に巡礼を勧めなさい」と言われた。
    お上人は、それに従って、三十三霊場を定め、最初に巡礼を行ったのが大和の国・長谷寺だといわれている。 しかし、この当時は三十三霊場は世の人の信用を得られずに巡礼はあまり発展しなかったという。 
    時代はやや下って、平安中期以降になって長谷寺は観音霊場として貴族の間で信仰を集め、さらには武士や庶民にも信仰が広まった。
    その後は、地域を問わず、 時代を問わず信仰の広がりをみせ、特に勧化(かんげ・仏の教えをすすめること)という手法によって諸国に霊験を説き、 人々に伝播していったのであろうと想像できる・・。

    そして鎌倉であるが・・、
    天平八年(736年)、そのころ勧化に出て、諸国を行脚していた徳道上人は小田原の近くの里に至った。
    その夜、老僧が霊夢に現れ、「我は汝が本願の楠木の観音なり。今、縁に従って由比ヶ浜に出現せり」と告げた。
    夢から覚めた上人は、急ぎ鎌倉に行き、尊像を拝して御堂を建立したという・・、鎌倉・長谷観音の開山である・・、
    「長谷寺」は、鎌倉の海が一望できる風光明媚な高台の位置にある。。


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  • from: orimasa2007さん

    2007年12月10日 10時16分04秒

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    古都鎌倉(19) 「高徳院大仏」

     
     巡った寺社、史跡の順番・・。
    鎌倉駅⇒鶴岡八幡宮⇒若宮大路・段葛⇒白旗神社⇒源頼朝の墓⇒大江・毛利・島津の墓⇒三浦一族の墓⇒東勝寺跡・高時やぐら⇒安養院⇒鎌倉宮・護良親王の墓⇒瑞泉寺⇒杉本寺⇒建長寺⇒円覚寺⇒明月院>⇒東慶寺⇒常楽寺⇒高徳院・鎌倉大仏⇒長谷寺⇒光明寺⇒稲村ヶ崎⇒満腹寺⇒龍口寺⇒常立寺⇒江ノ島


    <b>古都鎌倉(19) 「高徳院大仏」


    この項から再び方位が変わります。
    鎌倉駅より凡そ2km西の方向・長谷地区に高徳院大仏殿が在ります。

    先ず、主題よりチョット反れますが・・、
    『小粒でも 是見てくれの 大伽藍』・・と江戸川柳に歌われている・、小粒とは実は「浅草観音」のことであります・・、 
    江戸浅草の浅草寺の御本尊・聖観音は一寸八分と小さいが、江戸市中の多くの寺院の中でも最古の寺で、参詣の人はひきも切らず、伽藍は坂東第一の大きさを誇った。
    浅草寺の小さな、小さな「観音様」と大規模な伽藍の対比が面白い・・。

    小生、中学校(福島県いわき市)の修学旅行で、鎌倉の大仏を見学してた折、ガイドさんか誰かが・・謎々クイズをだして・・、
    「鎌倉の大仏さんと、浅草の観音様が、東海道を同じ歩調で、向かい合うように一歩一歩、歩いた場合どの辺りで出会うでしょうか・・・??ただし浅草の観音様はここの大仏さんより、かなり小さめです・・」我々は日本橋、新橋、品川などと適当に答えを出したが・・、答えは「雷門・・で―す・・」・・。 
    因みに、浅草寺本堂と間に仲見世通り参道を挟んで、雷門までのおおまかな距離は400m位と思われる・・。事の真実はともかくとして、鎌倉大仏と浅草観音を対比したエピソードが面白くて、今でも記憶に残っている・・。 

    そして、本題であります・・。
    鎌倉の大仏、高徳院・阿弥陀如来坐像・・、凡そ700年前の鎌倉期に建造された青銅の大仏である。 
    奈良の大仏が戦火のため破損がはなはだしく、中世・近世の補修にて現在の姿になったのとは対照的に、当時の姿をしっかりと残しているという。

    「東鑑」(鎌倉時代の歴史書)には巨大な坐像の一部を書いてあるだけで、全体像は記してなく・・、元より建造の目的や年代等の詳細は不明だという・・。
    当時の執権・北条一門が財力に合わせ、西方(京)への権力の誇示のために、新しい都市・鎌倉の入り口に当る当地へ建立したと言われるが、・・定かでない。
    又、当時は疫病、難病が流行り、行き倒れや死人が続出したという、死体は由比ガ浜に捨てられ埋葬された。これらを弔い、来世に導くために「円応寺」(最初、鶴岡八幡宮の正面の海辺にあったが、元禄の地震・津波で堂が破損したため、現在の北鎌倉へ移ったとされる)が建立され、同時に死者を裁く「閻魔大王」(円応寺のは時の運慶作で、笑い閻魔とも言われる・・閻魔帳の起こり)が主仏として鎮座した。
    裁かれた死者で生前、悪行の有った者は餓鬼、畜生の地獄へ送られ・・、善行の有った者は、「長谷観音」の下へ、更に、西方の大仏(阿弥陀如来)のおわす極楽浄土へ参らせたといわれる・・。
    謂わば、民衆の平穏を祈っての創建であることも確かであろう・・。

    鎌倉唯一の国宝仏で、奈良の大仏が天皇勅願によって創建されたのに対し、鎌倉大仏は民衆の浄財で造られた庶民のための大仏さまである。
    初めは木造の大仏で、奈良の大仏と同様に大仏殿(御堂)があったが、天変によって倒壊し、次に青銅の大仏が屋外に鋳造されたとある・・。
    大仏は120トンもの青銅で出来ている。 これだけ大規模で、しかも精巧に仕上げるには、大変な技術を要したに違いない。
    国内でも大変高度な技術、屈指の技を持った職人たちが集められ、造られたものであろう・・、寺の誌史によると上総の国の鋳物師・大野五郎右衛門が尽力したと記録されている。
    小生、この大仏さんは幾度か拝観したことがあったが・・、天井もなく、風に吹かれ、雨に晒されての「露座の大仏さま」は今でも変わらず、禅想に耽り、鎮座している。

    鎌倉時代といえば文化面でも大きく飛躍した時代であった、武士や庶民の新しい文化が台頭し、以前の貴族文化と併せて、文化の二元性がでてきたところにあるという・・。
    特に鎌倉仏教界にあっては、今まで貴族中心の宗教であったのが、新幕府が中国渡来の禅宗を篤く信仰するようになり、新しい鎌倉文化を花開かせた。これらが浄土や日蓮宗と合わせて広く一般庶民まで普及したのである。 
    また工芸などの職人的技能士なども多いに広まったという・・。そんな中、世情は大飢饉(1230年前後)など、飢えや苦しみの惨状があったともいう。
    鎌倉大仏はこんな時代背景もあり、時の権力者の援護をも得て、大衆庶民の要求に答えたものといえそうだ・・。
    大仏様は今でこそ緑青(銅のロクショウ、錆びを護る錆)の姿をしているが、完成当初は全身金箔を施した華麗な姿であったという、現在も一部にその跡が見られる。 

    また、胎内拝観(数十円の布施)も可能である。
    急な階段を登った、いわゆる中腹に見学用の台座がある、外観の大身美に比べ、窮屈に感じられるが、背中からの明り取り(光明)が何となくユーモラスである、「後光が胎内に射す」といったところか・・・。


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