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from: にしき鯉さん
2010年03月30日 23時37分48秒
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「:Re:大川先生のご講話「カルマとの対決」について」
hikaru0827 さんへ
素晴らしい、心が揺さぶられました
<しかし、蝶には蝶の幸せがある、と言われています。
私らには感じる事が出来ない幸せを彼らも持っています。
人と蝶の幸せに優劣という事はいえません。
私達と学んでいる課程が違うのかもしれません。
とすると、私達の精神性や世界観と同じステージに彼らを当てはめようとする事も、また私達の思い上がりだといえないでしょうか。
犬には犬の、蝶には蝶の世界がある、と考える事は、区別されながら、平等でもあるとも考えられませんか?>
その通りです
生き物は与えられた生命の中で生きがいを感じるんです
鳥は飛ぶことが喜びであり子孫を残す事が本能です
ライオンは餌をとる事と子孫を残す事が喜びです
捕食する時に善悪は考えません、いえ、善悪と言うのは人間の判断基準です、
動物にとっての判断は自分に害をなすものか、そうでないものかの二つです
そういう意味で弱肉強食の世界は食物連鎖の輪から抜けれないんです(恐怖に覆われている間は真理は見えないんです)
そんなところに動物の悲しさがあります
まれに徳のある魂が「輪」からはずれてペットに生まれてきます
しかし、能動的には輪廻からは抜けられません
死を境にしてジャンプするのがやっとだと思います
では人間はどうでしょう、皆さんの周りにいませんか?
自分に害をなす者からはひたすら逃げるという人、、、
動物は人間に食われるために生まれているんだと思ってる人、、、
自分らは人間だから何をしてもいいという心を持った人が、、、
動物の要素をたくさん持った人が何故人間に生まれる理由があるのでしょう?
今の世の中は弱い動物を殺すことに喜び、悦に浸っている人間がいます
この者は地獄にいくのでしょうか?
いいえ、間違いなく動物の食われる側の世界に行きます
(あくまでも普通の生活をしてこの部分だけが特化していた場合)
仏教の「六道」という考え方はこういった「行為」の反映の世界で
総ては自分の中に内在してるものだと説いています
輪廻はランダム転生ではなくサイクル転生でもありません
地獄に行く要素を、餓鬼になる要素を、動物になる要素を人間皆が持ってるといい続けます
そしてそこから抜け出す方法を「真理の道」と言っています
思索的に理解することを「悟り」物理的に転生をコントロールできることを「解脱」と言います
・・・・・・・・・
<犬には犬の、蝶には蝶の世界がある、と考える事は、区別されながら、平等でもあるとも考えられませんか?>
カルマは総ての魂において平等だと思いますicon
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from: ueyonabaruさん
2010年03月30日 18時36分14秒
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「反省と償い」
hikaruさんみなさんへ
> ○獄霊と反省について
>
> どうも反省という言葉を安易に使っていたようです。
> 霊界は「念い」の世界である、と言われています。
> しかし「おもい」という言葉は、日本語でも「思い」「想い」「念い」と色々あります。
> 思い→想い→念い、という順に、その強さや指向性が強まっているものと思います。
>
> 地獄に堕ちた霊が、「悪いことしたな」と思ったぐらいでは上には戻れないでしょう。
> 言われるとおり一過性のものであったりするからです。もっともっと強い「念い」でなければならないでしょう。
>
> 自分の何がどう間違っていたのか、完全に腑に落とさねばなりません。
> そして、心底詫びる気持ちが起こり、はらはらと涙を落とすような心境になって上に戻れるのではないかと思います。
> 地獄霊が、再び光輝く魂となるには確信的な気づきと、その安定が必要です。
アラン・カルデックの本「霊との対話」(幸福の科学出版)に次のような事例があります。
① この方は、数世紀前にある国の王として生まれており、暴君として生きてきた。
② 死後は250年のあいだ霊界でさ迷うことになる。それだけ長い時間をかけて、地上に生まれ変わる本当の目的を理解することができた。
③ その後、諦念、反省、祈りを通して、物質界にもう一度生まれ変わり、自分が人民に与えたのと同じ苦しみを、あるいはそれ以上の苦しみを、耐え忍ぶという試練を与えていただいた。・・・・・
天使たちに助けていただきながら、地上で、「善を行う」という決意を貫き生きてきた。
詳しくは実際に本を読まれることをお勧めしますが、簡単にまとめ考えてみたいと思います。①は、この方のある時代(前世)における生き様ですね。悪因を重ねております。 ②は悪因の結果としての地獄における苦しみとそこでの最終的な気づきです。気づきとは、地上に生まれることの意味を知ることと言っております。 ③は、今世における償いについて述べております。苦しい中で人のためにこの方は生き抜きます。償いといいあがないをしたと言っております。
この例からすると、罪を犯す → 地獄に行く(来世の生き方を決める) → 天国に還り、反省する → 再びの転生(償いの人生をいきる) → 天国に還る という具合になるようです。
にしき鯉さんがおっしゃるように、反省すればただちに救われるものではないようです。同書の、156Pで、ある霊が次のような言葉を言いますが、これは参考になります。
「あなたもご存知のように、悔い改めというのは、あくまで予備的な段階にすぎず、それによってすべての苦しみから解放されるわけではないのです。神は、単なる口先の約束だけでは満足しません。実際の行為によって、善に戻ったいうことをきちんと証明しなければならないのです。・・・・・・」
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from: hikaru0827さん
2010年03月30日 01時00分44秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:大川先生のご講話「カルマとの対決」について」
にしき鯉さん・ueyonabaruさんへ
○獄霊と反省について
どうも反省という言葉を安易に使っていたようです。
霊界は「念い」の世界である、と言われています。
しかし「おもい」という言葉は、日本語でも「思い」「想い」「念い」と色々あります。
思い→想い→念い、という順に、その強さや指向性が強まっているものと思います。
地獄に堕ちた霊が、「悪いことしたな」と思ったぐらいでは上には戻れないでしょう。
言われるとおり一過性のものであったりするからです。もっともっと強い「念い」でなければならないでしょう。
自分の何がどう間違っていたのか、完全に腑に落とさねばなりません。
そして、心底詫びる気持ちが起こり、はらはらと涙を落とすような心境になって上に戻れるのではないかと思います。
地獄霊が、再び光輝く魂となるには確信的な気づきと、その安定が必要です。
しかし、被害者の念いというものもあります。
被害者の苦しみや憎しみや悲しみが癒えない間は、良心の呵責という点からも天界には戻れないかもしれません。
○日々の反省について
一念三千という言葉がありますが、人の心は色々な方向を指し示します。
いつもいつも正しい方向ばかりではありません。
釈尊は「反省」を説かれました。
間違った事を考えても、その日のうちに自省し、修正する事をせよ、ということではないでしょうか。
反省を繰り返す内に、修正のスピードも上がってきます。一日の最後に反省していたことも、誤った次の瞬間に反省が出来るようになり、最終的には誤らないというレベルに達するかもしれません。
間違った心の針が、修正されずに長い時間指し続け、固定化してくると、同じ波長の地獄霊と同調してしまう、という事でした。
○「薫重」という言葉を幸福の科学で教わりました。
薫は燻製の薫でしょうか。重は重ねるですね。
つまり、何度も何度も繰り返し、そのうちにその身に沁み込むように身についてくる事だと記憶しています。
そして良き習慣が、薫重されれば、それは魂の実力が一段上がったという事だという話でした。たぶん。
一念三千といえど、その心の指向性や思い癖を、日々の修行にて良い方向ばかり向くように薫重していかねばなりません。
●つまり「日々の反省」という場合の「反省」と、地獄霊が改心する場合の「反省」とはどうもニュアンスが違うようです。
地獄霊の「反省」は、ぽっと思い浮かぶ程度の反省ではなく、まさに薫重の場合と同様に長い時間をかけ、徹底的にその心の過ちを修正し、不退転のレベルに達する事なのだろうと思います。
○輪廻
人間と動物は、その魂は、輪廻の過程で、区別はないとの見解ですね。
エネルギー不変の法則から、魂の存在を説くアプローチはおもしろいと思います。
確かに、映画に取り上げられるような犬は、その映画の影響力によって、人々を幸せに向かわせる事はありそうです。
人間だけが特別だとするのは思い上がりだ、という言葉も、その通りだと思います。
しかし、蝶には蝶の幸せがある、と言われています。
私らには感じる事が出来ない幸せを彼らも持っています。
人と蝶の幸せに優劣という事はいえません。
私達と学んでいる課程が違うのかもしれません。
とすると、私達の精神性や世界観と同じステージに彼らを当てはめようとする事も、また私達の思い上がりだといえないでしょうか。
犬には犬の、蝶には蝶の世界がある、と考える事は、区別されながら、平等でもあるとも考えられませんか?icon
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from: hikaru0827さん
2010年03月29日 23時30分19秒
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「Re:Re:偶然と必然」
cosmo77さんへ
>それと メモ帳か何かで書いてから もう一度 よく編集してその後に 書込みいただけませんか?
>私はそうしてますが。
もちろん私もそのようにしていました。
>同様に もう少し協調的に ご対応いただくわけにはいかないものなのでしょうか
>つまり 一つの論理を作るために 協力していこう という思いと行いのことです
私なりに、cosmo77さんの考えと一致出来る部分を模索していたんですよ。
私が、「同意見です」「ここは意見が一致しました」「この私の言葉と、cosmo77さんの言葉は同じ意味ではないですか?」と、発言していたのはそのような意図があったからです。
Cosmo77さんが完全な「一つの論理」を目指されていたのなら、先は長そうです。
>私は ヒカルさんの ご発言をまとめたり サポートしたり いろいろしているつもりです
>でも ヒカルさんは ただコメント的反論をして 終わらすだけですよねえ
せっかくまとめていただくのに、その文章が私の考えと違うものになっている事が、殆どでした。私の文章が悪いのかもしれませんが、視点や、言葉の解釈が違う中で見えている景色が違っていたのでしょう。
序章の「・・・・・・と、ここまではよろしいですね」
と言われている時点で、もう「ちょっと違う・・・」も多かったです。
> > ●議論の目的
> >
> > 目的は…、
> > 「偶然や必然の真実に対する探究」
> > 「偶然必然の在り方に対する、認識確認や考察」
> > ではないのでしょうか。
> 私はそんな探求に興味あんまりないんですよ
> 申し訳ないんですが。。
> 何回も申し上げてますけど。
> フツーの人は こんなに執拗に 偶然を否定しないと認識してます
> といってもまわりの何人かと ここの方ですかねえ
> それは 何回も申し上げてますが
> 人生経験や世間の観察 幸福の科学教学 から そう思っているんだと思うんですね
> ヒカルさんの場合は
> 何か 執着のようなものがあるのではないのでしょうか
> ですから 最初から 私のメインの目的は
> よけいなお世話かもしれませんし僭越ですが
> ヒカルさんの 執着のようなものを 解き放つことなわけです
>
> これまで 何回も ヒカルさんは
> 偶然の存在は 精神的に耐えられない とか 納得できない
> とか 理不尽だ とか 言われてませんでしたっけ
> だから これだけ 長い議論が 続いてしまっている と私は
> 思っていますが。。
> 別にボクはぜんぜん 偶然を追求したいなんて思ってませんです
> また 偶然も偶然もどきも 厳密に区別する必要も感じてませんです
> なんで ヒカルさんはこんなに ムキになって反論さればかりし続けるんですか
> 議論を終わらしたいんですけどねえ
> いいかげんこんな議論に時間を費やしたくないんですけどねえ
> 正直なところ。
> どうでもいいですもんねえ こんなこと。
> 何かの学者さんでもない限りみんなそう考えると思いますけどね。
私に、執われがあるのかどうかは、私自身で正しく評価する自信はありません。
自助努力という考えを指向する傾向はあるとは思います。
中道であるよう自戒したいと思います。
「目的」や、言葉の「定義・解釈」が違う中では、新しい展開はなさそうですし、cosmo77さんが「どうでもいい」と思われているなら、この議論はここまでだと思います。
このあたりで幕をひきましょうか?icon
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from: cosmo77さん
2010年03月27日 21時07分47秒
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「Re:偶然と必然」
hikaru0827さん
たびたび追記すいません
そうでした
ダイアナさんの例を私が出したのは 自分の原因がすくない という例ではなくて 悪因が原因とはいえない という例だったのでしたっけ
自分の原因の少ない例としては 菩薩が戦場で 流れ弾に当る例ですね
これは 偶然もどきの典型的な例だといえるのではないでしょうか
深入りしたくないので 書いてきてないのですが
いわゆる 原因を分析しますと
①悪因善因(思いと行い)としての原因
②悪因善因とは異なる原因
の二つに分析できるのではないか
悪いことをして懲役 というのは
①の例です
中国に生まれて たまたま 核爆弾のそばに住んでて 地震にあってたいへんな目にあっちゃった
というのは ②のパターン と考えられる
ということですね
ご理解いただけますでしょうかicon
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from: cosmo77さん
2010年03月27日 20時51分35秒
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「Re:偶然と必然」
hikaru0827さん
追記させてください
> 遅くなりすみません。しかも長くなりました。
いえ 別にもうご返信していただかなくても結構な気持ちです
(。_。)
そうしたら この呪縛から解放されますし (ノ_<)
お互いさまでしょうか
それと メモ帳か何かで書いてから もう一度 よく編集してその後に 書込みいただけませんか?
私はそうしてますが。
散漫な散文的文章だと 私の方で 理解に時間をかけ 私の頭でまとめ それから 考えなければならないのです
相手のことをお考えの上 お書きくださいませ
同様に もう少し協調的に ご対応いただくわけにはいかないものなのでしょうか
つまり 一つの論理を作るために 協力していこう という思いと行いのことです
私は ヒカルさんの ご発言をまとめたり サポートしたり いろいろしているつもりです
ただの 私の慢かもしれませんが。。
でも ヒカルさんは ただコメント的反論をして 終わらすだけですよねえ
これでは 議論が終わることがありませんです
つくり上げる作業に協力いただけないのでしょうか
うならせる論理なら それを 上げていただいても 結構です
さて 一つ 明確化していないので 追記させてください
ヒカルさんが いろいろお書きになった一つの論理は
◎共業にせよ ダイアナさんの例にせよ 内的要因(自分に原因)もある
ということですね
結局あのわかりがたい文章もまとめるとこの一文だということですね (^∧^)
私は 偶然の物理的証明をする気は今はない と言いました。
これは 偶然100%の事象(原因が全くない事象)という意味です
その証明は 簡単ではないことが議論の過程でわかったからです
偶然100%の事象があるかないか 私には断言できませんです
ただ 偶然に近い 偶然もどき はありますよね
と言っているだけですね
これは 内的要因が少ない
ということです
内的要因が少ない とは 偶然に近い 偶然性が高いということです
さて 共業など いろんな場合があると思いますが
内的要因は少ない場合があるだろう ということですね
それは 1%なのか 何%なのか わかりませんが 少ない場合があるだろう
ダイアナさんの場合も 事故死について 本人が原因なのは 少ない%ではないか という一つの例で出したわけです
つまり 偶然に近い 偶然もどき という事象はいろいろあるよね
というごく 一般的で 誰でも理解可能なお話をしているだけなのですね
ヒカルさんは これでも ご納得いただけないのでしょうか
文脈から これをご理解いただけないものなのでしょうかね?
なんで お話をどんどん複雑化してわかりにくくして 発散していくのでしょうか
もっと簡潔簡明に お書きいただけないものなのでしょうか
とにかく 理解して咀嚼するのがたいへんですicon
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from: ueyonabaruさん
2010年03月27日 18時17分15秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:大川先生のご講話「カルマとの対決」について」
にしき鯉さんへ
> ueyonabaru さんのいう「永遠の時間」がどのくらいの事を言っているのかがわかりません
> 「悠久」という言葉がありますがこれとて人間の概念で計り知れない時の長さを表現したもので明確な時間単位があるわけではありません
>
> 「無限」や「悠久」はわからないものに対する一つの表現ですが
> 宗教ではこれを使いすぎる傾向があります
> だから難解といわれるものは神秘性が増すのかも知れませんが、、
宗教は、「無限」や「悠久」という言葉をよく使いますね。
ここで私が、無限の時を経て動物も仏になると言うときは、相当に相当に長い時間という意味で使っております。動物が悟るというのは感覚的に身近に分かるものではありませんが、生き物はすべて進化するというのが宇宙の法則であるのであれば、動物とて成仏は可能ではないかと、論理的に考えた次第です。
> <霊界の実相界といわれるところでも、そのような弱肉強食の世界が展開しているのかということを考えてみるのです。生長の家の唯神実相論では、このような弱肉強食の世界は、ホントに存在するものではない、ホントの世界、すなわち実相の世界においては、ライオンはシマウマを食わないのであると説きます。>
>
> そうなんですか、それは初めて聞く話です
>
> では仮の世界である現実界では弱肉強食はあたりまえにあって
> 実相界である霊界はライオンもシマウマも仲良く暮らしているのでしょうか?
生長の家を仏教的側面から見れば、大乗仏教の最たるものの代表でしょう。実相の世界について、谷口雅春師は、ライオンもシマウマも仲良く暮らす世界だとおっしゃいました。これは、法華経の説く世界と同じものとしております。ライオンがシマウマを食うのはこの世だけの現象ということです。
> ueyonabaruさんは想念の世界だから食べなくても平気なんだというかも知れません
> しかし、心というものは常に変化しています
> 実相の世界は「物欲」も「支配欲」も「性欲」も起きてこないと考えるんでしょうか
実相の世界とはすなわち霊界のことではありません。霊界の下次元(4次元、5次元)では物質的な、この世的な感覚は幾分か残っており、本質的に物質はないということは皆知っているが、それでも、この世の農業、製造業、操縦士のようなことをやっているという世界のようです。性欲については、肉体がないのですから、肉体を直接求める快感はありえませんが、これに似たような快感をもとめるようなことはあるかもしれません(詳細は知らず)。同じく四次元にあって、執着霊や地獄霊が三次元の人間に取り付き、この世的な性欲、飲酒欲、食欲を満足させる行為をするのとは違うようです。
支配欲については、自分自身が霊であることは承知しておりますので、この世的な支配欲ではないでしょうが、霊であっても他のものに影響を与えられるものでありたいという願望はやはりあると思われます。競争心は消えないのではないかと思います。
> それでしたら現実界に生まれる必要は全くないのでは、、、
> それはすでに「仏」の世界であって転生する意味もなくなると思います
実相界という言葉は、霊界的にどのあたりを指すかについては、大川先生はどこかでおっしゃっておられますが、いまは思い出せません。多分7次元の上の方からではないでしょうか。そこは悟りを得た菩薩達の住む世界であり、荘厳な世界であることは言うまでもありません。霊界でも、5次元、6次元でも、この世の世界と比べ物ならないほどの美しさがあるということです。
他律的に輪廻転生の循環をさせられるのは、たしか6次元の住人以下の者達ではなかったでしょうか。菩薩界、七次元の者達は、意識的に修行のため、この世に下りてくるようです。それ以上の者達は、人類の救済など大きな目的を持って転生してくるはずです。
> <人間が再度の転生で、動物に生まれてくるのは例外的なものであり、カルマの法則に基づき、頻繁に、動物にも生まれ人間にも生まれるということはないと思います。>
>
> 自分の考えに一番近い見解を他のブログから引用です
>
> ↓ ↓ ↓
>
> 何が輪廻するのか、それはこころだ、とスマナサーラ師は言われる。
> エネルギー不滅の法則が示すように、物質は消えない。
> 「物質は形が変わったとしても消すことはできません。だから、私が死んでも、この身体は遺体として残る。灰になるなりして、この地球に残るのです。」
>
> 同じように、こころにもエネルギー不滅の法則が当てはまると、スマナサーラ師は言う。
> 「こころは瞬間的に変化していく巨大エネルギーです。」
>
> 「もしこころのエネルギーが地球に留まったら、そのへんにある物質を掴まえて形をとります。私たちのこころのエネルギーが天国に行ったならば天国にあるそれなりの物質を掴まえるのです。犬の身体に入ったならば、その物質をもらって犬になる。死という瞬間にこころが消えたら、どこかで新しいこころが生まれる。必要な物質はその生まれる場所からもらうのです。」
>
> ちょっとニュアンスが違いますが大筋で自分は同意します
心をエネルギ-に例えることもできるでしょう。心は己のあるところの世界にある物質や幽体、その他をとらえて自己の活動する際のボディ-にするというのは、そうに違いありません。幽界にあっては、幽体をまとい活動するという具合にです。
しかし、「犬の身体に入って」という表現ですと、あたかも犬に憑依するという感じがありますね。心が、物質界にある場合には、必ずしも犬ではなく、大方は人間でしかないでしょうというのが私の考えです。私は、忠犬ハチ公などは、人間が犬に憑依したかのようにも思えますし、あるいは、稀有な霊として、犬に生まれ変わった人間なのかと思ったりもします。シ-トンの動物記にあるような、犬の人間に近しい習性の表れかもしれません。
人間に生まれたことのありがたみを知らないものが、犬などに生まれ変わり、反省させられるというのは、私には受け入れられる考え方です。それでも、短い間のことではないかという感じがありますが・・・・・。icon
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from: cosmo77さん
2010年03月27日 17時01分18秒
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「Re:偶然と必然」
hikaru0827さん
> ●議論の目的
>
> 目的は…、
> 「偶然や必然の真実に対する探究」
> 「偶然必然の在り方に対する、認識確認や考察」
> ではないのでしょうか。
私はそんな探求に興味あんまりないんですよ
申し訳ないんですが。。
何回も申し上げてますけど。
フツーの人は こんなに執拗に 偶然を否定しないと認識してます
といってもまわりの何人かと ここの方ですかねえ
それは 何回も申し上げてますが
人生経験や世間の観察 幸福の科学教学 から そう思っているんだと思うんですね
ヒカルさんの場合は
何か 執着のようなものがあるのではないのでしょうか
ですから 最初から 私のメインの目的は
よけいなお世話かもしれませんし僭越ですが
ヒカルさんの 執着のようなものを 解き放つことなわけです
これまで 何回も ヒカルさんは
偶然の存在は 精神的に耐えられない とか 納得できない
とか 理不尽だ とか 言われてませんでしたっけ
だから これだけ 長い議論が 続いてしまっている と私は
思っていますが。。
別にボクはぜんぜん 偶然を追求したいなんて思ってませんです
また 偶然も偶然もどきも 厳密に区別する必要も感じてませんです
なんで ヒカルさんはこんなに ムキになって反論さればかりし続けるんですか
議論を終わらしたいんですけどねえ
いいかげんこんな議論に時間を費やしたくないんですけどねえ
正直なところ。
どうでもいいですもんねえ こんなこと。
何かの学者さんでもない限りみんなそう考えると思いますけどね。
さて、
> ●「外的要因」と「偶然」の性格の違い
えーと
外的要因 -> 自分以外の原因
内的要因 -> 自分が原因
でよろしいんですよね?
まず
> 「外的要因を認めているのに、偶然を否定する事に意味があるのか?」
> という問いでした。
>
> 外的要因を認めた上でも、偶然が有るか無いかはやはり重要です。
>
> なぜなら「外的要因」と「偶然」は別物だからです。
偶然を外的要因とした場合の説明をしているんですよ?
私の言っていることの意味がわかります?
私は
自分に起きることは 100% 自分に原因があるのではなく 外的要因がある
というお話をしました
そして これは ヒカルさんも納得されてましたね
外的要因 -> 自分以外の原因
ですよね
まず ヒカルさんは 以前から
偶然の存在を認めたくないのはそれを外的要因として責任転嫁するからだ
と言われていたんですよね
意味がわからないのですか?
ヒカルさん自身が 偶然は 外的要因だから 認めない と言われていたんですよね
ですから
外部的因の存在を ヒカルさん自身が納得されるのなら
ことさら 偶然の存在を 否定する理由なんてないでしょう?
と伺っているわけですよね?
意味わかりますか?
つまり 偶然があるとしたら 偶然は 責任を転嫁可能な外的要因なわけです
議論の目的を理解して 議論していただけませんか?
前にも言いましたね?
つまり 偶然を否定する必要がないなら
もう この議論は終了できるのではないんですか
ということですね
> なぜなら「外的要因」と「偶然」は別物だからです。
偶然を外的要因の一部と考える見方もありえると思いますね
くり返しますが 別に私は 偶然の物理的存在証明をするつもりはないです
> 外的要因は、内的要因と全く無縁ではありません。(後述します)
> 時間縁起、空間縁起の両面から結びつきがあります。
こんな考えは 証明なんて ぜんぜん無理でしょうね
単なる ヒカルさんの 空想でしょうね
> ●外的要因と内的要因の関連性
> 例えばダイアナの事故死はどうでしょうか?
> ◎つまり、『外的要因は、全く本人と無縁のものではない』、と考えています。
ゲッ! 一つの例で 命題を証明したと断定?するなんて 無茶苦茶ですよねえ
こういうのが 頻出するから ヒカルさんは 断定 断言 大好きだ と申し上げているんですよね
> 『因果は複雑で、計りがたいものである
ヒカルさんがそう思われるのなら 「もー 私にはわからない」 といわれれば この議論も終わるのでしょうね
上記のような わかったのごとき理屈をいろいろ書かれるから 収拾がつかなくなるのでは?
自信がないなら 断定的なご発言は 控えられればよろしいんだと 思いますよ
それが 謙虚さの一つだと思いますですが。。僭越ながら。。
> ●善果や悪果の定義について
> 善き念いや行いをする本来の目的は、そこではないからです。
> そのようなお蔭があったとしても、そこはゴールではありませんね。
>
> 物質的成功は、より高次な目的を達成するための手段と捉えていいのではないでしょうか。
>
> 物質的成功のみを祈るような巷の御利益宗教とは一線を画さねばなりません。
それは 幸福の科学でも常識的な概念ですよね
ただ ここで言っているのは 善果や悪果の定義は そうしているようだ ということです
もう少し修正するとすると
【善果悪果の定義】
善果悪果とは この世では 商売繁盛 学業成就 無病息災 のような 表面的な幸運不運
ただし あの世に帰った時点を見ると 本来の幸福不幸
でいかがでしょうか
> だとすると、神の思し召しであり、悪果と呼ぶにふさわしくありません。
ですから そういう事故死を 悪果と 定義している ということですね
そもそも こういう 善果悪果の定義 をしているのは 目的と理由があるんだと私は思います
それは 世界を説明する ということです
この定義がないと 異熟果の説明もできなくなってしまいますね
これは 納得のいく構成だと私は思っています
> 『因果は複雑で、計りがたいものである。
> それを承知した上で善悪を判断し、より良い未来を目指す、又は自らを高める』
> 『結果に対しては犯人探しは重要ではなく、どのような教訓を得るかという点に重きを置かねばならない。』
まあ これ自体 理解できますが
> 『因果は複雑で、計りがたいものである。
これは わかり易いもの 難いものがありますよね
> もし、あの世にも「異熟果」があるならば、⑤は否定される事になりますし、⑥の証明も成立しません。
この論理も ぜんぜん 証明にはならないと思いますよ (__)
論理学等の勉強もされてないんですよね?
> 確かに「共業」については、霊界においても存在すると思います。
共業があるなら 異熟果も存在する可能性はあると思いますけどね
巻き込まれることがあるってことですよね
ただ この世に比べて 少ないのかもしれません
http://blog.goo.ne.jp/mryupa/e/87044f59e5a58ef37a3dce848e8783f2
ここで 確かに あの世で 因果律が 完結するとなっていますし
それは 納得いきますよ
しかし その後のあの世の生活で 異熟果がない という説明は 聞きません
そもそも 大川先生の 因果律のお話も メインは この世です
確かに 次の生まれ変わりとか 遠い先まで持ちこしもあるとは 聞いていますが
あの世での 状況は ほとんど 聞きませんですね
ここでも 断定はお避けになるのが ご賢明かと 存じますが。。
失礼ばかりで申し訳ありませんが
もう少し 控えめに 主張をされる習慣をつけられてはいかがでしょうか
ヒカルさんは そんなに 自信家でいらっしゃって ご自分のお考えは正しい
とお考えなわけですか?
その割には 欠陥や穴が満載されているように拝見しているのですが。。
失礼ばかりですみませんです (。。)icon
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from: にしき鯉さん
2010年03月27日 00時57分38秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:大川先生のご講話「カルマとの対決」について」
ueyonabaru さんへ
丁寧なお答えありがとうございます
<ある動物が永遠にそのままであるということもありうるのでしょうか?なんらかの変化が生まれることはないでしょうか?動物でも進化というのはあるのではないでしょうか>
進化は肉体の進化と魂の進化があると思います
肉体は環境の適応や生命の維持のために進化するのではないでしょうか(これは個人的見解です)
魂は精神の持っていく方向性で変化する、それを「高い世界」「低い世界」とあてはめれば「仏の世界」は進化した世界といえると思います
ueyonabaru さんのいう「永遠の時間」がどのくらいの事を言っているのかがわかりません
「悠久」という言葉がありますがこれとて人間の概念で計り知れない時の長さを表現したもので明確な時間単位があるわけではありません
「無限」や「悠久」はわからないものに対する一つの表現ですが
宗教ではこれを使いすぎる傾向があります
だから難解といわれるものは神秘性が増すのかも知れませんが、、
・・・・・・・・・
<霊界の実相界といわれるところでも、そのような弱肉強食の世界が展開しているのかということを考えてみるのです。生長の家の唯神実相論では、このような弱肉強食の世界は、ホントに存在するものではない、ホントの世界、すなわち実相の世界においては、ライオンはシマウマを食わないのであると説きます。>
そうなんですか、それは初めて聞く話です
では仮の世界である現実界では弱肉強食はあたりまえにあって
実相界である霊界はライオンもシマウマも仲良く暮らしているのでしょうか?
ueyonabaruさんは想念の世界だから食べなくても平気なんだというかも知れません
しかし、心というものは常に変化しています
実相の世界は「物欲」も「支配欲」も「性欲」も起きてこないと考えるんでしょうか
それでしたら現実界に生まれる必要は全くないのでは、、、
それはすでに「仏」の世界であって転生する意味もなくなると思います
・・・・・・・・・・・・
<人間が再度の転生で、動物に生まれてくるのは例外的なものであり、カルマの法則に基づき、頻繁に、動物にも生まれ人間にも生まれるということはないと思います。>
自分の考えに一番近い見解を他のブログから引用です
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何が輪廻するのか、それはこころだ、とスマナサーラ師は言われる。
エネルギー不滅の法則が示すように、物質は消えない。
「物質は形が変わったとしても消すことはできません。だから、私が死んでも、この身体は遺体として残る。灰になるなりして、この地球に残るのです。」
同じように、こころにもエネルギー不滅の法則が当てはまると、スマナサーラ師は言う。
「こころは瞬間的に変化していく巨大エネルギーです。」
「もしこころのエネルギーが地球に留まったら、そのへんにある物質を掴まえて形をとります。私たちのこころのエネルギーが天国に行ったならば天国にあるそれなりの物質を掴まえるのです。犬の身体に入ったならば、その物質をもらって犬になる。死という瞬間にこころが消えたら、どこかで新しいこころが生まれる。必要な物質はその生まれる場所からもらうのです。」
ちょっとニュアンスが違いますが大筋で自分は同意しますicon
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from: ueyonabaruさん
2010年03月26日 19時30分17秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:大川先生のご講話「カルマとの対決」について」
にしき鯉さんへ
> 犬の魂と人間の魂については差別というより区別と考えます
差別観でみるには、たしかに無理があるように思いますね。相当に違いがあるように思えます。しかし、ある動物が永遠にそのままであるということもありうるのでしょうか?なんらかの変化が生まれることはないでしょうか?動物でも進化というのはあるのではないでしょうか。進化の極は仏になることですが、永遠の時間を経て、動物でも仏になれるとしておきます。少し、論理的に考えてそのようにしました。
> 現世は「カルマと縁」によって現象化したものと考えると一匹の犬が未来において修行に入り多くの人を救う魂になる事もありうる話です
私には、このようなことは、永遠の時間を経てしかありえないことだと思います。
> もし、人間は人間、犬は犬の魂から抜けれない状況が未来永劫続くならそれは地獄に等しいと思いますよ
> 考えて見て下さい、
> ライオンの餌となるシマウマが食い殺されたら、又生まれ変わってシマウマとなる、それなら食われるために生まれ変わるのですか?
シマウマとライイオンの弱肉強食の関係が、この世で未来永劫にわたり継続していくことなのかどうかは分かりません。しかし、このような悲惨な現実は霊界を含めた世界観でみるとどうなのでしょうか。
霊界の実相界といわれるところでも、そのような弱肉強食の世界が展開しているのかということを考えてみるのです。生長の家の唯神実相論では、このような弱肉強食の世界は、ホントに存在するものではない、ホントの世界、すなわち実相の世界においては、ライオンはシマウマを食わないのであると説きます。
このような世界観について、どのようにお考えになりますか。
> シマウマだって恐怖はあります、ライオンだってエサを取らなければ「死」に直結です、「自然の摂理」という言葉で未来のかなた地球がなくなるまで恐怖と戦うのでしょうか?
>
> hikaru0827さんの意見に「魂の修行のために生まれてくる」とありました(それは認めます)
> そういう魂もあると思いますが多くの魂はそうではないと思います
> そういった理由で人間の魂を特別視する事に対しては反対です
人間の魂は、動物の魂とは相当に異なるように思います。動物の魂の進化を認めますが、相当な時間を要するのではないでしょうか?
> 私は転生する時点でカルマの重さと心の傾向で動物になるか人間になるか決まると思っています
> 人間だけが特別だと思っているならそれは「思い上がり」だと考えます
> 私は「カルマの法則」においてのみ魂は平等だと思います
> ご意見お願いします
人間が再度の転生で、動物に生まれてくるのは例外的なものであり、カルマの法則に基づき、頻繁に、動物にも生まれ人間にも生まれるということはないと思います。icon