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from: ueyonabaruさん
2008年02月17日 23時56分53秒
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佐倉さんの真理、論理、真理の根拠 に対する反論 2
佐倉さんのことをさらに知るため、もう一人の方である「ただのひと」さんの反論と、それへの回答を見てみたいと思います。長い文章ですが、そのままコピ-してみました。
佐倉哲ホームページ
真理と論理、および真理の根拠(3)
「ただのひと」さんの批判とわたしの応答
佐倉 哲
これは、わたしの「真理と論理、および真理の根拠」に対して寄せられた、「ただのひと」さんによるご批判とわたしの応答です。
1997年9月12日
「ただのひと」さんより
97年9月6日
こんにちは、ただのひとです。佐倉さんの「真理と論理、および真理の根拠」を読みました。わたしは佐倉さんとは違った考えをもっています。佐倉さんは、
真理とは真なる言明のことを意味します。たとえば、 「昨日、雨が降った」という言明は、昨日、本当に雨が降ったのならば、真理となり、そうでなければ誤謬となります。また、「いま、ちょうど12時30分です」 という言明は、一日に二回だけ真理になります。
真理は事実や経験の中にはあり得ません。真理は言葉の中 にのみあり得ます。
と書かれていますが、私にとっては真理はそのようなものではありません。私にとっては、真理は、言葉の中に存在するというよりも、むしろ言葉に表現される以前の事実や経験そのものです。昨日雨が降ったのならば、「昨日雨が降った」という言明が真理なのではなくて、雨が降った出来事そのものが私には真理です。
人間をとりまく全てのもの、出来事、現象は、人間の言葉以前に、言葉とは無関係に、言葉からは独立して存在し、また成り立っています。例えば、花は本来、「花」という日本語や、flowerという英語が人間によって付与される以前に、そのような言葉や名称とは無関係に、存在する何かです。「存在する何か」という言葉以前に存在する何かです。「花が咲いている。」「美しい花が咲いている。」「美しい赤い花が咲いている。」「美しい赤い花がひっそりと咲いている。」・・・とどんなに言葉を、表現を精緻に、論理的整合性にも注意を払いつつ積み重ねたところで、人は花そのものに行き着くことはできません。花というものを認識するには、このような「花」という言葉や、「花が咲いている」という言明を飛び越えて、花そのものを見つめなければなりません。そこで出会う花そのものが「花が咲いている」という言明以上に圧倒的に真実(真の実在)であり、真理です。
それに対して「花が咲いている」という言明はどこまでも虚です。言葉による精緻な表現は所詮「絵に描いた餅」に過ぎません。絵に描いた餅と本物の餅とどちらが真かと問われられば、本物の餅に決まっています。ですから、純粋経験と呼ばれるものこそが、認識そのものであり、真理そのものです。純粋経験は、認識や真理の根拠というのではなく、認識や真理そのものです。言葉は、このような言葉以前の、もの、出来事、現象、経験に対し、社会的動物としての人間が、あとから付与したものに過ぎません。ですから、雨が降ったら「雨が降った」という言明が正しい、ということは(同語反復の意味ではなくて) 、雨が降ったら、その出来事に対し、日本語では「雨が降った」と表現するのが適切である、ぐらいのことしか意味していないのではないかと思います。
言葉は、人間が社会生活を営むためのコミュニケーションの道具として非常に有効ですが、その一方で、人間の真の認識というものを妨げるという弊害ももっていると思います。例えば「花」という言葉のもっている社会的に付与された固定的なイメージが、本来非常に複雑で多様な性質を持っている花そのもの認識や、花との出会いをさまたげることがあります。どこかに花が咲いていて「あ、花が咲いているよ」「ほんとうだ。」という言葉のやりとりですましてしまい、花そのものをじっくりと見つめることがないという事態は日常よく起こることです。子供はこの純粋経験を豊かにもっています。つまり、子供は「花」という言葉以前の花を知悉しており、「雨が降っている」という言明以前の雨をよく知っています。それが大人になり、言葉を身につけるようになるにつれて、対象と言葉がべったりと張り付いてしまって言葉抜きに、ものを見つめたり感じたりする事がなかなか困難になってきます。言葉という、固定化し、パターン化したイメージのフィルターを通さなければものを認識出来なくなってきます。ことに教育が進んだ現代社会ではこの傾向が強く、人間の知的偏重は進んでいます。ですから、現代社会に生きる、言葉や考えに毒されている私たちは、ある注意を働かせて、「花」という言葉やイメージを離れて、花そのものを見つめてみたり、「雨が降っている」という言明を離れて、雨の音にじっと耳を傾けてみたりということが必要であると私は考えます。もしかしたら昔の日本人はごく自然に、このようなことを行っていたのかも知れませんが、私たち現代人にはある意識的な努力が必要だと思います。
しかし、一方で私たち現代人も純粋経験と全く無関係に生きているわけではありません。純粋経験を完全に離れては、人間の生活は決して成り立ち得ません。例えば私たちはごくごくと水を飲む。ご飯を口に運ぶ。道を歩く。このようなことは、「わたしは水を飲む」とか、「わたしは、ご飯を食べる」とか「わたしは道を歩く」などという言語化以前に成り立っているものであり、これは純粋経験として自覚されなくても立派に純粋経験であると思います(むしろいちいちこれは純粋経験だなどと意識されたものは、既に純粋経験とは呼び得ないのかもしれません)。
また車の運転などを例に考えると、運転を習いたての頃は、「まず、クラッチとブレーキをを踏み、ギアをローにして・・・」などといちいち意識化し、言語化して、行いますが、なれて来るに連れ、何も考えずに、その場の状況によって体が自然に動くようになります。むしろいちいち言葉に頼っていては、適切な運転が出来なくなってしまうでしょう。このようなことも純粋経験ではないかと思います。つまり人間はたとえ現代人の大人であってもなにもかもを言語化して生活しているわけではありません。言葉以前の言葉を離れた経験としての純粋経験はちゃんと立派にだれの生活においても成立しています。このような純粋経験において「主もなく客もない」と言うのは、まさにそのとおりであると私は思います。
じっと花を見つめているときそこにあるのは、ただ花ばかりです。「私(という主体が)花(という客体)を見つめる」という自覚はそのように言語化して初めて生じるものであり、そのような言語化以前には、私が花を見つめているわけでもなく、花が私によって見つめられているわけでもなく、ただただ、そこに花があるばかりです。これが純粋経験です。このような経験は、あるとかないとか議論する以前に成立しているものです。あるかないかと問い始めたら、その瞬間に消えてしまいますが、そのような詮索を離れて花をじっと見つめたときに、直ちに「純粋経験は存在する」という言明以前に成り立っているものです。
わたしは、佐倉さんのサイトの中で、「作者について」のページが好きなのですが、佐倉さんは「好きなもの」として様々のものを列挙しておられます。わたしはこのページに純粋経験を大事にし対象に直接していく日本人的な特質を見ています。わたしを語らずして、おでんや、お好み焼き、ゆでたてのとうもろこしでご自身を語っておられます。ここではおでんや、お好み焼きは、佐倉さんから切り離された客体ではなくて、佐倉さんと主客一如なのではないでしょうか。わたしはこのページに脱キリスト教、脱西洋的なものを感じとっています。
今日、私は夕方、近くの海岸に行って、海に沈む夕日を眺めてきましたが、その海に沈む夕日を私は表現し尽くすことはできません。「どこまでもつづく水平線のかなたに、真っ赤な夕日が沈んでいった」と言葉で述べたところで、その言明が事実と一致しているにしても、私にとっては、そのような言葉は、私が見た夕日そのものを表現し尽くしてはいません。私にはわたしの見た夕日そのものが真であり、どんな言葉も言明も虚です。
私は東洋のものの見方の特質は、このような言語化以前の純粋経験を認識の主とするところにあると思います。それに対して西洋的な見方においては、あくまで言語認識こそを認識や理解の中心とみなし、どこまでも言葉の中にとどまり続けようとするように思います。わたしは佐倉さんのおっしゃる「知球モデル」の考えには賛成ですが、この「知球モデル」という考え方は、東洋的な見方に立って初めて成り立つものなのではないでしょうか。それに対して「積木モデル」というのは、あくまで言葉のレベルを抜け出ようとしない、西洋の見方の中で生じるものだと思います。言語認識の根拠をさらに言語によって探求し、それを言語化し、言葉に言葉を積み重ねていきます。佐倉さんの「知球モデル」というのは言語認識以前に言語による根拠付けというのは不要であり、言語認識の向こうには茫漠とした言葉にならない言葉以前のものそののものの世界が広がっているばかりである。言葉というのはこの言葉以前のものそのものの世界を表現し尽くすことは出来ないし、ましてものそのものに置き換わることは出来ないが、絶えずものそのものに肉薄すべく拡大させ、更新させていくことはできる。「知球モデル」というのはそう言うことだと思います。この考え方は純粋経験を認識の主とする東洋の見方に立って、初めて成り立つものだと思います。
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作者より だだのひと さんへ
9月12日
(1)いったい何を指して「真理である」と言うのか
わたしは、もちろん、絵に描いた餅のほうが実際の餅より「より真実である」、というようなことを主張しているわけではありません。いったい何を指して「真理である」とか「真理でない」とか、わたしたちは主張しているのか、という問題なのです。例えば、二人の人(aさん、bさん)が意見をことにして、それぞれ次のように主張し合っていると仮定します。
(a)Xは真理である。
(b)Xは真理ではない。
問題は、ここで真誤の吟味の対象となっているXが、「ただのひと」さんが主張されているように事実そのものを指しているのか、それともわたしが主張するように言明をさしているのか、ということになります。それでよく見ると、Xが言明ではなく事実そのものを指しているという立場をとると、とてもおかしなことになることがわかります。例えば、もしXが「昨日雨が降った」という言明ではなく、昨日雨が降ったという事実そのものを指しているとすると、(a)の言明では問題が発覚しませんが、(b)の言明は、
(b1)X(すなわち、昨日雨が降った、という事実)は真理ではない。
という奇妙な意味のない言明となってしまうことがわかります。それに比べて、Xを事実としてではなく、言明として、言い換えると、何の不都合も生じません。
(b2)X(すなわち、昨日雨が降った、という言明)は真理ではない。
このことは、わたしたちが「Xは真理である」とか「Xは真理でない」とか主張するとき、その真偽の対象Xは、事実そのものではなく、事実に関するわたしたちの判断や主張、すなわち言明(厳密には平叙文)、であることを意味しています。つまり、真理(あるいは誤謬)であるところの当のものは言明なのです。言明だけが真理であったり誤謬であったりすることができるからです。事実は、誤謬であることができないので、真誤の吟味判断の対象にならないのです。
さらにまた、もし、真理が事実そのものを指しているとすると、事実と無関係に真理が存在することが説明できません。たとえば、次の二つの言明は、事実と無関係に、真理です。
(c)もし昨日雨が降ったのならば、「昨日雨が降ったのだ」とい う言明は正しい。
(d)赤信号は赤信号である。
これらの言明が世界の一切の事実と無関係に真理であることは、これらの言明が誤謬となり得るような事態(可能世界)が存在しないことから明らかです。つまり、いかに全能の神であろうとも、これらの言明が誤謬となるような世界を作り出すことはできないのです。このように、もし、事実と無関係に真理が存在するならば、事実そのものを真理である、とは言えなくなります。
以上のようなことを考えるとき、やはり、真理は、事実のなかにではなく、言語のなかにある、と言わねばならないと思われます。
(2)「主客未分離」の純粋経験について
ただのひとさんは、
「私(という主体が)花(という客体)を見つめる」という自覚はそのように言語化して初めて生じるものであり、そのような言語化以前には、私が花を見つめているわけでもなく、花が私によって見つめられているわけでもなく、ただただ、そこに花があるばかりです。これが純粋経験です。
といわれますが、もし、電車が向こうからやってくる線路の上にたっていて、「ただただ、電車が走っているだけで、それを見ている私という主体は、言語が造り上げた虚像にすぎない」、などと考えて、そのままそこに立ち続けるでしょうか、それとも、身の危険を感じて、線路からのがれるでしょうか。もし、ただのひとさんも、わたしといっしょに、線路から逃げてしまうのなら、「主客未分離」などというものこそ、虚像(主観的な思い込み)にすぎないと言わねばなりません。
(3)「西欧」対「東洋」
わたしも、かつては、ただのひとさんのように、私は東洋のものの見方の特質は、このような言語化以前の純粋経験を認識の主とするところにあると思います。それに対して西洋的な見方においては、あくまで言語認識こそを認識や理解の中心とみなし、どこまでも言葉の中にとどまり続けようとするように思います。
というような意見に、一時、惹かれていたこともあります。しかし、このような考え方にはあまりにも多くの問題が含まれています。たとえば、西洋は、ギリシャ・ローマの文明(ヘレニズム)とユダヤ・キリスト教の文明(ヘブライズム)の水と油を混ぜたような混在文明であり、しかも、ギリシャの文明とローマの文明とは同じものではなく、ユダヤ教とキリスト教の関係も水と油のようなものです。そのうえ、ヨーロッパには土着文明(ケルト民族やゲルマン民族などの伝統的文化)が残っており、「西洋的な見方」と簡単に言えるほど、西洋の考え方は単純ではないことです。
同じことは、「東洋のものの見方」についても言えます。インドの思想と中国の思想と日本の思想とをみんな一緒にして、「東洋の考え方」などといえるものがあるのでしょうか。インドにおいても、ヒンズー教と仏教の間には、たとえば、日本の天皇主義とアメリカの民主主義の違いほどの大きな違いがあります。中国の老荘思想と儒教思想のあいだにも、とても、一緒にできない相違があります。
このことは、日本のさまざまな思想においても同様でしょう。とくに、不立文字、教外別伝などの言語軽視の伝統は、禅の伝統の中でも、とくに、臨済宗の主張なのであって、同じ禅でも曹洞宗はこれにきわめて批判的です。たとえば、道元は次のような手厳しい批判をしています。
あわれむべきことに、彼らは念慮(慮知念覚=考察思案)が語句であることを知らず、語句が念慮を透脱(解脱=真実相の顕現)することを知らない……。彼らいわく、「いまの東山水上行の話だとか、南泉の鎌子の話のようなものは、無理会話(分別判断では理解できない話)である。というのは、もろもろの念慮に係わる語話は、仏祖の禅話ではないのだ。無理会話こそが、まさに仏祖の語話である。そうであるから、黄檗の行棒や臨済の挙喝などは、理会(分別判断による理解)が及び難く、念慮にかかわらないのであって、このようなものが朕兆未萌以前(もののぎざしの現れる以前)の大悟なのである。先徳が方便として多く葛藤断句を用いるというのは、無理会なのだ。」このように言うやからは、いまだかつて正しい師に出会ったことがなく、参学によって得られた眼力がない。言うに足らない愚者である……。似而非僧侶がいう無理会話は、おまえにのみ無理会なのであって、仏祖はそうではない。(『正法眼蔵』「山水経」より、森本和夫訳)
つまり、不立文字、教外別伝などの言語軽視・分別思考軽視の伝統は、「東洋のものの見方」の中でも、中国・日本の仏教の中の、その一部である禅宗のなかの、またその一部である臨済宗の考え方にすぎません。それを、まるで日本思想全体の、あるいは、東洋思想全体の考え方であるかのようなアイデアが、今日でも幅を利かせているのは、京都学派(西田幾太郎や鈴木大拙やその後継者たち)のたれ流した思想的公害だとわたしは思っています。近代工業化がわたしたちに益とともに害をもたらしたように、彼らの思想的仕事も、益だけでなく害ももたらしたのです。その害に、わたしもただのひとさんも、汚染されているのではないでしょうか。
ご批判、ありがとうございました。
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