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from: orimasa2007さん
2007年12月10日 10時16分04秒
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古都鎌倉(19) 「高徳院大仏」
巡った寺社、史跡の順番・・。
鎌倉駅⇒鶴岡八幡宮⇒若宮大路・段葛⇒白旗神社⇒源頼朝の墓⇒大江・毛利・島津の墓⇒三浦一族の墓⇒東勝寺跡・高時やぐら⇒安養院⇒鎌倉宮・護良親王の墓⇒瑞泉寺⇒杉本寺⇒建長寺⇒円覚寺⇒明月院>⇒東慶寺⇒常楽寺⇒高徳院・鎌倉大仏⇒長谷寺⇒光明寺⇒稲村ヶ崎⇒満腹寺⇒龍口寺⇒常立寺⇒江ノ島
<b>古都鎌倉(19) 「高徳院大仏」
この項から再び方位が変わります。
鎌倉駅より凡そ2km西の方向・長谷地区に高徳院大仏殿が在ります。
先ず、主題よりチョット反れますが・・、
『小粒でも 是見てくれの 大伽藍』・・と江戸川柳に歌われている・、小粒とは実は「浅草観音」のことであります・・、
江戸浅草の浅草寺の御本尊・聖観音は一寸八分と小さいが、江戸市中の多くの寺院の中でも最古の寺で、参詣の人はひきも切らず、伽藍は坂東第一の大きさを誇った。
浅草寺の小さな、小さな「観音様」と大規模な伽藍の対比が面白い・・。
小生、中学校(福島県いわき市)の修学旅行で、鎌倉の大仏を見学してた折、ガイドさんか誰かが・・謎々クイズをだして・・、
「鎌倉の大仏さんと、浅草の観音様が、東海道を同じ歩調で、向かい合うように一歩一歩、歩いた場合どの辺りで出会うでしょうか・・・??ただし浅草の観音様はここの大仏さんより、かなり小さめです・・」我々は日本橋、新橋、品川などと適当に答えを出したが・・、答えは「雷門・・で―す・・」・・。
因みに、浅草寺本堂と間に仲見世通り参道を挟んで、雷門までのおおまかな距離は400m位と思われる・・。事の真実はともかくとして、鎌倉大仏と浅草観音を対比したエピソードが面白くて、今でも記憶に残っている・・。
そして、本題であります・・。
鎌倉の大仏、高徳院・阿弥陀如来坐像・・、凡そ700年前の鎌倉期に建造された青銅の大仏である。
奈良の大仏が戦火のため破損がはなはだしく、中世・近世の補修にて現在の姿になったのとは対照的に、当時の姿をしっかりと残しているという。
「東鑑」(鎌倉時代の歴史書)には巨大な坐像の一部を書いてあるだけで、全体像は記してなく・・、元より建造の目的や年代等の詳細は不明だという・・。
当時の執権・北条一門が財力に合わせ、西方(京)への権力の誇示のために、新しい都市・鎌倉の入り口に当る当地へ建立したと言われるが、・・定かでない。
又、当時は疫病、難病が流行り、行き倒れや死人が続出したという、死体は由比ガ浜に捨てられ埋葬された。これらを弔い、来世に導くために「円応寺」(最初、鶴岡八幡宮の正面の海辺にあったが、元禄の地震・津波で堂が破損したため、現在の北鎌倉へ移ったとされる)が建立され、同時に死者を裁く「閻魔大王」(円応寺のは時の運慶作で、笑い閻魔とも言われる・・閻魔帳の起こり)が主仏として鎮座した。
裁かれた死者で生前、悪行の有った者は餓鬼、畜生の地獄へ送られ・・、善行の有った者は、「長谷観音」の下へ、更に、西方の大仏(阿弥陀如来)のおわす極楽浄土へ参らせたといわれる・・。
謂わば、民衆の平穏を祈っての創建であることも確かであろう・・。
鎌倉唯一の国宝仏で、奈良の大仏が天皇勅願によって創建されたのに対し、鎌倉大仏は民衆の浄財で造られた庶民のための大仏さまである。
初めは木造の大仏で、奈良の大仏と同様に大仏殿(御堂)があったが、天変によって倒壊し、次に青銅の大仏が屋外に鋳造されたとある・・。
大仏は120トンもの青銅で出来ている。 これだけ大規模で、しかも精巧に仕上げるには、大変な技術を要したに違いない。
国内でも大変高度な技術、屈指の技を持った職人たちが集められ、造られたものであろう・・、寺の誌史によると上総の国の鋳物師・大野五郎右衛門が尽力したと記録されている。
小生、この大仏さんは幾度か拝観したことがあったが・・、天井もなく、風に吹かれ、雨に晒されての「露座の大仏さま」は今でも変わらず、禅想に耽り、鎮座している。
鎌倉時代といえば文化面でも大きく飛躍した時代であった、武士や庶民の新しい文化が台頭し、以前の貴族文化と併せて、文化の二元性がでてきたところにあるという・・。
特に鎌倉仏教界にあっては、今まで貴族中心の宗教であったのが、新幕府が中国渡来の禅宗を篤く信仰するようになり、新しい鎌倉文化を花開かせた。これらが浄土や日蓮宗と合わせて広く一般庶民まで普及したのである。
また工芸などの職人的技能士なども多いに広まったという・・。そんな中、世情は大飢饉(1230年前後)など、飢えや苦しみの惨状があったともいう。
鎌倉大仏はこんな時代背景もあり、時の権力者の援護をも得て、大衆庶民の要求に答えたものといえそうだ・・。
大仏様は今でこそ緑青(銅のロクショウ、錆びを護る錆)の姿をしているが、完成当初は全身金箔を施した華麗な姿であったという、現在も一部にその跡が見られる。
また、胎内拝観(数十円の布施)も可能である。
急な階段を登った、いわゆる中腹に見学用の台座がある、外観の大身美に比べ、窮屈に感じられるが、背中からの明り取り(光明)が何となくユーモラスである、「後光が胎内に射す」といったところか・・・。
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