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from: orimasa2007さん
2007年12月14日 11時11分44秒
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古都鎌倉(23) 「満腹寺:義経の腰越状」・・Ⅰ
巡った寺社、史跡の順番・・。
鎌倉駅⇒鶴岡八幡宮⇒若宮大路・段葛⇒白旗神社⇒源頼朝の墓⇒大江・毛利・島津の墓⇒三浦一族の墓⇒東勝寺跡・高時やぐら⇒安養院⇒鎌倉宮・護良親王の墓⇒瑞泉寺⇒杉本寺⇒建長寺⇒円覚寺⇒明月院>⇒東慶寺⇒常楽寺⇒高徳院・鎌倉大仏⇒長谷寺⇒光明寺⇒稲村ヶ崎⇒満腹寺⇒龍口寺⇒常立寺⇒江ノ島・「江ノ島弁天」
古都鎌倉(23) 「満腹寺:義経の腰越状」・・Ⅰ
「満腹寺」は江ノ電・腰越駅の至近にあり、「源義経」に縁のある寺院である。
『・・源義経おそれながらもうしあげます。気持ちは鎌倉殿のお代官の一人に撰ばれ、天皇の命令のお使いとなって、父の恥をすすぎました。そこできっとごほうびをいただけると思っていたのに、はからずも、あらぬ告げ口によって大きな手柄もほめてはいただけなくなりました。私、義経は、手柄こそたてましたが、ほかに何も悪いことを少しもしてはいませんのに、お叱りをうけ、残念で涙に血がにじむほど、口惜しさに泣いています。あらぬ告げ口に対し、私の言い分すらお聞き下さらないで、鎌倉にも入れず、従って日頃の私の気持ちもお伝えできず数日をこの腰越で無駄に過ごしております。あれ以来、ながく頼朝公のいつくしみ深いお顔にお会いできず、兄弟としての意味もないのと、同じようです。なぜかような不幸せな巡り会いとなったのでしょう・・・・・・・』
有名な義経が兄頼朝への嘆涙の「腰越状」の一端である・・、。
海岸沿いのR134から小動岬の手前を江ノ電に沿って右折すると、すぐに「腰越」駅がある。右手に 「義経腰越状旧跡 満福寺」 の石碑が目に付く、お寺の目の前を江ノ電が走っていて、踏切を渡るとすぐにお寺への階段になっている。
NHK大河ドラマ:「源義経」の影響か、赤青の旗のぼりが立っている・・、源平の義経であるから「白」又は、「赤白」でいいものを・・、と思うのは余計だが・・。
今は訪れる人もなく静寂の中に本堂はあった。これまで大伽藍を目にしてきたためか、思っていたより小さなお寺であった。
お寺の地域は、江ノ島の近くで藤沢市に近いが、鎌倉市腰越である。 ただ、往時としては鎌倉府からは遠い距離にあって、他国、又は隣国のような地であったのだろう・・。
その昔、今から約800年も前の世、ここに「義経」がいたのだ・・、と云うより留め置かれていた・・、と言ったほうがよかろう・・。
何故・・?この地に義経が・・を主題に・・、
本堂の正面頭上に木彫りの精密な彫刻が施してあり、それは「義経が弁慶に、例の『腰越状』を本筆又は清筆させている風景“であった」
その「腰越状」は満福寺本堂・玄関ショーウインドウで見る事が出来る。
本年(2005)NHK大河ドラマ「源義経」もいよいよ佳境に入ってきた・・。
義兄弟の木曾義仲を打ち破り、一の谷、屋島、そして壇ノ浦で平家一門を壊滅させた、その最大の功労者は源義経であることは衆人が認めるところである・・。
しかし、その戦功を上げるに逆比例して、兄頼朝との間が遠のき、軋轢を生じ、遂には殺してしまうのである。
英雄義経が哀れな失脚をしたのは、一般に兄に憎まれたためといわれる、「判官びいき」という言葉があるくらい、この武将の悲劇的な末路に我々は同情的である。それが為、現世までいろいろな形で語り継がれている・・。
義経は、兄頼朝の代官として「西国攻め」に出陣し、その期待に応えて義仲も平家一門をも滅亡に追い込んだ。
ところが、その彼に頼朝はろくな恩賞を与えない・・。
--これには後例がある、徳川家康が天下を掌握した折、大名衆は譜代(代々その主家に仕えること)大名と外様(譜代以外の外部)大名に分けられるが、その時の恩賞は外部に多く、身内に少なかった、 それどころか一旦与えた恩賞を取り上げてしまうこともあった--・・。
それどころか、鎌倉まで来て弁明しようとした義経を、腰越に止めて対面もせず都に追い返してしまうのである・・。
源平合戦の最終局、「壇の浦の合戦」では、平家の総帥であった平宗盛は、その最後があまり見苦しいので平家の侍達に海の中へ突き落とされたが、泳ぎが達者だった宗盛は死のうとしないで泳ぎ回っているところを他の侍に助けられたと言われる。 合戦後には、源義経に捕らわれて鎌倉に送られる。
その時、宗盛は頼朝に対面しているが、見苦しい様を見せて頼朝を呆れさせ、鎌倉方の侍達の笑い物になった。
この時、宗盛親子を捕虜として連れてきたのが義経であった・・、 この事は「若宮大路と段葛」の項で既に述べた・・。
腰越に止めおかれて、義経が腰越状を書くに至った場所がここ「満福寺」であった・・。満福寺に5月15日から6月9日まで滞在したといわれる。
この間義経は、頼朝宛に異心のないことを切々とつずった書状をしたためた、世に言う腰越状である。
しかし思いは届かなかった。
その後、頼朝との敵対関係を知らされた義経は京に戻り戦線を開くが、既に戦意戦力は無く、追い詰められた義経はその後、態勢を立て直すべく九州へ逃れようとするが、嵐に遭い船は沈没、更に吉野山に逃れる。 ここは愛妾「静御前」との悲しい別れの地でもある。静はこの時、義経の子を身籠っていたが、頼朝の追っ手に捕らえられ、静かは母の磯禅師と共に鎌倉へ護送される。
鎌倉で無事出産したが、男児だったため、由比ガ浜の海に沈められる・・。
頼朝に命じられ、八幡宮の「舞殿」で舞ったのは有名な話である・・が、静は舞いながら
『吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき』
『「しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな』
と義経を慕う歌を唄い、頼朝を激怒させるが、妻の北条政子がとりなして助けられる。
この吉野でも追われた義経は北陸路を辿って奥州へ逃れる。 また長い逃避行の後、安住の地を奥州平泉に求めた。
しかし、養父と慕う藤原秀衡とは間もなく死別、その後ろ盾を失った義経は、頼朝指令によって、秀衡の子の泰衡の手により討ち取られ、その生涯を閉じた。 、
義経が衣川高館で討たれたのは、1189年4月30日のことである。
その首は黒漆の櫃(ひつ)におさめられ、清酒に浸されて鎌倉に送られた。 しかし、首実検が行われたのは腰越の浜であり、義経は首になっても鎌倉に入ることはできなかったという。
「義経の腰越状」・・Ⅱ、に続く・・。
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