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from: orimasa2007さん
2011年01月26日 10時46分46秒
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日本周遊紀行(70)横浪半島 「武市半平太」
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日本周遊紀行(70)横浪半島 「武市半平太」 、
高知・横浪黒潮ラインに立つ「武市半平太」の像
至誠の人・武市半平太の像が横浪半島の丘に立つ 、
桂浜を後にして、海岸沿いの快適な県14、県23号線の通称「黒潮ビーチライン」を行く。 海岸のコンビニで大洋を眺めながら、チョット遅い朝食を摂る。そこからは、わずかに孤形を帯びた宇佐漁港、朱色の宇佐大橋、そして横浪三里といわれる景勝地の横浪半島が右手に見えている。
紀州・和歌山の項でも述べたが、宇佐漁港は「鰹(かつお)の漁法」、「鰹節」の発祥の地である。
元々、紀州の印南町が鰹漁と鰹の一本釣りの発祥地といわれる。
かつては廻船問屋や漁船の基地として知られ、印南の漁夫たちは日本でもトップクラスの鰹漁の技術を持っていた。 ところが鰹船団で財をなした豪家、角屋甚三郎が、ある事件をきっかけに船団を率いて、土佐へ移ってしまったのである。 その地が「宇佐」であった。
カツオの漁法とともに、鰹節(熊野節)の製法を土佐国に伝えたのを、きっかけに土佐藩は鰹節を藩の貿易品にしようと考え、その製法を積極的に取り入れた。
息子・甚太郎は焙乾(燻乾)の創始者でもあり、江戸中期の頃までに大きな改良が行われ、煮熟・焙乾・カビ付けに取り組み、これが改良節、土佐かつお節と呼ばれている。
更に、宇佐在住の印南の職人が伊豆や薩摩に招かれ、作られたのが伊豆節、薩摩節といわれる。 明治時代に入って、伊豆節が目覚しい発展を遂げ、土佐節・薩摩節・伊豆節が三大名産品と称されるようになった。
日本沿岸で多量に捕れるカツオは干しカツオにし、さらに焙乾法の出現により鰹節に引き継がれ、日本人の保存用タンパク源、調味料として不動の地位を確立していくのである。
宇佐漁港は、現在、クジラ・ウォッチングの出航地として人気があり、また幕末、ジョン万次郎(中浜万次郎)が船出したという港でも知られる。
万次郎は、土佐中浜に生まれ、その数奇な運命と独自の才覚によって、近代日本の夜明けともいえる時代に日米の架け橋となる幾多の業績を残した。 あの坂本竜馬にも多大に影響与えたという。「ジョン」という姓は、捕鯨船・ジョン-ハウランド号に由来するという。
万治郎は故郷へ錦を飾った後、地元の名を付けて、中浜万治郎(1827〜1898)と名のった。アメリカで学んだ英語力を活かし、威臨丸に通訳として乗り込み、勝海舟、福沢諭吉らとともにアメリカに派遣されるなど活躍、維新後は学校の教師など、日本の英語教育の確立に貢献する。
宇佐漁港の外れから昭和49年に華美な橋が開通した。
その「宇佐大橋」を渡って、対岸の島のような横浪半島へ行く。
すぐに36番霊場「青竜寺」があった、堂々たる山門をくぐり、長い石段を登ると正面に本堂、その左に大師堂、 右に薬師堂が並んでいる。
潮風を受ける本堂の軒下には宇佐の港にも象徴される、多くの船を描いた絵馬が奉納され、船人たちの本尊・波切不動明王への厚い信仰が伺える。
因みに、「不動明王」とは・・?、
仏教で云う「大日如来」とは、森羅万象全てを創造した宇宙の根本仏のことで、仏像には普通、大日如来を真ん中にして右側に観音様(壷を持つ=凹=水)、左側に不動明王(剣=凸=火)を配置するという。 つまり、観音様は肉体で、「不動明王は精神を現す」といわれる。 これは、人の腹、首、頭の三位一体を教えているともいう。
不動明王の精神は、仏道に導くために煩悩を打ち砕き、悪魔を下し、邪物を畏怖せしめ、菩提の心が揺るがないことから不動という。 押し寄せる大波(煩悩)を粉々に打ち砕く不動様を特に「波切不動明王」と信じ、この不動様を拝めば、どんな嵐でも船は安全であり、
大漁もまた間違いなしといわれる。
朱色が鮮やかな三重塔が石段の途中の左側にある。
青龍寺・三重塔
「青龍寺」は、弘法大師が唐の都・長安のにちなんで建立したという。 また、平成の大横綱と形容されるモンゴル出身の「朝青龍明徳」という「しこ名」は、四国霊場・青龍寺に因んで名づけられた。 明徳の名は、同寺の近くにある出身校であり、高校野球でも有名な明徳義塾高校の名をを付けたもの。
因みに、「朝青龍」の所属するの高砂部屋は現、若松親方(元大関・朝潮太郎)で、出身は室戸市である。
横浪スカイラインへは、更に屈曲した道を登り、細長く伸びる横浪半島を縦走する。
高知県内一番の人気のドライブウェイというが、小生にとっては見慣れた風景でもある。 南に荒々しい太平洋、北には四国山脈と南国の保養地・入江三里といわれる鏡のように穏やかな内海(浦の内)を望め、半島全体が深緑におおわれて目にも優しい。
横浪黒潮ライン途中に休憩所があり、ここに、龍馬と同じく土佐藩の幕末志士の一人、武市半平太(瑞山)の堂々とした像が立つ。
至誠の人・武市半平太瑞山(1829年〜1865年)は桂浜、浦戸湾の近くで生まれている。
幕末・安政期、桜田門外の変(大老・井伊直弼の暗殺事件)の後、半平太は土佐藩の下級武士を集結させて土佐勤王党を結成する。龍馬も加盟するものの、早くから自らの土佐藩に見限りをつけ脱藩し、半平太と進むべき道を異にしたのである。龍馬の脱藩を知ったとき半平太は「土佐にはあだたぬ (狭い土佐にはおさまりきらない)奴よ」と言ったという。
半平太は、その後も土佐藩を勤王思想・尊皇攘夷で統一しようと活動を続け、一方の龍馬は勝海舟と出会い、開国論に目覚める。 二人は、其々違った道で世の変革を求めるが、半平太は公武合体派の山内容堂の弾圧にあい投獄され、慶応元年(1865)、道半ばにして36年間の生涯を閉じている。
辞世の歌は・・、
『 ふたゝひと 返らぬ歳を はかなくも
今は惜しまぬ 身となりにけり 』
維新後、山内容堂は武市を殺してしまったことを何度も悔いていたという。 しかし、維新後、木戸孝允は旧土佐藩主山内容堂との酒の席で酔い「なぜ武市を斬った・・?」と容堂をなじったが、容堂は「藩令に従ったまでだ」と答えたとも言う。
勤王党仲間内でも、一死君国のため脱藩した志士達も、お互いを呼び合う時は全部土佐弁丸だしでオンシ、オラを使い、年齢の後先はなかったという。身分の上下を越えて、みんなオンシ、オラで、このオンシ、オラは勤皇志士の合言葉でもあった。ただ、武市瑞山は別で、一枚上であったという。皆は瑞山先生とか、武市先生とか呼んだという。「瑞山」とは号(ごう)で、武市を称える名称でもある。
「維新土佐勤皇史」には、次のような記述がある・・、
『身長は2m近い。すらりとした長身。顔は青白いといっていいほど白く、鼻が高く、顎の張った骨っぽい表情。その表情は、滅多なことでは動かず、目に尋常ならぬ鋭い輝きがある。ひとたび口を開けば、音吐高朗、人の肺腑に徹する。人格、また高潔、一枝の寒梅が春に先駆けて咲き香る趣があった。』
武市の人格を評するには「人望は西郷、政治は大久保、木戸(桂)に匹敵する人材」といった言葉が残されている事からも、高潔な人物であったことが伺える。
坂本龍馬と半平太の出会いは、龍馬が初めて江戸へ剣術修行(千葉道場)に出たとき、土佐藩下屋敷で一緒になったのが始まりで、半平太は龍馬より6歳年上、このとき龍馬は19歳、半平太は25歳であった。
半平太は、城下でも謹厳実直できこえる器量人で、しかも几帳面。龍馬とは正反対のタイプで考え方においても、事あるごとに二人は対立したようであるが、どこかでウマが合い、竜馬を弟のように思い、仲が良かったと言われる。 尤も、龍馬とは遠縁にあたるともいう。
次回は、窪川町の「あぐり」・・?
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