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from: orimasa2007さん
2007年12月12日 11時33分53秒
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古都鎌倉(21) 「光明寺」
(市内でも屈指の大寺院で、山門は関東一の偉容を誇る)
巡った寺社、史跡の順番・・。
鎌倉駅⇒鶴岡八幡宮⇒若宮大路・段葛⇒白旗神社⇒源頼朝の墓⇒大江・毛利・島津の墓⇒三浦一族の墓⇒東勝寺跡・高時やぐら⇒安養院⇒鎌倉宮・護良親王の墓⇒瑞泉寺⇒杉本寺⇒建長寺⇒円覚寺⇒明月院>⇒東慶寺⇒常楽寺⇒高徳院・鎌倉大仏⇒長谷寺⇒光明寺⇒稲村ヶ崎⇒満腹寺⇒龍口寺⇒常立寺⇒江ノ島・「江ノ島弁天」
古都鎌倉(21) 「光明寺」
<font size="2" color="#0000FF">次に、長谷寺より海岸伝いの2kmほど南下した材木海岸に沿って「光明寺」がある。
総門より、巨大な山門をくぐると本殿があり、ここでは大殿と称しているが・・、その横奥に「内藤家」の廟所がある。
磐城・平藩の初代から日向・延岡藩の幕末まで、代々の墓所が一同に祭られている・・。
このように江戸初期から末期まで代々の大名の墓が全部一箇所に揃っているのは大変珍しいという。
墓石が順よく並ぶ姿は美的でもあり、壮観である、鎌倉市の史跡に指定されている・・。
小生の実家・田舎は福島県「いわき市」で、江戸期においてはこの地方を磐城平藩と称して、鳥居、内藤、井上、安藤の四大名が統治していた。
中でも内藤家は永く、江戸初期の1622年から1747年まで125年間、六代のながきに亘って治めていた。
内藤家は徳川家譜代として戦国期より活躍し、大阪の陣では江戸城の留守居役を任されるなど、江戸幕府を開くにあたり功績は大きい・・。
江戸中期、六代目内藤 政樹の代の磐城平藩では、天変による洪水や凶作、また悪政などにより藩財政の破綻がつずき、そのため重税で苦しめられた領民の不満が鬱積していた・・。そして遂に元文3年(1738年)に「元文百姓一揆」と呼ばれる大規模な百姓一揆が発生する。
四方から平城下に押しよせた一揆勢は凡そ二万人、富豪や商家を打ち壊し乱入、 役所、獄舎をも襲った・・。
4日間、武士団に抗し訴え続け、ついに減免に成功したという・・、 がこの騒動で領主・内藤政樹は、日向(宮崎県) 延岡城7万石へ移封となり、磐城平を去ることになる・・。去るに及んで次の歌を残したという。
『 日に向ふ 国に命を 延べおかば またみちのくの 人に逢うべし 』
九州、日向延岡・内藤藩は、磐城平藩と同様の年月(124年)に亘り藩政を治める・・。
江戸幕末、薩摩藩を筆頭に倒幕派の南九州諸藩の中にあって、徳川譜代藩であるがゆえに佐幕の立場を採らざるをえず、苦況に立たされるが・・・。
内藤家・江戸上屋敷は、江戸城外郭門の「虎の門」に続く外堀辺りにある・・。
磐城・平藩より財政難の連続で、内藤貧乏の守と・・、そのあまりの質素な暮らしぶりを揶揄されたほどの内藤本家である。
しかし、七万石の小藩ながら、その後もなお私財をつぎ込み城下町の再興に尽くすなど、民衆に支持された名家である。
そんな生活ぶりの中、内藤家は代々「浄土宗」を崇拝信仰する。 菩提寺は、鎌倉材木座の天照山蓮華院「光明寺」である。
「光明寺」は浄土宗の七大本山の一つで、江戸時代には徳川家康によって関東十八檀林(だんりん・仏教の学問所、平安時代の檀林寺に始まるが、学問所を檀林と呼ぶようになったのは室町末期で、近世は各宗で設けていた)の一つに数えられ、その筆頭に位置づけられた名刹である。
創建は、鎌倉時代の寛元元年(1243)で、鎌倉幕府・第四代執権・北条経時による・・。
延岡城の内藤家は、日向灘の海に面した高台にあるとか・・。
江戸住まいの日々、彼岸や盆の参詣のひと時には、内藤家の人々は鎌倉・材木座の海に重ねて、日向灘を思いだしていたに違いない・・・。
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