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from: orimasa2007さん
2010年02月09日 10時22分01秒
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日本周遊紀行(58)網走 「番外地と遺跡」
右の石碑は、映画『網走番外地』の記念碑
日本周遊紀行(58)網走 「番外地と遺跡」
網走の番外地と、はたまた「遺跡」です・・、
「網走湖」は、北部の網走川を2kmほど経てオホーツク海に注いでいる。
この網走湖に近い網走川の畔に、あの有名な「網走刑務所」がある。
以前、お上さん(妻)と冬の北海道を訪れた時、雪の中の刑務所を見物した。
高倉健の映画ですっかり有名になった網走刑務所も今ではすっかり網走観光の名所になっている感がある。
観光を目的として観光客が刑務所を訪問するというのは、ここ「網走刑務所」だけかもしれない。
網走川に架かる鏡橋を渡ると、重厚な赤レンガ造りの正門が出迎える、とは言っても受刑者が出入りする門ではなく、今は観光客用のものであるらしい。
刑務所特有の周りを取り囲む赤レンガの重圧な「塀」は相当な高さがあり一般人は脱獄なんてとても無理だと思われる高さである。
展示会場、販売店には受刑者が製作した木工製品や小物類や民芸品などをて観光客に販売されている。
看板には「博物館網走監獄」と記載してあるが、元々は「釧路集治監網走分監」として1890年(明治23年)に設立され、網走、旭川の道路工事を行うために受刑労務者を収容するのに開設されたのが始まりであるという。
大正11年10月に「網走刑務所」と名称が変わった。
明治維新以前、北海道は蝦夷地と呼ばれアイヌの人々が住んでいた。
江戸期には和人の定住が始まっているが、本格的に開拓されるようになったのは明治維新後に蝦夷地が北海道と名を改められ、北海道開拓使(現在の道庁・赤レンガ庁舎)が置かれるようになってからである。
明治期の日本は、欧米諸国に対抗しようと富国強兵政策を採った。
そして、国の経済を発展させるには、未開の地だった北海道の開拓が必要不可欠と考えられ、更に南下政策をとる帝政ロシアの脅威から国を守るための軍事拠点としても、北海道は重要な場所であった。 しかし、当時の国内の財政は北海道を大規模に開拓する余裕はなかった。
そこで考え出されたのが囚人を北海道開拓の労働力として使うことであった。
幕藩体制が天皇制に移行した明治の初め佐賀の乱や西南の役などの反乱が続き、その際に検挙されたいわゆる国賊と呼ばれる政治犯や荒れた世相の中で罪を犯す人々で、国内の監獄には囚人が溢れかえっていた。
その解決策として、内務卿だった伊藤博文は明治12年に太政大臣に提出した伺書の中で、こう述べたという。
『北海道は未開で、しかも広大なところだから重罪犯をここに島流しにして、その労力を拓殖のために大いに利用する。刑期を終えて解放された者は、ここにそのまま永住させればいい』
開拓の第一歩は、人や物資を運ぶための道路を整備することであった。
明治23年、網走刑務所の前身となる「網走囚徒外役所」が作られたのも、札幌-旭川-網走を結ぶ中央道路の開削工事に囚人を動員するためだった。
当時の網走は夏場には漁場が開かれていたが、冬は厳しい寒さと流氷に閉ざされる海沿いの小さな集落だった、そこに突如として1300名もの囚人が送り込まれてきたのである。
明治24年、中央道路の建設が開始される。
この道路は物資運搬のための流通道路と同時に、軍用道路しての役割が重視され、ロシアの南下政策に危機感があった政府と軍部は、網走-石北峠間の約180キロ区間を年内に開通させるよう命じた。
手付かずの原野を切り開く工事は、険しい地形と「熊」との戦いだったいう。
そして、昼夜を問わない突貫工事はあまりに過酷で、多くの犠牲者を出すことになった。
北海道では炭鉱や硫黄鉱山など、危険な場所で囚人労働が行われていたが、しかし、中央道路工事ほど数多くの犠牲者が出た現場はないという。
囚人たちは命がけで大地を切り開き、今の網走発展の礎となる道路を造ったのであった。その後、過酷な囚人労働は国会で「囚人は果たして二重の刑罰を科されるべきなのか」と追求をうけ明治27年に廃止されたという。
このように網走刑務所は、北海道の開拓を担った記念の碑的建物でもある。
過去に遡れば以上のような発端があったが、その後、言われるように重罪犯を収容していた。
しかし、現在では初犯をはじめ2〜4年刑期の受刑者が収容されているようである。
そして、この刑務所は嘗ては日本で一番脱獄が困難な刑務所だと言われた。
明治の脱獄王「西川寅吉」(模範囚として過ごし釈放)や昭和の脱獄王「白鳥由栄」(脱獄に成功)らが収監された。
又、施設の劣悪さと凶悪犯が多いというイメージから、映画「網走番外地」シリーズの舞台ともなっていることは周知である。
さらに、終戦前後の時期までは、治安維持法違反などの政治犯(主に、徳田球一や宮本顕治をはじめとする日本共産党の党員など)も収監されていたことがある。
その後、なお、映画「網走番外地」シリーズで、所在地が映画の主題になっているが、刑務所の所在地は正しくは網走市三眺地区であり、住居表示では網走市字三眺官有無番地となっていて、やはり番外地なのである。
映画「網走番外地」は1965年頃、東映系で劇場公開されたヤクザ映画で、主演高倉健、監督石井輝男のシリーズとして劇場公開された。 ヤクザ映画のハシリになった映画で、大雪原の脱走、トロッコによる追跡劇など主演の「高倉健」が熱演、スターダムに駆け上がった映画でもある。
そして、高倉健唄う「網走番外地」の歌もヒットしている。
『網走番外地』
春に 春に追われし 花も散る
酒(きす)ひけ酒ひけ 酒暮(きすぐ)れて
どうせ俺らの 行く先は
その名も 網走番外地
テイチクから発売されたこの歌は、高倉健の初レコードで、映画の大ヒットとともに、200万枚を超すベストセラーとなった。
しかし、歌詞に「酒(きす)ひけ」など香具師(やし:縁日・祭礼などの人出の多い所で見世物などを興行し、また粗製の商品などを売ることを業とする者、てきや。)の隠語が使われているため、一時放送禁止になった。
「酒(きす)をひく」は「酒を飲む」、「酒暮れる」は「日がな酒を飲む」という意味である。
「番外地」からすぐ近く、湖の東側に小高い丘で標高200m余りの「天都山」がある。山頂に展望施設があって、ここからの眺めは360度ですこぶる良い。
能取湖や網走湖を眼下に網走国定公園の全容はもちろん、知床半島と阿寒の山々の大パノラマを一望できる。 何よりもオホーツク海の流氷の景観は圧巻であろう。
すぐ北側に「北方民族博物館」がある。
北方地域に共通する衣・食・住・精神文化・生業などをテーマにした展示品があり、又、国指定のモヨロ貝塚遺跡からの出土品、による、オホーツク文化を紹介するコーナー等もある。
度々記したが北海道、特にオホーツク海沿岸には規模大きな古代遺跡が多い。
ここ網走にも国指定史跡の「モヨロ貝塚」(網走市北1条東2丁目)という遺跡がある。
この遺跡は網走湖から流れ出る網走川の河口にある巨大遺跡で、大正の初期この砂丘から大量の貝殻層を発見し、これに混じって土器や石器も出土したという。
この器はかっての日本人が使用してた縄文土器類とは全く違ったものであり、更に調べるうちにこれは北方系、つまりシベリヤ・カラフトから渡来した物である事が判明した。
つまり、北海道における「オホーツク文化」の発見であったという。
モヨロ貝塚の発見には、ひとつのドラマがあった。
実は、この遺跡を発見したのは学者ではなく、理髪師の米村喜男衛(よねむらきおえ・1892〜1981)という人物であった。
彼は東京で理髪師をするかたわら、アイヌ文化の研究に没頭する日々を送っていたが、大正2年にアイヌの研究のために網走を訪れた際に放置されたままの貝塚を発見している。
網走川沿いの急な断面に露出した貝殻層の中には、これまで見てきた縄文系の土器とはまったく違う文様の土器が混じり、周辺を歩くと幾つもの竪穴式住居跡があった。
彼は最寄村で発見されたことから、この貝塚を「モヨロ貝塚」と名付け、ここに住んでいた人々をモヨロ人と呼んだ。
今まで見たことも無かった特異な文化を持つ「オホーツク人」(オホーツク文化)の痕跡を見つけた米村は、すぐに網走に移り住むことを決意している。
米村は理髪店を経営する傍ら、モヨロ貝塚の研究と保存に没頭し、そして、店の奥に山積みにされていった出土品は、希望者に公開されるようになる。
この出土品の置き場が、昭和11年の北見郷土館(現在の網走郷土博物館)の開館につながっていく。
文化財という観念すらない時代に、彼は私財を投じてモヨロ貝塚を研究しながら、収集した3000点以上の考古資料を提供し博物館は開館に至ったという。
次回は、 知床の玄関口・「斜里」
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