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from: orimasa2007さん
2008年01月28日 10時26分35秒
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世界遺産と熊野地方(4) 串本・「潮岬と橋杭岩」
世界遺産と熊野地方(4) 串本・「潮岬と橋杭岩」
<font size="2" color="#0000FF">「すさみ」の海岸は、変化に富んだ美景が続く。
国道42号沿いに「すさみ八景」と言われる穂積島、沖の黒島と陸の黒島といったに二つの黒島を含めた壮大な景観が広がる。
激しい波頭が陸の黒島に当たり、真っ二つに裂けた波が再びぶつかり合う様子が夫婦の波の様だといい、合掌波または夫婦波とも呼ばれて枯木灘を代表する奇観である。 この展望地を「恋人岬」又は夫婦岬といい、なかなか洒落たネーミングである。
われ等夫婦も綾かって記念撮影し、その波の様子も写真に収めることが出来た・・。
間もなく串本海中公園に着いたので立寄って見た。
串本の海を再現した大水槽、水中トンネル式大水槽などの見所もある。 串本の海は遠くフィリピン沖から来る黒潮の影響を受け、カラフルな魚やサンゴ、エビ、カニなど熱帯、亜熱帯性の生物を豊富に見物することができた。
「海中展望塔」は沖合の水深の海底にあって、自然の海の青く澄んだ世界が広がる。サンゴの間を泳ぎ回る熱帯魚が乱舞する様は、まさに青いメルヘンの世界であった。
国道42号線は、陸繋島(りくけいとう)である潮岬の付け根まで接近していて、そのまま先端の灯台へ向った。
「陸繋島」とは、砂州によって陸と島とが陸続きになった島のことである。 海岸近くに島があると沖からの波が島の裏側で打ち消しあい波の静かな部分ができる。 この部分には沿岸流などで運ばれてきた砂が堆積しやすく、やがて海岸と島を結ぶ砂州が成長し陸続きとなる。 潮岬は昔は浅瀬の島だったのである。
先端島部の岬は台地状で、海岸部は40〜50mの海食断崖を呈している。
南西端に「潮岬灯台」が立ち、周辺には潮岬タワーや、「望楼の芝」とかいう芝生の園地が広がる。
白亜の灯台は表札の有る正門を構え、灯台小屋の奥に屹立していた。
この灯台は明治初期の「江戸条約」によって建設された八基の洋式灯台の一つで、「日本の灯台50選」にも選ばれる歴史的文化財的価値が高いAランク保存灯台だという。条約灯台とは:観音埼・神子元島・樫野埼・剱埼・野島埼・潮岬・伊王島・佐多岬などである。
本州最南端に位置する灯台は参観もでき、灯台に関する資料展示室も併設し常時公開されている。
眼下の磯小島が点々と連なり、視界の大部を占める太平洋の水平線は地球の丸みを感じるのである。 実際は「地球の丸み」ではなく視界の丸みであるが・・!ロマンが無くて失礼・・。
岬の突端に一人ポツンと立つ白亜の灯台は、「おふくろ」の姿に重なると誰かが言っていた。
灯台は何処へも行かず、雨の日も風の日も同じ場所で、着飾りもせず日没と共にピカッ、ピカッと静かに遠くまで光りを投げかけ、ひたすら船の航行の安全を願ってる。
それはまるで朝早くから夜遅くまで甲斐甲斐しく家事をし、夕暮れには灯りを付けて夕食を作り、家族の帰りをじっと待つ母の姿に似ていると・・。
因みに、隣の紀伊大島の樫野埼灯台(かしのざきとうだい)は、東端断崖に建つ灯台で、「日本の灯台の父」と呼ばれるリチャード・ヘンリー・ブラントンが日本で設計し、1870年に点灯した日本最初の石造灯台だと・・。
日本最初の回転式せん光灯台でもあり、その初期の建物が現存している。 そしてこの地は、トルコの軍艦エルトゥールル号遭難地としても知られている。
こちらは白亜の無人灯台で、灯台内部へは入れないが外部階段から灯台上部に登ることができる。 灯台の周囲には、明治初期に灯台技師のイギリス人が植えた水仙が群れ、またトルコ記念館やトルコ軍艦遭難記念碑が徒歩圏内にある。
エルトゥールル号遭難事件とは、1890年(明治23年)9月16日夜半、オスマン帝国(現在のトルコ)の軍艦エルトゥールル号が串本沖・紀伊大島の樫野埼東方海上で遭難した事件である。
この時、地元・樫野埼住民は献身的な救助活動を行い、強いては国家ぐるみで援助支援を行ったことで、日本とトルコの友好関係の起点として記憶されている。
「串本節」 和歌山民謡
♪♪・・アラヨイショ ヨーイショ ヨイショ ヨイショ ヨイショ
♪♪・・「ここは串本 向いは大島 仲をとりもつ 巡航船」 (以下かけ声省略)
♪♪・・「潮の岬に 灯台あれど 恋の闇路は 照らしゃせぬ」
♪♪・・「一つ二つと 橋杭立てて 心とどけよ 串本へ」
・・・・
と歌われている大島であるが、今は串本と大島に「串本大橋」が架かる。 ループ状と半円形の橋の姿は名所の一つにもなっていて、袂に「四海兄弟」という碑が有り、並んで「串本節」の碑がある。
民謡 串本節に歌われたような巡航船の姿は、今は無くなってしまったようである・・。
戻った先の国道42沿いに「橋杭岩」という名所が在る。
『昔、むかし、大島に住む人達は、本土に渡るのに、嵐の日には船が出せず困っていたそうな。「橋があれば、本当に便利だのになあ」と何時も思っていた。 伝承によると昔、南紀を修業しておられた弘法大師は、天の邪鬼(あまのじゃく)と串本から沖合いの大島まで橋をかけることが出来るか否かの賭けを行った。 島民の願いを元に一晩で橋を造ろうと決心した大師は、必死になって海の中に杭を打ち、もう少しで完了と言うところで天の邪鬼が邪魔をして朝が来たのを知らせる。それは鶏の鳴き声を真似て、高らかに響かせたものだった。 さすがの大師も朝が来たと思い橋を造るのを途中で止めてしまったそうな・・』 然るに今の姿になったと言う、「弘法大師と橋杭岩」話である。
小波が荒磯を洗う岩場に降りてみると、その巨大な岩の像が一列に並び、確かに大島に向って衝立しているのであり圧巻、奇観である・・。
今は、弘法大師の願いも叶い立派な橋がつくられたが・・。
天の邪鬼は日本の妖怪の一種、人に悪戯をしかけるひねくれ者の子鬼というのが一般的であるが・・、 一方、仏教では人間の邪心を表している子鬼であり四天王に踏みつけられている像は有名である。
対岸の大島に向かってあたかも橋脚を並べたようにそそり立つ岩列が、これが橋を造る時の杭のようにみえるので「橋杭岩」と呼ばれている。
この岩列は太古の昔、紀伊半島の那智、熊野に至る地域で起こった火山活動の産物で、地層の割れ目に沿ってマグマが上昇し冷え固まった物であるという。
橋杭岩を通して見る昇る朝日は絶景で、「日本の朝日百選」の認定され、国の名勝や国の天然記念物の指定も受けている。
紀伊南部の第一の清流と言われる古座川の「古座大橋」を渡る。
河口海面スレスレで、左は清流の流れ、右は潮岬が望まれ太平洋が無限に広がり、上流部は人家が少ないので自然が豊富、魚も豊富で川からの恵みは十分に受ける。
源流近くの川筋には狼やカワウソもいるとおいわれているが・・?、支流である平井川の上流は国の特別天然記念物のオオサンショウウオが増えすぎているとか・・・それほど綺麗で奥深い川なのである。
司馬遼太郎氏がこの川筋の渓谷美が気に入って別荘を購入したと聞いたことがある。
玉之浦という深く入り江を成した静かな海域を眺めながら「太地」の駅を通り越し、湯川地区を過ぎると今日の目的地である「那智勝浦」は真近である。
案内板に従って進むとホテル専用の大駐車場が在り、専用の送迎バスに送られると波止場に着く、更に専用の送迎船に揺られて、やっとこホテルに到着した。那智勝浦の名所・「ホテル浦島」である。
七階の好展望の部屋に案内され先ずは一息入れた・・。
次回は、 「那智勝浦とホテル浦島」
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