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  • from: orimasa2007さん

    2008年02月18日 10時58分55秒

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    世界遺産と熊野地方(21) 世界遺産・「熊野古道・中辺路」

    中辺路「牛馬童子」と王子 

    世界遺産と熊野地方(21) 世界遺産・「熊野古道・中辺路」

    <font size="2" color="#0000FF">国道311号線を西に向って走る、熊野は確かに山また山の世界である。
    暫く行ったところに、その名も「熊野古道・中辺路」という道の駅があった。 
    道の駅舎には色々な古道歩きのグッズ類が置いたあるが、小生は古道の案内地図を戴いて出発である。

    国道を挟んだ古道入り口には、賑やかに案内板が立つ。
    杉木立が奇麗に立ち並ぶ間の道は良く整備されていて、坂道には木製の階段が施してあり歩きやすい。 暫く山歩き気分でジックリ歩を進める。
    午前中は好天であったが山中で変わりやすく、曇りから今は小雨模様になってきた。

    ところで、中辺路の西部域には国道に沿って冨田川が流れる。この川沿いを北上してきた古道は滝尻地区の「滝尻王子」から奥は御山、熊野の霊域だと考えられ、これら前後の険しい山々を越えてきて逢坂峠の「大坂本王子」までは急峻な山道となる。 
    これらを越えた現在地が国道311号線と接するところである。

    上りきった所に平坦な広場があって墨に石造が祀ってある、「牛馬童子」といって50〜60cmの極小さなものであるが、よく見ると一人の童子が一頭の牛と馬に跨っている姿であり、服装は庶民のと異なって高級感がある。 きっと、やんごとなき宮家の童子がこの地で何かの不幸があったとも想像されるが・・、すぐ右に同じく石の童子の姿像が安置されている。

    そこから緩い登り坂となり「箸折峠」に着く。 峠からは見通しも良く近露の里も眺望出来、旅人の絶好の休憩所となっている。

    宮の参詣者・花山法皇もここで休憩した思われ、この時、「昼食の弁当を開いたが箸がついてなかったので、ススキの軸を折って箸にした」、このことから箸折の峠名が付けられたという。 この時、ススキの軸の赤い部分に露がつたうのを見て、「これは血か露か」と尋ねられたので、この地が「近露」(ちかつゆ)という地名になったとも云われる。 
    法皇の法衣と経を埋め建てられたという「宝篋印塔」もあり、これは鎌倉時代のものと推定されて県指定の文化財である。
    石仏の牛馬童子は花山法皇の旅姿だとも言われるが・・?。

    ここ箸折峠に至って間もなく「近露王子」に至る。 杉の植え込まれた段々のやや急な坂道を一気に降りて、集落の一端に辿り着いた。
    この地は熊野本宮に至る中で、最も大きな集落であり、参詣の人々が出会う人里で、昔、「道中」とよばれていた区間である。 従って、今なお多くの旅籠跡が残っており、往時の熊野詣での賑わいを忍ばせてくれる。

    日置川を渡った旧道沿いに、その「近露王子」があった。
    入り口に「史跡・近露王子」と名柱があり、苔むした石段の奥はコンモリした森を造っているが社宮らしいのは無かった、代わって古石の碑が置かれてあった。 
    近露は、熊野道を巡る各王子の中でも最も早く設けられた里宮で、前後に険しい山岳地をひかえる中にあってこの地は拓けた里に在り、旅人は心安らぐ一点の地だった。

    そんな中、近露王子は近露の里の真ン中に鎮座して、かつては産土神(うぶすながみ・
    生れた土地の守り神、氏神・鎮守)としても祀られていた。 
    平安時代からの熊野詣の記録にもしばしば登場していて、宮人により「近露の水は現世の不浄を祓う」とあり、すぐ下を流れる日置川で神にお参りするために身を清めたという。 近露王子は参詣に備えて身を清浄にする霊場となっていて、川の近くの御所では後鳥羽院が歌会を催したことなど・・、歌人・藤原定家の参詣記などにも記されている。 

    近露は田辺と本宮の中程に位置し、辺りが盆地となっていたので食糧にも比較的恵まれたことから、熊野詣での宿所としても賜わったといわれる。

    熊野道中でよく「王子」と言われる宮社が存在し、九十九王子といわれるが・・?。
    九十九王子(くじゅうくおうじ)とは、熊野古道沿いに在する社宮のうち、主に12世紀から13世紀にかけて、皇族・貴人の熊野詣に際して先達をつとめた熊野修験の手で急速に組織された一群の神社をいい、参詣者の守護・安全を祈願された社をいう・・。

    「王子」とは若王子を意味し、熊野三山の御子神と言われるが本来は沿道住人が祀る雑多な在地の神々・産土神であった。
    これら諸社を王子と認定したのは、中世熊野詣において先達をつとめた熊野の修験者によるものであり、修験者は院政期以降の皇族・貴人たちの参詣の先達をつとめた人々でもあった。 そこには、参詣途上、身の安全を祈願する目的の他、儀礼・儀式を行う場所でもあり、歌会などを行う催場でもあったという。 又、併せて参詣者の庇護、物品の補給を行ったとされる。
    今日(こんにち)で端的に言えば、一般道の「道の駅」、高速道で言えば「サービスエリア」みたいのものであろうか・・??。

    九十九王子の「九十九」とは古来数の多さに喩えられるが、王子は実際に90を越す数に上り、その分布は参詣路で最も華やかで賑わったとされる紀伊路・中辺路の沿道に限られているのも特徴である。
    王子社の中でも位の高いのが五体王子と呼ばれるもので、藤代王子、切目王子、稲葉根王子、滝尻王子、発心門王子の五社とするのが一般的である。 これらは、熊野の主神の御子神ないし属神として三山に祀られる五所王子と呼ばれる神々であり、三山から勧請したものと考えられている。
    各王子社は、現在でもその痕跡は見られ、特に中辺路は熊野古道のハイライトともいえるほど格式の高い王子や旧跡が数多く残されているという。


    近露王子かすぐ近く、この土地で南北朝時代から連綿と続き現在29代目の野長瀬家(のながせけ)がある、そして土豪「野長瀬一族の墓所」の一群がある。
    この地に隠匿していた護良親王(もりながしんのう:後醍醐天皇の皇子、鎌倉幕府滅亡の主唱者の一人)を五代に亘って庇護した土着の豪族で、「太平記」にも登場している。 外れには一族を祀る観音寺があり、県文化財に指定されている。

    護良親王のこと・・、
    鎌倉末期、京では後醍醐天皇が中心となって鎌倉倒幕の機運が上る。しかし当初は失敗して流刑の処分にあい隠岐に流されてる。
    この頃、後醍醐天皇の第一皇子は叡山にこもって修練し、天台座主となり「大塔宮」と称して武力をもとにした寺院勢力を味方につけ、そして間もなく還俗して「護良親王」となった。
    楠木正成らの反幕勢力と合流して蜂起し、吉野、高野山、熊野などを転々としながら2年にわたり幕府軍と戦い続ける。 
    今でもこの地方には親王の痕跡が残っているし、紀州の「大塔村」や「大塔山」は親王の名を記念して付けたものと思われる・・。

    車ををソロリと進ませる・・、
    この辺りの地は国道311の旧道にもなっていて地元の生活道でもある、一部は古道とも重なっていて、古道の面影や史跡も多く残っているところでもある・・。
    2kmほど進んだ車道わきの山の斜面、杉の根元に「比曾原王子」の碑がひっそりと立つ。 ヒソ原、比曾原という地名で鎌倉末期頃まで諸書に登場するという、現在地名が比曾原であるかどうかは不明である。 

    この辺りは山腹を縫うように旧道が屈曲しながら延びている、遥か下方の新道R311が車の快走往来を見せている。


    次回は、 「中辺路・・Ⅱ」

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