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from: にしき鯉さん

2010年02月17日 19時15分53秒

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仏教考察②

minamikazeさん、みなさんへ前に大乗仏典の間違いを書くといいましたとりあえず間違いというより「考察」と考えて読んで下さい大乗経典は作り話が多す

minamikazeさん、みなさんへ

前に大乗仏典の間違いを書くといいました

とりあえず間違いというより「考察」と考えて読んで下さい

大乗経典は作り話が多すぎるんです
もちろん、時が流れれば解釈の違いはでてきます
しかし、本流を捻じ曲げては「本末転倒」になります

例をあげます
「維摩経」という大乗経典があります、
これは維摩結という人物が釈迦の十大弟子をやりこめるという物語的な経典です
背景には上座部(小乗仏教)の信徒を大乗仏教が根こそぎ奪うために釈迦の残した修行法方を徹底的に批判する経典です

維摩結は在家の人でありながら徳が高く梵天もお金持ちの長者方も尊敬してるという設定です

そして釈迦の高弟にいろいろ教えるという話です

舎利仏が瞑想していたそうです、そこに維摩結があらわれて話しかけます、

「のう、舍利仏、必ずしも坐ることだけが座禅ではありませんよ」

「座禅というものは、俗世間の中に在って、身と意(こころ)とを現さないことなのです。」

「何もせず、心の働きを止め、しかも諸の俗世間の行いをするのです。これが座禅です」

又、大目〓連にはこういいます
彼は乞食(こつじき)をしながら法を説いていました
またまた、維摩結がいいます

「のう、大目連、俗人の居士の為に法を説く時には、あなたがなさっているようになさるものではありません」

「法(事物)を説くということは、法の有るがままを説かなくてはならないのです。」
法として衆生を説いてはなりません。(法は)
衆生という考えから、かけ離れたものです。

法は五感では推し量れません。心では識別できないのです

法には形相がありません。虚空のようなものなのです。
 
法には言論は必要ありません。つまる所、空なのです。

法は、本性が空であり、知覚できる相はなく、他に作用することもありません。
・・・・・・・

こんな感じで物語が進んでいきます、しかし実態は机上の空論をこねくり回して真理を見えなくしているだけなんです

そして釈迦の高弟たちは反論できなくて困ってしまうという話です
民衆は「おお、高弟たちが反論できないということはやはり維摩結が高弟達よりも優れているんだ」と思い大乗の教えに感嘆したというお話です

そんな話が実際にあるはずがありません、釈迦は「悟り」を表現するために十二縁起を説き、七科三十七道品を修行の方法として説いたのです
原始経典では維摩結はでてきません(知っている限りでは)
・・・・・・・・・・・・
次に法華経です、
と、考えたのですが大川さんも法華経の影響を大分受けているようなので、、、
不可侵条約にふれそうなので今回は止めます
今、「太陽の法」(初期版)を読んでいます、もっと大川さんの思想を理解してから皆さんのやくにたちたいと思います










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from: ueyonabaruさん

2010年02月26日 10時43分45秒

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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:仏教考察②」
 にしき鯉さんから、#437に対するご回答が手違いで、私あての個人レタ-のかたちで送られてきましたので、ご本人の了解を得て、ここにアップします。



 #437ですね、わかりました

> <この帰依というのは、キリスト教のイエスへの帰依、あるいは、幸福の科学のエル・カンタ-レへ帰依するということと、同じ性質のものだと言ってよろしいでしょうか。帰依する対象が異なるだけだと。>

  そうです、全く同じです

「帰依」は帰るよりどころ、心の原点の事です
私は釈迦は素晴らしいと思いますが人間としての釈迦は冷静に見ています
「大悟」を得たといっても個性は残ります
一つの完成形であると同時に解脱や悟りの道筋を作ったことに敬意を持って帰依しています
・・・・・・・・・・


>  <徳一と最澄の「三権権一」論争のことをご存知でしょうか>

  大筋では知っていますがあまり詳しくはありません

 私は最澄も空海も徳一も部分的仏教だと思っています

特に最澄は天台智〓の五時教範が総ての考えの基本になっていますので「法華経」以外は認められなかったのでしょう
それが大乗だと言われればそれまでですが、、、

徳一さんもも大乗ですよ、ただ、行に裏づけされたものをを中心に考えるか、理論を中心に考えるかの違いです

私の中では「最澄」は評価があまり高くないですね
開祖としての実績は認めますが法華経の理論だけが空転してる感じです
法華経だけでは「悟り」に行き着かないのは最澄自身が一番知っていたのではないでしょうか
だから空海に弟子を送ったのだと思います
最後はその弟子も空海に帰依してしまいましたが、、、

・・・・・・・・・・
最澄は布教のため、東北に進出、そして徳一と論争になったんですよね

徳一の「声聞・縁覚・菩薩」の三乗と最澄の「菩薩乗一道」の論争です

前にも書きましたが「大乗」「小乗」というのは修行法方の違いです、どちらが正しいなんて事はないんです

考えて見て下さい、まわりの友人のなかでも大きな心の持ち主
いい人だけどうつわの小さな人がいるでしょう

その人にあった方法で行けばいいんです
小乗だからといって卑屈になる必要はないんです
大乗思想で進んでつぶれるよりは小乗の修行で悟った方がいいという考え方もあります
その人の心のスペースが広いか、狭いかによるもので「いい方法」「悪い方法」ではないのです

徳一さんは山岳宗教をしながら東北で信望者をふやしていきました
自分が修行で得た実体験を元に民衆に三乗の法を説きました
理論だけだったら民衆は「徳一菩薩」とまでは言わなかったでしょう

かたや最澄は「法華経」が最高にして「釈迦の教えの総て」だという考えから抜け出せなかった
時の権力者のバック・アップもあったから一層プレッシャーがあったと思います

結果は引き分けという事ですが本当は最澄が勝ちきれなかったという事です
もっと最澄に「真摯に学ぶ」「真理を得るためなら自分を捨てる」気持ちがあれば空海とも徳一とも上手くやれたんだと思います

徳一はまずしい天才、最澄は育ちのいい秀才というのが私の感想です
・・・・


<大川先生が取り上げておられます。この論争は、徳一の方が小乗的であり基礎的修行を重視したのに対し、最澄が大乗の仏性論を展開したのだろうと推察されます。>

この判断は公平に見て正しい解釈です
私もそう思います

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