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from: ueyonabaruさん
2009年04月07日 06時26分52秒
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次元の考え方
幸福の科学では、次元構造を提示しております。例えば、我々が死ぬと幽界に移行するわけですが、そこは、この3次元の縦、横、厚みの世界に、時間が加わったものであるとし、さらに5次元に至ると善の概念が加わるという具合に、高次に至るに従い精神的な価値観が加わることになります。
だいぶ前のことになりますが、大学の教師とこの次元をテ-マに話をしましたが、彼は幸福の科学のいう次元論とは異なる次元を考えているようでした。数学か物理の教授だったと覚えておりますが、彼らの次元論は私は分かりません。
幸福の科学の次元論も私は理解していないのかもしれません。長い間、大川先生のこのことに関するご説明に納得がいっておりませんでした。それは、3次元までは物質世界に存する事象であるのに4次元には時間という全く異なる(と思っていた)概念が出てくるし、5次元では善という宗教的価値観が出てくるのです。このあたりについて、私にはストレ-トに理解していたとは言えないのです。
今朝、フト思いついたのですが、もしかすると、私が物質世界の概念として考えていたもの、縦・横・厚みも観念のものではないかと考えたのです。全てが観念ではないかと考えてみるのです。
そうなると物質世界と考えるものは存在しないとし、観念のみが存在するとしなければなりません。
このことについて、hiraokaさんどのようにお考えでしょうか。池田晶子さんの思想が極端な観念論であることなど話し合いましたね。
ときおり、能力以上の思いつきに近いことを考えますが、自分でも整理がつかないときもあり、悩みます。池田さんとの関わりなどでご説明いただけませんか。
コメント: 全4件
from: hiraokaさん
2009年04月16日 00時36分27秒
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「Re:Re:Re:次元の考え方」
ueyonabaruさん、こんばんは。
>いわば、重なって存在している。hiraokaさんは、このような心境からの見方をされたのでしょうか。
重なって存在しているのではなくて同時に平面的に存在していると、ぼくは思っているんです。
正しいかどうかは分かりません。
ちょうど飽食の先進国と飢餓の後進国が同時に存在している感じです。
>数学、物理学での理解は私には無理がありますが、ご説明を拝見し、ただただ、驚くのみです。お話は聞かせてください。
えっ! この考えに驚いちゃうんですか? そうですか・・・
昔からSFなどでは定番ですし、陽電子が存在することも確かめられていますので、なぜこの宇宙に反物質が少ないのか?・・・と云うのは現在の物理学の大テーマなんです。
> 私たちの認識は、「瞬間」「瞬間」をつなぎ合わせて理解しているんですというのは分かるんです。時間とは何でしょうかという疑問がまたしても出てきました。
時間と云う概念を抽象的に取り出したために、かえってぼくらに分かりにくくなったんだろうと思うんです。
いま僕らが見るピラミッドは完成当時のその昔は彩色されていて、頂上には冠石が光輝いていたそうですが、もちろんぼくらにはそうは見えません。
また浄土宗の仏壇は新品は金ピカですが、目にするたいていは薄黒く陰気な雰囲気に変化していますね。
もしも、ぼくらが物の時間的変化の全てを同時に感得できるなら、今見ているものは絵巻物の一部のように認識するだろうと思います。
ここらへんの事情は、「男子一日会わざれば、割目して見るべし」と同じことですね。
>1次元、5次元も観念の事象として考えていいのですね。
すみません、ちょっと疑問の意味がよく分かりませんでした。
「観念だから、それは実際には無い」と云う意味でしたら、はしょりすぎではないかと思います。
一次元の宇宙が無いかと云うと、それは簡単には証明できないんです。
そもそも、「無い」と云うことを証明するのは大変にむずかしいんです。
こんなことを書いてますが、ぼくが正しい担保はありませんので、参考意見にとどめて置いてください。
>考えを整理するために、極端なことを言ってしまいました。ときおり、そのような簡略化をしたくなります。物質世界がないということをここで主張しようとは思いません。色心不二と仏教では言いますが、これが穏当であり、幸福の科学もそのような説明をしますね。
ほんとにそうですよね。これが言葉の限界ですね。
言葉で説明したとたんに、それそのものではなくなってしまうんですから。
>この世は、ハ-ドな修行世界であるというのが、私の感懐です。
たしかにハードなんですが、ほんとうに「修業世界」なんでしょうか?
ぼくはここに至って、修業ではなくて「経験世界」ではないかと思うようになりました。
>「自分がある」ということ「自分を認識できるということ」について、再度ご説明願います。私も共感したいのです。
眠っている間は「自分は無い」と解釈されているのが世の常ですが、それでも目が覚めると大事件が起きていたりしているわけで、それを指して「現実」とぼくらは云っているわけですね。
しかし目が覚めてはじめて大事件を知って後、それを自分の世界認識として取り込むわけです。
すると、大事件を知る前の自分と知ってからの自分はどう違うのでしょうか。
どこも違っていないわけでして、しいて言えば「大事件に対する反応が自分」であり、しかも反応は人それぞれなわけです。
これをこそ、「経験」と呼べるのではないだろうかと思うのです。
しかも、「自分がそう思った」と云うことについては、自分にしかできない経験なわけです。
このようにして経験した自我の総体が、神と呼びうるものではないかと想像しているんです。
from: ueyonabaruさん
2009年04月14日 21時30分40秒
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「Re:Re:次元の考え方」
hiraokaさんご返事おくれて申し訳ありません。内容が難しいのとテ-マについての吟味をしてからご返事を書こうとの思いがあり、考えるのに時間がかかり、遅れました。考えても、分からないものは分かりません。ですから、適当なところで、ふんぎりをつけて発言をしなければなりませんね。
> 「移行」すると言う言葉にひっかかってしまうのですが、物理的に移行するのではなく、肉体と云うフィルターを通した世界感の情報が自分に無理やり入ってこなくなると云うことだと思います。
> これは瞑想の状態に似ていますが肉体に入っていても入っていなくとも、どちらにも共通しているのは、「自分を自分と感じられる」と云う認識なわけです。
移行するという表現んに引っかかるようですが、死んだら幽界に移行するので、そのように、4次元に移行すると表現したのです。4次元もそれより高次の次元もさらには低次の次元も全てがこの永遠の今に存在するという見方もあります。いわば、重なって存在している。hiraokaさんは、このような心境からの見方をされたのでしょうか。
> 大川さんのこの説明はたぶんに文系的な説明でして、たとえば子供の時代であれば自己中心的にしか考えられず、世界観も狭いものですが、長じるにつれて他者の存在を認めていくような世界観に変化するのと同じことを「次元」と云う言葉で説明したように、ぼくは解釈しています。
> つまり、おとなの世界観はこどものそれよりも「次元が高い」と云うような意味だろうと思います。
上のご説明は分かりやすいですね。
> 物理学では一般的にこの世は、三次元空間に時間軸を足した四次元とするのが普通です。
> では、パラレル・ワールドのように、五次元ではこの宇宙が無数に存在するのかどうかはまだ分かっていません。
> 平行宇宙やパラレル・ワールドを想像する人は結構いるようですが、物理学では数学を言語として使用しますので、今の所は「ひも理論」などのように数学的な記述方法、あるいは自然界の解釈方法のひとつなわけです。
数学、物理学での理解は私には無理がありますが、ご説明を拝見し、ただただ、驚くのみです。お話は聞かせてください。
> >それは、3次元までは物質世界に存する事象であるのに4次元には時間という全く異なる(と思っていた)概念が出てくるし、・・・
>
> いえそうではなくて、いま此の瞬間だけを切り出すことはできないわけです。
> 僕たちの認識は、「瞬間」「瞬間」をつなぎ合わせて理解しているんです。
> テレビジョンに見る映像もこまぎれである事はご存知とおもいますが、認識法のつねとして事象を固定して見る習慣がぼくらには付きまとうんですね。
> 永遠不滅の物質や現象はありませんし、この世の何であれ時間による変化と云う宿命を持っていると思います。
> 原子であってもそれは同じなはずですが、現在の物理学では電子ひとつの寿命や運命を理解するには至っていません。
>
私たちの認識は、「瞬間」「瞬間」をつなぎ合わせて理解しているんですというのは分かるんです。時間とは何でしょうかという疑問がまたしても出てきました。
> >今朝、フト思いついたのですが、もしかすると、私が物質世界の概念として考えていたもの、縦・横・厚みも観念のものではないかと考えたのです。全てが観念ではないかと考えてみるのです。
> ええ、おっしゃる通りなんです。厚みはこのくらいと認識することをぼくらは自動的に捕らえているわけですね。
> 肉体が見る世界観がこの世での共通ルールなわけです。
> シュレーディンガーの不確定性原理も同じことを言っているわけです。
1次元、5次元も観念の事象として考えていいのですね。
> >そうなると物質世界と考えるものは存在しないとし、観念のみが存在するとしなければなりません。
>
> これは、云いすぎなんだろうと思うんです。
> 存在しないわけではなくて、観念がその存在を認めていると云うのがぼくらの実際の捉え方なんだろうと思うんです。
> もっとも、これらはほぼ自動的に思考されていますので意識に昇る事はあまり無いんですけど。
>
> 観念が「それは在る」と認めているからそれは「在る」し、それが無かったら観念も「それは無い」と云うことをいちいち認めなくてすむんですね。
> ここらへんは、ややこしいですね。(*^_^*)
考えを整理するために、極端なことを言ってしまいました。ときおり、そのような簡略化をしたくなります。物質世界がないということをここで主張しようとは思いません。色心不二と仏教では言いますが、これが穏当であり、幸福の科学もそのような説明をしますね。
> それと、もうひとつ。
> この世の存在理由として、この世での縦・横・厚みを経験することによってあの世での創造活動も行いうるとも云えるのではないかと、ぼくは想像しています。
この世は、ハ-ドな修行世界であるというのが、私の感懐です。無常、非情の世界であり、年老いてゆく人間の哀れさがこの頃は強く思われてなりません。しかし、ここでの経験も無駄ではないはずです。あの世での創造活動にも役立つ力を与えてくれるかもしれませんね。
> >池田晶子さんの思想が極端な観念論であることなど話し合いましたね。・・・・池田さんとの関わりなどでご説明いただけませんか。
>
> 池田さんは、「自分が在るということを認識している、その主体が在るということの不可思議」と云う不思議に酔ってしまった人だと思います。もっとも、此の事自体に気付かないと云うか、この不思議の意味が分からない人はとても多いのですが、それでもかまわないんだろうとぼくは思います。
> 気付くことの弊害もあるんだろうと思うんです。
>
> シルバー・バーチの霊訓にあったんですが、「自分を自分と認識できることと、生命は、人類最大の謎です」。
> たしかにそのとおりだと、ぼくも思います。
hiraokaさんは、お若い頃から、「自分がある」ということに驚き、感動されたようですね。私は、どうかというと、それとは異なるといったほうが良いのかもしれません。じゃー何だと問われれば
即答もできないわけですが、自分自身はどんな性格だったのか振り返ってみたいと思います。「自分がある」ということ「自分を認識できるということ」について、再度ご説明願います。私も共感したいのです。
>
from: hiraokaさん
2009年04月08日 01時28分27秒
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「Re:次元の考え方」
ueyonabaruさん、こんばんは。
お久しぶりですね。
ぼくは親戚の人に頼まれたノートブック・パソコンの修理に悪戦苦闘していました。(^.^)
できるだけお答えしたいと思いますが、ぼくは数学での次元の扱いの意味をよく理解しているとは云えませんので間違いがあるかも知れません。
>幸福の科学では、次元構造を提示しております。例えば、我々が死ぬと幽界に移行するわけですが、
「移行」すると言う言葉にひっかかってしまうのですが、物理的に移行するのではなく、肉体と云うフィルターを通した世界感の情報が自分に無理やり入ってこなくなると云うことだと思います。
これは瞑想の状態に似ていますが肉体に入っていても入っていなくとも、どちらにも共通しているのは、「自分を自分と感じられる」と云う認識なわけです。
>そこは、この3次元の縦、横、厚みの世界に、時間が加わったものであるとし、さらに5次元に至ると善の概念が加わるという具合に、高次に至るに従い精神的な価値観が加わることになります。
大川さんのこの説明はたぶんに文系的な説明でして、たとえば子供の時代であれば自己中心的にしか考えられず、世界観も狭いものですが、長じるにつれて他者の存在を認めていくような世界観に変化するのと同じことを「次元」と云う言葉で説明したように、ぼくは解釈しています。
つまり、おとなの世界観はこどものそれよりも「次元が高い」と云うような意味だろうと思います。
>だいぶ前のことになりますが、大学の教師とこの次元をテ-マに話をしましたが、彼は幸福の科学のいう次元論とは異なる次元を考えているようでした。数学か物理の教授だったと覚えておりますが、彼らの次元論は私は分かりません。
数学では、下の次元の要素をすべて含む各座標点といったものを純粋に思考として想像することができますね。
かんたんに云うと、線分は下の次元の点を全て含むわけですね。
同じように、ただいま現在の此の瞬間の宇宙を時系列に沿ってすべて含むもの(世界観)も考えられるわけです。
物理学では一般的にこの世は、三次元空間に時間軸を足した四次元とするのが普通です。
では、パラレル・ワールドのように、五次元ではこの宇宙が無数に存在するのかどうかはまだ分かっていません。
平行宇宙やパラレル・ワールドを想像する人は結構いるようですが、物理学では数学を言語として使用しますので、今の所は「ひも理論」などのように数学的な記述方法、あるいは自然界の解釈方法のひとつなわけです。
>それは、3次元までは物質世界に存する事象であるのに4次元には時間という全く異なる(と思っていた)概念が出てくるし、・・・
いえそうではなくて、いま此の瞬間だけを切り出すことはできないわけです。
僕たちの認識は、「瞬間」「瞬間」をつなぎ合わせて理解しているんです。
テレビジョンに見る映像もこまぎれである事はご存知とおもいますが、認識法のつねとして事象を固定して見る習慣がぼくらには付きまとうんですね。
永遠不滅の物質や現象はありませんし、この世の何であれ時間による変化と云う宿命を持っていると思います。
原子であってもそれは同じなはずですが、現在の物理学では電子ひとつの寿命や運命を理解するには至っていません。
>今朝、フト思いついたのですが、もしかすると、私が物質世界の概念として考えていたもの、縦・横・厚みも観念のものではないかと考えたのです。全てが観念ではないかと考えてみるのです。
ええ、おっしゃる通りなんです。厚みはこのくらいと認識することをぼくらは自動的に捕らえているわけですね。
肉体が見る世界観がこの世での共通ルールなわけです。
シュレーディンガーの不確定性原理も同じことを言っているわけです。
>そうなると物質世界と考えるものは存在しないとし、観念のみが存在するとしなければなりません。
これは、云いすぎなんだろうと思うんです。
存在しないわけではなくて、観念がその存在を認めていると云うのがぼくらの実際の捉え方なんだろうと思うんです。
もっとも、これらはほぼ自動的に思考されていますので意識に昇る事はあまり無いんですけど。
観念が「それは在る」と認めているからそれは「在る」し、それが無かったら観念も「それは無い」と云うことをいちいち認めなくてすむんですね。
ここらへんは、ややこしいですね。(*^_^*)
それと、もうひとつ。
この世の存在理由として、この世での縦・横・厚みを経験することによってあの世での創造活動も行いうるとも云えるのではないかと、ぼくは想像しています。
>池田晶子さんの思想が極端な観念論であることなど話し合いましたね。・・・・池田さんとの関わりなどでご説明いただけませんか。
池田さんは、「自分が在るということを認識している、その主体が在るということの不可思議」と云う不思議に酔ってしまった人だと思います。もっとも、此の事自体に気付かないと云うか、この不思議の意味が分からない人はとても多いのですが、それでもかまわないんだろうとぼくは思います。
気付くことの弊害もあるんだろうと思うんです。
シルバー・バーチの霊訓にあったんですが、「自分を自分と認識できることと、生命は、人類最大の謎です」。
たしかにそのとおりだと、ぼくも思います。
from: ueyonabaruさん
2009年04月29日 16時11分40秒
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「Re:Re:Re:Re:次元の考え方」
幸福の科学の次元論のことですが、私が分からないのは、科学者や数学者の考える次元論とどのような点で共通し、または異なるかについてなのだと思います。ご説明もいただきましたが、科学でいう次元論は私にはところどころしか理解できません。
全ての次元が重なって存在していると私が申したことに対し、hiraokaさんは、同時に平面的に存在していると思う旨のご発言でした。「永遠の今」という神秘的な言葉も使いました。
平面的に存在しているとすれば、片や飽食片や飢餓が同時存在となってしまい、差別世界を表現しているように思えます。重なって存在するという表現には、無差別の世界のイメ-ジがあるのです。すなわち、低次元も高次元も同時存在の無差別世界を想定しておりました。
時間とは何かが疑問になりましたので、アウグスティヌスの告白を引っ張り出してみました。過去の時はすでに過ぎたものであり現存しない、未来はいまだ来たらずであり現存しない、現在はというとすぐに過去へと過ぎ去ってしまうのでナカナカ現存しがたい等々と問答をしますが、現在という時点を想定してそこから過去と未来を判断してゆくのです。彼の想定した現在が、私のいう永遠の今なのですが、このような考え方をすすめてゆくと、神秘的宗教的になってしまいます。
次元の高低についても神秘的な捉え方をしてみて、次元には高低もないしかし同時に高低もあるという矛盾した表現をしてみたいと思います。同じように、時間というのはないしかし時間はあるとしてみました。
前に、無限数のお話をしたときに、hiraokaさんに色々とご教示いただきました。これについても、有限と無限は同時に重なってあるのだという不思議な結論を出してみたいと思うのです。
あとはその人の認識であり、その人の思うとおりの世界があるし、世界はその人の思うとおりになる、人の意識は、無限と有限の幻の中を旅をするようなものなのかもしれません。有限と思えば有限、無限と思えば無限となる。
とこのような、思考を進めてみましたが、単なる観念の遊戯といわれるかもしれませんが、矛盾する概念の同時存在を考えてみたいのです。
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