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  • from: ueyonabaruさん

    2008年02月16日 15時34分47秒

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    佐倉さんの真理、論理、真理の根拠 のまとめ

     私なりにまとめてみました。

    真理とは

    ① 日常、私たちは、「正しい」とか『誤っている」とか判断しま す。その判断や知識には「究極的な基盤」があるのでしょうか。 哲学者達はその「究極的な基盤」を求めてきましたがそれは成功 したのでしょうか。科学はどうでしょうか。あるいは宗教はどう でしょうか。

    ② 真理の対象として考えるべきものは言明(ueyonabaru 言語表 言)です。「昨日、雨が降った」という言明は、昨日本当に雨が 降ったのであれば真理になりますし、「いま、12時30分で  す」という言明は一日に2回 だけ真理になります。真理とはこ のようなものです。

    ③ しかし、真理の対象となる言明は、たとえば「花」、「鉛筆の 芯」などの単語や句などは対象にはなりません。また、「はやく
     学校に行きなさい」や「昨日、「阪神は勝ちましたか?」などの
     命令文、疑問文もその対象から除かれます。

    ④ わたしの理解することによれば、真理とは言語によって構成さ れる真なる言明のことです。誤謬とは誤った言明です。そして、 ある言明が真であるかどうかは、事実に依存しているものと事実 に依存しないものとがあります。

    論理とは

    ⑤ 論理とは、前提となっている言明から、結論となっている言明 を導く手続き(推論)のことを指します。推論には、正しい推論 と間違った推論があります。たとえば、

      前提1 すべて生きているものは必ず死ぬ。
      前提2 神は生きている。
      結論  それ故、神は死ぬ。
      
      この推論は全く正しいのですが、たとえば次の推論は間違って おります。
      
      前提1 すべてのフランス人はヨ-ロッパ人である。 
      前提2 橋本龍太郎は日本人である。
      結論  それ故、ビル・クリントンはアメリカ人である。
     
      このように、論理とは、言明の一つ一つが実際に真理であるか どうかを吟味するものではなく、前提が正しいかどうかではなく
     また結論が正しいかどうかでもないのです。それは、前提が正し ければ、そこに示された結論が必然的・論理的に導き出されるか らその結論も正しいということなのです。



    真理の根拠

    ⑥ すでにのべたように、ある言明が真であるかどうかは事実に依 存する場合と依存しない場合があるので、ある言明が真であるか どうかを決定する方法も二種類あることが分かります。第一の方 法は、言明が事実と一致するかどうか調べることであり、第二の 方法は、言明が論理の公式から導き出せるかどうかを調べる方法 です。第一の方法はわたしたちの日常経験による確認や科学的実 験によってなされています。第二の方法は、構文の論理的分析に よります。これは、数学の証明などそうです。

    ⑦ しかしながら、ある言明が真であることをどのように確実に決 定すかは哲学上の大問題です。真であるかどうかを第一の方法で 探るとしたとき、「見間違い」「聞き間違い」などがあり、必ず しも確かなものともいえないこともあります。
      そのようなことがある中で、デカルトは「我思う、ゆえにわれ 有り」というデカルトの第一原理(真理の根拠)を提唱しまし  た。何もかも疑っていくと、少なくとも「疑っている限り、疑っ ている自分が存在している」ことだけは確実である。この第一原 理を根拠に、その上に真理の体系を築こうとしました。

    ⑧ しかし、このデカルトの第一原理も、ニ-チェが批判するよう に、この確実だとされたわれなるものも、われを確認するのに他 の状況、他の知識と関連せざるを得ないので、真に真理の根拠と は言いえない。

    ⑨ 西欧哲学は、すべて、何を真理の究極的根拠にするかという問 題を追求してきたといっても過言ではありません。

    ⑩ これらの哲学者をよそ目に、人間の浅はかな知恵によらず、絶 対なる神の言葉に依存すべきだとすのが、キリスト教や類する宗 教の立場です。しかし、「聖書は神の言葉である」とか「神は存 在する」ということは、人間の思いこみだという問いにたいし、 教会側は明瞭な回答をすることができないでいます。従って「神 のことば」は真理の究極的根拠とはなり得ません。


    純粋経験

    ⑪ 西田幾太郎のいう、純粋経験という神秘的なものも、西田の経 験であり、一般に経験されることがらではないので、これも思い こみの類であり、真理の究極的根拠とはなりえない。西田哲学は ヴェ-ダのインド哲学のア-トマンとブラフマンとの同一をいう ようなものでしかない。
      西田の純粋体験などは、形而上的信仰にすぎない。


    真理の究極的根拠は必要か


    ⑫ わたしたちににとって、本当に真理の究極的根拠は必要なのか 疑問である。究極的根拠が必要とされるのは、真理の探究にあた り、土台となるしっかりしたものが必要とされるという、私がい う「積み木」モデルという考え方に依拠するものである。しか  し、私たちの知識は、積み木のように一つの知識が崩れると積み 木全体が崩れるようなものでしょうか。

    ⑬ 私は、積み木モデルでなく「知球」モデル型の真理の探究法を 提案する。わたしたちの知識は、無限の無知空間に浮かんだ「知 球」のようなものととらえることができます。この方法で捉える 知識は、究極的なものではなく、部分的なものです。目の見えな い人が象の足に触り象は木ののようなものであるといい、他の  者が、象の鼻にさわり〇〇〇のようなものであるというような知 識でしかないが、全ての人の情報を総合して象とはどのようなも のであると把握してゆく作業が知球モデルによる探求法です。
      

     

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コメント: 全1件

from: ueyonabaruさん

2008年02月16日 16時12分34秒

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「Re:佐倉さんの真理、論理、真理の根拠 のまとめ」
 いちおう、佐倉さんの考え方はどうなのかを知るために、また自分自身の理解を確かにする目的で、まとめの作業をしてみました。
 字間が空いていたり、文字が間違っていたりと不完全になってしまい、申し訳ございません。
 このまとめがおかしければ、私の理解がおかしいということになります。これについて、読者のご叱正があれば、正したく思います。
 博学な佐倉さんですが、なぜこのような考え方をするのか、不思議に思います。
 自分と大部感性が異なる佐倉さんのことをとり上げるのは、この方にある魅力を感じるからです。西田幾太郎を間違っているとか、キリスト教や幸福の科学の教えを思いこみといい、低級とかいうのは言い過ぎだと思いますが、単なる悪口でもなくある信念によるもので、裏付けとなる独自の理論があります。また、相当の勉強もしていることなどがうかがわれ、魅力的ではあります。自身、ある刺激を受けており、これまでなおざりにしていた、仏教その他の学問にも再挑戦しようという気にさせてくれました。

 次回は、佐倉さんに対する反論などを見てみたいと思います。

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