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  • from: orimasa2007さん

    2012年04月14日 09時13分36秒

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    日本周遊紀行(224) 富山 「越中守・佐々成政」

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    日本周遊紀行(224) 富山 「越中守・佐々成政」 .




    富山駅の南、国道41号線(飛騨街道)沿いに「富山城址」がある。 
    南大手門より本丸南側の堀と石垣を水に映して天守閣が聳え、城内を行くと白壁の新装したであろう城郭が美景である。 
    ただ、天守閣・望楼が工事中なのが、やや残念であった。 本来は、五層の大天守閣であったが、現在のものは三層の模擬天守として建てられていて、天守内部は郷土博物館になっているという。

    慶長5年の関ヶ原の戦功により金沢城主・前田利長(藩祖・利家嫡男)は、加賀・能登・越中の三ヶ国120万石を得た。 
    寛永16年、三代・前田利常は次男利次に富山10万石を与えて分家させ、廃城と化していた富山城を修復し、寛文元年に入城して富山藩が成立している。 
    その利次の次男が二代藩主・前田正甫である。 正甫自身、病弱だったこともあり、薬に興味を持ち、自分でも調合したり、内外の薬の製法を領内に広めさせた、そして富山の売薬の基礎を築いたとされる。 
    以後富山・前田氏十三代の居城として明治に至る。 
    園内には前田正甫の銅像が建つ。


    それより以前の戦国期の天正7年(1579年)、織田信長は佐々成政(さっさなりまさ)を富山54万石封じている。 
    成政は、城を改修し城下町の整備を行うが、信長の急死後の後継者争いで反秀吉の立場をとり、柴田勝家滅亡後は秀吉の軍門に降る。 
    天正15年の豊臣秀吉の九州征伐後、肥後熊本へ転封になるが、この間、成政が富山に留まったのは僅か5年程度であった。 
    だが、この時期に奇想天外の戦跡、立山黒部の山岳と渓谷を徒歩で越える「さらさら越え」で、佐々成政のその名を残した。


    少年期より織田信長の家臣で、柴田勝家の北陸攻略に従軍、越中まで占領が終わるとその功によりそのまま富山城主になる。 
    ところが本能寺の変で信長没後、山崎合戦、清洲会議、賤ヶ岳合戦、小牧長久手の戦いと時代の勢いは羽柴秀吉が実権を握り、越中富山は、越後の上杉景勝・越中加賀の前田利家・飛騨の金森長近といった秀吉方の大大名や側近等に囲まれ、身動きが出来ない状態であった。 

    賤ヶ岳合戦で柴田勝家が破れた後は三方を囲まれて孤立無援となり、そこで天正12年(1584年)12月、成政は秀吉と対峙していた徳川家康に出兵を促す為、自ら百余名の手勢を率いて家康の居城・浜松城に向かう。 
    その道程に立山・黒部渓谷越えを選んだのである。 
    果たして足掛け8日で極寒の渓谷を越え、信濃の大町からその後一行は家康との面会を果たすが、家康は既に秀吉と気脈を通じていたため、説得は拒否され失敗に終わるのである、無念なり・・!!成政。


    そればかりか、事もあろうに彼は、再び同じ道を引返したのであった。 
    その後、秀吉自ら越中征伐に乗り出し、富山城を10万の大軍で包囲、成政は織田信雄(のぶかつ、信長の次男)の仲介により降伏した(富山の役)。 
    後、秀吉軍門下、九州平定で功をあげたことを契機に肥後国一国を与えられたが、治安の失政により切腹に及んでいる。享年53歳であった。
      

    その北アルプス黒部越えの道は、既に平安期より立山信仰圏で開けていた。 
    越中岩峅寺を通り千寿ガ原、そこを流れる常願寺川の河岸から立山温泉、源流部の湯川谷から鷲岳北方のザラ峠(2348m)に到る。 
    次に黒部谷の中ノ谷から刈安峠を越えて黒部川の河岸の平小屋へ、黒部川(現、黒部湖南部)を渡り、核心部である針ノ木岳の針ノ木谷、針ノ木峠、籠川谷(日本三大雪渓の一つ・針ノ木大雪渓)を経て扇沢、大町へ到っている。


    若い時分より登山経験のある小生ではあるが、このルートを見ると、厳冬期にはよほどの重装備、周到な計画と底知れない体力が必要と認識する。 
    当時、魔物・妖怪が棲むとまでいわれていた極寒立山の山岳地帯に踏み入った行動は、多くの人の目には、余りに無謀としか思えなかったのは当然であろう。 

    だが、成政一行は、信濃や遠江、尾張地方を担当していた芦峅寺衆徒らの道案内で立山信仰圏ルートを進んだのである。 地形に精通した人々が協力し、天候を判断しながら緻密な計画のもとに決行されたと思われる
    。 それにしても昔に人々の底知れない力強さは、現代人から比べれば、到底、及ぶべきもないし、この行動は冬山集団登山の先駆ともいえるだろう。
     

    佐々成政の「さらさら越え」(ザラ峠)ルートは戦国の昔から忍びの道としても使われ、江戸時代にも信濃の人々は立山参りの裏参道として密かに利用していたという。 
    この、山道は、明治8年に道幅約3m、道程90キロ、所々に小屋や牛小屋を建て荷牛が通れるスーパー山道・越信新道に仕上げられ、越中から塩や魚、薬などの物資を運ぶ山岳産業道路となった。 
    しかも我が国初の有料道路とし、その収益で道の維持を図ったとされる。 

    だが豪雨や冬期の崩壊破損が激しく、越信新道は開通からわずか数年の明治15年に廃道となっている。

      

    戦国の世、一向宗徒の焼討や上杉勢らの侵略によって越中の民衆と土地は疲弊し、又、常願寺川と神通川の氾濫によって、富山の城下町周辺はそのたび毎に泥海と化し、民衆の生活は悲惨のどん底だったという。 

    越中に入国した成政は、このような状況に冬の休戦期間(11月〜翌年3月ごろ)を利用して、常願寺川や神通川、いたち川の治水事業に取り組んだという。 
    その後、上杉勢や越中の国人衆らを抑え、越中支配を遂げるのである。 

    成政は、「民衆の安住と国土の平安」を願い、富山城を当初「安住城」と名付けている。 自分の政治理念を城の名前にまで込め、また自然災害から民衆の生活を守ることに努めた成政の姿勢は、多くの地元民衆に慕われたという。
    一方で成政は、お家の内紛により非道を行ったとして、暴虐残忍の暗主のイメージもあったが、実情は、後に越中を治めた前田氏によって作られた捏造であったことが、近年判明している。
     

    現在、テレビ等でもお馴染みの「佐々 淳行」(さっさあつゆき)氏は、日本の危機管理の第一人者といわれる。 
    「連合赤軍あさま山荘事件」では、警備幕僚長として監督管理に携わり、昭和61年より初代内閣安全保障室長を務め、昭和天皇「大喪の礼」の警備長を行い、現在は文筆、講演、テレビ出演と幅広く活躍している。 
    彼は、佐々成政の系譜、子孫に当たるという。


    次回は「富山湾



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