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from: ueyonabaruさん
2008年02月09日 14時01分11秒
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佐倉さんの輪廻転生観について
佐倉哲エッセイ集において、佐倉さんはNさんという幸福の科学の信者に対する質問に対し、応答しておりますが、これを見てみたいと思います。なお、日付は、1997年8月25日となっております。なお、佐倉さんのホ-ムペ-ジは佐倉哲エッセイで検索すればアクセスできます。
(Nさん)
仏教とキリスト教では布教の期間の差が歴然としていて、仏教では、生老病死の四諦の認識からその解決を計る八正道、苦悩としての貪、憤、痴、慢、疑の心の五毒からの脱却、およびその根拠としての縁起の理法があります。また、その布教の変遷も、始めは一人の修行者としての立場から悟りたる者としての立場、そして指導者から救世主的存在へと広がりとともに深さも増していっています。弟子が理解して布教できるシステムをつくっています。キリスト教では創造主としての父とその使いとして救世主の子、および補佐役としての精霊という厳然とした約束事があり、その与えられた環境のなかでいったいどうしたらいいのか、神近き生き方とはどういう生き方なのか、愛を与えるとはどういうことなのか、魂としての幸福とは何であるのかを教えています。信仰に対して一切の妥協を許さない姿勢を示しています。
共通しているのは仏神へ限りなく近づいていこうとするその修行の精神があり、悟りと救済を説き、自己責任、過去より未来へ連綿と続いていく仏神の存在を教え、来世への希望を説いている点があるといえます。
さて、無と空と縁起と悟りですが、無我とは我のみよかれという心はないということで、慈悲に生きる役割意識のみあるということ。無とはその役割意識がなくなったとき、実体もない。つまり実体とは役割意識の表現形態そのものである。空とは、属性、傾向性、法則としては存在する。しかし、この性質が存在するからといって固定化された実体があるわけではない。属性、傾向性、法則であるが、役割意識として変化成長を伴う。諸法無我である。縁起とは、その空の性質に従って原因、媒体(縁)、結果が現れることを示す。ここで初めて実体が仮に現れる。ただし、役割意識という原因を失えば、継続して実体が存在することはできなくなる。諸行無常である。総合していうと、仏神がその役割意識(魂)が縁起の理法のもとに発展繁栄させている姿ということです。それを知り、より高次な役割意識を持つことが悟りといえます。私は以上のように理解しています。
(佐倉さん)
(1)「真理」と「正しさ」について
日本語の「正しい・間違い」という価値判断の言葉は、基本的に二つの別々の意味に使われています。
(ア)ニューヨークが米国の首都である、というのは間違っている。
(イ)人を殺すのは間違っている。
(ア)の例は、事実かどうかをに関する認識的価値判断ですが、(イ)の例は、そうではなく、人間の行動に関する倫理的・道徳的価値判断です。したがって、日本語の「正しい・間違い」という言葉は、あるときは「真・誤」という意味に、他のときは「善・悪」の意味に使われていることがわかります。「真理」は明らかに、認識判断に関するものですから、この言葉を人間の行動や生き方に対する価値判断として使用するのは、適切ではありません。そこで、わたしは「真理」という言葉は、認識判断に関してのみ使用しているのです。
(2)キリスト教と仏教の比較について
これについて語り始めれば、終わりがないと思われるほど、長くなりますので、ここでは、Nさんが「共通している」と指摘しておられる点についてだけ、わたし自身の見解を若干述べてみたいと思います。
まず、「仏神へ限りなく近づいていこうとするその修行の精神」を指摘されていますが、確かに仏教では人間がブッダ(めざめた人)になること(成仏)を理想としますが、キリスト教では、逆に、人間が神になろうとすることは神に対する罪であり、理想ではありません。仏は人間ですが、神は人間ではないからです。創世記を見れば明らかなように、アダムとエバは、神のようになろうとしたから、楽園を追放されたのです。また、仏教では、ブッダとなるために人間は自ずから目覚める以外に方法がないのですが、それに比べて、キリスト教の救いは、自己救済を放棄し、イエスというあかの他人の犠牲を救いの根拠として受け入れる人のみが、救いを得ることができます。したがって、キリスト教の救いには「信仰」のみが必要なのであって、「修行の精神」のようなものは、律法主義として、むしろ、神の恩恵である救いから人間を遠ざけるものであると考えられています。
つぎに、「過去より未来へ連綿と続いていく仏神の存在」と「来世への希望」について。キリスト教の神は確かに永遠の存在として信じられていますが、(人間にすぎない)仏はそうではありません。人間が死ねば人間としての生存はそれまでです。それゆえ、人間は死後については、それを知ろうとすることさえ無意味です。だから、ブッダはそのようなことについて何も語りませんでした。ブッダは、むしろ、死とは人間の終わりであり、そういうものだということをよく知って、生に執着すべきでないことを、教えています。
(3)無我ついて
・・・・・「無我」について、若干述べてみたいと思います。よく知られているように、「無我」とは、サンスクリット語の「アンアートマン」の漢訳です。「アンアートマン(anatman)」は「アートマン(atman)」(個我、魂)の否定語です。「アートマン」とは、インドの正統的宗教であるバラモン教(後のヒンズー教)の教義にでてくる、きわめて重要な概念で、人間の個体に内在していると信じられている、肉体の崩壊後も生き残る人間の不変の本質のようなものです。バラモン教では、このアートマンが輪廻転生すると信じられています。したがって、アートマンは、インドの伝統的宗教にとって、きわめて重要なものですが、ブッダはこれを真っ向から否定して、アンアートマン(無我)を主張しました。人間が死んだのちにの生き残って輪廻転生するとと信じられているアートマンなどないと主張したのです。
われ(アートマン)というものはない。
また、わがものというものもない。
すでにわれなしと知らば、
何によってか、わがものがあろうか。
(相応部経典22.55 増谷文雄訳)
これが、ブッダの思想のもっとも基本的な教えの一つである「無我」の思想です。「無我」の思想は、単に、自己中心主義を否定しているのではありません。ブッダはバラモン教の教えである魂の輪廻説を否定したのです。後代の仏教はやがてバラモン教(ヒンズー教)の教えを再び導入してしまいますが、魂の輪廻説を否定したブッダの「無我」の思想は、いくつかの禅の伝統にはまだ生き残っているように思えます。
(4)信仰について
キリスト教のような宗教と大きく異なって、ブッダは、「信仰を棄てよ」、と教えました。
ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、そのように汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは死の領域の彼岸にいたるであろう。ピンギヤよ。(スッタニパータ1146 中村元訳)
ブッダは人間の知識の届かない神秘的なことがらへの言及はさけました。祈祷や呪文や神への捧げものや宗教儀式や運命判断など、まったく無意味であることを説きました。
たとえば、ここに一人の人があって、深き湖の水の中に大きな石を投じたとするがよい。そのとき、そこに大勢の人々が集まり来たって、「大石よ、浮かびいでよ。浮かび上がって、陸に上れ」、と祈願し、合掌して、湖のまわりを回ったとするならば、汝はいかに思うか。その大いなる石は、大勢の人々の祈祷合掌の力によって、浮かびいでて陸にあがるであろうか。……
たとえば、ここに一人の人があって、深き湖の水の中に、油のつぼを投じたとするがよい。そして、つぼは割れ、油は水の面に浮いたとするがよい。そのとき、大勢の人々が集まり来て、「油よ沈め、油よ沈め、なんじ油よ、水の底に下れ」、と祈りをなし、合掌して、湖の回りを回ったとするならば、なんじはいかに思うか。その油は、人々の合掌祈祷の力によって、沈むであろうか。…… (相応部経典42.6 増谷文雄訳)
そのような、祈祷したり、神に捧げものをしたり、呪文を繰り返したり、胡麻を炊いたりして、神秘的な力によって何事かなそうというような夢事から目覚めて、何が人間の非苦の要因であるか(縁起の理法)を究明し、その要因を取り除く道を見つける人のことを、目覚めた人(ブッダ)と呼んだのです。
まことに簡単で、まとまりのないものですが、以上が、わたしの理解するブッダの思想の一部です。資料は、いわゆる原始仏典とよばれる、仏典の中でもっとも古く、それゆえ、もっともブッダ自身の思想に近いと考えられるもののなかから、引用しました。
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