サークルで活動するには参加が必要です。
「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
※参加を制限しているサークルもあります。
-
from: orimasa2007さん
2008年01月14日 17時12分01秒
icon
湘南地方の歴史と観光(4) 茅ヶ崎・・Ⅲ「寒川神社(1)」
湘南地方の歴史と観光(4) 茅ヶ崎・・Ⅲ「寒川神社(1)」
<font size="2" color="#0000FF">では、寒川神社の祭神である寒川比古・寒川比女とはいかなる神様なのであろうか・・?
ここで四国讃岐の大川郡寒川町が関連して登場してくるのである・・。
高松の南西地域に南北に細長い「寒川町」がある、ここでは(さんがわちょう)と読むらしい。
町域のほぼ中央に「大蓑彦神社」(おおみのひこじんじゃ)というのが鎮座している。
この神社の起縁由緒には「水霊の説いと由ありて聞ゆ、故考へるに延暦儀式帳に牟祢神社は大水上の児寒川比古命、寒川比女命と云う、又、那自売神社は大水上御祖命なり。 大水上神、大水上御祖命同神にて、此大蓑彦命も大水彦神の義ならん。 郡名は寒川比古命、寒川比女命に由ありと思うべし」・・と、
大蓑彦命も大水上神も「水の神」であり、その子達が寒川比古命、寒川比女命(牟祢神社)である・・と、どちらも水に関係する神様だと判る。
そして郡名は寒川・・と・・、現に寒川町周辺一帯の大川郡は以前は寒川郡であった・・。
地理的には讃阿山地の南に面し、中小河川の流域で鴨部川や津田川となって流出している。またこのあたりは門入池をはじめ無数の池が点在しているし、洪水時には水害の起きやすい地形と想像できる・・。
どうも大蓑彦神社も治水ために勧請された神様らしい・・。
治水工事というのは当時、最高水準の技術を必要とされ、その技術は呪術にまでも及んだという。
川を鎮め、土地を太らせ、地域を安泰に導く・・、これこそ国家風水の技術であり、方位の吉凶を知る技術でもある。 合わせて、ここに水の神が勧請されたのも理解できる。
国家風水としての役目を終えた神社は、後は民衆を導く八方除けの神教となったのかもしれない。
では相模の国・寒川町と讃岐の国・寒川町はどのような関係、経緯があったのだろうか・・?
古代の讃岐地方(隣国・阿波も含む)は忌部一族(いんべぞく・大和朝廷成立に大きな役割を果たした讃岐忌部氏・農耕・航行の民)が支配していた。
古代・中世の交通機関は船が中心だった。
忌部一族は黒潮ルートにのって房総半島に、先ず渡来したと言われる。
房州は古くから関西との関係が強い・・、因みに、「勝浦」、「白浜」(紀州)や「安房」(阿波)など、関西の土地の名を付けたところも多い。
更には、忌部・阿波の民は、房州はおろか関東を開いた民とも言われる・・。
そして、上総の国(千葉市中央区)にも寒川町があり、「寒川神社」が鎮座し「寒川比古命、寒川比女命」を祀っているのである。(この辺りの詳細は小生の「東日本周遊記」の最終章に記載有り)
又、古代・平安初期には三浦半島から相模の国にかけては平氏・桓武天皇の一族である三浦氏が支配し、三浦は元々は相模、房州の海をも支配していた海族でもある。
これらの祖先が相容れあって、讃岐から相模へ「水の神」を勧請したのかも知れない・・・?
一方、相模と讃岐の香川とは深い繋がりがあった・・。
平安期より関東周辺、相模地区は桓武平氏に連なる豪族が地域の支配権を握っていた。
「鎌倉党」と称して大庭、梶原、長尾、そして香川氏らがそうであるが・・。
その香川氏は、桓武平氏を名乗っていた時期、後三年の役(平安時代後期の奥州を舞台とした源義家らによる戦役)に活躍した鎌倉権五郎景政の後裔が相模国高座郡香川村(寒川のすぐ南)を領し香川氏と称していた。
権五郎景政の子孫は鎌倉に住して香川三郎経景と称し、承久の乱(鎌倉初期、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して倒幕の兵を挙げた兵乱)に際して幕府方として活躍、その功によって安芸・讃岐などに所領を賜り、景光の弟景則の系が讃岐に移住して子孫が広まったという。以降、官僚・細川家の下で讃岐の守護となり、香川家が滅んだ後もその名が残り、現在の「香川県」がその名の起こりという・・。
一般に、源平合戦以降幕府側は「承久の乱」を含めて朝廷との立場が一変し、西国での平氏領、反幕府側の公家、武家が領した多くの没収地を得た。
これらを戦功があった坂東の御家人に大量に給付したため、多くの御家人が西国に移り住むこととなり、幕府の支配が畿内にも強く及ぶようになった。
ここで、上総の国の「寒川神社」についても触れておこう・・。
千葉市のほぼ中心地に寒川町(さむかわちょう:千葉市中央区寒川町)という地名があって、こじんまりではあるが「寒川神社」が鎮座している。
相模の寒川神社が元宮であろうといわれているが実際には不明だとか・・、元は明神社と云われて寒川地区の総鎮守であり、天照大神を主神に寒川比古命、寒川比女命を相神にまつり、天正19年(1591)徳川家康も社領十石を寄進していて、明治元年(1868)に社号を「寒川神社」に改めている。
この神も水の神、海の神として崇められ、昔は海上往来の船が同社沖前にさしかかると礼帆といい帆を半ば下げて航行し、また社前を馬上で通行する者は下馬して敬意を表したと伝えられる格式ある社宮であったという。
神社近くを、今では都川という河川が流れているが、克っては「ねずみ川」という妙な名前の川もあったという。
この辺り、昔は寒川村といい新田造りや堰用水があったことは史書でも知られ・・、やはり低地の暴れ川であったことが伺えるのである・・。
当地における寒川神社勧請も、それらの地勢的要因があったことは否定できないであろう・・。
この神社の祭礼には、やはり寒川の象徴である神輿の「御浜下り」(浜降祭)というのがある。
この祭事は古来より行はれていたが、戦中と都市化の波で暫く途絶えていたが、近年、復活して再び実施されているようである・・。
千葉港・千葉ポートタワー下の海浜で、寒川神社・宮神輿の海上渡御が勇壮に行はれているという。
以上、相模の国、讃岐の国、安房の国の祭神、祭事について、その共通した勧請目的を述べてきたが、更に「寒川神社」の祭神である「」について掘り下げてみたいとと思う・・。
次回は、 「寒川神社」の更に由緒、縁起について
コメント: 全0件