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  • from: orimasa2007さん

    2008年01月14日 17時13分53秒

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    湘南地方の歴史と観光(4) 茅ヶ崎・・Ⅳ「寒川神社(2)」

    湘南地方の歴史と観光(4) 茅ヶ崎・・Ⅳ「寒川神社(2)」

    <font size="2" color="#0000FF">ところ変わるが、神代の地・伊勢神宮の伊勢市の西隣である玉城町は、約2000年前の伊勢神宮の鎮座のときより神宮に奉仕し、神宮を中心とした歴史と文化が培われてきた地域である。
    町内には内宮・摂社8社と末社3社が鎮座している。 
    その中の一つ外城田地区(ときたちく)に伊勢神宮の摂社「御船神社」がある。
    社地は外城田川(別名、寒川といわれる)の上流地にあって、 この外城田川が御船神社の東の辺りを流れている。

    この神社の由緒は垂仁天皇の頃、 倭姫命(やまとひめのみこと:垂仁天皇の皇女で日本武尊の叔母と位置づけられ、神託により大和の国から天照大神を伊勢の地に遷宮され、伊勢神宮、伊雑宮を建立したとされる。伊勢神宮最初の斎宮)が坂手の国(鳥羽市坂手町、伊勢神宮の御厨・みくりや)から外城田川を遡ってこられたとき、 このあたりで水が尽き、 その水が大変冷たく周囲は荒んでいたため、 この川を「寒川」と名付けられ、ここに「御船神社」を祀り定められたという。 
    倭姫命がこの辺りを見た地形は、伊勢山地から流れ落ちる急流が平地に至って土砂とともに幾筋にもなって暴れ川となり氾濫を繰り返す荒涼たる風景を呈し、寒々しい様相であったので寒川と呼んだのであろう・・?。
    尚、倭姫命が名付けられたという寒川の故事により、 田丸町(現、玉城町)は明治4年、 この地域を「寒川村」と改名するよう命じら、一時、「寒川村」と命名したが明治7年、再び田丸町に復しているという。

    「御船神社」は皇大神宮の摂社で、祭神は水の神、船路交通の守り神である。
    このあたりが外城田川(ときだがわ)で、倭姫命が遡られたとき御船をとどめられた終点地といわれる。
    御船神社の社殿の内に「牟弥乃神社」(むみのじんじゃ・皇大神宮・末社)が同座されている。 
    この社宮は同じく倭姫命により祭られたもので、こちらの祭神は御馴染みになった寒川比古命、寒川比女命であるり、大水上神の御子で「川の守り神」といわれている。 
    寒川の里(外城田川の上流地区)には、その他に、大水上神(おおみなかみのかみ)と天須婆留女命(あめのすばるのみことの)と大歳神(おおとしのかみ)等の神々が祭られ、いずれも神格は水神や農神である。

    この地域は地理的には外城田川、宮川、櫛田川などの上流域にあたり、周辺は斎宮池をはじめ無数の池、沼があり、やはりというか低地で水難地帯であるようだ・・。 今でこそ青田の里になっているが遠い昔は、やはりというか水難の地相と想像できるのである・・。 斎宮・倭姫命は、この地の洪水、水害を嘆かれ「牟弥乃神社」を創建し、大水上神の子で兄妹を「寒川比古命」、「寒川比女命」と命名して奉ったと推察できるのである・・。
    斎宮・倭姫命が、外城田川を寒川や寒川村と称しているように寒川比の両神、そして各地の「寒川」と称する社名、地名は、この地が大元、発祥地であると想像できるのである。

    詰まるところ、伊勢の「皇大神宮・伊勢神宮」をこの地に求めた倭姫命によって、その縁起が求められるようである・・。 
    水を治める神、水を渡る神として伊勢の地から讃岐の寒川へ、そして相模の寒川、房州の寒川、その他の各地へ分社されていったのだろう・・。
    それらに共通しているのは、伊勢の宮地の御船神社に「牟弥乃神社」、讃岐の寒川町・大蓑彦神社に「牟弥神社」、相模の寒川神社に「牟彌乃神社」に其々、相殿として祀られているのであり、これらは無論同一神で、何れも「川の守り神」なのである。


    話は長くなったが・・、
    茅ヶ崎の海岸「浜降祭」に戻すと、残念ながら浜降祭の詳細な史料は乏しと言われるが、寒川神社は、古くは戦国時代の永禄4年に長尾影虎(上杉謙信)が小田原の北条氏を攻め込んできた戦乱(1561年:関東地方侵攻から小田原城攻撃)で神社社屋が消失したといわれる。
    その時、江戸時代までは寒川神社の別当寺であった薬王寺に書類が残り、その書類が整理された時「浜降祭」の始まりについてはいくつかの伝承が記載されていたという。

    その第一は、浜降祭日記に「神事は千有余年間継続し、執行して来た由緒ある最重要な神事」として、実際に古代から千有余年以上続いているとしている。
    第二に、「往古相模川洪水のため、氾濫せし際、神輿もこの厄に罹りて流れ下りたるを、南湖(湘南)の漁民が拾いあげたるに始まる」としている。ここでは寒川神社の神を漂着神の信仰として捉えているである。
    これと似たような話が茅ヶ崎市芹沢にも伝わっている・・、「昔、寒川神社のミタマが6月15日に相模川に流されてしまったが、7月15日になってミタマが浜に打ち上げられ南湖の人が拾ってくれたので、そのお礼として海岸に神輿を出す」というものである。

    「浜降祭」は海に分け入り、禊ぎ(みそぎ)を行なうため海の中へ輿を入れをもみあう祭事である。 「川の守り神」である水の神・寒川両神は、この茅ヶ崎の海岸に上がってきて寒川の地に宮入したが、年に一度磯に出て禊ぎをし、清めをし、お祓いをする祭事なのである。


    これらは、あくまでも小生独自の仮説であるガ・・、歴史というものは、事実に元ずいているものが理想であるが、事実を集合させて一つの仮説を組み立て想像するのも、歴史の面白さであろう・・。

    余計だが、72年毎に行われるという、一生に一度遭遇できるお祭りがある。 茨城県の「金砂神社大祭礼」というお祭りである。
    茨城の日立市水木浜に「金砂の神」が上陸し、内陸の地(金砂郷町、水府村)に鎮座した。この神が、72年毎、上陸した地の水木浜の磯に出て行う祭事で、「磯出大祭礼」ともいう。 平安期の仁寿元年(851年)に第1回目を執行して以来、一度も途絶えることなく続けられてきたとされる祭礼で、総勢500有余人にも及ぶ渡御行列と各種祭事が行はれる。
    近年では、第17回目の大祭礼が平成15年3月に執り行はれ、小生もこの時、孫たちと一緒に参加し祈願したもので、その壮大さと歴史の重みに感じ入ったものであった・・。

    次回は、 「平塚」です

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