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from: ueyonabaruさん
2010年02月28日 19時55分04秒
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from: cosmo77さん
2010年02月28日 17時38分31秒
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「Re:偶然と必然」
hikaru0827さんへ
ヒカルさんから 抗議のメールを頂きました
ヒカルさん 不快な思いをさせて すみませんでした
でも ヒカルさんの カリスマ性は すごいかもしれませんよー
(^∧^)
ある種の 教祖なみです 邪教も混ざっているかもしれませんが。。
v(゜ε゜v)
ヒカル宗 とお呼びしたいくらいです
では ヒカル哲学 -> ヒカルさんの教学
ではダメでしょうか
不愉快なら またおっしゃってください
どう書いてよろしいか わかりません
> 私は、
> 「> 自分におきることは 100%自分の責任である……」
> と言ってますか?
>
> 若しくはそのように考えていると思われたのは、どのあたりを読まれてのことでしょうか?
自分に起きることは 100% 自分に原因がある
の方が よろしいかもしれませんね
ヒカルさんは これを直截に書かれたことは 今までないと思います
でも 文脈から考えて 本当はそういいたいのだけど 言っておられない としか 私には思えないのです
では逆に 100% ではないとしたら どうお考えなのでしょうか
100%ではない とお考えなら 偶然の存在も そんなに否定する必要は なかったはずですね
意味をなしませんからね
さて さらに ツッコミを入れさせていただくべく 考えてみました
■ ヒカルさんの教学3
人生とはエクササイズである
罪悪など存在しない
えーっ これは ホントですか? ヒカルさん!
それは 無理でしょうー
ということは 原爆も ホロコーストも 父殺し 母殺し みんな
エアロビダンシングのおねーちゃんの エクササイズと同じであり 100% 被害者本人の責任って?
それは なんぼなんでも 無理ではと。
同じ血の通った人間の お考えとは 思えないですー
■ ヒカルさんの教学4
すべては塞翁の馬
善も悪も わからない
これも ウソでしょうー (T_T)
塞翁が馬 のお話の私の印象は 仏教思想とは かなり遠い というものでした
それは 善悪 がいくらなんでも わからなすぎ ということです
あの話の作者は何をいいたいのでしょうか
結局 善悪なんて わからない
どう生きていいのか わからない
こんな感じに見えたのですが。。
仏教は 善 悪 異熟果 を峻別し 善を力強く 推進すべし
ということです
大川先生は 悟りを高めることで 善悪の分別もより わかるようになる のように確か言われていますね
ここまでくると もう 邪教性が すごい気がするのですが。。
ヒカル宗の教祖 って感じですかー
(思想の誤りにより地獄?違うか?)
茶化すような こと書いてすみませんですicon
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from: cosmo77さん
2010年02月28日 17時08分15秒
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from: hikaru0827さん
2010年02月28日 05時36分37秒
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from: ueyonabaruさん
2010年02月27日 22時54分31秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:仏教考察②」
にしき鯉さん皆さんへ
> > <徳一と最澄の「三権権一」論争のことをご存知でしょうか
> 大筋では知っていますがあまり詳しくはありません
にしき鯉さんへ、誤って「三権権一」として書いてしまいましたが、正しくは、「三一権実」論争でした。訂正しますね。
この論争の意味するところは、私にはとても大きなものなんです。私が、「生長の家」から幸福の科学へ宗旨替えをするに至ったのは、徳一の考えを正しいとする大川先生のご説明が私を納得させてくれたことが大きな原因なんです。
「生長の家」は、その仏教的側面をとれば、ホントに大乗仏教なんです。谷口先生は、いくつかの大乗経典を解説されておりますが、これは、「生長の家」の教えが、大乗の説く仏性論と同一線上にあるからなんですね。徳一・最澄論争では、「始覚」、「本覚」論争のかたちで論戦が行われたようですが、「生長の家」は本来人間は神仏の子としますので、「本覚」思想に似ております。
私は、「本覚」の思想が基本的に間違いとは思いませんが、「生長の家」の信徒であったときに、現実的な問題として、この仏性論(本覚)がそのままではおかしいのではという、疑問がありました。このことを、大川先生がご説明される、「理仏性」、「行仏性」という比較を通じてのご説明などにより、結局は、幸福の科学へと導かれたわけです。
私の感じでは、徳一はやはり小乗的修行を大事にした方のように思われます。徳一菩薩と呼ばれているのですか? 尊い方なんですね。行基といわれる方も私は尊敬します。現実的に、事業をした方々に私は惹かれるようです。
大方、にしき鯉さんのご見解に賛成します。icon
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from: ueyonabaruさん
2010年02月27日 21時35分46秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:仏教考察②」
にしき鯉さんみなさんへ
にしき鯉さんのご意見に賛成です。亡くなった方がお経をあの世で聞くとしても意味が分からなければ、供養にはなりません。幸福の科学の信者としては、人間が亡くなると、大体49日ぐらいは(長くて)この世の近くの霊界でこの世の人々を見ていると教えられております。そうすると、お経は死者にも分かるものでなければなりません。その後の法事においても、死者は聞いているという前提が本来仏教にはあったはずです。
私が驚くことは、現在の仏教の僧侶の半分以上の方々は、あの世の存在を信じていないという現実です。これは、あるアンケ-トによる調査結果です。あの世を信じないのになぜお経を誦げるのかと問われ、それは遺族が安心し、満足するからだと答えたそうです。
そんなことってありますか。それでは、創価学会以下ではないでしょうか。創価学会はよくは知りませんが、そこまでの不信心ではないはずです(にしき鯉さんが創価学会には詳しいと思います)。
私は、霊界の存在を、生長の家にいたときも教えられましたし、自分でも霊界通信ものを多く読んでいましたので、当然信じております。幸福の科学では、これは当然のことですね。
そこで、単刀直入にお尋ねしますが、にしき鯉さんは霊界、死後世界をどのように考えておられますか?
> 私は常々、仏教は難解な言葉が多すぎると思っています
>
> お経だってそうです、意味のある教えがたくさんあるのに
> お坊さんから聞くのは葬式の時くらいです
>
> その宗派によって違いはあっても現代語のお経を霊前に上げれば
> 棺の中で故人も喜ぶと思うんですが、、、
>
> ・・・・・・・・・・
> 現在の大乗についての問題点です
>
> なぜ日本ではあんなに葬式の時にお坊さんにお金がかかるんでしょう
> 読経料5〜10万、戒名が10万〜50万、高い物になるともっとかかります
>
> たとえば〇〇院〇〇居士などになると100万〜200万クラスはあたりまえです
>
> その後が大変です、
>
> 49日、一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌、十七回忌、二十三回忌、二十七回忌とつづき、三十三回忌で長い法要が一応終わります
>
> この間、ずっとお寺に「法事という形で合法的に寄進」が行われます
>
> 法要で行われる内容は読経と卒塔婆の購入だけです(あと寺院の宣伝くらい)
>
> これで僧が真剣に自分たちの修行をいかした法話をするならかまいません
> しかし、一般には極楽へいったとか、大日如来が守っているとか
> くだらない話ばかりです
>
> 原因は日本の檀家制度ですが、それ以上に僧が堕落した事です
> 寺を維持することが職業となり生活となっているからです
>
> この状態で大乗が素晴らしいとか言うことすら傲慢におもえてなりません
>
> 大乗仏教はお経を現代語に直して下さい
> そして、死者に対しては道案内を、、、、
> 生きている者には「生きる糧」としての教えを説かなければ大乗仏教の未来はないと思います
>
> お経自体にありがたさなどはありません、内容に意味があるんです
> 真言も同じです、意味がわからない真言は「ただの言葉の羅列」です
> 秘密めいた真言がありがたいと思うのは愚者です
> 真言は意味を理解したうえでバイブレーションを同化させる瞑想です
>
> 以上、日本の大乗について嘆いている自分を書いて見ました
>
> 幸福の科学はこのようなシステム的なポケットに入らないようにお願いします
>
>
>
>
>
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from: にしき鯉さん
2010年02月27日 19時12分13秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:仏教考察②」
皆さんへ
私は常々、仏教は難解な言葉が多すぎると思っています
お経だってそうです、意味のある教えがたくさんあるのに
お坊さんから聞くのは葬式の時くらいです
その宗派によって違いはあっても現代語のお経を霊前に上げれば
棺の中で故人も喜ぶと思うんですが、、、
・・・・・・・・・・
現在の大乗についての問題点です
なぜ日本ではあんなに葬式の時にお坊さんにお金がかかるんでしょう
読経料5〜10万、戒名が10万〜50万、高い物になるともっとかかります
たとえば〇〇院〇〇居士などになると100万〜200万クラスはあたりまえです
その後が大変です、
49日、一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌、十七回忌、二十三回忌、二十七回忌とつづき、三十三回忌で長い法要が一応終わります
この間、ずっとお寺に「法事という形で合法的に寄進」が行われます
法要で行われる内容は読経と卒塔婆の購入だけです(あと寺院の宣伝くらい)
これで僧が真剣に自分たちの修行をいかした法話をするならかまいません
しかし、一般には極楽へいったとか、大日如来が守っているとか
くだらない話ばかりです
原因は日本の檀家制度ですが、それ以上に僧が堕落した事です
寺を維持することが職業となり生活となっているからです
この状態で大乗が素晴らしいとか言うことすら傲慢におもえてなりません
大乗仏教はお経を現代語に直して下さい
そして、死者に対しては道案内を、、、、
生きている者には「生きる糧」としての教えを説かなければ大乗仏教の未来はないと思います
お経自体にありがたさなどはありません、内容に意味があるんです
真言も同じです、意味がわからない真言は「ただの言葉の羅列」です
秘密めいた真言がありがたいと思うのは愚者です
真言は意味を理解したうえでバイブレーションを同化させる瞑想です
以上、日本の大乗について嘆いている自分を書いて見ました
幸福の科学はこのようなシステム的なポケットに入らないようにお願いしますicon
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from: minamikazeさん
2010年02月26日 23時12分39秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:宇宙の法、概略」
hiraokaさんへ
いろいろな意見、ありがとうございます。幅広い知識に、いつも感心させられます。
> 最大の問題は、大川さんにしても小林さんにしても、「かれらはどのようにして自分の発言内容の責任を取るのか?」だと思います。
> もとより、これはぼくらの責任ではありませんから、離れてしまえばなんと云う影響もありません。
>
> いずれにせよ、大川さんも小林さんも自分の言ったことに責任を取ってもらわなければなりません。
> 「不晦因果」ですから。
>
二人とも、言いっ放しだと思いますよ。過去もそうでしたから。
正直、幸福の科学のことを考えるのは疲れますね。宇宙人のことや悪魔のことを考えていると、仕事に支障を来たします。自分から話題を持ち出しておきながら、なにやら自縄自縛に陥っているような気さえします。
僕は、大川さんの「平凡からの出発」とか、ああいう謙虚なものが好きだったのですが、僕には大川さんは理解不能です。まあ、それはもとよりわかっていたことですが。
これからは、富士山でも見るように、遠くから眺め、過去、いろいろ教えてもらったことを感謝しつつ、静かに生きて行きたいと思っています。icon
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from: cosmo77さん
2010年02月26日 22時05分13秒
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「Re:偶然と必然」
hikaru0827さんへ
こんばんは♪
いやあ 議論がかみ合わず もどかしいですねえ
今回の書込みをもう一度 拝読しましたが 結局結論的に何が言われたいのか よくわかりませんでした
ヒカル哲学っていうのは 結局次のようなことを 言われたいのでは ないか
勝手ながら 私なりにまとめてみました
もしそうだとすると 仏法解釈に誤りがあると 思います
■ヒカル哲学1
自分におきることは 100%自分の責任である
こう考えないとヒカルさんご自身の精神が耐えられない
ですから どんな論理的な無理を伴っても 他人の考えを無視しても この考えを守る必要がある
大川先生はこの考えが違うというお話を何度かされてます
共業がこの例で 自分の責任外でおきることの例としてあげられています
異熟果も同様に考えられます
経験的に捉えても この考え方がおかしいというのは誰でもわかるでしょう
善果は100%自分の善因によりますでしょうか
環境や人がもたらしてくれたものというのは納得できるはずです
だとしたら 悪果も 環境要因にも影響されるのは当然の帰結ですね
ヒカルさんは ご自分によきことがあれば これは自分のおかげだー と有頂天になられてできあがるのでしょうか? V(^0^)
■ ヒカル哲学2
因果律は完璧だ
異熟果にも相当の因が100%ある と考えるわけですね
ヒカル哲学1と相補的な関係かもしれませんね
これもおかしいですね
異熟果は 共業である場合もあります
共業自体が 自己責任とは必ずしもいえないものであり そういったことに巻き込まれることがあるわけです
大川先生も相当のことを言われています
私が最近いっている 突発事件も同じですね
それ自体にも 悪因が薄い場合もあり 巻き込まれもあるわけです
相当する悪(善)因があるとは限らないということです
経験的に考えて 異熟果が突発的な 因の薄い事件である と考えれば 納得できることが多々あるはずです
これは 先に述べていた 偶然の想定と同じ状況です
つまり 大川先生の言われている 因果律とは 次のようなことであり 実際にこれは どこかで記述されてます
因果律 つまり 善因善果 悪因悪果は 中長期的には 不まいである
異熟果により 一時的には 違うようには見えるが 中長期的には 保たれている
異熟果に相当する因がある とは言われていませんね
こう考えると 人生や経験によく合致していて納得がいきますね
おきることは100%自分の責任だ なんてホントにみなさん 納得できますでしょうか
だとすると 原爆も ホロコーストも 薬害エイズも すべてその人たちが 100%原因だ ということになります
これこそ 理不尽極まりない 哲学以外の何ものでも ない と考えるなら あなたは 私と 同様の思考だといえるでしょう
因果律が完璧でははない その根拠として 共業や異熟果の存在を提示されていて 現実との適合がよくとれていると思います
因果律が完璧だ ということに固執するのは 私に言わせれば 木を見て森を見ず ということですね
次に
>>【現在から未来への因果律】
>>悪因には相当の悪果が起きる
>>善因には相当の善果が起きる
>過去現在未来を見れば、縁起は完璧だという事ではないでしょうか?
過去->現在->未来
ということですね
>>【現在から過去への因果律】
>>悪果には相当の悪因がない場合がある
付け加えれば
善果には相当の善因がない場合がある
ですね
これは 異熟果 が相当する悪(善)因がない という場合には 成り立つわけですね
異熟果からみれば 悪因善果 善因悪果が ありうるということです
>私たち地上に生きる「限られた認識力」で、
それを悪因だとしたり悪果だと判断する事は至難であるという事
これは 善悪を峻別することは 難しいというお話なんでしょうか
もちろん難しいこともありますが
殺人 盗難など 簡単なこともありますよね
それと
善因善果 悪因悪果 の 考え方なのですが
私は 次のような考え方でよいのでは と思うわけです
つまり
善因悪因とは 思いと行いです
善果悪果とは もっと表面的な 幸運 不運 のようなものです
お金持ちになるとか いい奥さんがくる とか 出世する などです
おそらく こういう意味なのではないかと 考えるわけです
むづかしく考える必要はない と考えます
>もし社長が、「私どもには過失はありません。世の中には偶然的な事象がありまして、運悪く私どもの車に不具合が発生しました。」と発言すれば、この先トヨタは存続し得ないでしょう
ご発言の意図がわかりませんが
ミスに対する責任とは ある限定された範囲内でおこなわれるものです
責任の範囲外というのもあるわけですね
運転中に地震があって 事故がおきても 責任は問われませんね
ヒカル哲学では それも トヨタの責任なのでしょうか? +▽+
ぜんぶ自分の責任ですものねえ
それと PL法というのがありますが この中には それを製造した時点での科学技術では 発見できなかった原因については 責任を問わない というものありますね
全うな 制限だと思います
すべてが本人の責任だ という考え方がどんなに 現実離れしているか というのがよくわかりますね
ヒカル哲学は現実は無視でしたっけ? (・_*)\
また 優良企業 そうでない企業 主婦や一般の方では ミスをなくすための 取り組みとそのインセンティブは ものすごく違う ということが 私はいいたかったわけです
トヨタと ヒカルさんの奥さんが 同じレベルで 管理と取り組みをしてる とまさか 考えんでしょうね (笑)
> cosmo77さんは、ある出来事を「悪果」と見、その因は「罪悪を犯した事」と考えられる傾向があるように思います
ざい‐あく【罪悪】
道徳や宗教の教えに背くこと。つみ。とが。「―を犯す」[類語] 罪
ざいあく‐かん【罪悪感】
罪をおかした、悪いことをしたと思う気持ち。「―に責められる」
悪因の悪とは 罪悪の悪と 同じではないのでしょうか
違いますか?
殺人も 姦淫も 罪悪ではないのでしょうか
思いと行いですね
それに対して 悪(善)果 とは 罪悪ではなくて 幸運不運ですね
これは 上で書きました
もちろん 罪悪の軽重があります
法律も その罪悪性の軽重によって 量刑を科すのではないのですか?icon
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from: ueyonabaruさん
2010年02月26日 10時43分45秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:仏教考察②」
にしき鯉さんから、#437に対するご回答が手違いで、私あての個人レタ-のかたちで送られてきましたので、ご本人の了解を得て、ここにアップします。
#437ですね、わかりました
> <この帰依というのは、キリスト教のイエスへの帰依、あるいは、幸福の科学のエル・カンタ-レへ帰依するということと、同じ性質のものだと言ってよろしいでしょうか。帰依する対象が異なるだけだと。>
そうです、全く同じです
「帰依」は帰るよりどころ、心の原点の事です
私は釈迦は素晴らしいと思いますが人間としての釈迦は冷静に見ています
「大悟」を得たといっても個性は残ります
一つの完成形であると同時に解脱や悟りの道筋を作ったことに敬意を持って帰依しています
・・・・・・・・・・
> <徳一と最澄の「三権権一」論争のことをご存知でしょうか>
大筋では知っていますがあまり詳しくはありません
私は最澄も空海も徳一も部分的仏教だと思っています
特に最澄は天台智〓の五時教範が総ての考えの基本になっていますので「法華経」以外は認められなかったのでしょう
それが大乗だと言われればそれまでですが、、、
徳一さんもも大乗ですよ、ただ、行に裏づけされたものをを中心に考えるか、理論を中心に考えるかの違いです
私の中では「最澄」は評価があまり高くないですね
開祖としての実績は認めますが法華経の理論だけが空転してる感じです
法華経だけでは「悟り」に行き着かないのは最澄自身が一番知っていたのではないでしょうか
だから空海に弟子を送ったのだと思います
最後はその弟子も空海に帰依してしまいましたが、、、
・・・・・・・・・・
最澄は布教のため、東北に進出、そして徳一と論争になったんですよね
徳一の「声聞・縁覚・菩薩」の三乗と最澄の「菩薩乗一道」の論争です
前にも書きましたが「大乗」「小乗」というのは修行法方の違いです、どちらが正しいなんて事はないんです
考えて見て下さい、まわりの友人のなかでも大きな心の持ち主
いい人だけどうつわの小さな人がいるでしょう
その人にあった方法で行けばいいんです
小乗だからといって卑屈になる必要はないんです
大乗思想で進んでつぶれるよりは小乗の修行で悟った方がいいという考え方もあります
その人の心のスペースが広いか、狭いかによるもので「いい方法」「悪い方法」ではないのです
徳一さんは山岳宗教をしながら東北で信望者をふやしていきました
自分が修行で得た実体験を元に民衆に三乗の法を説きました
理論だけだったら民衆は「徳一菩薩」とまでは言わなかったでしょう
かたや最澄は「法華経」が最高にして「釈迦の教えの総て」だという考えから抜け出せなかった
時の権力者のバック・アップもあったから一層プレッシャーがあったと思います
結果は引き分けという事ですが本当は最澄が勝ちきれなかったという事です
もっと最澄に「真摯に学ぶ」「真理を得るためなら自分を捨てる」気持ちがあれば空海とも徳一とも上手くやれたんだと思います
徳一はまずしい天才、最澄は育ちのいい秀才というのが私の感想です
・・・・
<大川先生が取り上げておられます。この論争は、徳一の方が小乗的であり基礎的修行を重視したのに対し、最澄が大乗の仏性論を展開したのだろうと推察されます。>
この判断は公平に見て正しい解釈です
私もそう思います
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