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from: ueyonabaruさん
2008年02月27日 09時19分06秒
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「Re:Re:佐倉さんの時間、空間論」
しばらく、時間・空間論について勉強したいと思います。佐倉さんのことも、この時間・空間論について自分自身でハッキリとした認識を持たない限り、分からないと思われます。
佐倉さんは、もともとクリスチャンであったそうで、信仰を放棄したとのことです。クリスチャンは堅信な方が多いのですが、なにか大きなことがあったのでしょう。
そこで、キリスト教神学で大きな位置をしめるアウグスチヌスの告白録を読んでみることとし、昨晩から読みはじめました。特にこの方の時間・空間論を注意していくつもりです。
大川師は「永遠の法」でアウグスチヌヌスは、あとにハイデッガ-として生まれ変わったとのことをおっしゃっておりますので、このことも考えてみます。大川師は、両者の時間論を比べれば同じ魂であることが分かるとおっしゃっております。
昨晩は、「告白録」を読み始めたわけですが、非常に良い興奮がありました。知的な好奇心が刺激されたのか、アウグスチヌスの深い信仰心が私の信仰心をかきたてたのか、不思議なときめきに満たされました。icon
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from: ueyonabaruさん
2008年02月21日 10時43分23秒
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「Re:佐倉さんの時間、空間論」
同じく、佐倉さんの時間、空間論から引用し、時間について考えてみます。
ナ-ガ-ルジュナは時間がないと言ったということが書かれています。また、同じく空間もないということです。
時間も空間もない、という感覚、心境は、普通には神秘主義者のもつものと私は今まで思っておりました。佐倉さんは、もちろん神秘主義者などではありませんし、このようなものを否定します。
ものに縁って時間があるのであるならば、そのものが無いのに どうして時間があろうか。しかるに、いかなるものも存在しな い。どうして時間があるであろうか。
このナ-ガ-ジュナの言葉は、神秘主義者の感覚からでるものとしか思えませんが、しかし、佐倉さんは神秘主義者ではない というのはどういうことなのでしょうか。神秘主義者を、私が誤解しているのでしょうか。
佐倉さんを実証主義者、形而上的なものの否定者としてきたわけです。しかし、時間もものもないというのは形而上的な思索であり神秘主義者の思考ではなかったのでしょうか。これを、佐倉さんが認めるというのが理解できないのです。
「始め」という概念を、ナ-ガ-ルジャナは否定したと佐倉さんはおっしゃいます。「始め」というのは、時間的な概念であり、それ以外のなにものであるかも考えられません。「始め」があるから時間は流れるのではないでしょうか。「始め」は第一原因者である神、仏の作用だと考えるのが、信仰です。だから、時間も神仏の意思によってできたというのが、宗教的な考えだと思います。
「始め」を否定(第一原因者である仏・神を否定)した上で、時間もものも無しとし、縁起のみを認めるというのはどのようなものなのでしょうか。実存的主義的な、自己の置かれた周りの事象からのみ、思考を進めるというものなのでしょうか。
色々考えてまいりますが、ご知見のある方々の、ご意見をいただきたく思います。
以下はコピ-です。
(1)時間論
ナーガールジュナの時間論は、『中論』の19章「時の考察」に非常に簡単に述べられていますが、ここで「時」とは「三つの時(三世)」すなわち、過去・現在・未来のことです。これは仏教だけではなく一般にインドの思想のすべてに当てはまるものです。田端さんが想定されているようなすべての事象の背景としての「時の流れ」としてではなく、このようにインドでは「時」が「三つの時」として理解されている事実が、ここでは、ナーガールジュナの縁起説(すなわち彼の自性主義批判)にとって非常に都合のよいものとなっています。
もし自性論を認めれば、ものの自性は自立・独立・永存していることになりますから、過去・現在・未来はそれぞれまったく別の事象を指しているのか、それとも同一の事象を指しているのか、ということになります。ところが、もし、それぞれが同じものを指しているとすると、過去も現在も未来もその区別がなくなってしまうという受け入れがたい事態に落ち込んでしまいます。他方、それぞれがまったく独立した事象であるとすると、明らかに認められる過去と現在と未来の関係が、全く説明できないという別の受け入れがたい事態に落ち込んでしまいます。こういう受け入れがたい事態に落ち込んでしまうのは、もともと、時に自立・独立・永存の自性を想定するという間違いを犯しているからだ、というのがわたしの理解するナーガールジュナの批判(1節から3節)です。
もう一つの興味深い批判(6節)は、「もの」と「時間」との関係に関するものです。
もしも、なんらかのものに縁って時間があるのであるならば、そのものが無いのにどうして時間があろうか。しかるに、いかなるものも存在しない。どうして時間があるであろうか。(中村元訳)
「時間はない」というのがナーガールジュナの結論ですが、もちろん、「時間は自性として存在していない」、という意味です。これをわたしなりに具体例を挙げて解説してみますと次のようになります。
たとえば、ふたりの子どもがかけっこをしているとします。ゴールにいる人が、まずA君が到着し、そのあとB君が到着したことを見ました。ここで「A君の到着」という事象と「B君の到着」という事象の間には、先後関係があることが認識されます。この先後関係のことを「時」というわけです。「過去・現在・未来の三世」とは、事象の先後関係のことに他なりません。さらに、A君とB君がかけっこをしている間にC君はブランコに乗って遊んでいたとすると、ブランコの「振り」の数で、A君とB君の到着の先後関係を数量可することができます。たとえば、A君が到着してからC君が「3振り半」したときB君が到着した、といった具合です。これが時計の原理です。つまり、時間という何かがあって、水が川を流れるように、存在の背景でそれが流れているのではありません。あるのは、「A君の到着」という事象とか、「B君の到着」という事象とか、「C君がブランコに乗って遊んでいた」というような事象とそれらの間にある関係だけです。これらの事象がなければそれらの先後関係、すなわち「時間」もありません。このことをナーガールジュナは
なんらかのものに縁って時間がある・・・
と言っているわけです。つまり、田畑さんが想定されているような、事象の背後に「時間」という背景が事象とは別に存在していて、それが「最初からプログラムされている」というようなものではなく、むしろ、ものから離れて時間は存在しないというのがナーガールジュナの語る時間です。
ナーガールジュナは、さらに、そういう個々の事象(もの)というものも、それ自体で自立しているのではなく、さまざまな原因や条件に依存しているので、どこまでいっても、他に依存しないで自存するものはない、というぐあいに、自性論者の逃れ道をふさいでしまいます。それが、
しかるに、いかなるものも存在しない。どうして時間があるで あろうか。
という後半の部分の、いわば「だめ押し」とでもいうべき批判になります。
まとめると、ナーガールジュナの時間論は次のようになります。
(イ)「先(過去)」とか「後(現在・未来)」は独立した別々 の存在でもなく、また、同一存在の単なる別名でもない。そ れらは依存関係(縁起)をしめす。
(ロ)先後関係そのもの(時間)も、事象に依存している。だか ら、事象がなければ時間もない。
(ハ)時間が依存しているところの事象さえも、それ自体で成立 しているのではなく他に依存している。
このように、時間はさまざまなレベルの縁起によって成立している。
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from: ueyonabaruさん
2008年02月20日 17時31分51秒
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「Re:佐倉さんの時間、空間論」
ここに「始め」の概念が登場します。
「始め」の概念は、私たちを悩ませます。
昔、ラジオから流れていた言葉を今思い出します。多分、カトリックの言葉だと記憶していますが。
始めに、言葉ありき。言葉は神とともにありき。・・・
この言葉は、始めに神があった、という意味だと思います。第一原因者である神は原因無くして存在するということなのでしょう。
下記の引用文で、ナ-ガ-ルジュナが、見渡す限りと限定した上で縁起を説いたのならば、「始め」の概念もなく、第一原因者のことに言及していないことになるわけですが、はたしてナ-ガ-ルジャナは生涯これに全く言及していないのでしょうか。ブッダはホントに第一原因者について言及しなかったのでしょうか。佐倉さんは、「始め」の概念は、きわめて非仏教的であり、ブッダはこのような形而上的議論をしなかったとおっしゃっておりますが、そうなのでしょうか。
ここのところは重要だとおもいます。おおかたの、ご意見を乞います。
下記は、佐倉さんがナ-ガ-ルジャナの考える「始め」について論じている箇所です。
(3)「始め」の概念
このように、ナーガールジュナは、なんでもかんでも縁起として解釈してしまうので、ナーガールジュナの思想は「始めに縁起ありき」である、と解釈する仏教学者もいます(たとえば、長尾雅人博士)。ですから、
縁起とは時の流れのように最初からプログラムされているので しょうか。
というご質問がでてくるのもやむを得ないと思います。しかし、ナーガールジュナはどこにも、まず縁起があって、それから、すべてが続く、というようなことは、どこにも、書き残しておりません。むしろ「始め」とか「最初」という概念そのものが、縁起を否定するものとして、しばしば否定されています。「初めがある」という主張は、原因や条件なしに事象があることを意味するからです。これは、決してナーガールジュナだけに限らず、初期の頃から一貫して、「始め」の概念は因果関係・縁起を否定するものとして、仏教では認められることはありませんでした。世界とか存在に関する「始め」とか「最初」という言葉ははなはだ非仏教的な概念と言えます。
ある古い仏典には、ひとりの弟子が、「死後の世界はあるか」とか「世界は永遠であるか」とかなどについて教えてくれなければわたしは教団を去る、とブッダに文句を言う場面がありますが、ブッダは、そのような事柄は人間の経験的知識の領域を越えるものとして、それらについて語ることは避けました。そのときの、「わたしが説かないことは説かないと了解せよ」というブッダの言葉が示すように、「世界の始め」とか「無限の世界」とかという、形而上学的存在に関しては語らず、というのが仏教の長い伝統です。したがって、すべては縁起である、というナーガールジュナの主張も、「初めから」という意味ではなく、「見渡す限り」という意味における主張と解すべきだと思います。icon
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from: ueyonabaruさん
2008年02月19日 15時40分30秒
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from: ueyonabaruさん
2008年02月19日 15時12分43秒
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大川さんの説く涅槃 2
悟りの挑戦(下巻)から引きます。
この「涅槃」というのは、仏教においては、一種の究極の目的を表す言葉でもあります。仏教における目標、目的というべきものです。・・・・・「解脱」という言葉に置きかえることも可能です。
「涅槃」の原語「ニルヴァ-ナ」とは、吹き消すこと、あるいは吹き消した状態のことを意味します。これを漢語では「滅尽」ということもあります。
それでは、何を吹き消すかというと、迷いを吹き消すのです。迷い、あるいは迷いとして象徴されるような煩悩の炎、火を吹き消すことを言うのです。
その煩悩の火とは、いったい何でしょうか。代表的なものが、いわゆる「心の三毒」---「とん・じん・ち」です。
ueyonabaru: パソコンで「とん・じん・ち」を漢字にすることが できないのですみません。
要するに、人間というのは、「とん」---足ることを知らない欲望の塊りなっています。また、「じん」---すぐ怒ります。
自分が気に入らないことがあると、カッと怒ります。そして、「ぎ」---これは愚かさの代表です。「愚痴」は現代語では不平不満のことをいいますが、もともとは「愚かなこと」という意味なのです。愚かであるからこそ、それが言葉になって出てくるのです。こうした、貪りの心、いかりの心、愚かな心、これが人びとを苦しめている現況であるわけです。
結局「涅槃」とは、この世的なる肉体を中心とした迷いを吹き消した状態に至ることです。これは実に、阿羅漢の境地と同一であることがおわかりかと思います。修行者として阿羅漢の境地に至ることが、すなわち涅槃の境地を得るということなのです。
涅槃の境地に達した方は、ちょうど澄みきった湖の底の小石や貝殻(ueyonabaru註 これらがこの世のくるしみを表す)を透き通った水を通して見るようなかたちで、みずからのこの世の苦しみというものが見えるようになってくるのです。これが「涅槃寂静」の境地なのです。要するに、実在界の眼で、この世の自分のあり方、苦しみの在処(ありか)を見ること、それが涅槃寂静」の境地なのです。
ですから、人生の途上で、さまざまな苦しみや悩みが出てきますが、生きながらにして涅槃の境地を得た人は、いま述べたように、実在界から見下ろすようなかたちで、自分の悩みや苦しみを見つめることができます。そして、それに囚われません。それを取り出してみることができます。阿羅漢になれば、このような境地に達することができるのです。
ueyonabaru また、涅槃の種類などについての解説がありますが、その部分は省略します。
以上、「涅槃とは何か」ということについて、いろいろと説明しましたが、結局三法印の「諸行無常」「諸法無我」涅槃寂静」は、すべて「この世的なる執着を断ちなさい」とい教えなのです。
「肉体を中心とする煩悩にとらわれた生き方をしていては、人間としての悟りは得られない。本当の意味の幸福も得られないのだ。だから、
あなた方は流れ去っていくものに執着してはいけない。これ が、「諸行無常」である
あなた方は、目に見えるもの、触れるもの、そんなものに執着 してはいけない。これが「諸法無我」である。
あなた方は、この肉体を中心とする煩悩の炎に燃え包まれてい ることを是としてはいけない。その炎を吹き消したときに現れる 境地こそ、真なる幸福の道である。これが「涅槃寂静」である。
このように、三つとも「執着を断て」という教えであり、「生きながらにして実相世界に参入しなさい」という勧めであるわけです。ゆえに、これが仏教の根本、中心であるわけです。 -
from: ueyonabaruさん
2008年02月18日 17時52分13秒
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大川隆法の説く涅槃
大川さんに行く前に、
涅槃についての、田中裕さんと佐倉さんの論旨をできる範囲でまとめてみます。
(田中裕さん)
① 涅槃について、小乗仏教は生死からの解脱を考えていた。生死 とは過去世、現世、来世を循環輪廻する無明の世界である。
※ueyonabaru註 輪廻転生を認めている考えである。
② 神々への信仰が、この無明から我々を救済するのではない。ヒ ンズ-やギリシャの神々は嫉妬心をもつなどから、この無明の世 界に属する。
③ ゴ-タマブッダは人間ではあるが、神々を超える「法に目覚め た人」、「覚者」として位置づけられる。
④ 生死の世界は無明であり、そこには実体などはない。この無明
を特徴づけるのは縁起(依存関係による生起)である。、小乗仏 教では、涅槃についてそのような(無明)世界を超越するもの として了解されていた。
⑤ 龍樹は、縁起=無自性=空性という仏教の基本を、人間の生死
のみでなく生死と涅槃との関係に適用した。
⑥ 小乗仏教でも、煩悩とはいえ、優れた思索があった。涅槃とは
段階的な修行の結果得られる少数の聖者のみの恵みであったと とする小乗仏教の教えは、それなりに尊いものである。
⑦ 涅槃とは、修道(修行)を抜きにして得られるものではない。
⑧ 仏教では、「来世において救われる」という思想が当初から
存在しなかった。来世も生死の一部であり、終着駅ではない。
⑨ 仏教は現世利益の呪術に頼らず、来世の幸福も説かない。
⑩ 小乗仏教には、「出家者の仏教、エリ-トの仏教」という制約 があった。涅槃というものが、「逃避」という色調を帯びること となった。解脱した、ブッダはこの世に生をうけることのない、 完全にこの世から姿を消すものと理解された。
⑪ 龍樹は、このような小乗仏教を更に越えていく思想を鮮明に提示します。それは、難解な思弁のように見えても、本質的に「在家」の信徒を勇気づけるメッセージを含んでいたように思います。その典型的なものが、観涅槃品の次の句でしょう。
19生死は涅槃にたいしていかなる差別もなく、
涅槃は生死にたいしていかなる差別もない
20涅槃の究極なるものは即ち生死の究極なるものである。
両者の間には、最も微細ないかなる差別も存在しない
「生死からの解脱」と特徴付けられる涅槃理解がここで、退けられます。我々が生死を繰り返している「この世界」を離れて別に、なにか「永遠なる」涅槃の世界なるものが有り、そこに我々が行くわけではない涅槃と生死の両者には寸毫の差別もない--これが中論の根本的メッセージのように思われます。
(佐倉さん)
⑫ 「涅槃」と「生死」が別々のものではない、とナーガールジュナは主張している。「救い」とはこの世から別の世界に逃れ行くことではない。ご指摘の通り、縁起論からしても、四諦論からしても、人の悲苦には原因があり、その原因を見極め、それを取り除く具体的な行動こそなすべきことであるわけですから、まさに、
仏教というのは、本来は、現世利益の呪術に頼ることもしないし、来世の幸福で現世の苦しみにあえぐ大衆の不幸の帳尻を合わせることもしない。地獄をなくすために、おのずから地獄におもむかんとすることこそが、仏教徒の本来の姿勢である。
ueyonabaru お二人は、同じ立場のように思えます。しかし、気になることが一点あります。田中裕さんは転生輪廻を認めているように思えます。一方、佐倉さんは、これまでの佐倉学習から見れば、転生輪廻を認めない立場であったはずです。 -
from: ueyonabaruさん
2008年02月18日 11時19分22秒
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博学佐倉さんと田中裕さんの対論 2
博学なお二人の会話はもう一度なされます。ここで、田中さんから龍樹の涅槃論が提起されますのでこれを読んでみたいと思います。その後、これについて、大川隆法の仏教との比較をしてみるつもりです。
なお、お二人(佐倉さん田中さん)は、ほぼ同じ考え方に立つのではないかと思っております。そのままコピ-します。
佐倉哲エッセイ集
仏教に関する
来訪者の声
田中裕さんより
1998年2月20日
与謝野晶子の短歌に寄せて
1 与謝野晶子の短歌に寄せて
佐倉さんの文章の中で、ご自身の「死後の世界」について、与謝野晶子の短歌
劫初より造りいとなむ殿堂に
われも黄金の釘一つうつ
に寄せて書かれたものが印象的でした。
与謝野晶子が歌っている「殿堂」というのは、死後日本文学史に自分の名前が残るだろうなどという意味ではなく、万葉集にはじまり王朝の和歌の伝統、蕪村の俳諧明治の短歌革新の歴史を一貫して流れている生命に自分も与っている喜びを歌ったものと思います。
その喜びは、過去形や未来形ではなく、常に現在形で語られるものと思います。
佐倉さんが次のように述べていらっしゃる文章、非常に共感を持って読みました。
増谷文雄氏が思いを馳せておられる「死後の世界」というもの が、死後に氏が行く世界のことではなく、死後に氏があとに残して行くこの世界、つまり「人類の運命や世界の成りゆき」のことだ、ということです。わたしはうまれてはじめて仏教の「無我」という言葉>の意味がわかるような思いがしました。同時に、「死後の世界」というと、ただちに、死後における自分の運命や成りゆきのことしか思いを馳せ>ぬ思想が、とても貧弱なものであるように思うようになりました。
エゴイズムの影を引きずった儘、来世や神について恣意的な空想をめぐらせる「宗教家」よりも、自分があとに残していく世界と、そこに住まう人々を配慮できる「俗人」のほうがずっと尊いと思いますね。これは、別に仏教とか、キリスト教とかに関係なく言えることでしょう。
ところで、前回の私の投稿に対して、御返事を頂きありがとう存じます。このHPをみて「来訪者の声」に投稿される方は多数にのぼりますから、佐倉さんが、その一つ一つに、誠実に応対されているのを見て、非常に感銘を受けております。
龍樹の涅槃論についてお書きになる予定はないとのことですので、ご興味を持っていただくために、浅学を顧みず、私の理解するところをお伝えします。
2 龍樹の涅槃論
涅槃(ニルバーナ)について、「小乗」仏教では「生死からの解脱」という考え方を持っていたように思います。生死(サムサーラ)とは過去世、現世、来世のの輪を永遠に循環輪廻する無明(無知の闇)の世界です。
神々への信仰が、この無明から我々を救済するわけではありません。ヒンズーの神々は、希臘の神々と類似していて、人間の持たぬ様々な超能力を持ってはいるものの、嫉妬、闘争心などの人間的な弱点をも持っており、基本的には、この無明の世界に属しているのです。
ゴータマブッダは食中毒で死んだと原始教典に率直に書かれているように、神々ならぬただの人間に過ぎませんが、神々をすら越える「法」に「目覚めた人」として、神々以上の「覚者」という位置づけでしょう。
生死の世界には頼るべき何ものもない、そこにあるものは自立して存在できる実体ではなく、徹底的に虚しきものにすぎない---これを特徴付けるものが縁起(依存関係による生起)であったわけですが、涅槃は、すくなくも小乗仏教ではそのような生死の世界を超越するものとして了解されていたと思います。
龍樹のラジカルな所は、縁起=無自性=空性という仏教の基本を生死の世界だけではなくて、生死と涅槃との関係にも適用した点でしょう。(小乗では、人空のみを説いて法空を説かなかったと言われる理由)
もっとも、倶舍論をよめば分かりますように、「小乗」といっても原始仏教の後継者として、煩瑣とはいえ、優れた思索の跡を伝えています。涅槃は、段階的な絶えざる修行の結果、選ばれたごくごく少数の聖者にのみ恵まれるという教えは、それなりに尊いものです。
涅槃は、凡愚の徒には到達できぬ理想ではあっても、それは、日々の地道な実践を照らし出す法灯明の源泉であったわけで、修道を抜きにして天啓のごとくある日突然に人々に恵まれるという安直な考えは通用しませんでした。
更に、仏教では、「来世において救われる」という思想が当初から存在しなかったことは注意すべきでしょう。来世というのは生死の一部なのですから、われわれのめざすべき終着駅にはなりません。
仏教というのは、本来は、現世利益の呪術に頼ることもしないし、来世の幸福で現世の苦しみにあえぐ大衆の不幸の帳尻を合わせることもしないものなのです。
我々の苦しみの原因を認識し、無知を克服し、その原因を除去するために、地道な努力を一歩一歩積み重ねるという根本的な姿勢を、原始仏教の四聖諦の教えの中に見ることが出来ます。倶舍論といえども、このような仏教の基本思想を、その時代のコスモロジーを背景としその時代の言語で語ったものなのでしょう。
しかし、小乗仏教には、基本的な制約が在りました。それは、「出家」の仏教、エリートの為の仏教であったということです。 彼らが究極においてめざしていた涅槃は、人々が苦しみ呻吟している「この現実世界」からの「逃避」という色調を脱することが出来なかった点です。解脱した仏陀は、もうこの世に生をうけることはない、完全に生死の世界から姿を消すと理解されていました。
龍樹は、このような小乗仏教を更に越えていく思想を鮮明に提示します。それは、難解な思弁のように見えても、本質的に「在家」の信徒を勇気づけるメッセージを含んでいたように思います。その典型的なものが、観涅槃品の次の句でしょう。
19 生死は涅槃にたいしていかなる差別もなく、
涅槃は生死にたいしていかなる差別もない
20 涅槃の究極なるものは即ち生死の究極なるものである。
両者の間には、最も微細ないかなる差別も存在しない
「生死からの解脱」と特徴付けられる涅槃理解がここで、退けられます。我々が生死を繰り返している「この世界」を離れて別に、なにか「永遠なる」涅槃の世界なるものが有り、そこに我々が行くわけではない涅槃と生死の両者には寸毫の差別もない--これが中論の根本的メッセージのように思われます。
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田中裕さんへ
1998年3月26日
(1)与謝野晶子
与謝野晶子が歌っている「殿堂」というのは、死後日本文学史に自分の名前が残るだろうなどという意味ではなく、万葉集にはじまり王朝の和歌の伝統、蕪村の俳諧明治の短歌革新の歴史を一貫して流れている生命に自分も与っている喜びを歌ったものと思います。
その喜びは、過去形や未来形ではなく、常に現在形で語られるものと思います。
まったく、同感です。
(2)涅槃論
「涅槃」と「生死」が別々のものではない、という主張は、確かに、ナーガールジュナがしばしば行うところです。要するに、「救い」とはこの世から別の世界に逃れ行くことではない、という主張だろうと思います。ご指摘の通り、縁起論からしても、四諦論からしても、人の悲苦には原因があり、その原因を見極め、それを取り除く具体的な行動こそなすべきことであるわけですから、まさに、
仏教というのは、本来は、現世利益の呪術に頼ることもしないし、来世の幸福で現世の苦しみにあえぐ大衆の不幸の帳尻を合わせることもしないもの
ということになります。
(3)出家論
出家と在家の問題は、歴史的問題であって、仏教の本質に属する問題ではないだろうと思います。縁起論や四諦論を仏教の本質と考えると、そこから、出家の必然性を、論理的に、直接導き出すことはできないからです。実践仏教(つまり、人の悲苦には原因があり、その原因を見極め、それを取り除く具体的な行動)の一つのアプリケーションとして、出家をする人々がいる、ということだろうと思います。
しかし、出家の思想には、やはりどこか「この世を逃れる」側面があるのも否定できません。もし、出家が「この世を逃れる」、あるいはその準備のようなものであるならば、それは、縁起論や四諦論などの仏教の本質的な思想から考えると、きわめて非仏教的なものと考えざるを得ません。地獄をなくすために、おのずから地獄におもむかんとすることこそが、仏教徒の本来の姿勢であるはずだからです。
おたより、ありがとうございました。
佐倉 哲 -
from: ueyonabaruさん
2008年02月18日 10時48分21秒
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博学佐倉さんと田中裕さんの対論
ここでも、佐倉さんのホ-ムペ-ジから材をとります。博学なお二人の会話ですが、そのまま読んでみたいと思います。
田中裕 Yutaka Tanakaさんより
1998年1月24日
いくつか問題提起をさせていただきます
初めまして。貴ホーム頁を拝見し、インターネットの双方向性をいかした新しい知的空間が形成されつつあることに多大の感銘を受けました。狭い専門の枠を越えた談論、権威に囚われず自由に思索する精神古代希臘の広場でかわされた哲学的饗宴が、装いを改めてネットで復活するような予感があります。
龍樹の縁起思想について書かれた最新の御論考について、いくつか問題提起をさせていただきます。
質問1:佐倉様は、伝統的な訳語に従ってシュニャターを「空」と翻訳し「空=無自性=縁起」の等式の内に龍樹の基本思想を要約されています。
私は、シュニャターは、原語の意味に忠実に「空性(くうしょう)」と訳すべきだと思いますがこの点いかがお考えでしょうか。
これは、単なる訳語の好みといったレベルの話ではありません。佐倉様がご指摘になったように、シュニャターとは「依存関係によって生起するものの空性」であって、縁起とともに語られるべきものです。それ故に、それは「無自性」とも言い換えられたわけです。大乗仏教のその後の発展、特に中国では、「空」が道教的な「無」の概念と混同される危険が常にありました。老子が、「有は無から生じる」というとき、「無」はあたかもそこからすべてのものが生成する母胎(かたちなき基体)の如く捉えられています。縁起と等値されない「無」の概念との混同を避ける意味でも、シュニャターは「空性」と訳すべきではないでしょうか。
質問2:今回の御論考では、形式論理学の対偶律を使って、龍樹の議論の建て方 が、実質的には原始仏教のそれと同じであるということをご指摘になったと思います。「PならばQ」と「PでなければQでない」という二つの主張はPとQとの論理的等値を意味しますので、仰るとおり龍樹と原始仏教の縁起の定式は、表現が違うだけで実質的には同じだといえましょう。
ただ、因果の双方向性ということは、時間を捨象した命題間の論理的等値性と同じではないという問題が残ります。「言うものは知らず」と「知るものは言わず」は同じことを言っていますが「言う」ことと「知る」ことに因果的な双方向性があるわけではありません。因果関係は、時間的なものを捨象しては語れない部分を持っていると思いますが、佐倉様はこの点についていかがお考えでしょうか。
コメント:以前、米国の宗教学会で、D.kalupahana から直接聞いたのですが、彼は龍樹を大乗仏教の教学の創始者ではなくて、説一切有部の思想の批判を通じて原始仏教の根本思想である「縁起」をあらためて説いた復古主義者として捉えていると言っていました。復古主義者が、結果として新しい思想を生み出す ということは良くあることでしょうが、原始仏教の縁起概念に、龍樹が何を付け 加えたのかということを明らかにすることが必要かと思います。
私は特に龍樹の涅槃論に多大の関心を寄せておりますので、佐倉様が、この問題についてどんなご意見を聞かせて下さるか龍樹に関する御論考、続編を期待しております。
追伸
以前に、米国と日本の学会で発表した哲学と宗教に関する拙論をネット上においてありますので、ご興味がおありでしたら、ご覧下さい。
http://www.asahi-net.or.jp/~sn2y-tnk/papers.htm
http://www.asahi-net.or.jp/~sn2y-tnk/tetugaku/nittetu1997.html
佐倉様が、与謝野晶子の短歌に触れておられたエッセーも拝見しました、私は「桃李歌壇」という連歌と連詩のHPも主宰しております。 どなたでも気軽に参加できますので、もしよろしければ、思索に疲れたときなど、短歌もしくは連歌など投稿してみて下さい。
┌---------------桃李歌壇-------------------┐
│ http://www.win.or.jp/~metanki/kadan/ │
│ sn2y-tnk@asahi-net.or.jp │
└-----------主宰 田中裕(東鶴)------------┘
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田中裕 Yutaka Tanakaさんへ
1998年1月29日
(1)空と空性について
スーニャタ(sunyata)はスーニャ(sunya)に「-ta」という接尾語をつけて抽象名詞化したもので、ご指摘のとおり、「空性」のことです。ちょうど、英語の"empty"に"-ness"をつけて"emptiness"という名詞を造るようなものです。チベット語でもサンスクリット語や英語と同じように、"tongpa" (sunya, empty) に"-~nid"をくっつけて"tongpa~nid" (synyata, emptiness) という抽象名詞を造るようです。したがって、同じように、スーニャタの場合は、「空」という語に「性」をくっつけて、抽象名詞であることがより明確な「空性」を訳語として使用した方が良いのかもしれません。
しかし、漢字の「空」という語は、単に形容詞としてだけでなく、それ自体でも抽象名詞として使うことができるために、漢訳者たちはスーニャタの訳にも「空」を使用したのだと思います。そのために、わたしも、スーニャタはただスーニャを名詞化したものにすぎないということから、「空」を使っても良いのではないかと考えます。
「空」を無と誤解することは、中国で始まったことではなく、すでにナーガールジュナのときにもあったようで、彼はしばしば、論敵が空の意味を理解しないで批判している、と語っています。しかし、ナーガールジュナや般若経の著者たちは、「空」という語の否定的な響きや、「無」との関連性があることを知っていて、わざわざ「空」という用語を使用したのではないかとわたしは思っています。彼らが「一切は空である」というような主張をした背景には、もちろん、「一切は有る」と主張した説一切有部の主張があったわけですが、それだけではなく、聴く者をして「そんな馬鹿な!」と思わせて注意を引かせる、一種の宣伝効果もねらっていたふしがあるようにわたしには思われます。この宣伝効果は2千年を経た現代でもまだ失われていないようで、わたし自身もこれにひっかかってしまったのですが、もし、彼らが、わたしが推測するような宣伝効果をねらっていたとしたら、やっぱり、「空性」という語よりは「空」という語の方がふさわしいだろう、と思われます。そして、そのためには、誤解されやすいという代価は払わねばならないでしょう。
(2)ナーガールジュナがつけ加えたもの
ナーガールジュナは、伝統的な縁起の思想を否定することもなく、また、なにも新しいものはつけ加えなかった、というのがわたしの主張です。たとえば、中村元教授が主張されるように、伝統的な縁起は「一方向的」で、ナーガールジュナのそれは「双方向的」であるから、ナーガールジュナは「可逆性」を新しくつけ加えることによって、縁起を「全く新しい意味」に解釈した、のではありません。
PならばQであり、PでなければQでない。(伝統的表現)
QでなければPでなく、PでなければQでない。(ナーガールジュナ的表現)
逆観と呼ばれる後半部分はどちらも同じです。ナーガールジュナがやったことは、順観と呼ばれている前半部分の「PならばQ」を「QでなければPでない」と言い換えたことです。一見、伝統的表現では、前半も後半もPが先にきてQがあとに来ていますが、ナーガールジュナの表現の前半部分では、PとQの順序が逆になっているように見えるために、ナーガールジュナは「可逆性」を新しくつけ加えた、と中村元教授らは主張されているわけです。しかし、注意してみればわかるように、ナーガールジュナは単にPとQの順序を逆にしたのではなく、「QでなければPでない」というふうに、PとQを否定したものを逆にしているのです。いわば「裏返し」にしてから順序を逆にしているのです。これは、論理学で言う「対偶律」に他なりません。つまり、「PならばQ」と「QでなければPでない」は論理的に同値であり、意味が同じ、というわけです。
こうして、「QでなければPでなく、PでなければQでない」というナーガールジュナの「相依性」の縁起が生まれたわけですが、それは、伝統的表現の縁起説に含意(implication)されていたものを明るみに引き出したにすぎなかったわけです。そのために、ナーガールジュナは、伝統的な縁起思想を否定したのでもなければ、なにか新しいものをつけ加えたのでもない、と言えるのではないかと思うわけです。因果説との関係でいえば、ナーガールジュナの仕事によって、伝統的縁起説は単なる因果関係(Causality)ではなかったことが判明した、ということになるかと思います。
(3)涅槃とプロセス哲学
プロセス哲学のホームページを興味深く拝見させていただきました。確か、Hartshorne や Jacoboson なども仏教に深い関心をよせるプロセス哲学者だったとおもいますが、ナーガールジュナの「涅槃」への関心もやはり、プロセス哲学との関連からなのでしょうか?わたしは、ナーガールジュナの涅槃説にはまだ特別な注意を払ったことはないのですが、どのような観点から彼の涅槃説に興味をもっておられるのでしょうか。わたし自身は、次の予定では、般若経の空とナーガールジュナの空の比較を考えているのですが、これもまた、大変な大仕事となりそうなので、いつ終わるかわかりません。
おたより、ありがとうございました。
佐倉 哲 -
from: ueyonabaruさん
2008年02月18日 10時17分26秒
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佐倉さんの時間、空間論
ここでも、佐倉さんのホ-ムペ-ジから材をとります。時間、空間論です。難解な、佐倉理論だと意識しておりましたが、ここでは理解可能な佐倉さんが登場します。その博学には、教えられるものがあります。そのまま、コピ-します。
なお、ここでいう自性とは、実体、本質、本質的存在などの意味であることは、これまでの佐倉学習から得られた知識です。
佐倉哲エッセイ集
仏教に関する
来訪者の声
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田畑 和義さんより
1998年6月18日
空間と時間に自性が有るや否や
空の思想、縁起論について
佐倉さんにとって大変な労力を注いだ論文と思い、興味深く拝見いたしました。近年このような思考を公開して行うなどという、勇気ある行動はなくなったものと思っておりました。
さて空とは[無]自性であるとありましたが、自性する存在があるときこの論は、崩壊するかも知れません。そこで「空間と時間に自性が有るや否や」という質問をしたいのですが。否というお答えでしたら、どのような縁起によるものか知りたいのです。
佐倉さんの論文は難しすぎて分からないところが多いのですが(単にわたしが頭が悪いだけですが)、
空間と時間に当てはめて考えると、空間に無限性が有れば自性していることになり、過去があるから現在があり未来が有る、未来があるから現在があり過去が有ることになりますが論理式に当てはめるとどのようになるのでしょう。
時の流れはいかなる縁起によるものか教えてほしいのです。
縁起とは時の流れのように最初からプログラムされているのでしょうか。最初にゼロと無限の概念を生んだインドにおいて産まれた仏教にこの概念はどのように取りこまれているのかもお願いします。
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田畑 和義さんへ
1998年7月8日
(1)時間論
ナーガールジュナの時間論は、『中論』の19章「時の考察」に非常に簡単に述べられていますが、ここで「時」とは「三つの時(三世)」すなわち、過去・現在・未来のことです。これは仏教だけではなく一般にインドの思想のすべてに当てはまるものです。田端さんが想定されているようなすべての事象の背景としての「時の流れ」としてではなく、このようにインドでは「時」が「三つの時」として理解されている事実が、ここでは、ナーガールジュナの縁起説(すなわち彼の自性主義批判)にとって非常に都合のよいものとなっています。
もし自性論を認めれば、ものの自性は自立・独立・永存していることになりますから、過去・現在・未来はそれぞれまったく別の事象を指しているのか、それとも同一の事象を指しているのか、ということになります。ところが、もし、それぞれが同じものを指しているとすると、過去も現在も未来もその区別がなくなってしまうという受け入れがたい事態に落ち込んでしまいます。他方、それぞれがまったく独立した事象であるとすると、明らかに認められる過去と現在と未来の関係が、全く説明できないという別の受け入れがたい事態に落ち込んでしまいます。こういう受け入れがたい事態に落ち込んでしまうのは、もともと、時に自立・独立・永存の自性を想定するという間違いを犯しているからだ、というのがわたしの理解するナーガールジュナの批判(1節から3節)です。
もう一つの興味深い批判(6節)は、「もの」と「時間」との関係に関するものです。
もしも、なんらかのものに縁って時間があるのであるならば、そのものが無いのにどうして時間があろうか。しかるに、いかなるものも存在しない。どうして時間があるであろうか。(中村元訳)
「時間はない」というのがナーガールジュナの結論ですが、もちろん、「時間は自性として存在していない」、という意味です。これをわたしなりに具体例を挙げて解説してみますと次のようになります。
たとえば、ふたりの子どもがかけっこをしているとします。ゴールにいる人が、まずA君が到着し、そのあとB君が到着したことを見ました。ここで「A君の到着」という事象と「B君の到着」という事象の間には、先後関係があることが認識されます。この先後関係のことを「時」というわけです。「過去・現在・未来の三世」とは、事象の先後関係のことに他なりません。さらに、A君とB君がかけっこをしている間にC君はブランコに乗って遊んでいたとすると、ブランコの「振り」の数で、A君とB君の到着の先後関係を数量可することができます。たとえば、A君が到着してからC君が「3振り半」したときB君が到着した、といった具合です。これが時計の原理です。つまり、時間という何かがあって、水が川を流れるように、存在の背景でそれが流れているのではありません。あるのは、「A君の到着」という事象とか、「B君の到着」という事象とか、「C君がブランコに乗って遊んでいた」というような事象とそれらの間にある関係だけです。これらの事象がなければそれらの先後関係、すなわち「時間」もありません。このことをナーガールジュナは
なんらかのものに縁って時間がある・・・
と言っているわけです。つまり、田畑さんが想定されているような、事象の背後に「時間」という背景が事象とは別に存在していて、それが「最初からプログラムされている」というようなものではなく、むしろ、ものから離れて時間は存在しないというのがナーガールジュナの語る時間です。
ナーガールジュナは、さらに、そういう個々の事象(もの)というものも、それ自体で自立しているのではなく、さまざまな原因や条件に依存しているので、どこまでいっても、他に依存しないで自存するものはない、というぐあいに、自性論者の逃れ道をふさいでしまいます。それが、
しかるに、いかなるものも存在しない。どうして時間があるで あろうか。
という後半の部分の、いわば「だめ押し」とでもいうべき批判になります。
まとめると、ナーガールジュナの時間論は次のようになります。
(イ)「先(過去)」とか「後(現在・未来)」は独立した別々 の存在でもなく、また、同一存在の単なる別名でもない。そ れらは依存関係(縁起)をしめす。
(ロ)先後関係そのもの(時間)も、事象に依存している。だか ら、事象がなければ時間もない。
(ハ)時間が依存しているところの事象さえも、それ自体で成立 しているのではなく他に依存している。
このように、時間はさまざまなレベルの縁起によって成立している。
(2)空間論
わたしは、ナーガールジュナが特別に空間について語っている資料を知りませんが、上記にあげた「時の考察」の章のなかで、「過去」が「現在・未来」に依存しているという論証のすぐ後、つぎのように言っています。
これ[過去が現在・未来に依存しているという論証の例]によ って、順次に、残りの二つの時期(現在と未来)、さらに上・ 下・中など、多数性などを解すべきである。(4節)
この「上・下・中」が空間に相当すると考えられます。したがって、時間が「過去・現在・未来」という事象の先後関係として理解されるように、空間も「上・下・中」あるいは「左・右」などの物の位置関係として理解できる、と考えてよいのでないかと思います。つまり、ナーガールジュナが一つの例をあげて「あとも皆同じである」として残した空間論の宿題を、わたしなりまとめてみますと、
(イ)「上・下」「右・左」は独立した別々の存在でもなく、ま た、同一存在の単なる別名でもない。それらは依存関係(縁 起)を示す。
(ロ)「上下・左右」の位置関係そのもの(空間)も、事物に依存 している。だから、事物がなければ空間もない。
(ハ)空間が依存しているところの事物さえも、それ自体で成立し ているのではなく他に依存している。
このように、空間はさまざまなレベルの縁起によって成立して いる。
というようなことにでもなるのではないかと思います。
このように、時間とは「先後関係」のことであり、空間とは「位置関係」のことであって、時間や空間は事物の背景として、事物とは別に存在している何かではなく、事物の間にある先後関係や位置関係そのものにすぎない、というのが、わたしの理解するナーガールジュナの時間論・空間論です。したがって、言うまでもないことだと思いますが、「時のながれ」というようなものをナーガールジュナは認めていません。彼にとって、流れるような何かがあって、それを「時」と呼んでいるのではないことは明らかだからです。
(3)「始め」の概念
このように、ナーガールジュナは、なんでもかんでも縁起として解釈してしまうので、ナーガールジュナの思想は「始めに縁起ありき」である、と解釈する仏教学者もいます(たとえば、長尾雅人博士)。ですから、
縁起とは時の流れのように最初からプログラムされているので しょうか。
というご質問がでてくるのもやむを得ないと思います。しかし、ナーガールジュナはどこにも、まず縁起があって、それから、すべてが続く、というようなことは、どこにも、書き残しておりません。むしろ「始め」とか「最初」という概念そのものが、縁起を否定するものとして、しばしば否定されています。「初めがある」という主張は、原因や条件なしに事象があることを意味するからです。これは、決してナーガールジュナだけに限らず、初期の頃から一貫して、「始め」の概念は因果関係・縁起を否定するものとして、仏教では認められることはありませんでした。世界とか存在に関する「始め」とか「最初」という言葉ははなはだ非仏教的な概念と言えます。
ある古い仏典には、ひとりの弟子が、「死後の世界はあるか」とか「世界は永遠であるか」とかなどについて教えてくれなければわたしは教団を去る、とブッダに文句を言う場面がありますが、ブッダは、そのような事柄は人間の経験的知識の領域を越えるものとして、それらについて語ることは避けました。そのときの、「わたしが説かないことは説かないと了解せよ」というブッダの言葉が示すように、「世界の始め」とか「無限の世界」とかという、形而上学的存在に関しては語らず、というのが仏教の長い伝統です。したがって、すべては縁起である、というナーガールジュナの主張も、「初めから」という意味ではなく、「見渡す限り」という意味における主張と解すべきだと思います。
おたより、ありがとうございました。
佐倉 哲 -
from: ueyonabaruさん
2008年02月18日 00時38分30秒
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佐倉さんの真理、論理、真理の根拠 についてueyonabaruの感想
佐倉さんとcloma、「ただのひと」さんとの議論を読んでのueyonabaruの感想です。
反論をされたお二人のおっしゃることは大体が私の考えかたと共通します。ここまで来て分かるのは、佐倉さんは、形而上的なものや神秘的な経験をすべて否定するということ、また、真理は言葉の中にあるとハッキリ言っていることです。
真理は言語表現の中にあるとする考えは、現代の哲学の見解として一般にあることなのでしょうか。不勉強な私はこれについて知りません。堂々と、自説を主張される佐倉さんですが、「ただのひと」さんへの回答で次のようにおっしゃっておりますが、ここはなんだかおかしいような気がします。
もし、電車が向こうからやってくる線路の上にたっていて、 「ただただ、電車が走っているだけで、それを見ている私という 主体は、言語が造り上げた虚像にすぎない」、などと考えて、そ のままそこに立ち続けるでしょうか、それとも、身の危険を感じ て、線路からのがれるでしょうか。もし、ただのひとさんも、わ たしといっしょに、線路から逃げてしまうのなら、「主客未分 離」などというものこそ、虚像(主観的な思い込み)にすぎない と言わねばなりません。
主客合一の境地を、上の言葉で批判するのが正当なのかということです。これでは神秘的な境地についてかたることや観念的なことは一切いえなくなるでしょう。
いや、佐倉さんはこのようなことは一切言うまいと決意しているだけかも知れません。頭脳明晰な佐倉さんが西田哲学の理解ができないとも思われません。
佐倉さんは、幸福の科学の批判の急先鋒でもあります。今後、このテ-マでの議論も見てゆくことになりますが、もう暫く佐倉さんのことを調べてからのことになりそうです。