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from: ueyonabaruさん
2008年06月24日 14時06分39秒
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石原慎太郎の法華経論 ③
石原慎太郎のこの著「法華経を生きる」は、時間、存在論をも展開しますが、しかし、この本の主旨が仏教の哲理を説くことであることは疑い得ないのです。人間は、この、時間、存在(空間)でなる人生を生きている中で、なにものかを求めてゆかねばなりません。これが、この本のテ-マなのでしょう。
今回は、石原慎太郎の仏教論を見る前に、この方の宗教観における際だった点を見てみます。
現に多くの伝道者たちは信仰の極意として人間を超えたものの存在への心の傾斜を前提としての無私、無我などを説いたりします。しかし私から見ればそれは実は信仰を説く側の一種の奢りであって、悩みを抱えている者、つまり自分に関する出来事にがんじがらめになってにっちもさっちもいかなくなっているような相手に、自分を捨てろなどといっても通じる訳はない。わたしはこうして救われたのだなどと有りがたげにいう人をよく眺めてみると、こちらから見ればとてもよく救われているともおもえない。 要するに救いなどというものはあくまで個人個人のことであって、そう簡単に自分の体験を他人に向かって普遍化出来るものでありはしない。つまり自分は救われたと当人自身がしみじみ想わぬ限り、誰も救われてなどいはしないのです。
私はこの文章(=本)の中で仏教の教え、それも法華経の教えについて解説したり、私が法華経を読んでなるほどこれは真理だなと感じたことを伝えたいなどというつもりはまったくない。ただ私は私なりにさまざまな体験を重ねて自分の人生を生きてきたが、その過程にある縁で行き会った、釈迦が亡くなる寸前に説いたという、いわばお釈迦さまという人間の人生の集大成としての教えから受けたいろいろな強いヒントが、他人には知らぬが私の人生にとってどんな効果があったかについて記し、そのある部分はある人たちも多分共感を持って受けいれられるのではないか、またある人には何かの足しになるのではないかと思っているだけです。いってみれば法華経をよんだことでの私の人生のための効用体験、さらにいえば私の人生の中で被ったおかげ、御利益についての分析です。
石原氏は法華経の教えを解説したり、感じたことを伝えたいとは思わないという言葉とは裏腹に法華経を大礼賛し、法華経体験をも大いに伝えてくれています。無理からぬことでしょう。これは、法華経を伝えるのに、一定の教団の伝道のようには語りたくないというのが主旨だと思われます。 注目したいのは、石原氏が法華経の御利益についてとハッキリと述べていることです。御利益を求めないで、宗教に入信するという方もいらっしゃいますが、このような方でもなにか求めるところあっての入信ではないでしょうか。物質的な功徳のみ求めるのは論外ですが、精神的ななにものかも含めたなにかを求め宗教入信するのは自然なことのように思います。石原氏のように、御利益をとハッキリ打ち出される方は正直な方だと思えます。知識人といわれるかたがたは、この点臆病であり、宗教信者といわれることを畏れているようにも見えます。
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