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from: ueyonabaruさん
2008年05月01日 21時54分38秒
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パイドン
パイドンについてまとめてまいります。前の「ソクラテスの弁明」でのやり方ではなく、テ-マごとにまとめてまいります。
(ソクラテスの最後の様子)
パイドンが語ります。
「・・・・・私はその場にいあわせて、まったく不思議な感情を味わったのです。というのは、一方において、親しい人が自分のそばで死んでいくのをおいたわしいと思う、そういう気持ちはすこしも私におこりませんでした。それほどあのかたは、エケクラテス、その態度にも言葉にも、幸福そうな様子がありありとあらわれていたのです。ほんとうに、なんと自若として気高く、あのかたは死んでいかれたことでしょう。私は思いました、この人なら、ハデスの国におもむくにあたっても、必ずや神の御加護なしにはいないだろうし、またあの世に着いてからのちも、いやしくもそこでしあわせにすごす人が誰かいるとすれば、このかたこそはそういう人にちがいないだろうと・・・・・」
ソクラテスが死に至る前に弟子達にかたったことについて、パイドンはさらに話を続けていきます。
(あの世のことについて)
「・・・・・もしもこのぼくが、まず第一に、この世を支配する神とはまた別の、賢明にして善良な神々がいますこと、さらには、この世の人々よりもすぐれた、いまは亡き人間たちが待っていること、このことを信じていなかったとしたら、たしかに死を嘆かないというぼくの態度は、まちがっていることになるだろう。だが実際には、ぼくには、自分がこれからすぐれた人間たちのもとへ行くのだという希望があることを、よく知ってもらいたい。・・・・・」
(死とは)
「ほかでもなくそれは、魂が肉体から離れ去ることではないか。そして、死んだということは何を意味するかといえば、肉体が魂からはなれて肉体だけとなり、他方魂は肉体からはなれて肉体だけとなるーーこういうことではないか。死というものが、何かこれ以外ものでありうるだろうか・・・・・」
(哲学者のめざすもの)
「・・・・真に哲学のうちに一生を過ごした人間は死にのぞんで心くじけず、死んだのちあの世で最大の祝福をかちうるとかたく信じるのが当然だとぼくに思える理由を、説明したいと思う。・・・・・真の意味で哲学いう営みに従っている人々が実際にはげんでいる仕事は、死に行くことと死を完成すること以外の何ものでもないのだが、おそらくこの事実は、ほかの人たちの気づかぬところだろう。ところで、もしそれが真実だとすれば、全生涯ただそれだけを熱望してきたというのに、いよいよその到来に」あたって、ひさしく熱望しはげみつづけてきたことの実現を目の前に嘆くというようなことは、たしかに奇妙なことというべきではあるまいか・・・・・」
(禁欲主義)
哲学者は死に行くことまたは肉体の欲から離れることにより真実に達しうるとします。
「なぜならば、われわれが肉体をもっているかぎり、そしてわれわれの魂が、肉体的な悪と分かちがたく結合している限り、われわれは、われわれの求めてやまぬあの「真実」を完全に手に入れることは、けっしてできないだろうから・・・・・肉体がわれわれの心に充満させる数々の恋情、欲望、恐怖、はてはありとあらゆる幻想などの、多くの愚かしいものどもを想えば、まことに諺にいわれるごとく、肉体はわれわれに何ひとつ片時も考えることをゆるさないとは、全くそのとおりなのである。・・・・・」
「いやしくもわれわれが何らかの明晰な知を得ようとするなら、肉体をはなれ去って、純粋に魂だけで事柄そのものを観じなければならぬということだ。それができたときにこそ、どうやらわれわれは、われわれが欲求し恋いこがれてやまぬというその知恵を、わがものとすることができるらしいーーしかり、換言すればそれは、理のさし示すところわれわれが死んだときということであって、生きているかぎりは不可能なのだ。・・・・・思うに、絶対にやむをえなないかぎりはいざしらず、それ以外はできるだけ、肉体と交わり共にあることをさけ、肉体的な汚れをしりぞけて清浄であるようにつとめながら、最後に神みずからがわれわれを解放したもうときを待つことであろう。」
(人間はハデスから生まれかわってくる)
ソクラテスが「・・・・ぼくがあの世に行けば、この世におけるのとすこしも劣らず、善きあるじと善き仲間たちに出会えるだろうと、信じているからなのだ」等々と語るのを聞き、弟子のケベスが、普通の人にはなかなか信じることができないと言うので、ソクラテスは次のように言います。
「さて、われわれは問題をこんなふうに設定して、考えてみることにしよう---人間が死んでしまったのち、はたして各人の魂は、ハデスに存在するのであるか、それとも存在しない、とね。ところでこれについてわれわれは、古来よりつたわるひとつの教説があるのを思い出す。その説くところによると、各人の魂は、この世からかの世に至りついてのち、そこに存在をつづけ、そして、ふたたび、死者たちの世界からこの世にやってきて生まれかわる、というのだ。で、もしこれがほんとうなら、すなわち、生きている人々は死者たちからふたたび生まれてくるのだとするなら、われわれの魂はたしかに、あの世に存在するということになるのではないだろうか。なぜなら、もし存在しないなら、ふたたび生まれてくることもできないはずだからね。だからこれは、魂がハデスに在ることの充分な証明になるわけだ、―――つまり、生きている人々が生まれてくるのはただ死者たちからのみであって、ほかのどこから生まれてくるのでもないということが、もしほんとうに明らかになればね。もしそうでないということになれば、また、別の議論が必要だろうが」
と言い、つづけて、この魂の存続について、弟子達に色々のテ-マをあげ説明してゆきます。また、この説明は一筋縄ではいかないようで、相当の時間を費やしている様が窺えます。この、くだりについては、哲学的論理の展開で難解であり、わたしがまとめるのは容易ではありません。よって、ここではとりあげませんが、興味のあるかたは、ぜひ直接原典にあたってください。霊魂存続の証明をしてゆく内容となっております。
その他多くのテ-マについて言及があります。たとえば、有名な想起説(生まれる前に知識はそなわっている)、ものの本質(純粋にそれ自体だけであるもの、形相)、目に見えないものが真実(魂)、智慧(魂が自己自身だけでものを考察するばあい)、言論の重要性(知性の重要性)、万物の原因となるのは知性(ヌス)等々ですが、いずれも大切なものです。
(つづく)
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