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  • from: ueyonabaruさん

    2008年06月22日 18時03分48秒

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    石原慎太郎の法華経論 ①

     曲がりなりにもプラトンを読了したのですが、次に何を読もうかと考え、手にしたのは、石原慎太郎著の「法華経を生きる」という本です。この本は、数ヶ月前にひととおり読んではおりました。内容はむろん法華経が中心なのですが、彼の家族のことや新興宗教の教祖達のこと、祖先崇敬の日本人の心情、さらには哲学的なことにも話は及び、多岐にわたっての彼の思索の深さがうかがわれました。哲学的なテ-マでは時間・空間論を論じております。引いてみます。


    存在するものとは何か

     ハイデッガ-にいわせれば、「存在するもの」とは何なのかという疑問は、存在するものとしてそこに在るそのものとはいったい何なのかということ、たとえば今私の書斎の机の上に本とインクの壺とペンが在る。本は本、ペンはペンだがそれらの品の機能や役割については誰しも知ってはいるが、もう一つ進んで、その呼び名や役割ではなしに、ペンはなぜそこにペンとして在るのか、という疑問です。・・・・・つまりそれは、何億光年の彼方になんであんな星が在るのかなという疑問と実はまったく同じことなのです。 だからそれは、そこに在るものをそこにそう在らしめている「存在」とはなにかということになる。

     それにしても何億光年前の宇宙の姿を今見るということは有無をいわさず「時間」というものの継続を明かしている。今、眺める星の過去を光年という時間で計る距離として知ることで私たちは「時間」について歴然と知らされるのです。 ここでいわずもがなのようで実は基本的な大切なことがらについて確認しておくべきなのは、プラトンが、それこそが哲学する者のパトスだといった、存在の問題に関する人間の驚きとはいかなるものかということです。 ハイデッガ-の考え方と深い関わりのあった哲学者のウィトゲンシュタインは、「神秘的なのは世界がいかにあるかということではなくて、世界がある、ということなのだ」といっている。まさにそうなのです。


    「ある」とは「心にとまる」こと

     ハイデッガ-は著書「形而上学とは何か」の中で、「あらゆるものの中で人間だけが、存在の声によって呼びかけられ、ものが存在するという驚異の中の驚異を経験するのだ」といっています。・・・・・ハイデッガ-やフッサ-ルの良き解説者である中央大学の哲学教授木田元氏はその著書の中で、一つの手がかりは、「存在」とはものではない。「存在」はものをそこに在るものたらしめているのだから、「存在」そのものは在るとか無いといった一個の「もの」ではない。だから、「存在」とは何なのかを、ものたちの中に探しても見つけたり理解出来たりする訳がない、と解説しています。 そしてこの問題の鍵としてハイデッガ-は次の三つの命題を記しています。

     人間が「存在」を了解する時にのみ、「存在」は(ある)
     「存在」は了解の内に(ある)
     人間が在る限りでのみ、「存在」は(ある)と

    ueyonabaru註: 存在とは人間が心で認めたとき、「存在」となるという意味か


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