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  • from: orimasa2007さん

    2010年08月17日 09時04分12秒

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    日本周遊紀行(129)東京 「江戸城・西郷と勝」

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    日本周遊紀行(129)東京 「江戸城・西郷と勝」




    勝海舟と西郷隆盛の像




    「桜田門外の変」から8年後、江戸城の西郷と勝は・・、

    幕府を立て直そうとして攘夷論者を弾圧、一掃した大老・井伊直弼は1860年、その急進派の凶刃に倒れた。 
    あれから8年後、既に徳川政権は瓦解していた。
    江戸城」は江戸時代末期の維新時、徳川幕府消滅後に明治政府(官軍)に明け渡されることになった。 

    官軍・西郷隆盛と幕府軍・勝海舟の最終談判によるものだった。



    幕末当時の勝海舟(麟太郎)は、剣、禅、蘭学を修めて蘭学塾を開いていた無役の御家人だった。
    ペリー艦隊が浦賀沖に現れた時、人材登用、海防整備などを進言し、蛮書調所(ばんしょしらべしょ:1856年:安政3年、江戸幕府が九段坂下に創立した洋学の教育研究機関、洋学の教授・統制、洋書の翻訳に当る。 後に開成学校と改称、更に東京大学になる)の翻訳担当者に任命される。

    やがて、長崎海軍伝習所で3年間軍艦の技術的な事を学び、この時、薩摩藩士達とも付き合いができている。
    この付き合いが後に、西郷隆盛との関係などに役立ったとされている。

    官軍による江戸城総攻撃の目前の3月13、14日に、勝と西郷隆盛の会談が行われた。 
    この時、勝は幕府軍のすべてを決定する実権をもつ「軍事取扱い」に任じられている。 
    相対する西郷は、東征軍の実質的な指揮者・大総督府参謀であった。

    勝は、『 戦役で江戸の一般市民を殺してはならない。将軍も私心は持っていないから公明寛大なご処置を。 』と言えば・・、 

    『 一存では決めかねるが、ひとまず総攻撃は延期しよう。 』
    西郷が答える。

    こうして、「江戸城無血開城」が決まった。
    慶応4年(1868年)のことであった。



    勝の回想録として「氷川清話」や「海舟座談」がある。
    これは海舟の談話を記者が速記したもの(海舟の細かいしゃべり方の特徴まで)であり、幕末・明治の歴史を動かした人々や、時代の変遷、海舟の人物像などを知ることが出来るとされている。

    その「氷川清話」の中で、海舟は西郷隆盛を語っている。



    『 おれはこれほどの古物だけれども、しかし今日までにまだ西郷ほどの人物を二人と見たことがない。どうしても西郷は大きい。妙なところで隠れたりなどして、いっこうその奥行がしれない。厚かましくも元勲などとすましているやつらとは、とても比べものにならない。
    西郷はどうも人にわからないところがあったよ。大きな人間ほどそんなもので・・・小さいやつなら、どんなにしたってすぐ腹の底まで見えてしまうが、大きいやつになるとそうでもないのう。西郷なんぞはどのくらい太っ腹の人だったかわからないよ。・・・・あの時の談判は実に骨だったよ。官軍に西郷がいなければ、話はとてもまとまらなかっただろうよ。その時分の形勢といえば、品川から西郷などがくる、板橋からは伊地知(正治)などがくる。また江戸の市中では、今にも官軍が乗りこむといって大騒ぎさ。しかし、おれはほかの官軍には頓着せず、ただ西郷一人を眼中においた。 

    さて、いよいよ談判になると、西郷はおれのいうことを一々信用してくれ、その間一点の疑念もはさまなかった。「いろいろむつかしい議論もありまっしょうが、私が一身にかけてお引受けもす」・・この西郷のこの一言で、江戸百万の生霊(人間)も、その生命と財産とを保つことができ、また徳川氏もその滅亡を免れたのだ。もしこれが他人であったら、いやあなたのいうことは自家撞着だとか、言行不一致だとか、たくさんの凶徒があのとおり処々に屯集しているのに、恭順の実はどこにあるとか、いろいろうるさく責め立てるに違いない。万一そうなると、談判はたちまち破裂だ。しかし西郷はそんな野暮はいわない。その大局を達観して、しかも果断に富んでいたにはおれも感心した。

    このとき、おれがことに感心したのは、西郷がおれに対して幕府の重臣たるだけの敬礼を失わず、談判のときにも始終座を正して手を膝の上にのせ、少しも戦勝の威光でもって敗軍の将を軽蔑するというような風がみえなかったことだ、その胆量の大きいことは、いわゆる天空海闊で、見識ぶるなどということはもとより少しもなかったよ。西郷におよぶことのできないのは、その大胆識(見識と勇気)と大誠意とにあるのだ。おれの一言を信じてたった一人で江戸城に乗り込む。おれだってことに処して多少の権謀を用いないこともないが、ただこの西郷の至誠はおれをしてあい欺くことができなかった。このときに際して小籌浅略(細かな浅いはかりごと)を事とするのは、かえってこの人のためにはらわたを見透かされるばかりだと思って、おれも至誠をもってこれに応じたから、江戸城受け渡しもあのとおり座談ですんだのさ・・
     』



    その西郷の銅像が、上野公園の正面に普段着で立っているのは周知である。

    歴史に残る江戸城の無血開城が決められ、西郷隆盛と勝海舟の会談が行われたのは、江戸城内ではなく薩摩屋敷である。 
    現在の東京都港区芝で、JR山手線の田町駅前あたりに会談跡の碑がある。

    明治元年3月13日、高輪の薩摩屋敷で先ず予備会談が行われ、次の14日にここにあった薩摩の蔵屋敷で江戸城の開城が決定されたようである。

    その後、明治4年〜6年の間、実質、「西郷内閣」の時、廃藩置県、徴兵制度、身分制度の廃止、宮中の改革、学校、警察、銀行、太陽暦採用等が採用され、維新としての近代日本の礎を作った。

    西郷は、その後「西南の役」で悲劇の人生を終えるが、明治22年明治天皇より正三位を追贈され、西郷の偉大な功績を偲ぶために上野の山に銅像を建立し後の世に残した。
    明治31年、完成時の除幕式には時の総理大臣・山県有朋や勝海舟、大山巌、東郷元帥等や800名が参加して盛大に行われたという。

    一方、風光を愛し洗足池公園(大田区千束:洗足池は湧き水を水源とする池で、日蓮上人が旅の途中にここで手足を洗った伝承から洗足池に転じたと言われる)に別邸を持っていた勝海舟は、妻とともにこの地に眠っている。 

    隣には西郷南州(隆盛)の留魂祠も建立されている。 
    勝の、西郷への思い感じさせるのである。

    尚、「西郷隆盛」に関しては周遊紀行の中の「薩摩・鹿児島」の項にて詳細記載する予定です。


    次回は、江戸城界隈



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