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  • from: orimasa2007さん

    2007年12月03日 10時49分08秒

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    古都鎌倉(12) 「瑞泉寺」

     巡った寺社、史跡の順番・・。
    鎌倉駅⇒鶴岡八幡宮⇒若宮大路・段葛⇒白旗神社⇒源頼朝の墓⇒大江・毛利・島津の墓⇒三浦一族の墓⇒東勝寺跡・高時やぐら⇒安養院⇒鎌倉宮・護良親王の墓⇒瑞泉寺⇒杉本寺⇒建長寺⇒円覚寺⇒明月院⇒東慶寺⇒常楽時⇒高徳院・鎌倉大仏⇒長谷寺⇒光明寺⇒稲村ヶ崎⇒満腹寺⇒龍口寺⇒常立寺⇒江ノ島


    古都鎌倉(12) 「瑞泉寺」


    鎌倉駅徒歩から徒歩で30分、または京急バス鎌倉駅から大塔宮方面へ・・、二階堂地区の最奥部山裾に「瑞泉寺」は静寂な佇まいの中に在った。

    本堂裏手は、岩山になっていて、くり貫いた岩屋の前は、草木に囲まれた小池が寂として佇んでいる・・。
    某人が岩屋で座禅想に耽って居る時、池面に、満ちた月が映っている、しかし、その月は、いつしか移りゆき、消えうせていた・・。
    「世は動である・・、しかし、動の中に静を求める・・。今は静である、しかし、静の中にも動がある」 微かに落ちる水の音と小鳥の啼く音、静寂の風景の中にこんな想像をしてみたが・・。


    室町時代にかけて臨済宗の黄金時代を築いた「夢窓国師」は、足利尊氏・直義兄弟の篤き帰依を受け南北朝時代の動乱の渦中にありながら良く出家者としての中庸の立場を保ちつつ、南北両朝の天子たちの精神的指導をなしたともいう。 
    師は、後醍醐天皇を初めとし多くの天皇より国師号を賜り、「七朝国師」といわれるほど尊崇されていた。さらに吉野朝廷と京都側との講和を図ったり、尊氏兄弟の和を図ったりしたために権勢に近づくことを好み政治的手腕にも長けていたが、決して介入はせず、寧ろ権勢に近づくことを拒否した高潔な禅僧であったという。

    国師は各地に禅寺を創生、中興し、併せて禅流の思想にもとずく庭園を創作したことは、よく知られている・・。 
    瑞泉寺の中興と、この回遊式庭園は鎌倉期の国師による創作で、この瑞泉寺の庭園が各地の国師庭園の大基になっているともいわれる・・。

    庭園の裏山の山上に「偏界一覧亭」(へんかいいちらんてい)が在る・・。
    鎌倉五山の僧を招いて、よく詩歌を詠み、勉学に勤しんだという・・。、これが「五山文学」発祥といわれた。 
    五山文学は夢窓国師を中心とした禅僧によって生みだされた漢文学で、臨済宗の奥義を吟味しながら、詩文を中心に禅義、法語、日記、随筆、紀行文などと多彩で,一山・疎石(夢窓国師)の門下によって五山文学は,一層に栄えていったと・・。


    現在立ち入ることはできないが庭園から天園ハイキングコースがあり、天園のお堂を見ることができる。
    「瑞泉寺」は室町期の鎌倉公方(京・室町の征夷大将軍が関東十ヶ国における出先機関として設置した鎌倉府の長、関東公方ともいう)の代々の菩提寺である。
    本堂前の大庭園は百科の花が咲き誇り、特に梅は有名である・・。


    門前に「吉田松陰」の碑が在った。
    吉田松陰が江戸遊学時、時折ここ瑞泉寺を訪れている。 この寺の住職・名禅僧「竹院」は、松蔭の伯父に当たるのである。

    松蔭は、江戸期の官学である朱子学を中心とした教育をうけていた・・、ために仏教に対する警戒心が無いわけではない。
    朱子学者は異教である仏教、特に禅宗を敵視する傾向が強い学問であるという。
    朱子学では、禅宗でいう「悟り」とは実体が無く、道にも外れた空理であると断じ結論付け、排撃といってよいほどの姿勢に転じているのである。 
    しかし松蔭は、学問的偏見や肩書きには捉われず、人を見る洞察力、判断力があった人物である。
    松蔭が初めて江戸に来た時に早速訪れて、この禅僧とじっくりと話し合い、詩文から禅宗の高等理論まで様々談論している。
    そして・・、
    「死して後、已む」という格言を会得する。
    松蔭の実践思考と禅宗の考え方が一致したのである。

    「已む」(やむ)とは・・、長く続いている現象や状態が自然にとまり消え失せる意で、自然現象などが時が来て消え失せる、お仕舞になる、続いていたものに決まりがつく、落着する、後が続かなくなる、物事が中止になる、病気・気持などが治まる、癒えるといった意味合いをもつ。

    松蔭は、嘉永6(1853年)年6月、ペリー率いる米艦隊4隻がやってきた直後、その様子をつぶさに観察し、その後、瑞泉寺を訪れている。 
    竹院が見るところ、この日の甥御はどこか様子がおかしかったという。
    松蔭が切り出した話に竹院は驚愕した・・、話は、長崎に停泊しているロシア船に乗込み、海外に留学すると言うのである・・。
    しかし、竹院はこれを「貴」とした、そして、路銀の足しにとして金三両を渡しているのである。 そして、10月には長崎へ発ち、末には入っている。 
    だが、あろうことか、長崎のプチャーチン艦隊は既に出航した後だった・・。

    それからの安政元年(1854年)1月、米国のペリー艦隊が前回の倍近い7隻を率いて再び浦賀に現れている。そして、あの吉田松陰の密航事件が発生するのである。
    ペリー船が再航した際、門弟と二人(金子重輔)でポーハタン号へ赴き、密航を訴えるが拒否されている。
    その後、幕府に自首をし、長州藩へ檻送され野山獄に幽囚されるのである。

    尚、「吉田松陰」については「西日本一周記」の内、地元・山口「萩」の項で詳細を述べる予定である・・。

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