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from: orimasa2007さん
2007年12月07日 13時10分19秒
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古都鎌倉(16) 「明月院」
巡った寺社、史跡の順番・・。
鎌倉駅⇒鶴岡八幡宮⇒若宮大路・段葛⇒白旗神社⇒源頼朝の墓⇒大江・毛利・島津の墓⇒三浦一族の墓⇒東勝寺跡・高時やぐら⇒安養院⇒鎌倉宮・護良親王の墓⇒瑞泉寺⇒杉本寺⇒建長寺⇒円覚寺⇒明月院⇒東慶寺⇒常楽時⇒高徳院・鎌倉大仏⇒長谷寺⇒光明寺⇒稲村ヶ崎⇒満腹寺⇒龍口寺⇒常立寺⇒江ノ島
古都鎌倉(16) 「明月院」
この寺院は鎌倉でも1,2ををあらそう程人気がある・・、「あじさい寺」「花の寺」として有名である・・。
本堂の名前は、その名も「紫陽殿 (しようでん)」(あじさい殿)と称している・・。
明月院を含むこの辺りおの地域一帯を「山ノ内」という地名になっていて、往時の関東管領「山ノ内上杉家」の所領であった所である・・。
「明月院」の開祖は12世紀の中期頃で、当初は明月院とは云わず、1380年頃までは「禅興寺」と称していたらしい。
明月院は、はじめ禅興寺の塔頭の一堂とされていたが、その後、上杉憲方の子孫によって大規模に発展し、塔頭というよりも一つの寺院として風格を備えてきた。
上杉憲方の法名を明月院と号した・・、上杉家はご存知「上杉謙信」の祖である・・。
因みに、禅興寺は明治初年に廃寺となっている。
名門「上杉家」を辿ってみよう・・、
上杉の発祥は丹波の国・上杉庄(京都府綾部市)を領して上杉を名字とし、公家(朝廷に仕える貴族・文官)の家柄であった。
室町初期、鎌倉公方・足利基氏の執事(管領)に任ぜられて、初代の関東管領になって以来、鎌倉に居住した。
一族は主に山内(やまのうち)と扇谷(おうぎがやつ・こちらも鎌倉の地名))二家が出たが、関東管領の職はもっぱら山内上杉家の当主が独占した。
戦国期に至ると、扇谷・山内両上杉家は新興の後北条氏(北条早雲が祖・戦国小田原の雄)に圧迫されるようになり、武蔵国に勢力をもっていた扇谷上杉家は後北条氏に敗れ滅亡した。
上野(こうずけ・群馬)の国の山内上杉憲政もついに関東を放棄して、越後守護代で勢力を張る長尾氏を頼り、関東管領の職を長尾景虎(上杉謙信)に譲ったのである。(小田原北条関東制覇)長尾氏は上杉と名乗り、景虎は初代越後上杉藩主となる。
二代目「上杉景勝」は豊臣秀吉に仕え、五大老の一人となった。
北陸、出羽を平定し、領内に多くの金山を抱えて、その実収入は200万石と言われる大大名となった。
その後、1600年の関ヶ原の役に際して徳川家康に敵対し、米沢藩30万石に減封されているが・・。
江戸期にはいって、家督相続の件もあり、吉良義央の子綱憲が養子に入って半知15万石で家名存続することを許された。義央は(きら よしひさ)は通称は上野介(こうずけのすけ)、一般には「殿中、松の廊下の切られ役」(忠臣蔵)の敵役として知られる。
江戸後期には上杉鷹山(ようざん・治憲)が藩の殖産興業を行って財政を立て直したことは有名である・・。
未だ紫色の花を着けている「紫陽花」が、磨り減った鎌倉石の参道階段に迫り出していて、さすがに何とも美風流である・・。
「鎌倉石」は、三浦丘陵の鷹取山地層から切り出された黄褐〜褐〜青灰色の比較的柔らかい石材石質で、鎌倉時代から利用され昭和初期まで採掘されたといわれる。
紫陽花は雨模様に似合う花で、熱き日差しの今日はチト気の毒であるが・・、一般には青から赤紫へ変化するところから「七変化」ともいわれる。ここにあるアジサイは、日本古来からの「姫あじさい」という品種で、花は淡い青から日ごとに濃い青に変わっていくという。
山門をくぐると、そこは本堂になっていて、正面には「枯山水」の庭園が広がっていた・・。「枯山水庭園」は、中国古来の山水画の影響による造園手法で、水や流水を用いず、石組を主とし山水を表す庭園である。水面(湖水、海面)を表すのに砂や微細石による表現「砂紋」は大きな特徴のひとつ・・。
本堂横は、鎌倉でも最大級の「やぐら」があって、時の権力者・北条時頼の坐像が祀ってある・・。
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