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  • from: ueyonabaruさん

    2008年02月18日 10時48分21秒

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    博学佐倉さんと田中裕さんの対論

     ここでも、佐倉さんのホ-ムペ-ジから材をとります。博学なお二人の会話ですが、そのまま読んでみたいと思います。


    田中裕 Yutaka Tanakaさんより
    1998年1月24日


    いくつか問題提起をさせていただきます



    初めまして。貴ホーム頁を拝見し、インターネットの双方向性をいかした新しい知的空間が形成されつつあることに多大の感銘を受けました。狭い専門の枠を越えた談論、権威に囚われず自由に思索する精神古代希臘の広場でかわされた哲学的饗宴が、装いを改めてネットで復活するような予感があります。

    龍樹の縁起思想について書かれた最新の御論考について、いくつか問題提起をさせていただきます。

    質問1:佐倉様は、伝統的な訳語に従ってシュニャターを「空」と翻訳し「空=無自性=縁起」の等式の内に龍樹の基本思想を要約されています。

    私は、シュニャターは、原語の意味に忠実に「空性(くうしょう)」と訳すべきだと思いますがこの点いかがお考えでしょうか。

    これは、単なる訳語の好みといったレベルの話ではありません。佐倉様がご指摘になったように、シュニャターとは「依存関係によって生起するものの空性」であって、縁起とともに語られるべきものです。それ故に、それは「無自性」とも言い換えられたわけです。大乗仏教のその後の発展、特に中国では、「空」が道教的な「無」の概念と混同される危険が常にありました。老子が、「有は無から生じる」というとき、「無」はあたかもそこからすべてのものが生成する母胎(かたちなき基体)の如く捉えられています。縁起と等値されない「無」の概念との混同を避ける意味でも、シュニャターは「空性」と訳すべきではないでしょうか。

     質問2:今回の御論考では、形式論理学の対偶律を使って、龍樹の議論の建て方 が、実質的には原始仏教のそれと同じであるということをご指摘になったと思います。「PならばQ」と「PでなければQでない」という二つの主張はPとQとの論理的等値を意味しますので、仰るとおり龍樹と原始仏教の縁起の定式は、表現が違うだけで実質的には同じだといえましょう。

    ただ、因果の双方向性ということは、時間を捨象した命題間の論理的等値性と同じではないという問題が残ります。「言うものは知らず」と「知るものは言わず」は同じことを言っていますが「言う」ことと「知る」ことに因果的な双方向性があるわけではありません。因果関係は、時間的なものを捨象しては語れない部分を持っていると思いますが、佐倉様はこの点についていかがお考えでしょうか。

    コメント:以前、米国の宗教学会で、D.kalupahana から直接聞いたのですが、彼は龍樹を大乗仏教の教学の創始者ではなくて、説一切有部の思想の批判を通じて原始仏教の根本思想である「縁起」をあらためて説いた復古主義者として捉えていると言っていました。復古主義者が、結果として新しい思想を生み出す ということは良くあることでしょうが、原始仏教の縁起概念に、龍樹が何を付け 加えたのかということを明らかにすることが必要かと思います。

    私は特に龍樹の涅槃論に多大の関心を寄せておりますので、佐倉様が、この問題についてどんなご意見を聞かせて下さるか龍樹に関する御論考、続編を期待しております。

    追伸

    以前に、米国と日本の学会で発表した哲学と宗教に関する拙論をネット上においてありますので、ご興味がおありでしたら、ご覧下さい。

    http://www.asahi-net.or.jp/~sn2y-tnk/papers.htm
    http://www.asahi-net.or.jp/~sn2y-tnk/tetugaku/nittetu1997.html

     佐倉様が、与謝野晶子の短歌に触れておられたエッセーも拝見しました、私は「桃李歌壇」という連歌と連詩のHPも主宰しております。 どなたでも気軽に参加できますので、もしよろしければ、思索に疲れたときなど、短歌もしくは連歌など投稿してみて下さい。

     

    ┌---------------桃李歌壇-------------------┐
    │  http://www.win.or.jp/~metanki/kadan/  │
    │  sn2y-tnk@asahi-net.or.jp        │
    └-----------主宰 田中裕(東鶴)------------┘

     





    --------------------------------------------------------------------------------

    田中裕 Yutaka Tanakaさんへ
    1998年1月29日




    (1)空と空性について

    スーニャタ(sunyata)はスーニャ(sunya)に「-ta」という接尾語をつけて抽象名詞化したもので、ご指摘のとおり、「空性」のことです。ちょうど、英語の"empty"に"-ness"をつけて"emptiness"という名詞を造るようなものです。チベット語でもサンスクリット語や英語と同じように、"tongpa" (sunya, empty) に"-~nid"をくっつけて"tongpa~nid" (synyata, emptiness) という抽象名詞を造るようです。したがって、同じように、スーニャタの場合は、「空」という語に「性」をくっつけて、抽象名詞であることがより明確な「空性」を訳語として使用した方が良いのかもしれません。

    しかし、漢字の「空」という語は、単に形容詞としてだけでなく、それ自体でも抽象名詞として使うことができるために、漢訳者たちはスーニャタの訳にも「空」を使用したのだと思います。そのために、わたしも、スーニャタはただスーニャを名詞化したものにすぎないということから、「空」を使っても良いのではないかと考えます。

    「空」を無と誤解することは、中国で始まったことではなく、すでにナーガールジュナのときにもあったようで、彼はしばしば、論敵が空の意味を理解しないで批判している、と語っています。しかし、ナーガールジュナや般若経の著者たちは、「空」という語の否定的な響きや、「無」との関連性があることを知っていて、わざわざ「空」という用語を使用したのではないかとわたしは思っています。彼らが「一切は空である」というような主張をした背景には、もちろん、「一切は有る」と主張した説一切有部の主張があったわけですが、それだけではなく、聴く者をして「そんな馬鹿な!」と思わせて注意を引かせる、一種の宣伝効果もねらっていたふしがあるようにわたしには思われます。この宣伝効果は2千年を経た現代でもまだ失われていないようで、わたし自身もこれにひっかかってしまったのですが、もし、彼らが、わたしが推測するような宣伝効果をねらっていたとしたら、やっぱり、「空性」という語よりは「空」という語の方がふさわしいだろう、と思われます。そして、そのためには、誤解されやすいという代価は払わねばならないでしょう。


    (2)ナーガールジュナがつけ加えたもの

    ナーガールジュナは、伝統的な縁起の思想を否定することもなく、また、なにも新しいものはつけ加えなかった、というのがわたしの主張です。たとえば、中村元教授が主張されるように、伝統的な縁起は「一方向的」で、ナーガールジュナのそれは「双方向的」であるから、ナーガールジュナは「可逆性」を新しくつけ加えることによって、縁起を「全く新しい意味」に解釈した、のではありません。

    PならばQであり、PでなければQでない。(伝統的表現)
    QでなければPでなく、PでなければQでない。(ナーガールジュナ的表現)

    逆観と呼ばれる後半部分はどちらも同じです。ナーガールジュナがやったことは、順観と呼ばれている前半部分の「PならばQ」を「QでなければPでない」と言い換えたことです。一見、伝統的表現では、前半も後半もPが先にきてQがあとに来ていますが、ナーガールジュナの表現の前半部分では、PとQの順序が逆になっているように見えるために、ナーガールジュナは「可逆性」を新しくつけ加えた、と中村元教授らは主張されているわけです。しかし、注意してみればわかるように、ナーガールジュナは単にPとQの順序を逆にしたのではなく、「QでなければPでない」というふうに、PとQを否定したものを逆にしているのです。いわば「裏返し」にしてから順序を逆にしているのです。これは、論理学で言う「対偶律」に他なりません。つまり、「PならばQ」と「QでなければPでない」は論理的に同値であり、意味が同じ、というわけです。
    こうして、「QでなければPでなく、PでなければQでない」というナーガールジュナの「相依性」の縁起が生まれたわけですが、それは、伝統的表現の縁起説に含意(implication)されていたものを明るみに引き出したにすぎなかったわけです。そのために、ナーガールジュナは、伝統的な縁起思想を否定したのでもなければ、なにか新しいものをつけ加えたのでもない、と言えるのではないかと思うわけです。因果説との関係でいえば、ナーガールジュナの仕事によって、伝統的縁起説は単なる因果関係(Causality)ではなかったことが判明した、ということになるかと思います。




    (3)涅槃とプロセス哲学

    プロセス哲学のホームページを興味深く拝見させていただきました。確か、Hartshorne や Jacoboson なども仏教に深い関心をよせるプロセス哲学者だったとおもいますが、ナーガールジュナの「涅槃」への関心もやはり、プロセス哲学との関連からなのでしょうか?わたしは、ナーガールジュナの涅槃説にはまだ特別な注意を払ったことはないのですが、どのような観点から彼の涅槃説に興味をもっておられるのでしょうか。わたし自身は、次の予定では、般若経の空とナーガールジュナの空の比較を考えているのですが、これもまた、大変な大仕事となりそうなので、いつ終わるかわかりません。



    おたより、ありがとうございました。

    佐倉 哲

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