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from: orimasa2007さん
2008年02月22日 10時08分59秒
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世界遺産と熊野地方(25) 湯の峰温泉・Ⅲ「東光寺」
東光寺と「玄峰塔」石碑
世界遺産と熊野地方(25) 湯の峰温泉・Ⅲ「東光寺」
<font size="2" color="#0000FF">翌朝、谷川のせせらぎで目が覚めた、昨日とは変わって眩しいくらいの好天である。
例によって上さん(妻)と朝飯前に一風呂浴びて、朝のシジマ(静寂)の中散歩へ出掛けた。 宿の近く、東光寺の裏手の丘の上に「湯の峰王子」がひっそりとあった。
この王子は平安期の頃は未だ開かれてなく、鎌倉末期に新しく「熊野道・赤木越」が開発されて湯の峰王子社が開かれたという。
北方の五体王子の一つ「発心門王子」(本宮大社・聖地への入り口とされた)から本宮までは二つのルートに分かれる。 この赤木越では本宮の手前になるため、湯の峰の湯で邪気を洗って参詣するようになったともいわれる。
この王子は元は東光寺の境内・寺堂にあったが、明治中期の火災で東光寺の本堂ともに焼失、現在地に小さな社が再建されたという。
次に、その東光寺を訪ねた。
湯の峰温泉・公衆浴場の手前にある寺院で、当地の温泉が最初に噴出した所に建っているといわれる「東光寺」である。
本尊・湯胸薬師如来座像は石仏のように見えるが、実際は噴出した温泉の湯の花が積もりに積もって石のようになり、高さ約3mの仏仏の形になったといわれている。胸の辺りに温泉が噴き出していた名残を示す穴があいている。 かつて湯の胸薬師と呼ばれており、湯の胸が転化して湯の峰温泉の名が生まれたとも云われている。
湯の峰温泉は古墳時代頃から開湯されたともいわれる。
古来、熊野三山が示すとおり水辺は神聖な場所とされてきたが、とくに温泉は病気や怪我を癒す不思議な水として利用され、人々は畏敬の念を以て接してきた。
それはやがて、神に対するものと同等の信仰の対象へと昇華されて、やがて温泉の神として大己貴命(オオナムチ:大国主)や少名毘古神(スクナヒコ)が祀られるようになった。 そして仏教が伝来し、更に仏教があまねく普及すると、国家が神仏習合を唱えだし、民間信仰の神は次第に整理されて医療の神である大国主命(オオクニヌシ)の化身と考えられた「薬師如来」の信仰が盛んとなった。
従って、全国の温泉地の持つ仏堂・寺院は概ね、「薬師如来」を祀る様になっている。
「東光寺・玄峰塔」のこと・・、
境内の一角に自然石で「玄峰塔」と彫られた大きな石碑がある・・、当地、湯の峰生まれの昭和の名僧「玄峰老師」の塚である。
玄峰老師が生まれたのは慶応2年(1866)、青年の頃に目の病にかかり医師から失明の危険性があるとの宣告を受け、四国・八十八ヶ所の遍路を行おうと決心したのは、この目の病が動機だった。
霊場巡りの時、高知の「雪渓寺」の門前で行き倒れとなったところを、山本太玄和尚に助けられ、その養子になった。 その後、雪渓寺の住職となり、得度(とくど)して、「玄峰」と号し始めた。
玄峰は、数々の臨済宗妙心寺派の寺院を再興し、後に駿河・三島の「龍沢寺」(りゅうたくじ)の住職となる。 この時周囲の人は「白隠の再来か・・!!」、はたまた「今白隠か・・!」と称されたという・・。
龍沢寺(りょうたくじ)は臨済宗妙心寺派の名刹で、白隠(はくいん)禅師により開山されている。
龍沢寺住職は代々老師として称えられ、多くの雲水の修行を導くとともに日本全国から各界名士の来訪を受け、禅行を施し、仏法の教えを説いている名刹でもある。
因みに、白隠禅師は臨済宗の中興の祖として知られ、龍沢寺の隣町、沼津の「原」に生まれている。
『 駿河には、すぎたるものが 二つあり 一に富士山、二に原の白隠 』
とも言われた名僧であり、臨済宗十四派(京及び鎌倉の大本山寺院)は、全て白隠を中興としている・・。
私事ながら・・、
小生の田舎の寺は臨済宗妙心寺派.で京の妙心寺を本山に持つが、無論、白隠禅師が中興した寺院である・・。
偶々(たまたま)昨年、これらが縁と恒例の秋の宝物開示を知った我ら二人(お上さん)は駿河路の「龍澤寺」を訪れた。
寺には白隠や同寺院の高僧達が描いた禅画、禅筆が多数展示され、見入ったものである。 龍澤寺では文筆も修行の一つとされ、特に僧たちは「書」に励んだといわれ名筆者が多いという。
時の龍澤寺の座主・玄峰老師の描いた書・画も当然有ったものと思われるが、当時は知る由もなかった・・。
次回は、 山本玄峰・『・・耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び・・』
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