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from: ueyonabaruさん
2008年12月01日 14時41分31秒
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エマ-ソンの日記から ⑥
自分はどんな言葉を選んでいいのだと考えているような人間は、すぐれた文章は書けない。・・・・・ものを書く場合にも、かならず正しい言葉があるのであって、それ以外の言葉はすべてまちがっているのだ。言葉の美しさは、ただその配置のなかにだけ存在する。・・・・・すぐれた文章においては、あらゆる言葉が、何ものかを意味する。すぐれた文章においては、言葉がその表現する事物と一つになる。(1831.7.8)
自然が私たちにあたえてくれる、「霊魂の不滅」を証明する議論の一つは、魂がそのなかに生きている畏るべき孤独ではないかと、私にはいつも思われる。自分のもっとも高い思想を、だれであれひとりの他人に伝達できる人間は少ない。・・・・・親友同士でも、それどころか夫婦でさえも、自分たち宗教的感情をほんのわずかしか相手ににわかち合えないのはなぜかしらと、エレンはよく不思議がっていた。(1881.7.14)
「精神的なものは精神的に知覚しなければならぬ」という言葉よりも真実なものはない。
私たちの内なる神が、神を礼拝するのだ。(1831.7.15)
塾考するということは、媒介を経ずに直接に神から真理を受けとることだ。それこそ生きた信仰である。おのれ自身に対する信仰は、高慢の極致ではなく、敬虔の極致なのであり、神自身以外の何ものをも学ぶことをよろこばない態度である。(1831.7.29)
正反対の結論をいだいている人間と完全な意見の一致をみるためには、君の言葉を相手の言葉に翻訳してみるだけでいい。君が「神」と呼ぶその同じ理念は、彼の命名法にしたがえば、「キリスト」と呼ばれる。ウィリアム・ペンの用語では、道徳感情は「キリスト」と呼ばれている。(1832.5.7)
今までにも、時おり私は、立派な牧師になるためには牧師の職を去ることが必要なのだと考えたことがあった。この職業は、もう時代おくれなのだ。すっかり変ってしまった時代のなかで、私たちは祖先たちの死んだ形骸にしたがって神を礼拝している。ソクラテスの説いた異教のほうが、老朽淘汰されたキリスト教よりもましなのではなかろうか。(1832.7.2)
世界中の人間が形式的なキリスト教にしがみついており、だれも、人びとに衝撃をあたえたりすることを怖れて、本質的な真理、キリスト教の核心、を教えない。・・・・・君は、キリスト教を真理を伝える器たらしめるかわりに、真理を、キリスト教の乗る馬にすぎないものとしてしまう。・・・・・キリストが「謙虚であれ」と言っているから、君は謙虚でなければならないというのだ。「なぜ私はキリストにしたがわねばならないのだろう?」「神がキリストをこの世につかわしたからだ。」だが、神がキリストをつかわしたことがどうして私にわかるのだろう?なぜなら、キリストが説くのと同じことを、君自身の心が説いているからだ。としたら、、最初から私は私の心へ赴くべきではなかろうか。(1832.10.1)
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