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from: orimasa2007さん
2008年02月08日 11時18分08秒
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世界遺産と熊野地方(14) 新宮・Ⅳ「水運・熊野川」
熊野本宮大社旧社(大斎原・おおゆのはら)と熊野川。
世界遺産と熊野地方(14) 新宮・Ⅳ「水運・熊野川」
<font size="2" color="#0000FF">速玉大社のすぐ北側に「熊野川」が滔々と流れる、以前
は「新宮川」とも称していたらしいが・・。
現在も、千年前も、万年前も川わ変わることなく廻りながら流れている。 人々は、この川を遡りながら歴史を繰り返し、造ってきた。 紀伊の人々にとって熊野川は、心の拠りどころであり、古里であろう・・。
新宮の町は古来、熊野三社参詣の大辺路、中辺路、伊勢路が集合、交差していている門前町として栄えた。 更に、新宮は木材輸送で栄えた町だとも云われる。
紀伊の国は「紀の国」そして「木の国」といわれる。
元々、和歌山県は木の神様(五十猛命・イソタケル)が鎮座した国というので「木の国」と呼ばれていたが、奈良時代に国の名前を起こす時、二文字にして雅字を充てるという勅令が出されて「紀伊国」になったといわれる。
和歌山市の「紀ノ川」近くに伊太祁曽神社(いたきそ・・)が紀伊国(紀州)の祖神として祀られている。
伊太祁曽神社の祭神は「五十猛命」(イタケル)である・・。
素盞鳴尊(スサノオ)の御子神とされ、日本書紀によれば父神に従って高天原から大八洲国(オオヤシマグニ=日本)に天降られる時、多くの樹木の種を持って来られた。 そして日本全土に木の種を播き植林した、そのおかげで日本の国は緑の豊かな山々を擁し、空青く水清き森林が育成されたという。
五十猛命は木の神 木材業・林材業繁栄 緑化の祖神と言われる。
熊野の山地で伐採された吉野杉や熊野桧等の木材を筏にし、熊野川と北山川を下って新宮に運ばれ、この筏流しの歴史と密接な町域が過去に形成されていたという。
その昔、この筏流しと関連深い川原町(昭和20年代、南海大地震と水運の衰退で町は消滅)と呼ばれた町が存在した。
現在の新宮市船町(熊野速玉大社の前面)あたりの川原に存在したもので、最盛期には200軒を超える家が建っていた言われている。
川原には、軒を並べるようにして宿屋、鍛冶屋、雑貨屋、米屋、銭湯、理髪店、飲食店、履物屋などの町が形成されていた。
これらの建物すべてが容易に組み立て・解体ができる構造になっていたといたというのが驚きで、 それは「川原家」(かわらや)と呼ばれ、川原町に住む人々は大雨が降り洪水の危険を察知すると即座に家を解体し、安全な高台に避難し、そして水が引くとまた川原に家を建てていたという。
組み立てやすく、解体しやすい構造は家が流されないための知恵であったと・・、今の、プレハブ住宅のご先祖版であろうか・・?。
又、苔むした古道と同様に、熊野川は参詣道として山岳霊場を繋ぐ(つなぐ)熊野川の水上交通として重要な役割を果たしていた。
かつては、熊野三山を巡拝する場合、熊野本宮大社から舟で熊野川を下り、熊野速玉大社、熊野那智大社へ向かい、再び、もと来た道を引き返し熊野川を遡上していったともいう。熊野古道の大辺路、中辺路が陸の路とすれば、こちら熊野川は熊野・水の路と呼ぶべきであろう・・?。
熊野三山と総称される各社は元々は独自の信仰を持っていたようで、共通するのは三社の信仰の起源は自然崇拝から始まった。 特に本宮大社と速玉大社は、熊野川に対する深い信仰があり、本宮大社は元は大斎原と呼ばれる熊野川、音無川、岩田川の合流地点の中州に鎮座していた。それは、熊野川が神聖な場所として崇め、洪水鎮圧のために祀ったとも考えられる。
速玉大社は熊野川の河口付近に鎮座していることから川を神として崇敬し、本宮同様に、川の氾濫を鎮める役割を担っていたのではと・・。
速玉という名前が玉のように早い流れを意味することでも熊野川との関係が伺える。さらに速玉大社の例大祭である「御船祭」というのもある。
「熊野川」は神が往来する場として捉えられ、神聖視されてきたともいえる。
明日は、この熊野川上流の北山川の「瀞峡」で船遊びをしようと思っているが・・?、
新宮市(初代)は、1942年に実施された市町村合併で県では2番目の市として発足している。そして平成の大合併の2005年に熊野川町と合併し、新しい「新宮市」が発足している。
次回は、 「紀の松島」
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