サークルで活動するには参加が必要です。
「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
※参加を制限しているサークルもあります。
-
from: ueyonabaruさん
2009年09月05日 12時38分33秒
icon
私の信仰
幸福実現党の惨敗もあり、その後のhiraokaさんとの論争もあったりしたことから、私の心は乱れ、信仰心もぐらついてしまいました。またしても、自分のやっていること、考えていること、信じていることはもしかすると間違ってはいないのかという疑心が起こってきたのですね。
今朝は起きてから、書棚を整理していたら、「永遠の仏陀」という先生のご本がでてまいりました。この本の中で次の言葉がでてまいります。
「・・・・・信仰とは、この光が、仏陀より射しきたっていることを知ることである。信仰とは、この光が、大宇宙の根本神仏である仏陀を通して、地上を照らしているとを信ずることである。・・・・・」
この仏陀が大川隆法でありエル・カンタ-レであるということをおっしゃっておられるのです。そして、この仏陀への信仰、帰依が基本だというのです。最初、この本を読んだときには、正直申しまして拒否感が起こってまいりました。長いあいだ、このことが受け入れられなかったのです。受け入れるまでには、10年ぐらいはかかったのではないかと思います。
多くの皆さんが、大川隆法に反発を感じるのは、その点が一番大きいのではないでしょうか。良い教えではあるが、教祖が自分のことを神というのは不遜である等々の批判は友人などから幾度も聞いております。
私が以前に信仰していた生長の家の創始者である谷口雅春師は、ご自身を「神の教えを伝えるラッパである」と常に謙虚な態度でありました。これには、非常に共感をしたものです。このような、生長の家の教えからすると、大川先生のお言葉はナカナカ素直に受け入れるわけにはいきませんね。ご自身を仏陀であるとおっしゃるほどですから。
今朝は聖書も開いてみました。ヨハネ伝14で、イエスの言葉として次のものがあります。
「わたしは道であり、真理であり、いのちである。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない。もしあなたたちがわたしを知るならば、わたしの父をも知るであろう。今から、あなたたちは父を知ることになる。いや、すでに父を見たのだ」
すごいことをおっしゃいます。自分自身を真理であり、いのちでありというこの自信はどこからくるのでしょう。
わたしが、生長の家のなかにあるときには、聖書、キリスト教になかなか入り込めなかったのですが、わたし自身がエル・カンタ-レを信じると決意したときから、キリスト教や聖書の世界が自分のものとなりました。聖書を信じられるようになったのです。キリスト教というのは、イエスを救世主とし、神の子として、いや神として、心の底から信じ込むことなのです。幸福の科学でもまったく同じ構図であり、エル・カンタ-レを受け入れないことには始まらないでしょう。そうでなければ、正心法語を読むことの功徳も得られないでありましょう。
パウロの書簡集は生長の家にいた時分でも、伝道などの運動に疲れたときなどよく読んだものです。彼は、いわば宗教活動家なんですね。伝道することへの情熱、組織の管理意識などよく伝わってきました。しかし、聖書そのものは、特に日本人である我々には、キリストへの信仰心なしでは分かりにくいのではないかと思っております。
わたしは、エル・カンタ-レへの信仰はもっているつもりですが、ときにぐらつきます。
コメント: 全17件
from: ueyonabaruさん
2009年09月10日 23時07分27秒
icon
「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:私の信仰」
hiraokaさんへ
> 西郷さんも地獄だとは、ちょっと酷な気がします。
西郷さんは、地獄ではないようです。私が前にそのように申したので、そのことが脳裏に残っていたのではないでしょうか。すみませんでした。
> >> ダーウィンもマルクスも・・・ヒトラーも。
> > ここのところ、分かりにくいです。大川さんの地獄、お釈迦様の地獄、イエス様の地獄があることになりますね。
>
> ええ、そうです。唯一の天国や唯一の地獄があるわけではないと思われます。
> ですから霊界では、天国に居るとしたらのダーウィンにも、地獄にいるとしたならばのダーウィンにも会えると思いますよ。
hiraoka流の特別なお考えですね。さらにお話させていただければこちらの理解も進むでしょう。にしき鯉さんが面白いご提案をされましたので、そちらで議論してもよさそうです。テ-マは「地獄論」になりますね。
> >これ、間違ってお書きになったのでは・・・・・
>
> えっ? どういうふうに間違ったのでしょうか?
>
私は一流の医者は医術と患者の治癒力による病気直しを目指すと思っておりました。
> >金星人のことも分かりません。理解しようとの思いはあるんです。大川先生は、科学のこともよくご存知のことと思いますが、なにゆえにこのようなことをおっしゃるのか、不思議です。
>
> 社会一般では、大川さんの空想と断定されると思います。
> ですが、ぼくは大川さんの創作でなければ、大川さんの霊的現実だと思います。
これもhiraoka流のご見解でしょうが、何か惹かれるものの言いようですね。複眼でものを見ているようです。よい意味でそのように申しております。
> >谷口先生は、プロティノスなのでしょう、きっと。
>
> そうかも、知れませんね。
> でも、・・・イザナギだったとはねぇ・・・・う〜ん、分かりません。
> イザナギとイザナミが御柱を互いに廻る話し、・・・あれ、男女のまぐわいだと解釈されています。
> そのまえに神々はかわせみの動きを見て教えてもらってます。
> こういう解釈は、最初すごく抵抗があったんですが、いまではそういった解釈のほうが正しいように思えます。
生長の家にいた私からすれば、谷口先生はまさしく日本の神様だったに違いないと思います。そのような方がプロティノスでもあったというのは、不思議な生まれ変わりの仕組みとしか言いようがありません。
> >それはhiraokaさんのご解釈です。イエスさまは、芥子だねほどの信仰さえあれば山は動くという風に言ったのです と考えても良いのではないでしょうか。
>
> おもしろいものですね、・・・
> 理系よりのぼくが、イエスの表現をすんなり受け入れ、文系よりのueyonabaruさんが、受け付けないんですから。 (^.^)
>
> >聖書は科学的でないことを他にもいっておりませんでしたか。空から食物が落ちてきたりというのもあったでしょう。
>
> マナの事ですね。これは、イエスが云ったこととは関係がありません。
> 旧約の出エジプト記のほうで、モーゼに関するものです。
> そのほかにも科学的とは思えない奇跡はたくさんありますね。
> 紅海が割れたとか、マナもそうですし、聖柩の話もそうです。
> ueyonabaruさんは、科学的な聖書解釈は好きではないそうですが、西洋ではものすごく盛んです。
お陰で聖書を開く回数が増えました。マタイ伝14ではパンをふやす話、湖の上を歩くイエスのことが書かれております。
私は、科学で、聖書に現れた奇跡を証明しようとする努力に反対するのではありません。科学的におかしいので、聖書はおかしい、キリスト教はナンセンスとする見方を否定したいのです。そして、聖書は、基本的に信仰するもののような気持ちで読むのが一番だと言いたいのです。イエスを神だとして、あるいは半分神だと観念し読むのが、身近にイエスを感じ取れます。
大川隆法もそうかもしれません。
> そのなかには、宇宙人が指導したと云うのもあります。
> スピルバークだったかの映画に「失われたアーク」だったかがヒットしましたが、これも不思議な話しをモチーフにして作られたものです。
スピルバ-グ監督はホント名監督です。宇宙ものも面白いのですが、「シンドラ-のリスト」はこの娑婆世界に生きるものたちの中に存在した善意を自然に描きだしていて私は感動したものです。宇宙人は存在していると思いますね。知らないところで、知らない人が、ちゃ-んとコンタクトをしているのでしょうか。
> ueyonabaruさんはそうは思わないでしょうが、ぼくは出エジプト記は誇張はあるものの事実を記録したものだろうと思えます。
そうかも知れないと思います。
> 古事記も誇張や変形はあるものの、事実を伝承したものだろうと思います。
そう思います。
> ちなみに、マナはまずかっただろうと思います。
> 空から魚やカエルなどの生物が降ってくる事は、けっこう記録にたくさん残っています。
> つい最近も日本でおたまじゃくしが空から降ってきたとニュースで騒いでいましたね。
信仰主義の私としては、立場上これも受け容れます。
from: hiraokaさん
2009年09月10日 01時19分42秒
icon
「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:私の信仰」
皆さん、こんばんは。
>にしき鯉さん
仏教のお話し、ありがとうございます。
>『正法を護る者は五戒を守らなくとも、威儀を整えなくとも、まず刀や弓や鉾をとるべきである。』
こんな事を釈迦が言うわけはないと思いませんか?
まったく、そうなんですよねぇ・・・。
もう亡くなって久しいぼくの父は、熱心な霊友会信者だったんです。
霊友会では法華経を抜粋した経巻を朝夕読み上げる事が信者の務めとされていました。
父の影響を強く受けた叔母と話したときの事です。
ぼく「経巻にはのろいの言葉が書いてありますよ。」
叔母「そんな、馬鹿な! そんなことがあるわけない!」
ぼく「ここがそうなんです。『もしこの法を受持せんものあれば、悪そう脳けつ水腹たんげあるべし。』」
けっきょく、叔母はこの文をのろいとは認めませんでした。
つまり、お釈迦さまが云うはずは無いと思っているわけです。
「法華経はお釈迦様が云ったことではないんですよ。お釈迦様は毎日お経を読み上げろとは一言も云ってないんですよ。」と云っても信用してくれませんでした。
まあ、ぼくは子供の頃からこういったおとなの頑迷さにほとほと悩まされました。
にしき鯉さんのように、自分から事実を調べていけばこのような頑迷さから開放されるはずなのですが・・・、多くの人はなかなかそのようにはなりません。
ちなみに、初期の幸福の科学では天台智〓、弘法大師、最澄のことを講話しています。
最澄は「山川悉皆国土成仏」を曲解したために地獄に居るんだそうです。
たしかに弘法と最澄は天皇のご前討論でやりあったいきさつはありますが・・・
どうなんでしょうね。
西郷さんも地獄だとは、ちょっと酷な気がします。
>ueyonabaruさん
>> ダーウィンもマルクスも・・・ヒトラーも。
> ここのところ、分かりにくいです。大川さんの地獄、お釈迦様の地獄、イエス様の地獄があることになりますね。
ええ、そうです。唯一の天国や唯一の地獄があるわけではないと思われます。
ですから霊界では、天国に居るとしたらのダーウィンにも、地獄にいるとしたならばのダーウィンにも会えると思いますよ。
>これ、間違ってお書きになったのでは・・・・・
えっ? どういうふうに間違ったのでしょうか?
>金星人のことも分かりません。理解しようとの思いはあるんです。大川先生は、科学のこともよくご存知のことと思いますが、なにゆえにこのようなことをおっしゃるのか、不思議です。
社会一般では、大川さんの空想と断定されると思います。
ですが、ぼくは大川さんの創作でなければ、大川さんの霊的現実だと思います。
>谷口先生は、プロティノスなのでしょう、きっと。
そうかも、知れませんね。
でも、・・・イザナギだったとはねぇ・・・・う〜ん、分かりません。
イザナギとイザナミが御柱を互いに廻る話し、・・・あれ、男女のまぐわいだと解釈されています。
そのまえに神々はかわせみの動きを見て教えてもらってます。
こういう解釈は、最初すごく抵抗があったんですが、いまではそういった解釈のほうが正しいように思えます。
>1 神は間違いを犯さない
2 神もこの世に生まれると間違いをおかす
3 神は実相の世界においては間違いを犯さない
> これぐらいにまとめていただけるとありがたい。
霊的に表現すると、そうなると思いますよ。
>それはhiraokaさんのご解釈です。イエスさまは、芥子だねほどの信仰さえあれば山は動くという風に言ったのです と考えても良いのではないでしょうか。
おもしろいものですね、・・・
理系よりのぼくが、イエスの表現をすんなり受け入れ、文系よりのueyonabaruさんが、受け付けないんですから。 (^.^)
>聖書は科学的でないことを他にもいっておりませんでしたか。空から食物が落ちてきたりというのもあったでしょう。
マナの事ですね。これは、イエスが云ったこととは関係がありません。
旧約の出エジプト記のほうで、モーゼに関するものです。
そのほかにも科学的とは思えない奇跡はたくさんありますね。
紅海が割れたとか、マナもそうですし、聖柩の話もそうです。
ueyonabaruさんは、科学的な聖書解釈は好きではないそうですが、西洋ではものすごく盛んです。
そのなかには、宇宙人が指導したと云うのもあります。
スピルバークだったかの映画に「失われたアーク」だったかがヒットしましたが、これも不思議な話しをモチーフにして作られたものです。
ueyonabaruさんはそうは思わないでしょうが、ぼくは出エジプト記は誇張はあるものの事実を記録したものだろうと思えます。
古事記も誇張や変形はあるものの、事実を伝承したものだろうと思います。
ちなみに、マナはまずかっただろうと思います。
空から魚やカエルなどの生物が降ってくる事は、けっこう記録にたくさん残っています。
つい最近も日本でおたまじゃくしが空から降ってきたとニュースで騒いでいましたね。
from: ueyonabaruさん
2009年09月09日 12時10分35秒
icon
「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:私の信仰」
hiraokaさんへ
> >以前、エマ-ソンの日記でそのような方がでてまいりました。エマ-ソンは彼を愛し、親友と言っておりましたね。
>
> おぼえております。
> イエスは「誰が天国に行くだろう、誰が地獄に行くだろうと推測するな」と教えてくれましたが・・・。
> 彼もいちおうの天国に還れる人でしょうね。 (*^_^*)
>
> それでしたら、大川さんが「あいつは地獄に居る」と云ったとしても、
> 「フ〜〜ン、そうなの・・・。でも、大川さんが見た地獄でしょ?」でいいんじゃないでしょうか。
> ダーウィンもマルクスも・・・ヒトラーも。
ここのところ、分かりにくいです。大川さんの地獄、お釈迦様の地獄、イエス様の地獄があることになりますね。
ぼくは本物の科学者とか本物の医者とかを見分ける簡単な基準を持ってるんです。
本物の科学者は「私には分かりません」と云うんです。
> 偽者の科学者は「科学が証明しているから、これを信じない奴はバカだ」と云うんです。
> 本物の医者は「医者と薬と施術が患者を治す」と思ってるんです。
> 偽者の医者は「治すのはあなたです。私はそのお手伝いをします」と思ってるんです。
> ↑ 知ってますよね。 (*^_^*)
これ、間違ってお書きになったのでは・・・・・
> >誤解ですよ-。大川さんを信じることとは関係ないですよ。私は大川さんのおっしゃることを理解できないことが多いと言っているのです。
>
> あっ、誤解でしたか、すみません。
> でも、無理して理解しようとしなくてもいいんじゃないでしょうか。
金星人のことも分かりません。理解しようとの思いはあるんです。大川先生は、科学のこともよくご存知のことと思いますが、なにゆえにこのようなことをおっしゃるのか、不思議です。
> >科学が神を見つけることはできないと言っているのです。科学で神を解明できたら、人間が努力しなくなりはしませんか。
>
> ueyonabaruさんの云うのは、「科学で神を全て解明できたら」と云う意味ですね。
> もしそうなったあかつきには、人間が努力するどころか、人間経験が要らなくなるころでしょうね。
そのとおりですね。
> >> ueyonabaruさんが、足りないと思われたダイナミズムとは何なのかよろしかったら教えてください。
> > ご存知のとおり、生長の家は善一元、光一元、神一元の思想に基づく宗教だと思います。・・・・
>
> 詳しい、説明をありがとうございます。
> ぼくは大川さんを知ってのちに、あわてて谷口さんの本を買い込み読みました。
谷口先生は、プロティノスなのでしょう、きっと。
> >私は、創世神話のようなことが苦手です。大川先生のご本で大宇宙の神霊がはじめに9次元霊を創ったなど全く私の思考の範囲を超えます。神智学もそのようなことをテ-マにしていませんか。
>
> 神智学は霊界のシステムを主に解説していますね。
> 霊界と物質界の成り立ちも解説しています。
> ちょうど宇宙物理学が宇宙の成り立ちを解説するみたいなものです。
> でも、かなりヒンドゥー教に傾いた解釈です。
>
> はじめは同調したシュタイナーはそれが嫌になって、キリスト教に傾いた「人智学」を作りました。
>
> まあ、知らなくても別にどうということは無いと思います。
> ところどころ、秘教と一致するところがあるのが興味深いですけど。
> >ここに至ると、hiraokaさんから教えていただいたパルメニデスの世界ともかかわりそうです。
> 無限と有限の問題の解決もいまだできておりません。このあたり、悟りの核心のところと思うんですが・・・・・。
>
> 無限と有限の問題、話しはまだまだ続くんですよ。ぼくも現在、勉強中です。
テ-マですね。
> カントールが手をつけて後、ラッセルたちが集合論で発展させて、磐石と思われていた数学でさえも不確かなものであると云うことになったんです。
> もっとも、カントールが生きていた時代から、今に至るまで「こんなのは無意味だ」とする学者も居ます。
いつかカント-ルという方のことも勉強してみなければなりませんね。
> >神は完全です。そして、矛盾も取り込めるほど大きいです。とここまで主張しておきます。あるものとないもの、ないものがあるなどの議論は難しすぎます。
>
> 難しくないですよ。
> じゃあ、こんなのはどうですか?
> 1;「神は間違いを犯さないとする」
> 2;「神は間違いについては、間違わなければならない」
> 3;「結論: 神は間違いを犯さなければならないこともある」
神は完全ですという概念を出してしまえば、それを生かすようにしたいものです。複雑にしてしまうと普通の我々の頭ではついていけませんね。
1 神は間違いを犯さない
2 神もこの世に生まれると間違いをおかす
3 神は実相の世界においては間違いを犯さない
これぐらいにまとめていただけるとありがたい。
> >あのくだりは、そのようにしか読めませんね。・・・・hiraokaさんのご解釈があるのは読み知ってはおりました。
>
> ああ、やっぱりご存知だったんですね。
> 「あなたの願いはかならず可能なんですよ」を、イエスらしく強い言葉で言ったのだと解釈しております。
> そしてイエスにとっては、自分も生命も永遠に続くことを実感していての言葉だったのでしょう。
> その他、イエスが科学と反するようなことを言ったと思われるような箇所がありましたら教えてください。
それはhiraokaさんのご解釈です。イエスさまは、芥子だねほどの信仰さえあれば山は動くという風に言ったのです と考えても良いのではないでしょうか。科学的に正しくないことをおっしゃったのです。それでも構わないでしょう。科学を超えたことをも扱う(言う)のが信仰の世界でしょう。科学の世界と信仰の世界が仲良くなることはあっても、両者はやはり異なるのではないかと思うんです。科学的な聖書解釈は好きではありません。宗教は、信仰を通してのみ本当の理解はできます。
聖書は科学的でないことを他にもいっておりませんでしたか。空から食物が落ちてきたりというのもあったでしょう。
from: hikaru0827さん
2009年09月09日 08時13分17秒
icon
「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:私の信仰」
hiraokaさんへ
>>わたしは、hiraokoさんの言ってるのは、「無理をしてまで信じないでいいんじゃないか。わが心が無理している状態を見ないようにしてまで、一つの事にしがみつく必要はない」という事かな、と思いましたが、違うで
しょうか。
>違いません。その通りでございます。(*^_^*)
そんな自然体なおおらかな思想を言われながら、急に俗的な部分で感情的になるところに違和感を覚えるんです。文章も激しくなりますし。
そのあたり、なにか、hiraokaさんにとっての、こだわりを感じます。
from: hiraokaさん
2009年09月09日 01時10分49秒
icon
「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:私の信仰」
みなさん、こんばんは。
>hikaru0827さま
>空気がなかろうが、温度が高かろうが、そこに知的生命体が存在しないとは思いませんし、科学者であるなら、その可能性も否定出来ないはずです。
ええ、そうですよ。 知的生命の存在を否定する事はできません。
ニューエイジの人達が、ラブロックのガイア理論を取り込んだように、惑星自体も一種の生命と考えることもできますね。
しかし、大川さんの云う金星人はユリのあたまに人間の下半身。
C、H、O、N元素を体にしているかどうかは何も云っていませんが、ぼくらは他にそうでないものを知りません。
大川さんは、ぼくらでも想像できる形としての金星人を提示していますので、それでしたら存在の可能性は限りなく低いものでしょう。つまり、一般の常識では考えられないことを云っているのです。
ふつうは、そういうことを言う人のことを、ホラ吹きと呼んでいるわけです。
大川さんが普通の生命体として金星人を紹介していると考えるのは、普通の人の解釈です。
hikaruさんも、知っているかも知れませんが・・・・。
この、金星人は神智学のブラバツキー夫人が言い出したものと、まったく同じです。
同じだから信憑性を増すのか、あるいは同じだからパクっていると一般的に評されるのかまだ分かりません。
でも、どっちでもいいんです。
どっちにしても、科学者にとってはユリ人間に興味を持っている時間は無いんです。
>私は、科学においても、神に近づけると思ってます。現に「神が存在しているとしか思えない」という発言された有名な科学者、居ましたよね。
まったく、そのとおり!! 握手しましょう!! (*^_^*)
>生命科学の分野だったと思いましたが、「人が生まれる奇跡を説明するには、何か大きな意志が働いているとしか思えない、その大いなる意志をサムシンググレイトと私たちは呼んでいる」と言う方もいます。
宇宙物理と分子生物学は汲めども尽きない不思議を感じますねぇ。
奇しくも、マクロ・コスモスとミクロ・コスモスに不思議を感じる。
最近の欧米の保守系宗教団体は、こぞって「インテリジェンス・デザイン」と云う概念を採用するようになりました。神の概念の科学版です。
このように提示されるならば、またこのように宗教団体が立場を少しずらしてくれれば、宗教と科学は融合に一歩近づきつつあるのかも知れません。
> 神は善人の上にも悪人の上にも平等に雨を降らせますね。
>それはよくわかります。その通りだと思います。
ああ、よかった。(*^_^*)
>わたしは、hiraokoさんの言ってるのは、「無理をしてまで信じないでいいんじゃないか。わが心が無理している状態を見ないようにしてまで、一つの事にしがみつく必要はない」という事かな、と思いましたが、違うで
しょうか。
違いません。その通りでございます。(*^_^*)
>ueyonabaruさん
>以前、エマ-ソンの日記でそのような方がでてまいりました。エマ-ソンは彼を愛し、親友と言っておりましたね。
おぼえております。
イエスは「誰が天国に行くだろう、誰が地獄に行くだろうと推測するな」と教えてくれましたが・・・。
彼もいちおうの天国に還れる人でしょうね。 (*^_^*)
それでしたら、大川さんが「あいつは地獄に居る」と云ったとしても、
「フ〜〜ン、そうなの・・・。でも、大川さんが見た地獄でしょ?」でいいんじゃないでしょうか。
ダーウィンもマルクスも・・・ヒトラーも。
>後者は何か本物の唯物論者としては欠陥があったのではないでしょうか。
そうだと思います。
ぼくは本物の科学者とか本物の医者とかを見分ける簡単な基準を持ってるんです。
本物の科学者は「私には分かりません」と云うんです。
偽者の科学者は「科学が証明しているから、これを信じない奴はバカだ」と云うんです。
本物の医者は「医者と薬と施術が患者を治す」と思ってるんです。
偽者の医者は「治すのはあなたです。私はそのお手伝いをします」と思ってるんです。
↑ 知ってますよね。 (*^_^*)
>科学者がsomething great と言うのは、歓迎しますが、それ以上の一歩を踏み出して欲しいものです。彼らは忙しいのですね。
踏み出す方法が思いつかないんですよねぇ・・・。
ほんと、このことについては大ブレーク・スルーになる画期的な方法論って無いもものなんでしょうかねえ・・・ なにか、ありそうな気がするんですが・・・分かりません。
>誤解ですよ-。大川さんを信じることとは関係ないですよ。私は大川さんのおっしゃることを理解できないことが多いと言っているのです。
あっ、誤解でしたか、すみません。
でも、無理して理解しようとしなくてもいいんじゃないでしょうか。
>科学が神を見つけることはできないと言っているのです。科学で神を解明できたら、人間が努力しなくなりはしませんか。
ueyonabaruさんの云うのは、「科学で神を全て解明できたら」と云う意味ですね。
もしそうなったあかつきには、人間が努力するどころか、人間経験が要らなくなるころでしょうね。
>宗教を信じることが、科学者として格好悪い、でもsomething greatは知っているとしている方々が多いように思いますが、いかがでしょうか。
ええ、そうだと思います。現代はそういう社会風潮ですから。
ガリレオ以降から変わったそうです。
それ以前は、神の証明の為の科学(注)でした。
(注)当時は科学と云う概念も言葉もありませんでした。ぜんぶ哲学でした。
圧力鍋を発明した学者は「この哲学的な鍋は・・・云々」と表現していました。
哲学は「諸学の王」だったのに、今は片隅にちいさくなっていますね。
また、揺り戻しがゆっくり起こっていくことでしょう。
>> ueyonabaruさんが、足りないと思われたダイナミズムとは何なのかよろしかったら教えてください。
> ご存知のとおり、生長の家は善一元、光一元、神一元の思想に基づく宗教だと思います。・・・・
詳しい、説明をありがとうございます。
ぼくは大川さんを知ってのちに、あわてて谷口さんの本を買い込み読みました。
>現象の悪への対応が鈍いのです。悪は本来ないとしますが、現象では悪は必ず現れてきます。
ここ、ほんとに難しいところですよね。
「右の頬を打たれたら・・・」と同じように、どうするかはむずかしいところですね。
>私は、創世神話のようなことが苦手です。大川先生のご本で大宇宙の神霊がはじめに9次元霊を創ったなど全く私の思考の範囲を超えます。神智学もそのようなことをテ-マにしていませんか。
神智学は霊界のシステムを主に解説していますね。
霊界と物質界の成り立ちも解説しています。
ちょうど宇宙物理学が宇宙の成り立ちを解説するみたいなものです。
でも、かなりヒンドゥー教に傾いた解釈です。
はじめは同調したシュタイナーはそれが嫌になって、キリスト教に傾いた「人智学」を作りました。
まあ、知らなくても別にどうということは無いと思います。
ところどころ、秘教と一致するところがあるのが興味深いですけど。
>ここに至ると、hiraokaさんから教えていただいたパルメニデスの世界ともかかわりそうです。
無限と有限の問題の解決もいまだできておりません。このあたり、悟りの核心のところと思うんですが・・・・・。
無限と有限の問題、話しはまだまだ続くんですよ。ぼくも現在、勉強中です。
カントールが手をつけて後、ラッセルたちが集合論で発展させて、磐石と思われていた数学でさえも不確かなものであると云うことになったんです。
もっとも、カントールが生きていた時代から、今に至るまで「こんなのは無意味だ」とする学者も居ます。
>神は完全です。そして、矛盾も取り込めるほど大きいです。とここまで主張しておきます。あるものとないもの、ないものがあるなどの議論は難しすぎます。
難しくないですよ。
じゃあ、こんなのはどうですか?
1;「神は間違いを犯さないとする」
2;「神は間違いについては、間違わなければならない」
3;「結論: 神は間違いを犯さなければならないこともある」
>あのくだりは、そのようにしか読めませんね。・・・・hiraokaさんのご解釈があるのは読み知ってはおりました。
ああ、やっぱりご存知だったんですね。
「あなたの願いはかならず可能なんですよ」を、イエスらしく強い言葉で言ったのだと解釈しております。
そしてイエスにとっては、自分も生命も永遠に続くことを実感していての言葉だったのでしょう。
その他、イエスが科学と反するようなことを言ったと思われるような箇所がありましたら教えてください。
たとえば、金星に「ユリ人間」が居たとか・・・ (*^_^*)
from: ueyonabaruさん
2009年09月08日 12時44分06秒
icon
「Re:Re:Re:Re:Re:Re:私の信仰」
hiraokaさんへ
> じつにここのところなんですが、無信仰であっても愛に根ざした道徳があればいっこうにかまわないと、ぼくは思っています。
> と云うのも、学者はそういう人達が多いからです。
> かれらにとっては、自分の知識と信仰の折り合いをつけるのはむずかしいでしょうし、そのことに費やす時間も持てないでしょう。
唯物論者であっても気のいい人間、愛情のある人間がいるのですね。以前、エマ-ソンの日記でそのような方がでてまいりました。エマ-ソンは彼を愛し、親友と言っておりましたね。彼も天国へ還る人間でしょう。宗教家が地獄に堕ち、唯物論者が天国に還るということもあるらしいですネ。ただし、前者は何か過ちがある場合であり、後者は何か本物の唯物論者としては欠陥があったのではないでしょうか。
科学者がsomething great と言うのは、歓迎しますが、それ以上の一歩を踏み出して欲しいものです。彼らは忙しいのですね。
> しかし、ueyonabaruさんは「科学で宗教を解釈する事はできないことを自分は知っている。こんなふうに大川
>
> さんの言を疑うのは自分の信仰が足らないからだろうか?」
> と考えているように見えるんです。
誤解ですよ-。大川さんを信じることとは関係ないですよ。私は大川さんのおっしゃることを理解できないことが多いと言っているのです。
科学が神を見つけることはできないと言っているのです。科学で神を解明できたら、人間が努力しなくなりはしませんか。信仰は人間の関門のようなものです。彼ら科学者はsomething greatが分かるで一応のstatusを確保したつもりではないでしょうか(邪推ですが)。信仰というのは、そこから先に一歩踏み出すものでしょう。宗教を信じることが、科学者として格好悪い、でもsomething greatは知っているとしている方々が多いように思いますが、いかがでしょうか。間違いであれば即訂正します。私の友人でそのようなタイプの方が実際にはおります。
> >この生長の家の教えは、今でも正しいとは思ってはいるんです。しかし、ダイナミズムが足りないようです。
>
> ueyonabaruさんが、足りないと思われたダイナミズムとは何なのかよろしかったら教えてください。
> 幸福の科学には、それがあるように思われたわけですね。
ご存知のとおり、生長の家は善一元、光一元、神一元の思想に基づく宗教だと思います。悪人が救われることを熱烈に説いた親鸞の仏教にも根本的ににているところがあります。谷口先生のご著書の中で、一連の浄土教の指導者達、親鸞の先に現れた一遍上人などのことも含めお書きになった好著があります。その中で先生は、生長の家は浄土宗と同じだともおっしゃいます。両者を比べ異なる点は、浄土教がひたすらに阿弥陀仏にすがる姿勢であるのに対し、生長の家ではこれも認めたうえで、実在論が加わるのですね。実在論、すなわち実相論です。実相のみが実在で、他は非実在というのです。哲学的な存在論です。これを私は正しいとするのですが、これだけではしかし、何か足りないものがあるとの思いが私のうちにはありました。戻りますが、リアリストさんの良く読んでいるという最近流行の本をお書きになっている方々(お名前は失念)の考え方とも生長の家は似ているようです。感謝すること、ありがとうございますの言葉を何千回も唱えるなど、これは全く生長の家のやっていることと同じです。これで、実際上の功徳もあるのも確かなんですね。ですから、このような方々と生長の家を否定することはしません。
問題は、どうしても現実への対応が弱いのではないのかと思うのです。悪への対処がありません。社会運動がありません。意志的でありません。悪はなしという思想ですから、現象の悪への対応が鈍いのです。悪は本来ないとしますが、現象では悪は必ず現れてきます。悪にとらわれず、その奥にある実相を見よ、見たとおりにホントの姿が現れるというのが悪への対処法となりますね。これも方法論としてはありますが、仏教というか幸福の科学では又違ったものがありますよね。自分の心をきよめるための八正道、現代の四正道悟りへの希求、現象世界への丁寧な対応、政治論、防衛論など現実世界を生きる現実的なダイナミズムがあるということなんです。
全てを書ききることは不可能ですので、これに留め、追々皆様に生長の家のこともお伝えできるかと思います。
> >あのあたりでの、不思議な感覚はあまり深入りもしたくはない気分ですね。神智学のようなものです。
>
> すみません。意味がよく分かりませんでした。
私は、創世神話のようなことが苦手です。大川先生のご本で大宇宙の神霊がはじめに9次元霊を創ったなど全く私の思考の範囲を超えます。神智学もそのようなことをテ-マにしていませんか。このあたりは、私の弱点かもしれません。ここに至ると、hiraokaさんから教えていただいたパルメニデスの世界ともかかわりそうです。
無限と有限の問題の解決もいまだできておりません。このあたり、悟りの核心のところと思うんですが・・・・・。
> >神が矛盾も包含する大きなものであると考えねばなりませんが、矛盾(誤謬)は神にはないとしなければおかしくなるでしょう。
>
> いえ、違います。神には誤謬があるとしないと矛盾するんです。
> ただし、誤謬を表現するのは神の表れとしての人間です。
> 前にも書きましたね。「神は全てであり無いものは無い、とすると「無い」と云うこと自体がない。よって、神は全てではない」
>
> 言葉の遊びではありません。深刻な論理の破綻なんです。
> 言葉の遊びであったとしても、神はそれも含むんです。
>
> >非科学的なことも言っております。本当の信仰があれば、あの山に向かいて海に入れと言えばかなわんという風な言葉もありますね。
神は完全です。そして、矛盾も取り込めるほど大きいです。とここまで主張しておきます。あるものとないもの、ないものがあるなどの議論は難しすぎます。
> えっ! まさかueyonabaruさんが、この言葉を解釈しなかったとはちょっと意外です。
> 現実にぼくらは常々イエスのいったとおりのことをやってるじゃありませんか。
> 山を削り海に埋め立てているじゃないですか。
> 時間がかかってるだけです。
> 機械の発明を含めて長い時間がかかってるんですよ。
> もし、山よ動けと人間が思い続けるならばです。
> 霊界では、山よ動けと強く思うならその場で実現するでしょう。
> 時間の概念が無いですから。
>
あのくだりは、そのようにしか読めませんね。あの時代に現在の土木工事でできることを考慮に入れたわけでもないでしょう。霊的な世界でできることであれば、この世でもできるとイエスはおっしゃったのではないでしょうか。そうであると、文学的にも調子は良くなりますね。強き信仰を強調したかったのではないでしょうか。現に他に信仰による奇跡を起こしていますね。hiraokaさんのご解釈があるのは読み知ってはおりました。
from: hikaru0827さん
2009年09月08日 03時08分02秒
icon
「Re:Re:Re:Re:Re:Re:私の信仰」
hiraokaさんへ
> じつにここのところなんですが、無信仰であっても愛に根ざした道徳があればいっこうにかまわないと、ぼくは思っています。
> と云うのも、学者はそういう人達が多いからです。
> かれらにとっては、自分の知識と信仰の折り合いをつけるのはむずかしいでしょうし、そのことに費やす時間も持てないでしょう。
>
> たとえば、「大川さんいいこと云うなあ〜」と思って、幸福の科学に入信した科学者がいるとします。
> そして彼は、大川さんが「金星に葉っぱ人間が栄えた」と云っているのを知ります。
> すると、彼はどう考えるでしょうか?
わたしは、地球人の常識が宇宙においても常識である保証はない、どちらかというと、理解不能な事も多々あると思ってます。
だから、空気がなかろうが、温度が高かろうが、そこに知的生命体が存在しないとは思いませんし、科学者であるなら、その可能性も否定出来ないはずです。
> しかし、ueyonabaruさんは「科学で宗教を解釈する事はできないことを自分は知っている。こんなふうに大川
>
> さんの言を疑うのは自分の信仰が足らないからだろうか?」
> と考えているように見えるんです。
私は、科学においても、神に近づけると思ってます。現に「神が存在しているとしか思えない」という発言された有名な科学者、居ましたよね。
生命科学の分野だったと思いましたが、「人が生まれる奇跡を説明するには、何か大きな意志が働いているとしか思えない、その大いなる意志をサムシンググレイトと私たちは呼んでいる」と言う方もいます。
> >目に見えないものを信じる事が出来た人と、そうでない人を全く同じ扱いをすることが、「優しさ」でしょうか。わたしは、頑張った時にこそ褒めてもらいたいと思います。
> これは、つぎのように考えてみてください。
> 神は善人の上にも悪人の上にも平等に雨を降らせますね。
> と同時に、頑張った人には頑張っただけの反作用を自動的に受け取るように宇宙を作ったんです。
それはよくわかります。その通りだと思います。
しかしまた、あちらに還った時、自分の身近な友達や、親や、先生に、祝福されたら、きっと嬉しいだろうな、という想像もします。神といっても、人格神のレベルで言ったんです。あちらの世界でも、直属の師のような方もいると思います。
このあたりの「努力する動機付け」的な話は、格差問題のところでさんざん言ってますから私の言いたいことはわかってもらえると思うんですが。
> 「信じなくとも生かされているではないですか!」
わたしは、hiraokoさんの言ってるのは、「無理をしてまで信じないでいいんじゃないか。わが心が無理している状態を見ないようにしてまで、一つの事にしがみつく必要はない」という事かな、と思いましたが、違うでしょうか。
from: hiraokaさん
2009年09月08日 01時15分32秒
icon
「Re:Re:Re:Re:Re:私の信仰」
みなさん、こんばんは。
>にしき鯉さま
詳しい説明をありがとうございます。やはり原始仏典のほうだったんですね。
あそうか、釈尊が7番目で・・・、8番目の予定は弥勒だというんでしたかね。
ところで大川さんは、過去六仏のどれだっけなあ〜、イエスの前身クリシュナだと云ってるんです。
この説、案外正しいかも知れないなぁと思ってるんです。
>hikaru0827さま
>もちろん信仰だけが目的ではないですが、無信仰を良しというわけではありません。
そのへんhiraokaさんは分かっておられるはずなのに、あえて激しいい言い方をされるのは、なぜでしょう。
あっははは〜〜。 気にさわられました? ごめんなさいね。
大川さんの講演口調を真似たんですよ。いや、ほんとです。
じつにここのところなんですが、無信仰であっても愛に根ざした道徳があればいっこうにかまわないと、ぼくは思っています。
と云うのも、学者はそういう人達が多いからです。
かれらにとっては、自分の知識と信仰の折り合いをつけるのはむずかしいでしょうし、そのことに費やす時間も持てないでしょう。
たとえば、「大川さんいいこと云うなあ〜」と思って、幸福の科学に入信した科学者がいるとします。
そして彼は、大川さんが「金星に葉っぱ人間が栄えた」と云っているのを知ります。
すると、彼はどう考えるでしょうか?
まず考えるのは、「そんな馬鹿な! 金星は表面温度800度もある。昔はもっと暑かったはずだ。葉っぱ人間だなんて信じられない!」
そして普通は、「これからは大川さんの云う事は、信じられるものと信じられないものに分けて考えよう。」
このように考えることでしょう。
しかし、ueyonabaruさんは「科学で宗教を解釈する事はできないことを自分は知っている。こんなふうに大川
さんの言を疑うのは自分の信仰が足らないからだろうか?」
と考えているように見えるんです。
>目に見えないものを信じる事が出来た人と、そうでない人を全く同じ扱いをすることが、「優しさ」でしょうか。わたしは、頑張った時にこそ褒めてもらいたいと思います。
どうも、こう云ったことを誤解されてしまうのですが・・・。
hikaruさんは、神は自分より上で、自分は小さいと思ってるでしょ。
だから、神が自分を褒めてくれることを望んでるでしょ?
神に人格のような性質を付与すると、どうしてもそう考えてしまうんです。
これは、つぎのように考えてみてください。
神は善人の上にも悪人の上にも平等に雨を降らせますね。
と同時に、頑張った人には頑張っただけの反作用を自動的に受け取るように宇宙を作ったんです。
これが神の法則でして、頑張らなかった人にはそれなりの反作用が起こり、めちゃくちゃをやった人にはそれな
りの反作用が起こるんです。つまり、因果の法です。
だから目に見えないものを信じる事ができるまでになった人には、それなりの反作用をすでに受けているんです。
>ueyonabaruさん
>・・・・覚者と思った方がそうでなかった場合は、悲劇になりますね。ですから、大川隆法を選択した私は、一種賭けをする気持ちで彼に投じているのです。
あ〜、分かりました。
でもね、本当の師は弟子が自分よりもさらに大きくなることを願っているものですよ。
また、ほんとうの師は弟子が成長したら、じぶんもさらに成長する努力をすることでしょうね。
ここにも、師と弟子の関係で相矛盾しているかに見えるものがあるんです。
>この生長の家の教えは、今でも正しいとは思ってはいるんです。しかし、ダイナミズムが足りないようです。
ueyonabaruさんが、足りないと思われたダイナミズムとは何なのかよろしかったら教えてください。
幸福の科学には、それがあるように思われたわけですね。
>科学が神を捉えられるとは思えませんが。
科学の方法論は神を捉える事ができないことを、こころある科学者たちは良く知っています。
ですが、神を知るためには人と自然と自分をよく観察することにほかならないことも、良く知ってるんです。
科学は自然の振る舞いについて、偶然であるのか必然であるのか決定する事ができません。
だから、確率を使っているんです。
>あのあたりでの、不思議な感覚はあまり深入りもしたくはない気分ですね。神智学のようなものです。
すみません。意味がよく分かりませんでした。
>神が矛盾も包含する大きなものであると考えねばなりませんが、矛盾(誤謬)は神にはないとしなければおかしくなるでしょう。
いえ、違います。神には誤謬があるとしないと矛盾するんです。
ただし、誤謬を表現するのは神の表れとしての人間です。
前にも書きましたね。「神は全てであり無いものは無い、とすると「無い」と云うこと自体がない。よって、神は全てではない」
言葉の遊びではありません。深刻な論理の破綻なんです。
言葉の遊びであったとしても、神はそれも含むんです。
>非科学的なことも言っております。本当の信仰があれば、あの山に向かいて海に入れと言えばかなわんという風な言葉もありますね。
えっ! まさかueyonabaruさんが、この言葉を解釈しなかったとはちょっと意外です。
現実にぼくらは常々イエスのいったとおりのことをやってるじゃありませんか。
山を削り海に埋め立てているじゃないですか。
時間がかかってるだけです。
機械の発明を含めて長い時間がかかってるんですよ。
もし、山よ動けと人間が思い続けるならばです。
霊界では、山よ動けと強く思うならその場で実現するでしょう。
時間の概念が無いですから。
>大川さんの思想ではこの両者を区別しているようにも見えませんね。この点も私が大川隆法に注目する点なのです。洋の東西、人間が違うはずもないので、共通のモノサシがどこかにあるとしなければならないのではないでしょうか。
おっしゃるとおりだと、ぼくも思います。
>そんなことはありません。会費とはいわず、植福と称します。
なるほど、分かりました。ありがとうございます。
from: ueyonabaruさん
2009年09月07日 15時04分47秒
icon
「Re:Re:Re:Re:私の信仰」
hiraokaさんへ
> >信じたいのですね。それがなかなかできないということなんです。ですから、信仰は一種賭けのようなものだと思います。だんだんに本物になっていくのではないでしょうか。
> ここらへんがよく分からないのですが、どうして信じたいのでしょうか?
> たとえば、車を運転していて交差点にさしかかり、信号が青であることを確認した後も、さらに横から車が飛び出して来ないであろうと信じたいのでしょうか。
> たしかに、そういう場合もあるのでしょうが・・・。
簡単なことなんです。大いなる者を信じ頼る心理です。普通の人の信心のことなんです。信仰っていうのは、目に見えないこと現実的に確認できないものについて、覚者と思しき者が、かくかくしかじかとなっているとおっしゃるならば、これを信頼し、自己自身を託するものではないですか。ところが、覚者と思った方がそうでなかった場合は、悲劇になりますね。ですから、大川隆法を選択した私は、一種賭けをする気持ちで彼に投じているのです。
> 「信仰は一種賭け」と云うのも、よく分かりません。
> 「万教帰一」を納得されていらっしゃるのではなかったですか?
生長の家の万教帰一ってご存知でしょうか。谷口先生が唱える見方ですね。どの宗教も、全て一つの神から出てきている。全ての宗教の奥には、共通の真理がある。宗教は、人間は神の子、仏の子であるという共通の真理に行き着くというのです。人間の善性を信じ、神様一元であり、実相世界こそが実在であり、現実の世の闇は本来存在しないのであるという徹底的な光明思想、神秘思想です。プラトンのイデアの世界が生長の家でいう実相の世界だなと思っておりました。この生長の家の教えは、今でも正しいとは思ってはいるんです。しかし、ダイナミズムが足りないようです。
> 「だんだん本物になる」と云うのも、よく分からないんです。
> 「信じたいものに向かっている自分は本物」である筈だからです。
> 自分と真理を比べて、自分を否定することに重心を置きすぎていらっしゃるのでしょうか?
自分は本来は本物ですが、現実はまだ未熟ということです。信仰も浅く、悟りも浅いのですが、努力すれば、上にいけるだろうという意味です。
> ぼくの人生上でサバイバルのような状況になったときを振り返ると、とにかく無我夢中でした。
> 人生上の疑いなどは思いも至りませんでした。
> あんがい、無数に営まれている生命活動はそういうものかも知れません。
> ぼくらは、ひまなのかも知れないんです。
サバイバルのような状況、前にも言っておられましたね。
> 先端科学は、「神にとって、人間は必要である」と云うところまで来ています。
> ここから、「人は神である」までは、あと一歩ですね。
ここらあたりは私の分からない分野です。科学が神を捉えられるとは思えませんが。
> 「その者」と云われるのは、つまり「大川さんは神その者」と云う意味でしょうか?
> それでしたら、イエスが「その者、そのまま」ではなかったように「その者」ではありません。
> あくまで、「神の一部」であり、「神の全部に続く扉」であるはずです。
神の一部でも構いません。ともかく偉いんです。あのあたりでの、不思議な感覚はあまり深入りもしたくはない気分ですね。神智学のようなものです。
> ところで、大川さんの「内村鑑三の霊言」の内容は事実とまったく反対なのはご存知でしょうね?
> こんなに真反対の霊言、これこそ大川さんの霊言のカラクリだと思いますよ。
> 大川さんは、こんなふうにしゃべれる特殊能力を持っているのだと思いますよ。
> だからと云って、大川さんの全てが間違いだとは思いません。
> このような、ぼくのスタンスがueyonabaruさんには理解しがたいのかも知れませんね。
内村鑑三の霊言のことまったく知りません。霊言は自分が受け入れられるものをつまみ食いするだけです。都合がよければ信じてもいいし、そうでないこともあるようで・・・・・。
信仰者内村鑑三は、彼の著書を読んで立派であると感じました。堅信の人です。
>
> >私が、言いたいのは、キリスト教はイエスという人物への限りない帰依に基づいているので、キリストを神だとしなければ聖書の全てを了解することが難しいだろうということなんです。
>
> どうしてです? イエスは人間だったではないですか。
> ueyonabaruさんは、イエスもときには間違えたことを了解しているではないですか。
イエスは人間であり、神であるのですね。間違いも多くあったと思うんです。
> だから、ぼくが力説しているのは「神は矛盾も内包する」ということなんです。
神が矛盾も包含する大きなものであると考えねばなりませんが、矛盾(誤謬)は神にはないとしなければおかしくなるでしょう。
> ueyonabaruさんが、どのような体験をされたのかはわかりませんが、疑うことによってイエスを信じたぼくみたいなのもいますよ。
そこがお互いの性格の異なるところかもしれませんね。生長の家って理性的に神様を考える面があります。哲学的というかそういうのがあるんです。そこで育ったせいなのか、私は聖書の美しい倫理の言葉は魅力を感じましたが、聖書の多くの部分に親しみと理解が生まれることはありませんでした。しかし、イエスを神だとして観念し聖書を読むと俄然面白くなってきたのです。
> そもそも、イエスは科学に反したような事は、なにも言っていません。
非科学的なことも言っております。本当の信仰があれば、あの山に向かいて海に入れと言えばかなわんという風な言葉もありますね。これも、イエスを神としてまたは神近きものとして考えないと、何ゆえあのように強い言葉が出てくるのか分からないでしょう。信仰は神と人を一体にし、奇跡を起こすということなのでしょうが、だれもそのような強い信仰はもちあわせてはおりませんね。
> >そうも思いません。信仰が大切です。
> 信仰が無ければ救われませんか? だとしたら、神は非情であると云うことになりますよ。
> だって、信仰のあるなしによって人(自分自身、神自身)を選別していることになりますから。
これは私だけの直感かもしれませんが、信仰は悟りなのです。私は、信仰=悟りという感覚でものを見ております。仏教は悟りを目指す宗教、キリスト教は唯一の神への信仰であって両者は大きな溝があるとする考えが一般的には言われておりますね。
大川さんの思想ではこの両者を区別しているようにも見えませんね。この点も私が大川隆法に注目する点なのです。洋の東西、人間が違うはずもないので、共通のモノサシがどこかにあるとしなければならないのではないでしょうか。
> ぼくがお聞きしたかったのは、「幸福の科学はほんとうに会費を取っていないのですか?」です。
> ueyonabaruさんも、会費を払っていないのですか?
そんなことはありません。会費とはいわず、植福と称します。入門初歩者月に千円、大黒天植福者月1万円という会費が払われております。ちなみに、私の会費は月に千円です。
from: にしき鯉さん
2009年09月07日 10時08分27秒
icon
「Re:Re:Re:Re:私の信仰」
hiraokaさんへ
<まったく個人的な疑問なんですが、釈迦は「自分は6番目の仏陀だ(覚醒者)」と云うのは、原始仏典にあるんでしょうか? にしき鯉さん、知っていましたら教えてください。>
・・・
これは阿含経=アーガマ(伝承された教説)の中にあったと思います
釈迦が入滅後、高弟が集まって生前聞いた教えをまとめました
これを{結集}といいパーリ語で書かれた経典が今でも残ってるそうです、
長阿含経、中阿含経、雑阿含経、増一阿含経で構成され釈迦の言葉としては唯一100パーセント信用できる経典だと思っています
・・・
過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀で、古い順から
毘婆尸仏 ・尸棄仏 ・毘舎浮仏・ 倶留孫仏・ 倶那含牟尼仏・ 迦葉仏 ・釈迦仏 です
偶像崇拝などは禁止した仏教ですが過去世に釈迦を指導した仏もいたそうで尊敬の思いははあったようです
・・・
しかしこれは「知識」であって過去91劫(一劫はこの世界が創造されて維持されて破壊されて虚空になる一サイクル)にビパシー仏(毘婆尸仏 )がどんな教えを説いて魂を救っていたかはわかりませんので思いをはせる程度です
from: hikaru0827さん
2009年09月07日 04時25分43秒
icon
「Re:Re:Re:Re:私の信仰」
hiraokaさんへ
横レス申し訳ありません。
hiraokoさんの考えは、充分の時間と経験の上にたったものでご自分の中で確信に近い形で整理されているようです。
なかなか口を挟む余地もない雰囲気です。
ただ少し偏りを感じる部分もあるんです。
> 「信じなくとも生かされているではないですか!」この事実をど
う解釈されるのですか?
この世で生きてることの目的を考えれば、眼には見えないが大切なものの存在に気づき、信じれるかどうか?は大きなポイントです。
もちろん信仰だけが目的ではないですが、無信仰を良しというわけではありません。
そのへんhiraokaさんは分かっておられるはずなのに、あえて激しいい言い方をされるのは、なぜでしょう。
> 信仰が無ければ救われませんか? だとしたら、神は非情であると云うことになりますよ。
> だって、信仰のあるなしによって人(自分自身、神自身)を選別していることになりますから。
目に見えないものを信じる事が出来た人と、そうでない人を全く同じ扱いをすることが、「優しさ」でしょうか。
わたしは、頑張った時にこそ褒めてもらいたいと思います。
> だから、ぼくが力説しているのは「神は矛盾も内包する」ということなんです。
わたしらから見れば、神と見える方々であっても、更に高みに向かって努力し修行されているのは、私たちと同じですしね。
from: hiraokaさん
2009年09月07日 01時54分57秒
icon
「Re:Re:Re:私の信仰」
ueyonabaruさん、こんばんは。
>確かに分かりにくいです。
どうも、すみません。
こういうことは、占いのことについて人と話すとよくそのように言われます。
「hiraokaさんは、占いを信じるのですか?信じないのですか?」と云われるんです。
ぼくは微妙なバランスを取っているつもりなんですが・・・・・。
まあ、あいまいなんですね。
>信じたいのですね。それがなかなかできないということなんです。ですから、信仰は一種賭けのようなものだと思います。だんだんに本物になっていくのではないでしょうか。
ここらへんがよく分からないのですが、どうして信じたいのでしょうか?
たとえば、車を運転していて交差点にさしかかり、信号が青であることを確認した後も、さらに横から車が飛び出して来ないであろうと信じたいのでしょうか。
たしかに、そういう場合もあるのでしょうが・・・。
「信仰は一種賭け」と云うのも、よく分かりません。
「万教帰一」を納得されていらっしゃるのではなかったですか?
「だんだん本物になる」と云うのも、よく分からないんです。
「信じたいものに向かっている自分は本物」である筈だからです。
自分と真理を比べて、自分を否定することに重心を置きすぎていらっしゃるのでしょうか?
>「疑うの意味が分からない」のくだり、よく理解できません。
一日の労働を終えて深い安堵とともに床に就くとき、明日自分は目が覚めないと思うでしょうか。
いや、この喩えはちょっと穴を突かれそうですね。
走っていて息を切らしているときに、次の呼吸は無いかも知れないと思うでしょうか?
この喩えなら、どうでしょう。
ぼくの人生上でサバイバルのような状況になったときを振り返ると、とにかく無我夢中でした。
人生上の疑いなどは思いも至りませんでした。
あんがい、無数に営まれている生命活動はそういうものかも知れません。
ぼくらは、ひまなのかも知れないんです。
>リアリストさんとの論争のなかで、アウグスティヌスの時間論について話したことがあります。アウグスティヌスは、時間も物質も神が創造したものであるから、いつ神はこの宇宙を創ったのかを問うのは愚問であるとのことを言います。リアリストさんは、アウグスティヌスの言葉そのものには反論しませんが、先端物理学における存在の不確定性、不確実な要素について述べ、神の存在の不確かさを言っておられたことがあります。
ueyonabaruさんはアウグスティヌスの信仰心を高く評価し、自分もそのようにありたいと思っていらっしゃるのですよね。そのことは、よく分かるつもりです。
確かに宇宙の始まりを限界ある人間の知性で忖度するのは愚問と云えば愚問でしょうね。
ですが、神は全てを包含するのならば、愚問も内包しているはずなんです。
宗教的な表現なら、「神は神自身を疑うことさえも人間に許しておられる」と云うことになりましょうか。
先端科学は、「神にとって、人間は必要である」と云うところまで来ています。
ここから、「人は神である」までは、あと一歩ですね。
予断ですが、リアリストさんの云われる「神の存在の不確かさ」は、先端科学を誤解していると思います。
「神は死んだ」も同じなのですが、このような誤解はすべて「神と自分は別物」と考えていることに起因を持っています。
>その者だと思っております。誰でもそのような者までなれるというのもそうでしょう。
「その者」と云われるのは、つまり「大川さんは神その者」と云う意味でしょうか?
それでしたら、イエスが「その者、そのまま」ではなかったように「その者」ではありません。
あくまで、「神の一部」であり、「神の全部に続く扉」であるはずです。
>その谷口師のことをお話された生長の家の講師のかたは目を丸くするような驚きを感じたようです。
こうやって、その講師も成長されていくんでしょうね。
>しかし、われ大川のみが尊いということはおっしゃらないでしょうね。そうであれば、こまりものです。
このことでちょっと思うんですが、・・・
生まれるなり天地を指して「天上天下唯我独尊」、これはもちろん後の人達の最大級のおべんちゃらでしょうが、こういう事が残ると云うことも含めて、大川さんの認定を考えていた事がありました。
まったく個人的な疑問なんですが、釈迦は「自分は6番目の仏陀だ(覚醒者)」と云うのは、原始仏典にあるんでしょうか? にしき鯉さん、知っていましたら教えてください。
>イエスは神なのであるからそれら相矛盾することを統合できるのは当然であって、統合できたから自信ができたんだという風に考えてはいきません。イエスや大川、ソクラテスなどもともと高きものです。
その論理にぼくも反対はしません。どちらもあるのだと思います。
もともと高き存在はあると思います。
このことはリアリストさんにはなかなか分かってもらえませんでしたね。
>キリスト教神学の欠陥は私もそのあたりにあるように思います。アウグスティヌスも旧約の教えとの整合性をとるのに苦労したのではないでしょうか。でも、クリスチャンの信仰の態度は、心惹かれます。
たしかに美しいです。ぼくはああいう人生を送りたいとは思いませんが・・・・。
とは云いながら、ぼくも結構やってるんですよ。(*^_^*)
>内村鑑三、マザ-・テレサの信仰など信仰心そのものが尊いのです。私もそのようにありたいと思っているんです。
ところで、大川さんの「内村鑑三の霊言」の内容は事実とまったく反対なのはご存知でしょうね?
こんなに真反対の霊言、これこそ大川さんの霊言のカラクリだと思いますよ。
大川さんは、こんなふうにしゃべれる特殊能力を持っているのだと思いますよ。
だからと云って、大川さんの全てが間違いだとは思いません。
このような、ぼくのスタンスがueyonabaruさんには理解しがたいのかも知れませんね。
>私が、言いたいのは、キリスト教はイエスという人物への限りない帰依に基づいているので、キリストを神だとしなければ聖書の全てを了解することが難しいだろうということなんです。
どうしてです? イエスは人間だったではないですか。
ueyonabaruさんは、イエスもときには間違えたことを了解しているではないですか。
だから、ぼくが力説しているのは「神は矛盾も内包する」ということなんです。
ueyonabaruさんが、どのような体験をされたのかはわかりませんが、疑うことによってイエスを信じたぼくみたいなのもいますよ。
そもそも、イエスは科学に反したような事は、なにも言っていません。
科学と反した教えはキリスト教が言っているんです。
はっきりいうと、キリスト教はイエスの云っていないことをたくさん言っています。
こんなのは、分けて考えれば簡単です。イエスの言った意味だけを信じればいいんです。
食事の前に手を洗えだとか、食事中にはベルトをゆるめてはいけないだとか・・・
そんな事は放っておけばいいんです。
(食事の前に手を洗うことについて、びっくりするような話しがあります。いつか、お伝えします)
>宗教は、基本的には信じることなんです。信じられない悩みが出てくるのも、クリスチャンとて同じでしょう。私の友人のクリスチャン(先輩)はときおり不信心を嘆きます。
つよく云います。
「信じなくとも生かされているではないですか!」この事実をどう解釈されるのですか?
戒律を守れなかったからと云って自分の不信心に悩むひとこそ、イエスが安即日に人を癒すことを非難する人たちです。
不信心よりもさきに悩まなければいけないことのほうこそ、その人にとって大事なんです。
>それはそうです。大川さんを信じられないから地獄にいくということはありえません。
では、大川さんを邪魔した人はどうでしょう? 教団は地獄に行くと云ってますが・・・。
ぼくは、その人の邪魔した動機にもよるが、まったく大丈夫だと思っています。
>そうも思いません。信仰が大切です。
信仰が無ければ救われませんか? だとしたら、神は非情であると云うことになりますよ。
だって、信仰のあるなしによって人(自分自身、神自身)を選別していることになりますから。
>ハッキリと事情は知りませんが、正心法語の販売部数が1千万なので、信者数も1千万としたということを言っておられましたね。
一千万人もいるわけがありません。日本の人口の一割弱などということがあるはず無いです。老若男女を含めた人口が一億二千万人ですよ。
初期の頃の講演で大川さんはこう云ってました。
「日本の宗教団体の信者数を総計すると、日本の人口をはるかに超えてしまうんですよねぇ、まさに百鬼夜行ですよね。(笑い))
ねっ? 昔と今とで云うこととやる事がちがうでしょ。
ぼくがお聞きしたかったのは、「幸福の科学はほんとうに会費を取っていないのですか?」です。
ueyonabaruさんも、会費を払っていないのですか?
ぼくの入会していたころは、銀行の自動引き落としまで用意されていました。
from: ueyonabaruさん
2009年09月06日 10時42分40秒
icon
「Re:Re:私の信仰」
hikaru0827さんへ
> >私の心は乱れ、信仰心もぐらついてしまいまし>た。
>
> しっかりしてください。謙虚さと、実直な信仰心を持ってられるueyonabaruさんを応援していますよ。
しっかりしないといけませんね。
このブログでいろいろの方々と論争するのですが、普段このような機会はないので、これはありがたく思っております。
> > 私が以前に信仰していた生長の家の創始者である谷口雅春師は、ご自身を「神の教えを伝えるラッパである」と常に謙虚な態度でありました。これには、非常に共感をしたものです。このような、生長の家の教えからすると、大川先生のお言葉はナカナカ素直に受け入れるわけにはいきませんね。ご自身を仏陀であるとおっしゃるほどですから。
>
> 昔、イエス様の生き様などについて語られていた中で、その影響が今のキリスト教や、その信者に影響している、という話をされていました。激しい生き様で、教えを説いた年数はみじかかったものの、だからこそ、熱狂的、たまに狂信的な信者が生まれ得ると。
> 一神教と、多神教に比べ、一神教の方が、信者の強い信仰心が産まれる事も明らかです。
強い信仰と、寛容性が大切ですね。
> お釈迦様は、長い年月教えを説かれ、多くの仏典を残す事に成功しましたが、仏教を国教としている国の数、その勢力図は、キリスト教に及びません。
イエス様の影響の強さはすごいものですね。大川先生が、その教えが世界に広まらねば、救世主ではありえません。むろん将来のことです。キリスト教初期の頃、救世主待望のユダヤ教の一派があってイエスをいち早く見つけたというのがありますね。私は、その一派、エッセネ派といいましたかね、そのようなものでありたいと夢想しているんです。
> 総裁先生は、この部分を今世、改良した生き方を目指しているのではないでしょうか?
>
> 当初、9次元霊は、みな同列に近い形であったのに、エル・カンターレは別格という事を、てらいなく明言されたり、その他の神霊の別格扱いを止めたり、という方針転換を、わたしはそんな風に捉えました。
そうかもしれません。
話はまったく違えますが、昨晩は兄弟の集まりで酒をのみ、1人中心になり防衛論を吼えていたそうです(女房の言)。今少し恥ずかしく思っております。言い過ぎなんです、酒を飲むと。自分達の考えが大方に同調されるようになるのは簡単ではありませんね。幸福実現党の主張は大方が正しいと思っているんです。昨晩は、そのような防衛論を関係のない皆さんにぶつけてしまいました。今後少し、自重しますが、全く口をふさぐことはできないようです。
from: ueyonabaruさん
2009年09月06日 10時10分23秒
icon
「Re:Re:私の信仰」
hiraokaさんへ
> いよいよ、宗教上の最大テーマにたどり着きました。
> ueyonabaruさんの、「私の信仰」の文章はすがすがしさを感じます。
あいがとうございます。
> >幸福実現党の惨敗もあり、その後のhiraokaさんとの論争もあったりしたことから、私の心は乱れ、信仰心もぐらついてしまいました。
>
> なかなか分かっていただけないかもしれませんが、ぼくは論争しているつもりは無いんです。
> お話ししているつもりなんですよ。
> また、ueyonabaruさんを大川さんから引き離そうと云うおせっかいをするつもりは無いんですよ。
確かに分かりにくいです。
> >またしても、自分のやっていること、考えていること、信じていることはもしかすると間違ってはいないのかという疑心が起こってきたのですね。
> この文のなかの、「信じていること」と云うのは、じつはueyonabaruさんにとって「信じたいと思っていること」ではないでしょうか?
信じたいのですね。それがなかなかできないということなんです。ですから、信仰は一種賭けのようなものだと思います。だんだんに本物になっていくのではないでしょうか。
> 端的に云うと「大川さんを信じたい」ではないでしょうか?
> そもそも、「信心」とは「信じて疑わない」ではなくて、「疑うの意味が分からない」なのだと思います。
> 「それそのもの」になったら「自分がそれ以外かも知れない」と云う命題には思いも至らないはずなんです。
> このことは、hikaru0827さんの、ご質問と密接な関連性があると思っています。
> ぼくが数学や物理の話しを出すのはそのためなんです。
「疑うの意味が分からない」のくだり、よく理解できません。
リアリストさんとの論争のなかで、アウグスティヌスの時間論について話したことがあります。アウグスティヌスは、時間も物質も神が創造したものであるから、いつ神はこの宇宙を創ったのかを問うのは愚問であるとのことを言います。リアリストさんは、アウグスティヌスの言葉そのものには反論しませんが、先端物理学における存在の不確定性、不確実な要素について述べ、神の存在の不確かさを言っておられたことがあります。
> >この仏陀が大川隆法でありエル・カンタ-レであるということをおっしゃっておられるのです。・・・
> >多くの皆さんが、大川隆法に反発を感じるのは、その点が一番大きいのではないでしょうか。
>
> 多くの人達はそのことに反発をするだろうと思います。
> そして、大川さんを「信じよう」と思った人達は大川さんを「現人神」とあがめようとし、
> 「信じるまい」と思った人達は大川さんを「死ね!」などと、人間同士にあるまじきことを云います。
> ですが、ぼくは違うんです。
> じっさい、ほんとうに究極的に悟った人や、ほんとうに神近くまでの心境に達した人は、「我は神なり」と宣言するんです。
> そして、このことは僕らの誰にでもできるはずのものなんです。
> ですがですが、だからと云って、・・・
> 大川さんが、そこまで行ったかどうかはなかなか分からないんです。
その者だと思っております。誰でもそのような者までなれるというのもそうでしょう。
生長の家の谷口師は生前、猫と猫の子の例えで、猫と猫の子は両方ともに猫であるように、わたし(谷口)が人間は神の子だというときには、人間は神なのだという意味なのである・・・・・とのことをおっしゃいました。その谷口師のことをお話された生長の家の講師のかたは目を丸くするような驚きを感じたようです。
> ぼくらが「我は神なり」と宣言したら、すぐにそうではないことを思い知らされることでしょうし、誰もそうは思わないでしょう。
> ですが、ぼくらも「我は神なり」と云いうるまでの種は持っているんです。
> 誤解のないように先に言っておきます。
> ぼくは大川さんは、そこまで行ってないだろうと推測しています。
> その根拠として、「我は神なり」の心境にまで達した人は全て、「人、自然、宇宙、生命・・・ありとあらゆるもの」全てを「いつくしむ」ようになるからなんです。
> ぼくは、大川さんからは「いつくしみ」を感じ取れません。
> だからと云って、ぼくは大川さんを否定するわけではありません。
これについては反論は何も申し上げられません。先生は、慈しみのないお方ではないだろうと思います。
> >私が以前に信仰していた生長の家の創始者である谷口雅春師は、ご自身を「神の教えを伝えるラッパである」と常に謙虚な態度でありました。
> ラッパは神の一部なんでしょ。だとしたら、ラッパは僕らから見ると神なんですよ。
> ただし一部しか見てないんですけど・・・。
> ぼくが論理のことを持ち出そうとするのは、まさに是なんです。
> 真と偽を両方内包したものが神なんです。
> だから、イエスは「わたしは道であり、真理であり、・・・いや、すでに父を見たのだ」と云い、
> 同時に「わたしはすべてのもののしもべ」としたのですよ。
> ふたつの命題は矛盾しているように見えるでしょ?
> ここにこそ、大秘密があるんですよ。
しもべであるという言葉は確かに美しい言葉です。真偽両方もつのが神だというのもそうでしょう。
わたしは道であり、真理であるというイエスの言葉に、大川隆法のわれは仏陀であるというのと同じ調子を感じます。自信です。
> そして、イエスは「わたしにできる事は、あなたがたの誰でもできる」と云い、
> 釈尊は「だれでも、悟れる」と云ったんですよ。
> つまり、「我は神なり」と、「我は神のしもべ」は両立するんです。
そうですね。大川先生はこのあたりのことを何と言ったのでしょうか。双方のご性格は違いますので、表現は異なりましょうが、探してみます。しかし、われ大川のみが尊いということはおっしゃらないでしょうね。そうであれば、こまりものです。
> >すごいことをおっしゃいます。自分自身を真理であり、いのちでありというこの自信はどこからくるのでしょう。
> 上記のあい矛盾するかに見える二つを統合できたから、その自信があるんです。
> 神を信じるのとまったく同じように自分を信じられるんです。
> そして、同時に人を信じられるんです。
> たとえ、人がそのように見えなくともです。
hiraokaさんの論理の運びとわたしのそれとは違うようです。これに対しては、反対の意志は全くありませんが、わたしは、もっと直裁に考えております。神はすべてであるから、イエスは神なのであるからそれら相矛盾することを統合できるのは当然であって、統合できたから自信ができたんだという風に考えてはいきません。イエスや大川、ソクラテスなどもともと高きものです。
> >キリスト教というのは、イエスを救世主とし、神の子として、いや神として、心の底から信じ込むことなのです。
> イエスの教えと、キリスト教は一部だけ同じで、あとは違います。
> キリスト教はイエスが云わなかったことを推測解釈しています。
> その最大のつまづきは、イエスを「神のひとり子」「人類の贖罪」とパウロが解釈してしまった事です。
キリスト教神学の欠陥は私もそのあたりにあるように思います。アウグスティヌスも旧約の教えとの整合性をとるのに苦労したのではないでしょうか。でも、クリスチャンの信仰の態度は、心惹かれます。内村鑑三、マザ-・テレサの信仰など信仰心そのものが尊いのです。私もそのようにありたいと思っているんです。
> >しかし、聖書そのものは、特に日本人である我々には、キリストへの信仰心なしでは分かりにくいのではないかと思っております。
>
> 日本人は旧約聖書を理解するのには抵抗があるかもしれませんね。
> ですが、新約聖書の一部はどこの国の人でも理解します。
美しいキリスト教の倫理など誰でも受け入れられるでしょう。
私が、言いたいのは、キリスト教はイエスという人物への限りない帰依に基づいているので、キリストを神だとしなければ聖書の全てを了解することが難しいだろうということなんです。これは自分の体験から申しております。信じることにより、キリスト教は理解できるのです。科学が進んだ現在の状況では、信じることがクリスチャンにとっても難しくなってまいりました。それでも、信仰は存在しております。宗教は、基本的には信じることなんです。信じられない悩みが出てくるのも、クリスチャンとて同じでしょう。私の友人のクリスチャン(先輩)はときおり不信心を嘆きます。
> なぜ、キリスト教が世界に広まったと思われますか?
> だれも究極的にはあらがうことのできない「愛」を根本教理にすえているからですよ。
> こればかりは、だれも反抗しつづけることはできないものなんです。
賛成です。
> >わたしは、エル・カンタ-レへの信仰はもっているつもりですが、ときにぐらつきます。
>
> なにかに帰依し信仰を表明し、それにふさわしいように思い行動することだけが、ほんとうの「信心」ではないんです。
>
> それは、一般にわかりやすく思われる「信仰」なんです。
> その証拠に、大川さんやイエスを信じないからと云って、その人が地獄に行くとは限らないであろうことは、もはやだれにとっても常識になっているでしょ。
それはそうです。大川さんを信じられないから地獄にいくということはありえません。道は一つではありません。各自の道は用意されていると思いますよ。以前私の信仰がぐらついてたとき、プラトンの対話編を読みました。非常に感動しました。私は、大川隆法から離れるようなことがあったら、このプラトンさんについていけば良いのだと妙に安心したことがあります。大川もプラトンも全ては分かりませんが、偉大な先達に従えば大きな間違いはないだろうと。でも、プラトンを読んでから逆に大川隆法を再度学ぼうと思ったんですよ。
> もう、人間達は「信じれば救われる」とか、「信じなければ地獄に落ちる」などと云った、脅し文句を真に受けるお人良し達は少なくなりつつあるんです。
> そこまで、人類の意識は進歩しつつあるんです。
そうも思いません。信仰が大切です。
> つぎに、ueyonabaruさんにとっては論争と思われるかもしれない、耳あたりの良くないことを書きます。
>
> 今回の選挙で没収された20億円(実際には15億円前後でしょうか)が無駄になったかどうかではなく、
> そのお金を教団はどのようにして集めたかを、ぼくは指摘しているのです。
> ueyonabaruさんの、最終回答は「無駄ではありません」でした。
> そのことを問題にしているのではありません。
>
> 現在、教団が「幸福実現党」に選挙資金を貸したことになっているようです。
> 党首がきょう子さんから、饗庭氏にすぐ変わったのはこのことと関係があるとぼくは思っています。
> つまり、保証人の問題です。
>
> もしも、教団が今回の散財で経営(大川さんにとっては運営ではなく経営です)が苦しくなり、一時期問題になったような会員集めを強引に始めたら、この次こそ国税局やその他は本格的にマークしますよ。
> チクル人達(内部告発)や、貶めようとする人達はいくらでもいますから要注意です。
そこまでは思い至りませんでした。
> せめて、グッズを売ったり、それでなくても高い講演料を使いまわして再回収したり、ベストランキングの上位に乗せるために、職員が本を大量に買い付けに廻ったり(ちなみにこれは他宗教でもやっています)、ご本尊をたくみな金額でお布施してもらったりなどと云うことはやめていただきたい。
面白くない話ですね。
> もうひとつ・・・・。
> 教団が幸福実現党を結成してのち、ある週刊誌にてインタビューを受け、大川さんは次のように話しました。
> 「ウチは、会費を取ってないんですよ。だから、正確な会員数は分からないんです・・・」
> これは、真実ですか?
ハッキリと事情は知りませんが、正心法語の販売部数が1千万
なので、信者数も1千万としたということを言っておられましたね。信者数は1千万から大分目減りしたようですね。ガッカリです。内部のことを明らかにしたくないのでしょうか、会員数は分かるはずですよ。幸福の科学にもっと情報開示を求めたいです。
前に、にしき鯉さんが疑問のあった、大川先生はなぜ他宗派との法戦を避けるのかというのがあります。私は避けているのかどうかは分からないのですが、先生が、相手もあることではありますが、仏教各派との論戦があっても良いと思うんです。それはしかし、相手の事情もあるでしょうね。政治には乗り出しましたので、堂々と多方面で跳躍してもらいたいものです。
このサイトをご覧になっている方で教団関係者の方がおられたら、是非ご参加いただき、ご発言いただけませんか。匿名ですから、自由に発言可能です。
from: hiraokaさん
2009年09月06日 01時03分08秒
icon
「Re:私の信仰」
ueyonabaruさん、こんばんは。
いよいよ、宗教上の最大テーマにたどり着きました。
ueyonabaruさんの、「私の信仰」の文章はすがすがしさを感じます。
>幸福実現党の惨敗もあり、その後のhiraokaさんとの論争もあったりしたことから、私の心は乱れ、信仰心もぐらついてしまいました。
なかなか分かっていただけないかもしれませんが、ぼくは論争しているつもりは無いんです。
お話ししているつもりなんですよ。
また、ueyonabaruさんを大川さんから引き離そうと云うおせっかいをするつもりは無いんですよ。
>またしても、自分のやっていること、考えていること、信じていることはもしかすると間違ってはいないのかという疑心が起こってきたのですね。
この文のなかの、「信じていること」と云うのは、じつはueyonabaruさんにとって「信じたいと思っていること」ではないでしょうか?
端的に云うと「大川さんを信じたい」ではないでしょうか?
そもそも、「信心」とは「信じて疑わない」ではなくて、「疑うの意味が分からない」なのだと思います。
「それそのもの」になったら「自分がそれ以外かも知れない」と云う命題には思いも至らないはずなんです。
このことは、hikaru0827さんの、ご質問と密接な関連性があると思っています。
ぼくが数学や物理の話しを出すのはそのためなんです。
>この仏陀が大川隆法でありエル・カンタ-レであるということをおっしゃっておられるのです。・・・
>多くの皆さんが、大川隆法に反発を感じるのは、その点が一番大きいのではないでしょうか。
多くの人達はそのことに反発をするだろうと思います。
そして、大川さんを「信じよう」と思った人達は大川さんを「現人神」とあがめようとし、
「信じるまい」と思った人達は大川さんを「死ね!」などと、人間同士にあるまじきことを云います。
ですが、ぼくは違うんです。
じっさい、ほんとうに究極的に悟った人や、ほんとうに神近くまでの心境に達した人は、「我は神なり」と宣言するんです。
そして、このことは僕らの誰にでもできるはずのものなんです。
ですがですが、だからと云って、・・・
大川さんが、そこまで行ったかどうかはなかなか分からないんです。
ぼくらが「我は神なり」と宣言したら、すぐにそうではないことを思い知らされることでしょうし、誰もそうは思わないでしょう。
ですが、ぼくらも「我は神なり」と云いうるまでの種は持っているんです。
誤解のないように先に言っておきます。
ぼくは大川さんは、そこまで行ってないだろうと推測しています。
その根拠として、「我は神なり」の心境にまで達した人は全て、「人、自然、宇宙、生命・・・ありとあらゆるもの」全てを「いつくしむ」ようになるからなんです。
ぼくは、大川さんからは「いつくしみ」を感じ取れません。
だからと云って、ぼくは大川さんを否定するわけではありません。
>私が以前に信仰していた生長の家の創始者である谷口雅春師は、ご自身を「神の教えを伝えるラッパである」と常に謙虚な態度でありました。
ラッパは神の一部なんでしょ。だとしたら、ラッパは僕らから見ると神なんですよ。
ただし一部しか見てないんですけど・・・。
ぼくが論理のことを持ち出そうとするのは、まさに是なんです。
真と偽を両方内包したものが神なんです。
だから、イエスは「わたしは道であり、真理であり、・・・いや、すでに父を見たのだ」と云い、
同時に「わたしはすべてのもののしもべ」としたのですよ。
ふたつの命題は矛盾しているように見えるでしょ?
ここにこそ、大秘密があるんですよ。
そして、イエスは「わたしにできる事は、あなたがたの誰でもできる」と云い、
釈尊は「だれでも、悟れる」と云ったんですよ。
つまり、「我は神なり」と、「我は神のしもべ」は両立するんです。
>すごいことをおっしゃいます。自分自身を真理であり、いのちでありというこの自信はどこからくるのでしょう。
上記のあい矛盾するかに見える二つを統合できたから、その自信があるんです。
神を信じるのとまったく同じように自分を信じられるんです。
そして、同時に人を信じられるんです。
たとえ、人がそのように見えなくともです。
>キリスト教というのは、イエスを救世主とし、神の子として、いや神として、心の底から信じ込むことなのです。
イエスの教えと、キリスト教は一部だけ同じで、あとは違います。
キリスト教はイエスが云わなかったことを推測解釈しています。
その最大のつまづきは、イエスを「神のひとり子」「人類の贖罪」とパウロが解釈してしまった事です。
>パウロの書簡集は生長の家にいた時分でも、伝道などの運動に疲れたときなどよく読んだものです。彼は、いわば宗教活動家なんですね。
まったく、そのとおりだと僕も思います。
>しかし、聖書そのものは、特に日本人である我々には、キリストへの信仰心なしでは分かりにくいのではないかと思っております。
日本人は旧約聖書を理解するのには抵抗があるかもしれませんね。
ですが、新約聖書の一部はどこの国の人でも理解します。
なぜ、キリスト教が世界に広まったと思われますか?
だれも究極的にはあらがうことのできない「愛」を根本教理にすえているからですよ。
こればかりは、だれも反抗しつづけることはできないものなんです。
>わたしは、エル・カンタ-レへの信仰はもっているつもりですが、ときにぐらつきます。
なにかに帰依し信仰を表明し、それにふさわしいように思い行動することだけが、ほんとうの「信心」ではないんです。
それは、一般にわかりやすく思われる「信仰」なんです。
その証拠に、大川さんやイエスを信じないからと云って、その人が地獄に行くとは限らないであろうことは、もはやだれにとっても常識になっているでしょ。
もう、人間達は「信じれば救われる」とか、「信じなければ地獄に落ちる」などと云った、脅し文句を真に受けるお人良し達は少なくなりつつあるんです。
そこまで、人類の意識は進歩しつつあるんです。
つぎに、ueyonabaruさんにとっては論争と思われるかもしれない、耳あたりの良くないことを書きます。
今回の選挙で没収された20億円(実際には15億円前後でしょうか)が無駄になったかどうかではなく、
そのお金を教団はどのようにして集めたかを、ぼくは指摘しているのです。
ueyonabaruさんの、最終回答は「無駄ではありません」でした。
そのことを問題にしているのではありません。
現在、教団が「幸福実現党」に選挙資金を貸したことになっているようです。
党首がきょう子さんから、饗庭氏にすぐ変わったのはこのことと関係があるとぼくは思っています。
つまり、保証人の問題です。
もしも、教団が今回の散財で経営(大川さんにとっては運営ではなく経営です)が苦しくなり、一時期問題になったような会員集めを強引に始めたら、この次こそ国税局やその他は本格的にマークしますよ。
チクル人達(内部告発)や、貶めようとする人達はいくらでもいますから要注意です。
せめて、グッズを売ったり、それでなくても高い講演料を使いまわして再回収したり、ベストランキングの上位に乗せるために、職員が本を大量に買い付けに廻ったり(ちなみにこれは他宗教でもやっています)、ご本尊をたくみな金額でお布施してもらったりなどと云うことはやめていただきたい。
美しくないです!!
そんな方便なら、いりません!!
ueyonabaruさんも、沖縄支部でしっかり見張ってください。
支部の仲間にも、良きアドバイスを伝えてください。
もうひとつ・・・・。
教団が幸福実現党を結成してのち、ある週刊誌にてインタビューを受け、大川さんは次のように話しました。
「ウチは、会費を取ってないんですよ。だから、正確な会員数は分からないんです・・・」
これは、真実ですか?
from: hikaru0827さん
2009年09月06日 00時38分54秒
icon
「Re:私の信仰」
ueyonabaru さんへ
>私の心は乱れ、信仰心もぐらついてしまいまし>た。
しっかりしてください。謙虚さと、実直な信仰心を持ってられるueyonabaruさんを応援していますよ。
> 私が以前に信仰していた生長の家の創始者である谷口雅春師は、ご自身を「神の教えを伝えるラッパである」と常に謙虚な態度でありました。これには、非常に共感をしたものです。このような、生長の家の教えからすると、大川先生のお言葉はナカナカ素直に受け入れるわけにはいきませんね。ご自身を仏陀であるとおっしゃるほどですから。
昔、イエス様の生き様などについて語られていた中で、その影響が今のキリスト教や、その信者に影響している、という話をされていました。激しい生き様で、教えを説いた年数はみじかかったものの、だからこそ、熱狂的、たまに狂信的な信者が生まれ得ると。
一神教と、多神教に比べ、一神教の方が、信者の強い信仰心が産まれる事も明らかです。
お釈迦様は、長い年月教えを説かれ、多くの仏典を残す事に成功しましたが、仏教を国教としている国の数、その勢力図は、キリスト教に及びません。
総裁先生は、この部分を今世、改良した生き方を目指しているのではないでしょうか?
当初、9次元霊は、みな同列に近い形であったのに、エル・カンターレは別格という事を、てらいなく明言されたり、その他の神霊の別格扱いを止めたり、という方針転換を、わたしはそんな風に捉えました。
from: hiraokaさん
2009年09月11日 01時15分51秒
icon
「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:私の信仰」
ueyonabaruさん、こんばんは。
> 西郷さんは、地獄ではないようです。私が前にそのように申したので、そのことが脳裏に残っていたのではないでしょうか。すみませんでした。
そうなんですか。たしかにぼくは以前のueyonabaruさんの書き込みを見て『ふ〜ん、幸福の科学では西郷さんも地獄に居るといっているのかあ』と思いました。
「坂本竜馬の霊言」の中では、どちらとも書かれていませんね。
この本の中で善川さんが竜馬に高杉晋作のことを訪ねる箇所があります。
竜馬は「ああ、あいつはあっちあっち」と云っています。
当時、ぼくは仲間に「あっち、ってどう意味ですか?」と尋ねると、「地獄のことですよ」と云われました。
ぼくはそのとき、『そうかもしれないなあ。』と思いました。
農民を集めた奇兵隊を「この、どん百姓!」と怒鳴ったり、妾宅がいまだに史跡として残っていたり、陣屋で三味線を弾いていたり、人にあげた酒壷のひょうたんを返してくれと云ったり、・・・地獄かもしれないなあ・・」と妙に納得したものです。
そういうわけでにしき鯉さん、ぼくが伝えた西郷地獄説は間違いだそうです。
>私は一流の医者は医術と患者の治癒力による病気直しを目指すと思っておりました。
ええ、まったく同じことを書いたつもりでしたが、真意が伝わらなかったのはぼくの舌足らずだったのでしょう。
本当の意味での傷薬や風邪薬は無いという事をご存知でしょうか。
幸福の科学初期の頃、知り合った外科医のインターンの人と話していたとき、この話しになった事がありました。
彼曰く「ええ、そうなんですよ。傷薬りも風邪薬と云うのも無いんです。傷を治すのは全部自然治癒力なんですよ。それを知らない医者は勉強不足です。」と云っていました。
そばに居た、別の病院の看護婦さんが目をまるくして「え〜! そうなんですか?」とビックリしていました。
>お陰で聖書を開く回数が増えました。マタイ伝14ではパンをふやす話、湖の上を歩くイエスのことが書かれております。
パンを増やす話しは結構あちこちにあります。
日本でも大戦中に九州の教会で、米びつの中に空になっても空になっても翌日は家族の最低量の米が出現していた話しなどもあります。
湖の上を歩くイエスのことは、おおむね零体を見たのだろうと云うのが主流のようです。
高橋信次さんも同じ主張でした。ぼくもそうだろうと思います。
ですが、水の上を歩けないと云うのは果たして「非科学的」なんでしょうか?
「支えが無ければ歩けない」と云うのは科学的ですが、「水の上は歩けない」と云う結論は科学の結論ではないはずだと思うんです。。
ぼくのこう云う考えかたは、文系の人にも理系の人にもなかなか分かってもらえないんです。
>そして、聖書は、基本的に信仰するもののような気持ちで読むのが一番だと言いたいのです。
たしかに、そのとおり!
サークルで活動するには参加が必要です。
「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
※参加を制限しているサークルもあります。
閉じる
icon拍手者リスト