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from: orimasa2007さん
2008年01月31日 10時32分21秒
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世界遺産と熊野地方(7) 熊野古道・「大門坂」
大門坂・・「振ヶ瀬橋」(上)、「夫婦杉」(中)
世界遺産と熊野地方(7) 熊野古道・「大門坂」
<font size="2" color="#0000FF">ホテル浦島から、先ずは那智山の名勝を目指す・・。
紀勢線と国道42号線を横断して那智川沿いの道を進む。
屈曲しながら緩やかに上ってゆくと大門坂駐車場があったので、これより「上さんに」機嫌をを伺いながら徒歩で行くことにする・・、 所謂、「熊野古道」を辿る事になる。
この更に上部には、「熊野那智大社、那智山青岸渡寺、那智の滝」という那智勝浦随一の名所がそろっている。 たぶん「世界遺産」第一の核心部であろう・・。
一般観光客である殆どの人々は車又は観光バスで「神社お寺前駐車場」まで上がってしまうのだろう・・、しかし、その手前には杉並木に囲まれた石段「大門坂」という熊野本来の古道・名所が残されているのである。
我等は車を預けて、先ずここから訪ねることにした。
案内に従って少し行くと本道(県道)よりV状に分かれる、その角に「大門坂」「熊野道」などの案内と碑が立っていた。 数軒の民家があり、この民家の一角に大正期「南方熊楠」が定宿で滞在した旅館があったとか・・。
南方熊楠はここの離れを寄宿として那智山中の植物調査を行い、那智原生林の伐採計画を耳にしたとき那智原生林の保護に尽力したという。 この時期、お役人は那智の滝を使って水力発電をする・・、何ていう計画があったとか・・、今思うとゾッとずる話であるが・・。
鳥居をくぐると小さな朱色の欄干の「振ヶ瀬橋」が架かっている、ここが聖地への架け橋、入り口であろう。 嘗てはここに関所があったそうで、不浄の人物でも取り締まっていたのだろうか・・?。
大門坂茶屋という鄙びた造りの茶店があり、ここでは平安衣装の貸し出し(有料)も行っていて若い女性には人気があるこた・・。
間もなく「夫婦杉」が見えた、石畳の道の両側に一対を成し天に聳えている。 幹の周囲は8mもあり樹齢800年と推定される杉の巨木で周辺の歴史の深さが伺える。
この先は石畳と石段が続く・・、素晴らしいの一言である。
ほどなく、熊野九十九王子の最後の王子「多富気王子」(たふけおうじ:王子については後述)がある。 大きな石碑が建てられており、地元の人は「幼児の宮」と呼び親しんでいるとか・・、「たふけ」は手向けの意味らし、傍らに庚申が祀られている。
どんどんと苔むした石畳の石段を登っていく、道の両側には数百年を経た巨大な杉並木が連なっている。 石畳の生した苔もそうだが、千年来の踏み跡であろう・・?石段は丸みを帯びて磨り減っているのが判る・・、これらも歴史の重みを感じる一様であろう。
古老の杉の大木の下に苔むした大石があり、「十一文関跡」とあった。 参詣人から多少の通行税を徴収していたのだろうか・・、十一文関というからには通行料は十一文だったのであろう・・?。
石段は全部で267段、約600mの道程はもうすぐ終わりる。
上りきると開けた場所に出て、ここは既に那智大社の境内の一角でも有る。ここに嘗ては仁王像が立つ大門があって、即ち「大門坂」と名付けられたといわれる・・、尤も実際の社殿の境内はこれより更に石造りの階段を昇った上方にあるが・・。
「大門坂」は、熊野那智大社への参道で熊野古道・「中辺路」(なかへじ:熊野ではへんろと呼ばずへじと読む)の一部である。
勿論、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の登録物件で、往時の面影をもっとも色濃く今に残している場所である。
高低差約100mの苔むした石畳道と樹齢800年を超す老杉群に囲まれた古道は夫婦杉、古い関所跡や古跡もあり、尚且つ熊野霊場への入り口、参道と云うべき史跡でもある。
「熊野古道」とは、近畿・紀伊半島南部に在する熊野三山大社である本宮大社、速玉大社、那智大社への参拝の道である。
熊野詣の古道は平安期に開かれ始まったといわれ、紀伊半島の東西の両方向から参るようになっていて、其々参道に名称が付いている。
先ず西側であるが・・・、
京・大阪から紀伊半島を西回りで大阪、和歌山から田辺に達するのが「紀伊路」と称し、更に、田辺から海道を串本そして新宮に至る道を「大辺路」と呼んでいる。
田辺から大辺路と分岐して内陸部を通り、本宮大社、更に那智大社、新宮へ至る道を「中辺路」と称した。
東からの道は主に江戸時代にはじまったもので、伊勢からの熊野、新宮へ至る「伊勢路」がある。
一般に紀伊路、大辺路や中辺路は京の都人が通ったのに対し、伊勢路は庶民の道であるともいわれる。
他に、熊野三山参拝後、高野山に抜ける「小辺路」、吉野・大峰山に抜ける「大峰奥駆道」がある。
この内、「世界遺産」に登録された「参詣道」は主に4箇所ある。
1つ目は、小辺路と呼ばれる高野山を中心とした石畳や本宮に到る約70kmの参詣道・・、
2つ目は、大峰奥駆道の全域で吉野から本宮にいたる140kmの参詣道・・、
3つ目は、熊野三山を中心とした中辺路、大辺路の大部分の参詣道
4つ目は、伊勢神宮から新宮へ到る伊勢路の主要部分の参詣道
因みに、京人の参詣の道筋を辿ってみると・・、
京都の上皇や皇族、公卿たちは京から淀川を船に乗って大阪・天満橋(当時の渡辺の津・八軒屋)で上陸。 先ず、熊野九十九王子の第一番である「窪津王子」(王子に関しては詳細後述)を参拝し、それから紀伊路の街道筋に点々と有る王子社を巡拝しながら長い、苦しい旅を続けた。
道はそこから一路海辺を南下し、紀伊の国の国境、峠そして紀ノ川を渡り更に田辺に到る。 ここから先は中辺路を通り熊野本宮の山中の道に入り、ようやく本宮大社に達して参拝を済ませる。
本宮からは熊野川を船で下り、新宮、那智を巡って後方に聳える妙法山に登り、雲の中を潜るような大雲取、小雲取の険路を越えて再び本宮大社にでて都への帰路につく・・。
これが熊野詣での一般的な順路だったらしい・・。
その内「大門坂」は、新宮・速玉大社から那智駅そばにある補陀洛寺(ふだらくじ)、「浜の宮王子」へ至り、那智川沿いの尼将軍供養塔などを経て那智へ到るルートで、「那智大社」直下にある最も古道らしい雰囲気を残した名所である。
次回は、 那智大社ほか・・、
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from: orimasa2007さん
2008年01月30日 11時21分56秒
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世界遺産と熊野地方(6) 勝浦温泉・「ホテル浦島」
洞窟温泉「忘帰洞」
世界遺産と熊野地方(6) 勝浦温泉・「ホテル浦島」
<font size="2" color="#0000FF">南紀勝浦温泉(地元では特に“南紀”という言葉は使わない)は白浜温泉と並ぶ、和歌山県を代表する温泉地であり、世界遺産に登録された那智山や那智滝、熊野三山、吉野熊野国立公園への拠点となっている。
太平洋に面したリアス式海岸、南紀の景勝地である紀の松島一帯に大小のホテル、旅館が集まっている。中には島や岬にホテル、旅館がある。
温泉地として開けたのは大正時代からと、白浜の歴史有る古湯に比して新しい温泉場である。源泉の数は優に100を超え、各の旅館が自分の源泉を持っているという。
大正時代には、紀州徳川家15代当主である徳川頼倫(とくがわ よりみち)が訪れ、洞窟の温泉に入浴した際に「帰るのを忘れるほどである」と賞賛した。
その賞賛した温泉こそ南紀勝浦温泉にある大型ホテル「ホテル浦島」であった。
「ホテル中之島」、「かつうら御苑」等と同様、超大型観光ホテルの一つであり、周辺には名所・観光地が多い中このホテルだけを目的とする観光客も多いのである。
それは、ホテル浦島の中で、「六つの温泉を楽しむことができる」という魅力の為でもあり、その中に、同ホテルの目玉である「忘帰洞」(温泉の名前)を目的に・・。
H・浦島へは駐車場からバスに乗り、更に船に乗って向かう。 ホテル浦島の敷地は、勝浦港に張り出した狼煙山半島にあり、陸続きなのに客は船で向かう事になっている。 実際にはトンネルも存在し、業務用及び緊急用として使用しているが、これもホテルの演出の一つであろうか・・?。
まず、その駐車場の広さに驚く、イベント会場よろしく700台の広さで、ホテルより遠くはなれていて送迎はそのためである・・。
ホテル浦島は、幾つものプランに分かれる。 部屋ごとのプランは本館、なぎさ館・日昇館、山上館の三つに分かれ、値段は当然段階に分かれる。 われらはツアー客の一員なので、「並」の段階であったが・・・。
先ず、何といっても名物温泉浴場に向かった。 目指すは、「忘帰洞」と「玄武洞」であり、この温泉に入らなければ浦島に泊った意味がないといわれる・・!。
忘帰洞の一文字で、このホテルのイメージを作り上げてると言ってもいいうらいなのである・・。
「忘帰洞」は、まさに名前の通りで、『忘帰洞の湯に浸かれば家に帰るのを忘れてしまうほどの 名湯』という意味であり、この名前は紀州・和歌山藩の藩主が来遊されたとき「帰るのを忘れるほど」 と賞めて名づけられたものだという。
頼倫公が賞めた理由は湯の良さは勿論、忘帰洞が天然の巨大な洞窟の中に天然の湯が満たされているということである。
それは熊野灘の荒い風波に侵食されてできたものであり、間口 25m、奥行き50m、高さ15mにも及ぶ。 大洞窟の中の湯に浸りながら望む外洋の日の出、足下の磯をかむ荒波など、正にその名に相応しい美景であり、奇景と言われる由縁である・・。
いよいよ、その玄武洞・忘帰洞に入場である、否、入湯である。
物珍しさも手伝って、洞窟温泉へカメラを持ち込んでの入浴客も見える、当然、小生もその一人であるが・・。
海岸沿いの洞窟のため波が打ち寄せているのだが、その波が岩場にあたり、飛沫(しぶき)があがる様子に驚嘆する。 高い波が打ち寄せる度に、「おおおっ」と思わず歓声をあげたくなる迫力で、絶えず、ザブン、ザブン、ザザザザザブンという音が聞こえてくる。
湯船の外、波打ち際は一段高くなっていて鉄鎖が施してあるのだが、波が荒れてる時などは其処を乗り越えて飛沫がザーッとかかるときもあるという、この時は、飛沫をモロに被りながらの入浴になるという、何とも凄い自然の迫力を感じる事ができる瞬間であろう・・。
もちろん、それ以外の温泉も楽しい。
「滝見の湯」の樽風呂も楽しく、又、狼煙半島の山上館へは長―い、急なエスカレーターでハルバル昇って「狼煙の湯」(のろしのゆ)に辿り着く。 この屋上湯から眺望できる勝浦港が圧巻である。
湯質もなかなかのもので、浦島の温泉に入って白いゴミが浮いている・・・と言う無かれ、それは湯の花と呼ばれる温泉の成分で、それが浮いている程温泉は上質なのである。
この他にも温泉浴場があって、温泉スタンプ等も置いてあり又明日(連泊)、湯破(とうは)するつもりである。
さて次に食事であるが、所謂「バイキング方式」の多種量産セルフサービス方式である。 我々は余り「食」には拘らないほうで、蟹の食い放題だけでも十分であった。
だが、一つだけ残念なことがあり、この件に関してはさすがに係員に申し付けたが、「土方の飯場じゃあるまいし、赤い丸箸を無造作に束ねて置いてあるのは戴けないネ・・!!」と・・・。
次回は、 熊野古道・・「大門坂」
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from: orimasa2007さん
2008年01月29日 11時01分49秒
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世界遺産と熊野地方(5) 南紀勝浦・「那智勝浦」
世界遺産と熊野地方(5) 南紀勝浦・「那智勝浦」
<font size="2" color="#0000FF">勝浦であるが・・・、南紀勝浦、紀伊勝浦、那智勝浦と愛称、俗称をこめると色々な読み方があるようである。
和歌山の古い地名は「紀伊」といって、紀南と紀北に分けられるという。 そして、和歌山にはもうひとつ、「南紀」という言葉がある。
「紀南」と「南紀」・・、 現在、ほとんどの和歌山の人がこの二つを、和歌山県(紀伊)の南部という意味で同意に使っているようだが、ところが厳密に言うと「紀南」と「南紀」は意味が違うという。
紀伊の南部にあたるのは「紀南」の方で、文字通り紀伊の南部地方であるという。
一方、「南紀」という呼称は古来からあったらしい・・、
京の都を中心として、その南である紀北、紀南を含めた紀伊地方全体を指す言葉といわれる。 近畿地方南部の和歌山県や奈良県吉野地方の一帯を総称する俗名であり、南近畿(みなみきんき)とも言われた。 つまり、本来は紀伊の国自体を指し、それは紀伊の国が南海道の筆頭に挙げられた国でもあり、紀伊国が畿内(※きない、きだい、)から見て南に位置するからとも言われている。
現在は、和歌山県の地方区分としては北から紀北地方、紀中地方、紀南地方と三地方に区分し、正式な呼称としているようである。
南紀というのは、固有名詞として「南紀白浜空港」とか、「南紀白浜」、「南紀勝浦」と呼ばれてはいるが、紀南地方を「南紀」と一般的な呼称として使用する場合が多くなっているようである・・。
畿内(※)については・・、
本来は王や皇帝が住む都の周辺の地域を指し、畿内とはその五国である山城国(京都府南部)、大和国(奈良県)、河内国(大阪府南東部)、和泉国(大阪府南部)、摂津国(大阪府の大阪市と大阪府北部、兵庫県の神戸市以東)が近畿地方の中心で、今でいう「首都圏」である。
「畿内」という呼称は、今では歴史・地理学用語としての色合いが濃くなっていが、いまでいう近畿地方とは「畿内」に近い地方とうことで、山陰から南の地方の紀伊の国(和歌山)までを指す。
関東地方に対して近畿地方(関西地方)であろう・・。
古来、近畿が正式名称・雅称であるのに対して、関西は俗称とも言われるように、紀伊の「南紀勝浦」は俗称であろう。
勝浦町の駅の名称は「紀伊勝浦」という。和歌山南岸を走る「紀勢本線」(愛称・きのくに線)の駅の名称で各駅の頭に「きい・紀伊」と付く駅名が多い。 これは和歌山は「紀の国」「紀州」であり、「紀伊」というのに他ならない。
又、那智勝浦は1955年(昭和30年)、勝浦町、那智町、宇久井村、色川村の4町村が合併し「那智勝浦町」となる現在の町名が付いた。
那智(なち)の名称は難地に由来するともいわれるが、「那智山」から命名されたものが本来であろう、ただ那智山という単独の山は無く「那智山系」と言われる。
山系は、北から南へ大雲取山(966m)、烏帽子山(871m)等が折りなし、那智大滝やその水源林である那智原始林(天然記念物)に見られるような深い自然の山と森林が残されている。 このように、稜線が並ぶ状態を「那智」とも称していた。
この地は古来、熊野三山を中心とする熊野信仰の原初の姿は自然信仰であり、那智大滝の崇拝から生じた滝行場(滝にこもって修行する場)の地であった。
今日でも熊野那智大社や、その別宮である本殿を持たない滝前の「飛瀧神社」は、この滝をご神体とし崇め奉っているのである。
現在でも、それらをとり囲む深い自然が自然信仰の姿を見ることが出来、そうした由来から、これら一帯の聖地を総称して「那智」と呼称している。
勝浦の港は、狼煙半島(のろしはんとう)が海を囲った入江の中にあり、更にその入口に「中ノ島」という島があるために奥にある港には海からの荒波がまったく来ない。
こうした条件のために、南紀では随一といわれるほどの良港となっている。
港の勝浦漁業協同組合魚市場の埠頭では、生鮮マグロ水揚高日本一を誇るマグロの競りで賑わう。
又、この勝浦の港の一帯には温泉も湧出していて、南紀白浜温泉と並ぶ和歌山県を代表する温泉地であり、温泉を源資とした港周辺には巨大なホテルが林立して一つの風景を成している。
那智勝浦は、こんな“世界遺産と温泉、そして生マグロの町”として 今、脚光を浴びているのである。
次回は、 勝浦温泉・「ホテル浦島」 -
from: orimasa2007さん
2008年01月28日 10時26分35秒
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世界遺産と熊野地方(4) 串本・「潮岬と橋杭岩」
世界遺産と熊野地方(4) 串本・「潮岬と橋杭岩」
<font size="2" color="#0000FF">「すさみ」の海岸は、変化に富んだ美景が続く。
国道42号沿いに「すさみ八景」と言われる穂積島、沖の黒島と陸の黒島といったに二つの黒島を含めた壮大な景観が広がる。
激しい波頭が陸の黒島に当たり、真っ二つに裂けた波が再びぶつかり合う様子が夫婦の波の様だといい、合掌波または夫婦波とも呼ばれて枯木灘を代表する奇観である。 この展望地を「恋人岬」又は夫婦岬といい、なかなか洒落たネーミングである。
われ等夫婦も綾かって記念撮影し、その波の様子も写真に収めることが出来た・・。
間もなく串本海中公園に着いたので立寄って見た。
串本の海を再現した大水槽、水中トンネル式大水槽などの見所もある。 串本の海は遠くフィリピン沖から来る黒潮の影響を受け、カラフルな魚やサンゴ、エビ、カニなど熱帯、亜熱帯性の生物を豊富に見物することができた。
「海中展望塔」は沖合の水深の海底にあって、自然の海の青く澄んだ世界が広がる。サンゴの間を泳ぎ回る熱帯魚が乱舞する様は、まさに青いメルヘンの世界であった。
国道42号線は、陸繋島(りくけいとう)である潮岬の付け根まで接近していて、そのまま先端の灯台へ向った。
「陸繋島」とは、砂州によって陸と島とが陸続きになった島のことである。 海岸近くに島があると沖からの波が島の裏側で打ち消しあい波の静かな部分ができる。 この部分には沿岸流などで運ばれてきた砂が堆積しやすく、やがて海岸と島を結ぶ砂州が成長し陸続きとなる。 潮岬は昔は浅瀬の島だったのである。
先端島部の岬は台地状で、海岸部は40〜50mの海食断崖を呈している。
南西端に「潮岬灯台」が立ち、周辺には潮岬タワーや、「望楼の芝」とかいう芝生の園地が広がる。
白亜の灯台は表札の有る正門を構え、灯台小屋の奥に屹立していた。
この灯台は明治初期の「江戸条約」によって建設された八基の洋式灯台の一つで、「日本の灯台50選」にも選ばれる歴史的文化財的価値が高いAランク保存灯台だという。条約灯台とは:観音埼・神子元島・樫野埼・剱埼・野島埼・潮岬・伊王島・佐多岬などである。
本州最南端に位置する灯台は参観もでき、灯台に関する資料展示室も併設し常時公開されている。
眼下の磯小島が点々と連なり、視界の大部を占める太平洋の水平線は地球の丸みを感じるのである。 実際は「地球の丸み」ではなく視界の丸みであるが・・!ロマンが無くて失礼・・。
岬の突端に一人ポツンと立つ白亜の灯台は、「おふくろ」の姿に重なると誰かが言っていた。
灯台は何処へも行かず、雨の日も風の日も同じ場所で、着飾りもせず日没と共にピカッ、ピカッと静かに遠くまで光りを投げかけ、ひたすら船の航行の安全を願ってる。
それはまるで朝早くから夜遅くまで甲斐甲斐しく家事をし、夕暮れには灯りを付けて夕食を作り、家族の帰りをじっと待つ母の姿に似ていると・・。
因みに、隣の紀伊大島の樫野埼灯台(かしのざきとうだい)は、東端断崖に建つ灯台で、「日本の灯台の父」と呼ばれるリチャード・ヘンリー・ブラントンが日本で設計し、1870年に点灯した日本最初の石造灯台だと・・。
日本最初の回転式せん光灯台でもあり、その初期の建物が現存している。 そしてこの地は、トルコの軍艦エルトゥールル号遭難地としても知られている。
こちらは白亜の無人灯台で、灯台内部へは入れないが外部階段から灯台上部に登ることができる。 灯台の周囲には、明治初期に灯台技師のイギリス人が植えた水仙が群れ、またトルコ記念館やトルコ軍艦遭難記念碑が徒歩圏内にある。
エルトゥールル号遭難事件とは、1890年(明治23年)9月16日夜半、オスマン帝国(現在のトルコ)の軍艦エルトゥールル号が串本沖・紀伊大島の樫野埼東方海上で遭難した事件である。
この時、地元・樫野埼住民は献身的な救助活動を行い、強いては国家ぐるみで援助支援を行ったことで、日本とトルコの友好関係の起点として記憶されている。
「串本節」 和歌山民謡
♪♪・・アラヨイショ ヨーイショ ヨイショ ヨイショ ヨイショ
♪♪・・「ここは串本 向いは大島 仲をとりもつ 巡航船」 (以下かけ声省略)
♪♪・・「潮の岬に 灯台あれど 恋の闇路は 照らしゃせぬ」
♪♪・・「一つ二つと 橋杭立てて 心とどけよ 串本へ」
・・・・
と歌われている大島であるが、今は串本と大島に「串本大橋」が架かる。 ループ状と半円形の橋の姿は名所の一つにもなっていて、袂に「四海兄弟」という碑が有り、並んで「串本節」の碑がある。
民謡 串本節に歌われたような巡航船の姿は、今は無くなってしまったようである・・。
戻った先の国道42沿いに「橋杭岩」という名所が在る。
『昔、むかし、大島に住む人達は、本土に渡るのに、嵐の日には船が出せず困っていたそうな。「橋があれば、本当に便利だのになあ」と何時も思っていた。 伝承によると昔、南紀を修業しておられた弘法大師は、天の邪鬼(あまのじゃく)と串本から沖合いの大島まで橋をかけることが出来るか否かの賭けを行った。 島民の願いを元に一晩で橋を造ろうと決心した大師は、必死になって海の中に杭を打ち、もう少しで完了と言うところで天の邪鬼が邪魔をして朝が来たのを知らせる。それは鶏の鳴き声を真似て、高らかに響かせたものだった。 さすがの大師も朝が来たと思い橋を造るのを途中で止めてしまったそうな・・』 然るに今の姿になったと言う、「弘法大師と橋杭岩」話である。
小波が荒磯を洗う岩場に降りてみると、その巨大な岩の像が一列に並び、確かに大島に向って衝立しているのであり圧巻、奇観である・・。
今は、弘法大師の願いも叶い立派な橋がつくられたが・・。
天の邪鬼は日本の妖怪の一種、人に悪戯をしかけるひねくれ者の子鬼というのが一般的であるが・・、 一方、仏教では人間の邪心を表している子鬼であり四天王に踏みつけられている像は有名である。
対岸の大島に向かってあたかも橋脚を並べたようにそそり立つ岩列が、これが橋を造る時の杭のようにみえるので「橋杭岩」と呼ばれている。
この岩列は太古の昔、紀伊半島の那智、熊野に至る地域で起こった火山活動の産物で、地層の割れ目に沿ってマグマが上昇し冷え固まった物であるという。
橋杭岩を通して見る昇る朝日は絶景で、「日本の朝日百選」の認定され、国の名勝や国の天然記念物の指定も受けている。
紀伊南部の第一の清流と言われる古座川の「古座大橋」を渡る。
河口海面スレスレで、左は清流の流れ、右は潮岬が望まれ太平洋が無限に広がり、上流部は人家が少ないので自然が豊富、魚も豊富で川からの恵みは十分に受ける。
源流近くの川筋には狼やカワウソもいるとおいわれているが・・?、支流である平井川の上流は国の特別天然記念物のオオサンショウウオが増えすぎているとか・・・それほど綺麗で奥深い川なのである。
司馬遼太郎氏がこの川筋の渓谷美が気に入って別荘を購入したと聞いたことがある。
玉之浦という深く入り江を成した静かな海域を眺めながら「太地」の駅を通り越し、湯川地区を過ぎると今日の目的地である「那智勝浦」は真近である。
案内板に従って進むとホテル専用の大駐車場が在り、専用の送迎バスに送られると波止場に着く、更に専用の送迎船に揺られて、やっとこホテルに到着した。那智勝浦の名所・「ホテル浦島」である。
七階の好展望の部屋に案内され先ずは一息入れた・・。
次回は、 「那智勝浦とホテル浦島」
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from: orimasa2007さん
2008年01月27日 12時25分42秒
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世界遺産と熊野地方(3) 南紀白浜・「千畳敷と三段壁」
三段壁と千畳敷(右)
世界遺産と熊野地方(3) 南紀白浜・「千畳敷と三段壁」
<font size="2" color="#0000FF">次に、白良浜とはうって変わったような真反対の風景が名物「千畳敷」や「三段壁」である。白浜半島・・?の最西端に位置していて、特異な岩盤海岸風景を呈している。
「千畳敷」は、その名のとおり広い岩畳を思わせる大岩盤で、瀬戸崎の先端から太平洋に向けて突きだしている。 スロープ状になった白く柔らかい岩は地球の古代層の砂岩からなる大岩盤で、打ち寄せる荒波に浸食され壮大な景観を造っている。
よくよく見ると、千畳敷は砂岩でできているため容易に削ることができるのである・・、硬貨ででも削ったのだろう、岩肌の面々はどこを見ても落書きだらけで、その内容は珍妙なものも有る。
地元の人は千畳敷をその程度のものとは考えてはいないだろうが、天から与えられた自然の景勝であり、もっと大切にしたいものである・・!!。
岩盤中央に、カメラマン用の専用台であろうか・・?、赤錆びた鉄製の架台が潮風に吹かれて置かれているのが妙に印象的であった。 我々もここで一枚パチリ・・!。
銀砂の白良浜から、波濤が岩盤を洗う千畳敷、そして今度は更に極端な「三段壁」といわれる断崖絶壁の海岸である。
御土産屋の大きな駐車場に車を置かせてもらって松林の間をくぐってゆくと、視界がパッと広がって大洋に面した大断崖の様相が目に飛び込んできた。
展望台に立つと 尚その圧倒的な迫力に息を呑む・・。 高さ50mもの断崖絶壁が約2㎞にわたって大平洋にせり出した奇観が続いている。
はじめは好奇にかられて延々続く絶壁の際を歩き回ったが、覗く度に肝が冷えるところである。 聞けばここは投身自殺の名所だとか・・、絶壁近くには立ち入り禁止の柵もあって、一角に「投身自殺者海難の碑」が有り、何方かによる供物が供えてある。
この断崖の下部、海面に近いところに「三段壁洞窟」なるものだある。
その地までは岩盤をくり抜いたエレベーターで行くことも出来るらしいが、波の荒い時は大平洋の波濤が壁面に叩き付け、大きな飛沫をあげながら吹き込んでくるときもあるとか・・。
この洞窟内は、往時は「熊野水軍」の船着場或いは船隠し場の跡とされた。 又、旧帝国海軍の特殊潜水艇「回天」の基地だったという噂もあるとか・・。
深い洞窟内には、南方熊楠が天皇に献上するための生物標本を採集をしたという地でもあるとか。
ところで昔でいう水軍とは警固衆、海賊衆、船手衆などと呼ばれていて、海上の武力を買われて船舶往来の護衛などに雇われていた集団の意味でもある。
中世期には彼らは熊野社を背景に次第に組織化され、軍事集団である「熊野水軍」の元となった。
平安末期の源平合戦たけなわの頃、熊野の別当・湛増は強大な戦力である熊野水軍を配下に収めていた。 源氏と平家の双方から加勢を頼まれた湛増は、戦況を冷静に見守りながら源氏への加勢を決めたといわれる。
「三段壁洞窟」の船倉から百隻の軍船を引き出し、田辺浦から出陣して壇ノ浦で源氏に加勢、平家軍を壊滅させて熊野水軍の武勇を天下に知らしめた。
一説によるとこの湛増は、武蔵坊弁慶の父であるといわれている。(平成17年、NHK大河ドラマ「義経」から・・)
戦国期は、九鬼 嘉隆(くき よしたか)が志摩国の国衆の一員として大名までに身を起こし、織田信長や豊臣秀吉のお抱え水軍として活躍して3万5千石の禄を得ている。
信長が嘉隆に命じて鉄甲船の製造を指示し、毛利の水軍を打破ったのは有名な話である。
これから先は紀伊半島の南端の海道を暫く走る。海道といっても紀伊山地が海岸まで迫り出し、決して平坦安楽の道ではないが・・。
勿論、太平洋の怒涛が直に押し寄せる地域でもあるが、今日、この陽気ではさすがに穏やかなようである・・。
又、この道は古来は「熊野古道・大辺路」といって、中世以降の熊野詣でへのメインルートであり、海に面した海岸縁を串本を経て那智に至るルートであった。
又、田辺から中辺路を通り本宮を経て熊野川沿いに新宮・那智まで下る山の道を「中辺路ルート」という。
熊野古道・大辺路は、田辺から串本までの枯木灘海岸(潮岬西部、周参見・すさみの海域)や串本から新宮までの熊野灘に面した海岸道であるが、海辺のわりに険しい山々が海岸まで迫り、通行に際しては数多くの難所が待ちかまえていた。
俗に四十八坂とも呼ばれ富田坂、馬転坂、長井坂といった険しい峠道が旅人を苦しめたといわれる。 ただ、あちこちに残る古道の峠道からは太平洋・熊野灘の眺望が今も変わらず旅人の心を癒してくれたともいう・・。
次回は、 串本・潮岬と・・、
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from: orimasa2007さん
2008年01月26日 15時48分55秒
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世界遺産と熊野地方(2) 南紀白浜・「白浜温泉」
右は露天風呂「崎の湯」
世界遺産と熊野地方(2) 南紀白浜・「白浜温泉」
<font size="2" color="#0000FF">南紀、熊野方面は以前より是非行ってみたい希望の地であり、この度やっとその目的が達せられた。
南紀白浜空港は、和歌山県南部の海岸に面した高台にある。 和歌山県の空の玄関口として昭和43年に開港したというが、瀟洒な田舎の空港って感じである。 田舎の空港といっても南紀地方の玄関口でもあり観光・リゾート資の宝庫である。 一大観光地である白浜町の中心部に位置していることから、利用者に占める観光客の割合は高い空港であろう・・。
空港ロビーでレンタカーの受付を終える。
この辺り、すでに白浜の南の入り江に面しているところであり、長閑な風景が眼前に広がる、左手にかの古賀の井ホテルの勇姿・・?が見えている。
霊泉橋という洒落た名前の橋を渡りながら、いよいよ南紀観光へ出発である。
暫く海岸を走り、南方熊楠記念館や京大白浜水族館のある小さな半島を横断すると、西側の外海海岸にでる。
正面に白浜第1番目のスポット「円月島」が飛び込んできた。
南北130m、東西35m、高さ25mの小島で、島の中央に円月形の海蝕洞がぽっかり開いていることから「円月島」と呼ばれている。 ほぼ左右対称形で上部に緑の林がコンモリとしている、まるで、眼鏡をかけた睫毛のようで、俗名、めがね島とも言うらしい。
日の沈む夕景の美しさは格別で、夏は6時30分頃、冬は4時30分頃、島の中央穴の付近に太陽がさしかかるという。
すぐ近くに「白良浜」の弓なりの美景な浜が広がる。
南紀白浜町とはこの浜の様子から命名したのであろう、名前が示すとおりの真っ白な砂浜と青く澄んだ海、その美しさと華やかさは、おもわず沖縄かハワイの南国リゾート地にいるかのような感覚、錯覚させられる。
実際に、ハワイ州ホノルル市のワイキキビーチとは友好姉妹浜『Goodwill Beach City Relationship』提携を結んでいるという。
周辺は「湯崎」といって白浜温泉の中心街として、温泉街、旅館・ホテル、温泉場、露天風呂などが犇めき合っている。
古来、白浜は日本三古泉は白浜・有馬・道後といわれるが、よく間違える日本三名泉は有馬・草津・下呂、これに別府・熱海が混じっていることもよくあるが、まあ我々にすればドチラデモよろしいことで、名湯、古泉には違いない・・・。
白浜・湯の崎は「万葉集」等、古書の文献に「牟婁(むろう)の湯」、「武漏の湯」と呼ばれ登場している。
奈良期、有間皇子は心の病を装って「牟婁の湯」に療養に行き、飛鳥に帰った後斉明天皇に自分の病気が完治した事、そして、その土地の素晴らしさを話して聞かせたところ、今度は斉明天皇が中大兄皇子と共に療養のための「紀の湯」に行幸した。
その時、皇子は謀反を企る為天皇を白浜へ追いやったと冤罪をかけられ、19歳の若さで処刑(658年)されたといわれている。
その発端となったのがこの白浜・湯の崎温泉であり、現在も道ばたの海岸に湯が湧いている「崎の湯」(日本最古の露天風呂)や、そのすぐ近くにその名も「牟婁の湯」がある。
今から1400年前からここに温泉が湧き、歴史の重大事件にも
なった場所である。
泉質は、食塩泉・重曹泉など41〜83℃位で、無色・透明。効能は、一般的適応症のほかに、美肌・神経症・不眠症などに良いとされる。 「湯崎」の辺りは、硫黄のような臭いがして、いかにも温泉場らしく独特の風情があって良い。
因みに、千葉県の房総最南端の白浜は、この地南紀白浜の人々が遠洋漁業などで住み着き、望郷の地として命名したという。
次回は、 白浜・・Ⅱ「千畳敷、三段壁」
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from: orimasa2007さん
2008年01月25日 15時09分42秒
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世界遺産と熊野地方(1) 「世界遺産について」
世界遺産と熊野地方(1) 「世界遺産について」
<font size="3" color="#0000FF">【紀伊山地の霊場と参詣道】として、2004年(平成16年)7月、「世界文化遺産」に登録された・・。
長い歴史を誇る社寺や自然が織りなす文化的景観が文化遺産として登録され、その内容名称は「紀伊山地の三つの霊場(熊野三山、吉野・大峯、高野山)とそれらを結ぶ参詣道」として推薦、指定された。そしてそれらの地域は奈良県、和歌山県、三重県にまたがる29市町村と合わせて日本最大の文化遺産である。
参詣道として「道」が世界遺産として登録されたのは、スペイン⇔フランスにまたがる巡礼道「サンディアゴ・デ・コンポステラへの道」についで二件目であるという。
【紀伊山地の霊場と参詣道】に該当する登録基準、その要旨については・・、
★ある期間を通じて又は、ある文化圏において建築、技術、記念碑的芸術、町並み計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。(文化遺産登録基準2)
★紀伊山地の神社と寺院は、それらに関連する宗教儀礼とともに1000年以上にわたる日本の宗教文化の発展を示すたぐいまれな証拠である。(文化遺産登録基準3)
★人類の歴史上重要な時代を例証する或る形式の建造物、建築物群、技術の集積または景観の顕著な事例であること。(文化遺産登録基準4)
★顕著な普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰、または芸術的、文学的作品と直接に又は明白に関連するものとしている。(文化遺産登録基準6)
因みに、ユネスコについては次のように記されている。
「ユネスコ」とは国際連合の一専門機関で、国際連合教育科学文化機関(こくさいれんごうきょういくかがくぶんかきかん)正式には、United Nations Educational, Scientific and Cultural Organizationという。
頭文字をとって「UNESCO」、通称ユネスコと称している・・。
過去に、熊野神域が危機に瀕したことがあった・・。
明治39年(1905年)に施行された「神社合祀令」(不分明な神社を整理・合併し、合祀するもの、 明治政府・政令による)によって全国で五万もの神社が潰され、熊野でも神社や森が潰されるという危機に瀕した。
この危機に対し、和歌山県出身の博物学者・南方熊楠(みなかたくまぐす)は、「神社をつぶすということは自然と人間社会を破壊するもの」として、日本で初めてエコロジー(生物と生物の関係、生物とそれを取り巻く無機的環境との関係を研究する科学)の考えを提唱し、「神社合祀令」に反対して「熊野の森を守れ・・!!」と、立ち上がり、那智の滝の原生林や樹齢500年をこえる熊野古道の杉木立を守ったという。
南方 熊楠(みなかた くまぐす:和歌山県和歌山市城下出身、)明治・大正期の博物学者、民俗学者。動物の特徴と植物の特徴を併せ持つ「粘菌」(下等菌類の一群で、植物分類上の一門)の研究で良く知られている。
熊楠の「熊」は熊野本宮大社、「楠」はその神木クスノキにちなんで命名したという。(詳細後述)
過ぐる2002年9月、我等夫婦は「南紀地方」を3泊4日の日程で旅行した。
勿論、南紀・熊野地方には由緒ある地域が多数在って、これらを参詣、見学、観光するのが目的であった。直後に、これらの地域が「世界遺産」に指定される事など露知らず・・。
そして、本年(2005年)偶々(たまたま)「日本外周一周」の旅に出て、この地方を再確認する機会に恵まれた。
これらと合わせて、当時の「旅の様子」を記したい・・。
巡った主な地域、名称は次の通り・・。
★南紀白浜(円月島 千畳敷 三段壁) 串本海中公園 潮岬(灯台) 大島 橋杭岩 那智勝浦温泉 ホテル浦島
★熊野古道「大門坂」 青岸渡寺 那智大社 那智の滝 補陀洛山寺 熊野速玉大社 紀の松島(観光船) 太地 ホテル浦島
★瀞峡めぐり(瀞峡和船) 本宮大社 熊野古道「中辺路」 湯峰温泉(旅館 よしのや)
★滝尻王子(古道舘) 清姫塚 御坊道成寺 紀三井寺 和歌山城 関西空港
次回は、 本題に入って・・、「南紀白浜」
小生、若年よりの『旅』の記録です。
宜しかったらどうぞ・・。
http://www.geocities.jp/orimasa2001/ -
from: orimasa2007さん
2008年01月25日 15時04分54秒
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from: orimasa2007さん
2008年01月23日 11時01分30秒
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湘南地方の歴史と観光(6) 小田原・「小田原城」
湘南地方の歴史と観光(6) 小田原・「小田原城」
小田原市は、酒匂川の流れる肥沃な足柄平野を擁し、西部は箱根の連山に連なる日本でも有数の観光の拠点、南は相模湾に面した漁業の地であり、丘陵地帯は曽我地区の梅の大産地でもある・・。
又、小田原は「小田原城」に象徴する、歴史の町であり・・、一時代は関東地方を支配した要衝でもあった・・。
中世の頃、「小田原城」は元々は相模国の豪族・土肥氏一族の居館であった。 土肥氏の棟梁は実平(さねひら)で近隣の湯河原に本館を構えている・・。
平安末期の治承4年(1180)石橋山合戦で頼朝の危機を救ったのが土肥氏一族である。
伊豆で平氏打倒の旗を挙げた源頼朝は関東へ進出し、石橋山(小田原市石橋)に陣を張った。 この時土肥実平は郎党と共に参戦している。
頼朝蜂起の報に接した大庭景親は武蔵・相模の平家方の武士に出陣を呼びかけ、両軍は石橋山の谷を隔てて対陣した。
平家方は三千余騎、頼朝方はわずか三百騎、数の上でも圧倒的に勝る平家方に惨敗した頼朝は地元地域に詳しい土肥実平の案内で大洞(しとどのいわや)に一時、身を潜めた。
敵将・梶原景時に発見されたが、彼の温情的配慮により一命を得た頼朝は、その後真鶴岬より安房に脱出した。
開戦時、三浦の庄を支配する三浦一党が馳せ参じるが、酒匂川の増水で参戦出きず、頼朝敗戦に繋がったといわれる・・。 その後頼朝は千葉・安房で陣を立て直し、再び反平家の旗を挙げる・・、そして鎌倉開府へと導く・・。
土肥次郎実平の嫡男遠平が、この時父に劣らぬ功績を上げ、戦後、早川荘の総領所になって小早川村(小田原市)に築城したのであった。
室町時代には、この地方に大森氏が登場する。
大森氏は鎌倉後期の戦乱時、箱根関所などを実質的に采配し、更に地域経済を掌握する支配者としての立場を鮮明にしながら小田原に根拠を持ち、小田原城の築城を開始し、当初の小田原城の輪郭が出来上がったといわれる・・。
1495年、伊豆を支配していた北条早雲(後北条の始祖)の奇襲によって大森氏から小田原城を奪う。
以来、北条氏政、北条氏直父子の時代まで戦国大名・後北条氏(鎌倉期の北条家とは異なり、関連性はなさそう・・、まぎらわしいので、あえて戦国期の小田原・北条を後北条と称している・・。)の5代95年にわたる居城として南関東の政治的中心地となった。
この時代つまり戦国期、小田原城の攻防は2度起きている。
永禄4年(1561)に上杉謙信の攻撃を、更に同12年(1569)には武田信玄の攻撃を受けるが、いずれもこれを防いでいる。 小田原城が難攻不落の名城の名をほしいままにした事件であった。
この内、小生の住む厚木市郊外から愛甲郡愛川町にかけて戦乱が生じた武田信玄との攻防について述べてみる。
当時、関東の小田原周辺では武田、北条、今川の各氏が覇権を争っていた・・。 そして「武田信玄」は小田原本城を攻略すべく作戦をたてていた・・。
永禄12年(1569)9月、碓氷峠を越えて上野国(こうずけ・群馬県、この時期この地域は武田方の勢力圏であった))に入り、武蔵国の支城・鉢形城(埼玉県寄居町)の北条氏邦、さらに滝山城(八王子市)の北条氏照を攻め、10月には2万の軍勢をもって相模国の小田原に到り、北条氏の本城である「小田原城」を包囲した。
武田軍は北条軍を城から誘き出して野戦に持ち込みたかったが、小田原城では城の堅固さを活かし、徹底した籠城作戦をとった。
これにより武田勢は攻めあぐねて数日を費やし、遂には力攻めを諦めて撤退することにしたのである。
武田勢によって領内を荒らされた北条氏照・氏邦の兄弟は撤兵する武田勢が、退路として三増峠(小生住地の隣町・愛甲郡愛川町)を通ることを知って追撃奇襲戦(さきまわり)の計画を立てた。
武田勢が三増峠にかかったところで、峠道周辺に布陣して待ち伏せしていた北条勢が武田勢に対して一斉攻撃を始めた。 一時劣勢だった武田軍は陣形を立て直し、両翼から北条勢に襲いかかった。
野戦に長けた武田軍によって北条勢は大崩れし、氏康・氏政父子の援軍を待たずして敗走を余儀なくされた。
その犠牲者は3200余人という。武田勢にも900人ほどの犠牲者が出た。
この戦を「三増峠の合戦」と呼んでいる。
当時の小田原城は、八幡山から海側に至るまで小田原の町全体を総延長9kmの土塁と空堀で取り囲んだ惣構えを持ち(總構・これは後の豊臣氏大阪城の惣構えよりも広大であるという)、それまで類を見ない大規模な城郭へと拡張され、戦国時代屈指の堅城ぶりを誇っていた。
さすがの武田信玄もこの堅城を誇る小田原城を落とすことは出来なかった・・。
尤も信玄は、この上野の国からの武蔵、相模の国への侵入は威力偵察が主たる目的だったともいわれ、三増峠の合戦でお互い損失はあったとはいえ勝敗は双方痛み分けが妥当ともいわれる。
時代はやや下って戦国末期、織田信長に代わって豊臣秀吉が天下を掌握しようとしてた最終時期、遂に北条方と豊臣方は対立する・・。
大阪城の秀吉は小田原北条の当主氏政に豊臣政権下に納まるよう説得し、大阪城に登城して配下の礼を尽くすよう数度にわたって要求したが氏政は聞き入れなかった・・。
秀吉は、その「意」無しと見ていよいよ戦線を開く・・。
天正18年(1590)豊臣軍は水軍1万余を含めた、総勢22万人を超えるという空前絶後の大軍に加えて米20万石を確保し、更に黄金1万枚を用意し、兵糧面においても万全な態勢で臨んだ。
それに対する北条軍は5万6千ほどの兵力でしかなかった。 軍勢的には全く相手にならないほどの違いである。
秀吉軍は東海道を下り箱根湯元に到着、いよいよ小田原城の包囲にかかるのである。
その小田原城であるが・・、先の上杉、武田氏の攻防でも落とすことが出来なかった極めて堅牢なこの大外郭の効果はやはり絶大で、さすがの秀吉軍も包囲はしたものの容易に城を落とすことができなかった。
そこで秀吉は得意の長期戦、即ち兵糧攻めをすることにした。
小田原城の背後に、あの一夜城と言われる「石垣山城」の築城にかかり、自らは愛妾の淀殿を呼び寄せ、諸大名にも妻を呼ばせるなどして長期戦に臨み、小田原城中の兵糧の減少、戦意の喪失を待ったのである。
更にその一方で秀吉はそつなく、各地に散らばる北条氏方の50にも及ぶ支城を各個撃破にかかった。
機は熟したと見た秀吉は参謀・黒田官兵衛孝高らを使者として送り降伏を勧告させ、その一方では総攻撃を命じるなど、硬軟とりまぜた戦術で北条氏を揺さぶったのである。
城内では徹底抗戦か、降伏かを評議したが中々結論が出ない、(このことが一般に「小田原評定」という語源になった)しかし、周辺情勢が次第に悪化する中、遂に降伏に至ったのである・・。
秀吉は氏政と氏照の2人を主戦派と見なし切腹を命じ、これにより初代の北条早雲以来およそ百年にわたって関東に覇を唱えた戦国大名・小田原北条氏は滅亡したのである。
戦後、後北条氏の領土は徳川家康に与えられ、江戸城を居城として選んだ家康は側近・大久保忠世を小田原城代に置いた。
以後、一時期の中断を除いて明治時代まで大久保氏の小田原藩が小田原城を居城とした。
現在の小田原城址の主郭部分は、大久保氏時代に造営されたものである。
小田原城址は小田原城址公園として公園化され、復興天守が戦後に建築されている。
城内は主に北条家の博物館になっていて、天守閣の頂上からは太平洋や笠懸山の石垣山城祉がよく見える。
<font size="2" color="#FF0000">「湘南地方の歴史と観光」はこれで終了しますが、尚この後、近年「世界遺産」に認定された「紀州・熊野地方」を巡ります・・、御期待ください。
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from: orimasa2007さん
2008年01月22日 11時34分14秒
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湘南地方の歴史と観光(5) 二宮・「二の宮神社」
二宮「川勾神社」
湘南地方の歴史と観光(5) 二宮・「二の宮神社」
<font size="2" color="#0000FF">全国に一の宮、二の宮など宮の付く地域名が多い。
この相模の国(神奈川県)にも一の宮、三の宮、四之宮とある。
神社は、昔から概ね一郷一村に在して郷民の心の拠り所であり、日本民族の魂の「ふるさと」であるとも云われる。
又、克っての主な神社は政事(政治)の中心的存在でもあった・・。
平安期、その国(地域)の神社の格式や祭政に基ずいて朝廷(天皇が政治を行っていた場所)がその神社の挌位(序列)を決めた。
これは(927年)延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)というのが作成されたことによるもので全国の神社の名称や格式が記載され、公式に神として格付けされた神社であることを示し、その選定には政治的色彩が強く反映されていたという。
これらを「式内社」といい、その格式に応じて、その地域の一の宮、二の宮、三の宮・・と称していた・・。
しかし、朝廷の勢力範囲外および独自の勢力を持っていた神社(熊野那智大社など)は選定から除外されており、これらは故意に選定から外されたという意味で「式外社」ともいう。
国司(中央・朝廷から地方・諸国へ派遣された地方長官)が赴任したときは、一の宮、二の宮、三の宮と巡拝しなければならなかったといわれる・・。
因みに相州では一の宮は「寒川神社」(寒川町宮山)、三の宮は「比々多神社」(伊勢原市三ノ宮)、四の宮は「前鳥神社」(平塚市四之宮)であって、二宮の如く地域住所名に「宮」と付くのは注目される・・そして相州内で延喜式神名帳に記載されているのは、これらを含めて13社あるという。
その中郡二宮町は、その町名がこの地方の氏神である二の宮である「川勾(かわわ)神社」から由来していることは言を待たない・・。
4世紀中頃、この地域は『師長(しなが)国』のと呼ばれ、川勾神社が師長国の一宮であったという。
大化の改新(645年)により、師長国は相武(さがみ)国と合併して相模国となり、従ってそれまで師長国の一の宮であった川勾神社は、相模国の二の宮になり一の宮の地位を「寒川神社」に譲ったといわれている。
以来、相模国の二の宮である川勾神社の存在するこの地域を「二宮」と称するようになった・・。
毎年5月5日に大磯町の六所神社で行なわれる国府祭には二の宮として参加し、一の宮・寒川神社と上席を争う「座問答」を行なうことで知られ、この神事は平安末頃の地方武士団と在庁官人の勢力争いに起源を置くといわれるが、更に以前の飛鳥時代の「大化の改新」における「宮譲り」にも起源がありそうである。
いずれにしても一の宮、二の宮の歴史の古さを示すものといえよう。
川勾神社は町の仲ほどの西端に位置し、入口に「延喜式内社相模国川勾神社」と大きな看板があり、奥まった階段上の高台に立派な社殿がある・・。
この神社の祭礼の一つに夏越大祓式があり、その神事に「茅の輪くぐり」というのがある。6月に夏を越す為に行われるお祓で、竹を軸にし茅(チガヤ)を巻いた大きな輪を作り、人々がこれをくぐり越す(左、右、左)。この輪を越すことがお祓であり、罪、穢(けがれ)を祓い清め、招福・除災になるという。
次回は、 「小田原」で今編の終わりとします。