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  • from: orimasa2007さん

    2007年12月17日 13時48分33秒

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    古都鎌倉(26) 「鎌倉編まとめ・・Ⅰ」


     《 鎌倉編 》 巡った寺社、史跡の順番・・。
    鎌倉駅⇒鶴岡八幡宮⇒若宮大路・段葛⇒白旗神社⇒源頼朝の墓⇒大江・毛利・島津の墓⇒三浦一族の墓⇒東勝寺跡・高時やぐら⇒安養院⇒鎌倉宮・護良親王の墓⇒瑞泉寺⇒杉本寺⇒建長寺⇒円覚寺⇒明月院>⇒東慶寺⇒常楽寺⇒高徳院・鎌倉大仏⇒長谷寺⇒光明寺⇒稲村ヶ崎>⇒満腹寺⇒龍口寺⇒⇒常立寺⇒「鎌倉まとめ」・・《 引続き湘南編へ続く 》

    古都鎌倉(26) 「鎌倉編まとめ・・Ⅰ」


      相模湾に南面し、四方を山に囲まれた、この地鎌倉に源頼朝が入ったのが1180年、1192年には武家政権・鎌倉幕府を創生した。以来150年の間、鎌倉は日本の政冶の中心となり、それに伴なって鎌倉文化も華開いている・・。
     現在、古都鎌倉を巡るとき、神社仏閣70数箇所、古跡名所を含めると実に300ヵ所以上と言われる。小生今回巡ったのは20箇所程度にすぎないが、各箇所においての歴史や文化の背景を探る時、若干でも往時の鎌倉が垣間見え、その時代の息吹きが感じられた・・、やはり鎌倉は凄かった・・。
     尚、鎌倉開府の折、頼朝に伴なった創生人(家人衆)達を列記してみた。
     そして往時の鎌倉を唄った、小学校唱歌「鎌倉」を付してみた・・。
     


    《 関東御家人衆  (50音順) 》

    『安達 盛長』(あだち もりなが)
    出身は陸奥国安達郡(福島県安達郡)・・?通称は藤九郎、妻は源頼朝の乳母比企尼の娘丹後内侍(宮中の女官)。 奥州藤原の氏流、 源頼朝が伊豆の流人であった頃から仕える。1180年の頼朝の挙兵以来、これを援け関東武士の糾合に活躍。
    石橋山の戦いの後、頼朝とともに安房に逃れる。
    頼朝が再挙して、鎌倉に本拠を置き関東を治めると、奉行人として重用される。
    1189年、奥州合戦に従軍。頼朝亡き後、有力御家人となっていた安達氏は、執権北条氏に自分の娘を嫁がせ、執権の外戚として権力を振るった。
    また、同じ御家人で勢力を持っていた三浦氏との戦い(宝治合戦)に勝利するなど、一時は北条氏と並ぶ権力を持っていた。
    安達盛長の屋敷は現在の甘縄神社であった。 神社の前に「安達盛長邸址」の石碑が建っている。

    『梶原景時』(かじわら かげとき)
    鎌倉幕府初期の有力御家人。
    家系は桓武平氏の流れで、三浦家流派。頼朝の曽祖父 八幡太郎義家の家人として「後三年の役」で活躍した鎌倉権五郎景政の末裔・・、子に景季がいる。教養があり、和歌を好み、武家百人一首にも選出されている。
    1180年の石橋山の戦いで平氏に属し、敗軍の頼朝を見逃してその危機を救い、後に重用される。 頼朝の命により上総広常を謀殺。 源義仲追討軍に従軍。 平家追討に参加し義経の参謀、戦況を常時頼朝へ報告(一部、讒言ととられる)、その功で播磨、美作守護職を与えられる。 源義経が後白河法皇に頼朝追討の院宣を出させると、これを頼朝に知らせる。
    頼朝の死後は、源頼家を補佐する。1200年、所領の相模国一ノ宮より上洛の途中、幕府軍と戦闘、嫡子景季と共に討たれる。

    『千葉上総介広常』(ちばかずさのすけひろつね)
    千葉の豪族、千葉常澄の子、源頼朝挙兵の際は当初これに加担せず,同族の常胤が頼朝に加勢するに及んで,兵2万騎を率いて参陣した。 しかし彼の遅参を頼朝は怒り、会おうとしなかった。
    広常はその仕打ちに「これこそ大将の器」とかえって感じ入り、あらためて忠誠を誓った。富士川に参戦。坂東有数の大豪族という自負から驕慢なふるまいが多く、頼朝に勢力の強大化を恐れられ,1183(寿永2)年に謀反の嫌疑をかけられて梶原景時により殺害された。

    『河越 重頼』(かわごえ しげより)
    現、「川越」の豪族、平氏方。石橋山の戦いで敗れた頼朝が安房国で再挙して、武蔵国に入ると参陣・・、御家人として重く用いられる。
    一ノ谷の戦い後、頼朝の命により、娘(郷御前)を義経に嫁して舅となる。
    1185年、頼朝と義経が対立し、義経が後白河法皇から頼朝追討の宣旨を受けると、重頼も頼朝から敵対視されるようになった。
    同年11月、重頼は所領を没収され、間もなく嫡男の重房と共に誅殺された。しかしさすがに「あんまりだ」と思われたのか、その所領の大半は重頼の老母に譲渡された。なお妻は頼朝の乳母比企禅尼の娘である

    『熊谷直実』(くまがい・なおざね)
    通称、次郎直実・・、武蔵熊谷郷(現在の埼玉県熊谷市)の出身。
    源頼朝の挙兵の時、初め平氏側についたが、のち源氏側についた・・、「平家物語」に述べられる一ノ谷の戦いでの平敦盛との対戦は有名である因みに。
    子孫は京都と東京で鳩居堂(銀座鳩居堂は地価日本一の所)という和文具・香道具屋を営んでいるといわれる。

    『佐々木秀義』(ささきひでよし)
    近江源氏嫡流、平安末期の武将。近江の佐々木庄を地盤、伊豆で流人生活をしていた頼朝を世話するべく、息子定綱・盛綱らを派遣した。
    頼朝旗挙げの際にも、定綱、盛綱のみならず次男の経高や当時京にいた四男の高綱をも呼び寄せてサポートした・・、その功により本領を安堵され佐々木庄へと戻る。
    平家の残党狩で近江権守を贈られる。

    『土肥 実平』(どい さねひら)
    生年不詳 ・・、実平は相模国西部の有力豪族・中村氏の出で、土肥郷(神奈川県湯河原町)を本領とし、源頼朝が挙兵すると嫡男の遠平ら中村一族を率いて参じている。
    石橋山の戦いで敗北すると、頼朝と共に落ちのび、頼朝主従が「しとどの窟」に隠れていたのを梶原景時が見逃した逸話はこの時のこと。 この後、実平の用意で真鶴から房総半島の安房国へ脱出した。
    一ノ谷の戦いでは源義経に参軍。壇ノ浦後には平宗盛の護送もつとめた。
    義経都落ちのあとは、京都の治安維持を任され、疑り深い頼朝にすら終生信頼され続けた稀有な武将である。
    1189年、奥州合戦に参加・・、この記述を最後に実平は史料から姿を消している。 しかし、実平の子孫は着実に有った、孫は安芸国(広島県)に移り小早川を名乗った。
    後に毛利家の筆頭家老となる小早川家の祖となる。
    また4代目は富山郷(富山県)に移り、土肥称を名乗り、戦国期、江戸期を生き抜いて、実平から800年以上土肥氏は今も繁栄を続けているという。
    富山周辺地域は今も土肥称が多い・・。

    『土佐坊昌俊』(とさのぼうしょうしゅん)
    渋谷重家(東京・渋谷地方の領主)の子。
    頼朝の父、義朝に小姓として仕えていたが,1159(平治元)年の平治の乱で義朝が敗れて横死した後は出家、その後,土肥実平の仲介で源頼朝に仕えた。
    1185(文治元)年に頼朝の命を受けて京の源義経邸を襲撃(いわゆる「堀河夜討」)するが敗れ、斬首されたという。(義経が許して放免したとする説もある)

    『那須 与一』(なすの よいち)
    栃木・下野国の生まれ、与一は通称で本名は宗隆、妻は新田義重の娘。
    「平家物語」には弓の名人で、源平合戦では源氏・源義経に属し、1185年の屋島の戦いで扇の的を射抜いた話が記されている。 80メートル先の的にでも当てることのできたとされる弓の名手。
    源平合戦後、鳥取城初代城主に任命される。

    『畠山重忠』(はたけやましげただ)
    桓武平氏の一党、 武蔵国男衾郡(おぶすまのこおり)畠山郷(現・埼玉県大里郡川本町)生れ。
    源頼朝の挙兵に対し、重忠は当初、平家側につき、祖父の三浦義明を討ち取った・・が、しかし源頼朝が鎌倉入りした際、重忠は先祖が八幡太郎義家(源義家)より賜った家宝の白旗(源氏の軍旗)を持って帰参し、頼朝の為、各地の戦線に参戦、忠勇無双の士として名高い。
    頼朝に九郎暗殺を頼まれて、これをきっぱりと拒んだという、九郎に理解を示していた数少ない坂東武者のひとりであった。
    頼朝の二度の上洛には、いずれも先陣を務めた。その後、北条時政から謀反の疑いを掛けられ、武蔵国二俣川(現・神奈川県横浜市旭区)において鶴ヶ峯の戦いに敗れ討死。

    『比企能員』(ひき よしかず)
    鎌倉幕府の有力御家人。 源頼朝の乳母の比企尼の養子で、当初、藤四郎と称した・・、平氏追討に従軍。
    1189年(文治5年)義経の奥州征伐には北陸道大将軍に任命。
    源頼朝とともに上洛、右衛門尉に任ぜられる。頼朝の信任が厚く、上野国・信濃国守護に任命される。
    1199年十三人の合議制の1人に加えられ、梶原景時排斥にも荷担。 娘の若狭局が源頼家に嫁して、子、一幡を生み、外戚として権勢を振う。
    威力権勢を振るう北条時政の追討密議が事前にもれ、時政の自宅で謀殺された。 さらに比企の屋敷(現:妙本寺)にも兵を送られ、若狭局や一幡ら一族を滅亡させられた。


    続いて、Part Ⅱをどうぞ・・。

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