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from: orimasa2007さん
2010年11月12日 14時24分35秒
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日本周遊紀行(37)紀伊地方 「古代伝承の地」
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日本周遊紀行(37)紀伊地方 「古代伝承の地」
錦地区の山頂にある「神武台」とそこから見下ろす「錦の港」の美景
神武天皇上陸の地
南島町の海岸は三陸海岸に似た、典型的なリアス海岸である。
リアス海岸というのは三陸地方でものべたが、スペイン北西部、ガリシア地方のリアというところで多く見られることから命名されたといわれ、スペイン語でリア (ria) は深い入り江を意味する。
日本では岩手県の三陸海岸や志摩半島から南紀にかけての海岸線、また福井県の若狭湾沿岸、福岡県・佐賀県の玄界灘沿いなどが代表的なリアス海岸である。
その海岸、又は海岸線は入り組んだ地形をしており、「溺れ谷」といわれる地形が連続している状態をいう。
溺れ谷とは陸上部の谷筋が、海面の上昇や地盤の沈降で海面下に沈んでできた湾のことで、最終氷期の1万年から5千年前までの海面上昇で世界中の海岸にできたといわれる。
大きな川の河口近くなどでは砂泥に埋められて平野となったが、土砂泥の供給の少ない所にこのような地形が残っているという。
国道260号線が走る複雑な海岸線の高台から見下ろす贄湾(にえわん)の入組んだ浦の風景が良い。
島を挟んで阿曽浦と贄浦を結んでいる大小の橋が遠望できる
以前は、砂洲や海崖で形成されていたため、険しい陸路しかなく、渡船が主な交通手段だったという。 しかし、南島大橋と阿曽浦大橋の親子大橋が架けられたことにより、現在では阿曽浦から最短の距離での行き来が可能になった。 又、海と空の青、山の緑に映える美しいピンク色の橋は町のシンボルにもなっているとか。
入り組んだ内湾、阿曽浦では、真珠養殖やヒオウギ貝がとれ、外海では伊勢エビ刺網や真鯛の養殖も行われているという。
相変わらず屈曲した山のアップダウンロードや幾つかのトンネルを抜けると、広大な神前湾が望まれる。 その名も神前浦というところには、仙宮神社というお宮があり、ここには「猿田彦命」を祀り伊勢神宮に関わりの深い神社といわれる。
又、仙宮(せんぐう)神社の浜寄りの道路わきに老松に守られるようにしてひっそりと佇んでいる「倭姫命腰掛岩」というのがあった。
伊勢に向かう旅の途中、倭姫命はこの地を通り旅の疲れを癒そうと休憩されたという伝説があるという。
伊勢内宮の手前に猿田彦命と倭姫命が少々離れて祀ってあるが、どちらも伊勢神宮遷宮に所縁のあるミコトである。 その由緒は倭姫命が天照大神を祀るのに相応しい地を求めて諸国を巡っていたとき、猿田彦の子孫である大田命(おおたのみこと)が倭姫命を先導して五十鈴川の川上一帯を献上したとされている。(伊勢神宮) 大田命の子孫は宇治土公(うじのつちぎみ)と称し、代々伊勢神宮の玉串大内人(伊勢神宮などで諸務をつかさどった官人)に任じられている。
南島町には神前浦、神前湾などの呼称もあり、いかにも神宮に縁のありそうな名前である。
再びトンネルの多い、海沿いの山岳ロードである。
一人のサイクルトラベラー(自転車旅行者)の青年が車を引きながら登ってくる、登り下りの多いこのような道程は叶わないであろう。
こちらは、いわゆる自動の車で・・、お察し申し上げます。
暫くして「錦浦」へ出た。
規模は小さいながら鄙びた漁港と品のいい海水浴場の組み合わせが良い。
西行法師が熊野三山から海路二見浦へ向かう途中、錦の漁村を通りかかり余の美しさに詠んだ歌が「山家集」に載っている。
『 海に敷く 紅葉の色を 洗ふゆえに
錦の島と 言ふにやあるらん 』
「錦」は古くから「風待ち港」としても栄えた港町で、一流の歌人・西行の心もとらえたのであろう。
ここから更に明るい峠に出ると「神武台展望所」と、真新しい看板があった。
急な階段と尾根道を数分登って行くと、「神武天皇上陸記念地」としてあり、立派な展望塔があり石碑も在った。
石碑には『 伊波礼彦尊(いわれひこのみこと:古事記、後の神武天皇)が西暦239年、九州の美々津浜を船出し大和制圧のため、日向の国(宮崎県)を出発された。途中、長髄彦(なかすねひこ)の強力な抵抗に遭い、陸路からの進軍をあきらめ船より進軍した。紀伊半島に迂回し熊野灘を北上、遂に大和入りに成功して橿原で即位された。この大和入りの上陸地点とされる学説には、錦浦とするもの、二木島とするもの、那智勝浦とする説などがある。古代の遺跡や遺物を実査した二人の著名な考古学者と歴史学者が「錦浦は太古より開けて高度な文化を誇った豪族大家の住ませし所」と論証している。この錦浦は大和の宇陀地方とは最短距離にあり、遺跡や遺物が示すように、恐らく古代の熊野灘沿岸には、錦浦の他にこれといった集落もなく、錦浦だけが海に開けた唯一の水陸交通の拠点であったと推定されている。
(以下、略)
この事から、神武天皇が上陸したとされる地点は唯一錦であろうと推定される。昔から地元では、神武天皇がお座りになったという石があると言い伝えられている。 平成16年(2004年) 紀勢町 』
と書かれている。
ここから見渡す熊野灘と海岸線は豪快そのものであり、なにより真下に見える錦湾の錦漁港が絵のようである。
気が付けばここは既に紀勢町であった。
この錦地区は神話の時代、神武天皇が東征の際に上陸した地点であるといわれている。 錦地区には神武山と呼ばれる山も在る。
そして、この地区には各所に10数基の古墳が確認されており、古墳時代(日本の3世紀後半〜4世紀初めの飛鳥時代の頃から奈良時代を指す)の夥しい量の遺跡物が出土しているという。
当時、この地方は国内屈指の文化をほこる大都市であったと推測されているという説もあるとか。 遺跡のなかに「海獣葡萄鏡・かいじゅうぶどうきょう」や「三角縁神獣鏡・さんかくぶちしんじゅうきょう:町指定文化財」といった、中国の隋・唐時代(6〜7世紀・奈良平安朝)の様式のものが発見されている。
「鏡」というのは、古代、権力の象徴であった。
鏡は神霊性を有すると考えられ、この世界の政治的支配、帝王権力の支配として神秘化し神霊化したものとされていた。
「海獣葡萄鏡」の主文様は獅子と葡萄の蔓(つる)から構成されていることから命名されている。 又、「三角縁神獣鏡」と言う名前は、鏡の縁の断面部分が三角形になっており、背面の模様に「神と獣」が刻まれているという。
一般に大型の古代鏡は、太陽光を捉える、そして反射する「ヨリシロ」として神聖視されてはいたともいわれ、直径30cm近くになると2kgを越える銅の塊になり、このため大型鏡は移動させるなどという事は通常では無く、現存する鏡は支配者の権威を現す象徴であり、或いは「御神体」とも考えられるという。
序ながら、11月30日は「い(1)い(1)ミ(3)ラー(0)」の語呂合わせで、「鏡の日」という記念日らしい。
「神武天皇」について
神武天皇が奈良の橿原で天皇として即位したのは、紀元前660年旧暦1月1日(紀元節)であるとの説が一般的である。 無論、古事記、日本書紀に言われる神代のことである。
奈良時代の1300年前に編纂された古事記や日本書紀は、日本で最古の歴史書といわれ、日本人の起源や日本国土の造成が日本神話によって語られている。
この神話によると高天原(天上の国・神の国)を中心とする神々がその大半を占め、イザナキやイザナミ(日本国土の神)、アマテラス(イザナギの子・日の神・高天原の統治者)、山幸彦と海幸彦(アマテラスの子孫)、神武天皇(アマテラスの子孫・山幸彦の孫)等が主流で登場する。
アマテラスの子供達が初めて国土へ降りてくる(天孫降臨)、この地が九州の地「日向の高千穂」といわれる。
その後にアマテラスの子孫である神武天皇(実際には未だ即位しておらず、日本書紀では神日本磐余彦尊:カンヤマトイワレヒコノミコト という)が45歳のとき、兄弟や子供から「 東に良いところがあると聞く。おそらくそこが日本の中心地だろう。そこに行って都を造るに限る 」(大和の国)と言われ、兄弟3人と共に日向を発つ。
これが一般に神武天皇の東征といわれる。
一行は直接大和に行ったのではなく、いろいろと寄り道をしている。
始め九州北部から中国地方を回って生駒山(大阪)から大和に入ろうとしたが、大和族の抵抗が激しく失敗する。 次に海路にて熊野から大和の国へ入ろうとし、この時、紀の国の「錦浦」に上陸したとも伝わる。
錦浦は当時この地方の文化の中心であったことは記したが、尚且つこの地は大和の地に最短の距離にあった。
神武天皇はやっとの思いで熊野につき、険しい山の中を八咫烏(やたがらす)に導かれ、苦労の末に大和の国の主・長髄彦(ながすねひこ)を滅ぼし、東征から6年目で橿原の地(奈良・橿原神宮は神武天皇の御陵)に宮を築き、即位する。
ここに初代天皇といわれる神武天皇が誕生するのである。
時に紀元前660年2月11日であったとする。 この日、2月11日を建国記念日(旧紀元節)としているのは周知である。
紀伊地方の「南島町」は 2005年10月、隣接する南勢町との合併により南伊勢町となった。、隣町の「紀勢町」は2005年2月、大宮町、大内山村と合併、大紀町になっている。
次回は「紀伊長島と古道」
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