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from: orimasa2007さん
2008年03月11日 11時51分19秒
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世界遺産・石見銀山(7)・・「大久保石見守長安」
大久保石見守長安」の墓
世界遺産・石見銀山(7)・・「大久保石見守長安」
<font size="2" color="#0000FF">人家も疎らになった山あいの地をゆっくりと車を進めると、やはり山裾の緑陰の地、古き石段を少々登ったところの静謐の地に『大久保石見守長安』の墓地があった。
石柵に囲まれた一段上部に供養塔を左に配して中央に墓柱が立てられてあり、後背は竹林になっていて、爽やかな雰囲気でもある。
しかし、単一のみの墓地なので寂しさはま脱がれない、忘れられた様にひっそりとしている。 しかし、どことなく手入れは行き届いているようであり、何処かに篤志家がいるのだろう・・。
長安の孤独の墓地が銀山跡とは言いながら、一基のみで寂しく祀られているには、それなりの理由があったのである・・!!。
大久保長安については、若くして読んだ山岡荘八の歴史大編「徳川家康」の中で、詳しく登場しているので印象に残っている。
大久保長安は、最強の戦国大名と謳われていた甲斐の武田信玄に見出されている。
信玄は、長安の優秀な経理の才能を見抜いて、若くして武田領における「黒川金山」などの鉱山開発や税務などの行政官として務めている。
甲斐武田家を数年で藩内政を再建したと言われているが、武田氏滅亡後、長安は家康の家臣として仕えるようになる。
家康重臣・大久保忠隣(ただちか)の与力に任じられ、その庇護を受け、この時、姓を「大久保」に改めている。
関東250万石のうち、100万石は家康の直轄領となったが、このときに長安は関東代官頭として家康直轄領の事務差配の一切を任されている。
1600年、関ヶ原の戦いの後、豊臣氏の支配下にあった佐渡金山や生野銀山などが全て徳川氏の直轄領になり、長安は1600年9月に大和奉行、10月に石見銀山検分役、11月に佐渡金山接収役、1601年春に甲斐奉行、8月に石見奉行、9月には美濃奉行に任じられている。 同時に幕府年寄(のちの老中)に列せられ、長安は家康から全国の金銀山の統轄や、これらに付随する一切の奉行職を兼務し、長安の権勢は次第に強大になったと言われる。
長安が石見銀山の初代総奉行に任じられたのは江戸開府の時期・1601〜1603年の間で、彼は直山制と呼ばれる公費投入による「間歩」(まぶ)の開発を行なうなど、様々な改革を行い「銀」の増産に務めた。
しかし晩年に入ると、全国鉱山からの金銀採掘量が低下するに従い、それに合わせるように家康の寵愛を失って代官職を次々と罷免され、1613年、卒中のために死去している。享年69歳であった。
長安の事柄は、ここで終わらないのである・・。
長安の死後、生前に長安が金山の統轄権を隠れ蓑に不正蓄財をしていたことが発覚、その理由で長安の遺児は全員処刑され、縁戚関係にあった諸大名も連座処分で改易などの憂き目にあった。
更に、こともあろうに家康は埋葬されて半ば腐敗していた長安の遺体を掘り起こして、駿府城下の安倍川の川原で斬首して晒し首にするという行為をやってのけている。
しかし長安が不正蓄財を行っていたという見解はほとんどなく、これは近年では、幕府内における権勢を盛り返そうと図っていた本多正信・本多正純父子の陰謀とも言われているが・・・?。
また、彼の財力と権勢を警戒した徳川家による粛清や、不正を行い易い他の代官に対する見せしめの意味もあると思われる(大久保長安事件)。
又、一説に長安は、家康より政宗(伊達政宗)のほうが天下人にふさわしいと考え、政宗の幕府転覆計画に賛同していたとも言われているが・・?。
一般的に権勢をかさにした長安の居振る舞い、死後の風評は決して芳しいとは言えず、その後の調査でも事件の有無に対して名誉回復がされたという記述、意見は聞かない・・。
このような理由で、大久保長安の石見銀山の墓地は、今も銀山史跡の華やかさとは裏腹に、かけ離れた山裾の野辺の地に一人静かに眠っているのである・・。
次回は、 銀山・・「間歩」
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