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from: orimasa2007さん
2009年12月18日 13時49分28秒
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日本周遊紀行(38)函館 「五稜郭と七重浜」
五稜郭城址の異形(下は一の橋)
日本周遊紀行(38)函館 「五稜郭と七重浜」
函館本線の始発駅函館から一つ目の駅・五稜郭駅から東方へ1km半ほど行ったところに
五稜郭公園があり、特異な形をした「五稜郭城址」が在る。
「五稜郭」は、稜堡(りょうほ:城壁・要塞の突角部、16〜18世紀、ヨーロッパで大砲による攻防に備えて発達、城全体は星形をなし、函館の五稜郭はその一種)と呼ばれる五つの突角を配し、文字通り星形の城郭である。
設計は幕府の蘭学者・武田斐三郎で、7年の歳月をかけ1864年にヨーロッパの城郭都市をモデルに竣工した日本で最初の西洋式城郭だという。
当初は外国の脅威に立ち向かうために築造が計画されたが、脅威が薄れていくとともに目的が国家の威信に取って変わり、函館開港時に箱館奉行所が置かれていた。
五稜郭は、慶応4(1868)年4月に大政奉還を経て明治政府へ引き継がれるまで、蝦夷地の中心として重要な役割を果たしたが、同年10月、榎本武揚率いる旧幕府脱走軍により占拠され、「箱館戦争」の舞台となったのはご承知である。
後には陸軍省の管轄下に置かれ、陸軍の練兵場となり、勿論、当時は市民が立ち入ることはできなかった。
現在、公園として一般に開放されるようになったのは、大正2(1913)年以降のことらしい。
昨今、五稜郭築城百年を記念して展望タワーが建造され、高さは60mの展望台から五稜郭の美しい星型を見ることができる。
周囲は壕を巡らし、春には堀端に巡らされた桜の美しい名所でもある。
「五稜郭」は、戊辰戦争の最後の戦いの地として、大方は周知である。
慶応4(1868)年1月に勃発した「鳥羽伏見の戦い」に始った戊辰戦争は明治2(1869)年5月の「箱館戦争」の終結をもって最終的に終了する。
その最後の戦い箱館戦争は、この道南の各地を戦場に巻き込んでいった。
慶応4年8月、新政府の徳川家に対する処遇に不満を持つ旧幕府海軍副総裁・「榎本武揚」率いる艦隊が、東北諸藩救援、旧幕臣による蝦夷地開拓を目指し品川沖から脱走してきた。
また、旧幕府歩兵奉行・「大鳥圭介」率いる陸軍も江戸を脱走し東北へと向った。
圭介率いる隊と「土方歳三」率いる隊の二手に分かれ箱館を目指し、両隊は五稜郭を占拠し、軍艦、回天・蟠龍が箱館港に入港し、事実上箱館と五稜郭は旧幕府脱走軍の占領下となった。
その後、松前・福山城や厚沢の館城を制圧、江差沖での開陽丸の座礁等のアクシデントもあるが、旧幕府脱走軍は道南・蝦夷地を占領し、蝦夷地領有の独立宣言をする。
目的は新政府からの独立ではなく、名目上は政府下での徳川家による蝦夷地開拓だった。
旧幕軍はその後、開陽丸などを失ったため、宮古湾に停留する政府軍の軍艦・「鉄甲」(宮古の項で詳細後述)などの奪還の奇襲作戦を挙行するが、作戦は失敗する。
これより以降、旧幕軍の劣勢、即ち、新政府軍の攻勢が始まるのである。
新政府軍は4500名を以って青森港を出航、乙部(現、渡島半島乙部町)に上陸し、各地を転戦、奪還、占領している。
このため旧幕府脱走軍は箱館周辺を残すのみとなった。
新政府軍は有川(現上磯町)付近に滞陣し、青森からの補給を待ち箱館総攻撃の準備を整え、遂に1869年5月11日、新政府軍の箱館総攻撃が開始された。
有川を出発した陸軍は七重浜・桔梗・四稜郭に向い、海軍は甲鉄・春日等が弁天岬台場沖、七重浜沖、大森浜沖から陸軍を援護する。
さらに軍艦、豊安・飛龍に乗り込んだ奇襲部隊は箱館山裏手から市街を攻撃する。
たまらず箱館市街は新政府軍に制圧され、旧幕府軍は五稜郭・弁天岬台場・千代ケ岡陣屋を残すのみとなった。
かつて、京都警備を行った会津藩と薩摩藩を窓口に、降伏勧告交渉がはじまったが、榎本は降伏拒否の意志を伝える。
しかし、弁天岬台場が降伏し、千代ケ岡陣屋が制圧され、ついに降伏を決意する。
明治3(1870)年4月、「五稜郭」は明け渡され、戊辰戦争は各地を戦火に巻き込みながら箱館を最後に終結した。
北海道では箱館や松前などが大きな被害を受け、その復興には多くの時間と費用がかかったという。
新撰組以降の「土方歳三」後半生について・・、<br>
新撰組副隊長の土方歳三が戦死したとされる場所は、現在の函館駅近くの若松町辺りとされている。
敗走してくる仲間を率いて進軍させ、『我この柵にありて、退く者を斬る・・!』と発したという。
歳三は、一本木関門を守備し、七重浜より攻めくる新政府軍に応戦、馬上で指揮を執っていたが、その乱戦の中、銃弾に腹部を貫かれて落馬、側近が急いで駆けつけた時にはもう絶命していたと言う。
函館戦争の旧幕府軍・榎本軍の幹部の中で、自ら死地前線に赴き戦死したのは「土方歳三」ただ一人であったという。
戊辰戦争も終盤の慶応4年8月、官軍は「会津」へ殺到、一か月に及ぶ籠城戦となった。
会津戦争では、歳三は母成峠の戦いに敗戦し、籠城に遅れた土方は開陽丸で北上してきた榎本武揚と共に仙台藩の青葉城に登城、列藩同盟の軍議に参加する。
この席上で土方歳三は、榎本に列藩同盟軍の総督に推薦されている。
この時土方は、『元より、死を覚悟の上ですので、各藩のご依頼は辞しませんが、三軍を指揮するには、軍令を厳としなければなりません。命令に背くものは斬らねばなりません。全将兵の生殺与奪の権を与えてくださるなら、お受けいたします・・!』ときっぱり答えている。
土方は、120人前後となった新選組と共に、榎本艦隊で仙台から蝦夷地へと向かった。
約2500名の脱走軍は函館城(五稜郭)に無血入城し、12月には蝦夷地平定を完了し、「蝦夷共和国政府」を樹立した。
土方は大鳥圭介に次ぐ陸軍No.2の陸軍奉行並に選出されている。
新撰組の京都時代は、短気な鬼の副長として知られ恐れられた土方であるが、この頃は人が変わったように温厚な人柄となっていたという。
土方は、現在の森町・鷲ノ木へ上陸した後、東海岸沿いの砂原、鹿部、南茅部から道道の83号線づたいに函館を目指し五稜郭に入った。
その後の戦歴は函館から、木古内、知内、福島から松前にいたり、松前城を落し、江差から熊石まで渡島半島の南端海岸線を巡っている。
土方は、新政府軍が函館総攻撃を開始する頃、敗色濃厚となっても新選組や前線兵士を救うため、わずか80人を従え騎馬で出陣していて、元より死を覚悟しての陣頭であった。
降伏戦死の後、土方の遺体は僚友・安富らにより五稜郭に運ばれ、埋葬されたという、享年35歳の若さであった。
話は変わりますが・・、
函館市西の郊外、函館湾に沿った浜を「七重浜」と云う。
小生が函館を訪れた今日は2004年9月25日である。
当たり前で別に変哲の無い事であるが・・!。
ただ、50年前の明日、つまり1954年9月26日、この場所で史上稀にみる大変な事が起きていたのである。
台風による国鉄客船「洞爺丸の遭難転覆事故」である・・!!。
走行中の車中のラジオで地元の放送局が、「洞爺丸遭難事故から50周年」という題材で、当時の放送記者だった某氏などより、取材当時の模様が語られていた。
小生は50年前は15才、中学三年生で、当時は未だテレビは無く、報道はラジオ・新聞だった。
このマスコミが大騒ぎで報じていたのを、今でも鮮明に覚えている。
この日洞爺丸は乗船乗客1300人あまりを乗せていた。
いちばん近い七重浜の海岸までわずか600mほどの至近距離 であったが、それでも、この、すさまじい台風(後日、洞爺丸台風と命名)のため洞爺丸は横転沈没し、多くの人が耐えきれずに 海底に沈み、生存者は僅かに150人だったという。
そしてこの地が、「七重浜」である。
遭難した死者が浮遊してこの浜に打ち上げられ、七重浜は阿鼻叫喚の凄惨な地獄の浜になったと言う。
タイタニック号に次ぐ史上第二位(当時)の海難事故といわれ、 この事故を契機に政府は莫大な予算を投じて、「青函トンネル」の建設を始めることになるのだが・・、
七重浜に向かって、南無阿弥陀仏・・!。
救難にあたった、ある自衛隊員の手記より・・、
『 私の命ぜられた作業は、砂浜に打ち上げられて海草やごみにまみれている遺体を探しだし、むしろを敷いたトラックの上に並べるというものでした。けれども我々隊員は、現場に到着した当初、あまりの惨状にショックを受け、足がすくみ動けなくなってしまいました。それを見た中隊長は、やにわに手にした指揮棒で我々を叩きまくり、速やかに作業するように命じたものでした。 6トントラックに日本人なら9〜10人、アメリカ人なら6人しか積めません。 仏様ですから、積み重ねるわけにはいきませんでした。七重浜から函館市内までの輸送時間は2時間程でしたが、遺体が多すぎて地元のお寺に収容しきれないため、やむなく函館と現地とのピストン輸送となりました。初めは動けなかった我々も、慣れるに従って、遺体をトラックに放りあげる様になりました。 なにしろ作業が多いので、自然と遺体も荷物扱いになってしまいました。ところが溺死体ですから、大変重いのです。そこで運んできた遺体を「ヨッコラショ」とかけ声もろ共放りあげたところ、現場に拝みに来ていた近所の人たちがそれを見ていて、エライご叱責を受け、閉口したのを覚えています。遺体は、苦しいのか両手を虚空をつかむ様に、もがくが如く握りしめていたり、眠るような子供だったりしたのが、今でも目に焼き付いております。人間の儚さ、脆さを、しみじみと思うばかりです・・、合掌 』。
因みに、この日、同じ北海道の「岩内」で、この台風の煽りを受けて、大火災が発生していた、これについては「岩内」の編で述べよう。
この遭難事件と岩内の大火を題材にした推理小説「飢餓海峡」(きがかいきょう)が、水上勉原作で著されている。
後に、同名小説を原作とする映画やテレビドラマのもなっている。
次回は「松前」(知内や福島は「温泉と観光」の項で述べます)
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