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from: にしき鯉さん
2009年09月11日 21時29分44秒
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地獄論
ueyonabaruさん、 hiraokaさん、ありがとうございます
ぜひ、お願いします
・・・
地獄と言うと八大地獄を思い浮かべます、等活地獄(とうかつ) 黒縄地獄(こくじょう)とかありますよね、大乗経典の長阿含経の中にも詳しく書いてあります 、でも、個人的見解ですが脚色が多いような気がします、と、言うのは当時の仏教徒の地獄感だからです
たとえば「血の池地獄」はフランスのマリーアントワネットだったら天国と言うのかも知れません
(ホントか嘘かはわかりませんが若い娘の生き血で風呂に入っていたそうです)
ただ、大乗を否定するつもりはありません、「苦しみだけの世界」は共通です
・・・
本題です、
地獄は①「おこないの清算場所」と②「自ら選んでしまう」だと考えます
①は生きている間にあまりにも多くの殺生をしてしまって転生の時に「行為」そのものの清算で地獄へ行ってしまう
②は闘争の喜びで自ら選んでしまう
力比べをしたいのは人間の本質ですが度が過ぎると相手が地獄にいても転生の時、飛び込んでしまう(徳がない場合です)
・・・
仏教では地獄は「区別」から始まると説いています、自と他を区別する事から「嫌悪」が生まれます、区別が嫌悪を生み自分が優位に立ちたいと思った時、「殺生」を自分の中で肯定します(これが積み重なると①番になります)
だから殺生を禁じ生き物を慈しむように教えています
・・・
そんな事言ったって「死んでみなけりゃ地獄があるかどうかわからない」という人がいます
簡単です、ガスコンロに火をつけてその上に手を1cmまでかざして下さい
熱いでしょ、それが「熱地獄」です
現世では手を引っ込める事ができるけど、引っ込められない状況に置かれるから地獄なんですよ
・・・
こんな解釈はどうでしょうか?返事お待ちしています
コメント: 全21件
from: hiraokaさん
2009年09月20日 00時37分32秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:地獄論」
みなさん、こんばんは。
>地獄論もう少し続けたいのですが、いかがでしょうか。
はい、どうぞ続けてください。
ぼくは、地獄論のじゃまにならないように気をつけながら書くように勤めております。
ぼくが地獄論をまだ書かないのは、みなさんの考えをとりあえず聞いてみたいからです。
>完璧な教えを求めているという気持ちは私にはありません。プラトン、ソクラテス、イエス、大川隆法、ブッダが好きであり、私を導いてくれるものとして大変な信頼をおいております。
プラトン、ソクラテス、イエス、ブッダは自分の前言と矛盾することを行った記録はありません。
ですが、すでにお伝えしたように大川さんは自分の前言と大きく矛盾する行動を現在行っています。
孔子は「過ちて改めざる、是を過ちと云う」
ならば、大川氏には初期の頃に言っていたことと現在が違う理由を述べていただきたい。
大川氏の矛盾は歴然と残っています。
このままでは、後の世の人達は大川氏を捨象せざるを得ません。
このブログを見た事がありますでしょうか?
http://blogs.yahoo.co.jp/ornouso
ここの管理人は、ぼくよりはるかに真摯に幸福の科学について検証を行っていますよ。
>解釈という言葉をお使いになるので、少し惑わされますが、・・・
そうでしょうか? すべては自分の解釈だと、ぼくは思いますよ。
いじめられても、それをイジメとはとらないのも解釈ですね。
「人は自分の見たいものを見る」と云うのは、哲学上の結論であることをueyonabaruさんもご存知と思います。
>パウロは信仰の人と単純に考えます。元々ユダヤ教徒であったが、不思議な体験もあり、のちに改宗をしたのです。
信仰こそが、偉大な力を生み、かつ大いなる苦しみを生み出すんです。
幼児には、信仰などありませんよ。信仰とは信じたいものなんです。
これは、信仰を否定するのではありません。
>パウロがキリスト教徒に改宗したのは、馬上で聞いたイエスの声で突然に、驚き、それで改宗をしたというものではなさそうです。パウロはその不思議な体験の前に、すでにキリスト教に触れていたそうです(例の私の叔母のシスタ-の言)。彼の内部での思想の熟成があったと思われ、それとともに不思議な言葉で心動かされたのではないでしょうか。熱心なユダヤ教徒も熱心なキリスト教徒に変わるということです。アウグスティヌスも前はマニ教徒でした。
そうです。 パウロはいきなり変わったのではありません。
自分が熱心に帰依していたユダヤ教の教えの通りに行動していたのですが、イエスの片鱗に触れ、少しなりともその真髄を知り、イエスの主張する真理がパウロの心の中で醸成されていったのです。
パウロは旅の帰途で体の具合が悪くなり、もうこのまま自分は死んでしまうのか・・・と苦しんだときにイエスの幻影を見ました。
この体験は、西洋人がもっとも大切にする西洋思想の根幹になっています。
「クオ・ヴァーディス」主よ何処へ行かれるのですか? と云う小説にノーベル文学賞を与えたくらいですから。
アウグスティヌスも、マニ教では強調されなかったイエスの「愛」の教えを自分に与えることによって自分の存在を認める過程を経たように思われます。
>解釈という言葉は、信仰者の大事件である改宗ということを述べる際には、少しなじまない言葉のように思います。解釈というのが間違いというのではありません。
自分の外に真理があると潜在意識に思っているなら、「解釈」と云う言葉は違和感があることでしょう。
しかし、自分の中に全てがあるはずだと信じられるなら、「解釈」でも差し支えないように思えます。
>ひとは真理を知りたいと熱望しながら、その実は安寧の天国を希求するものかもしれません。 そうかもしれません、それがひとです。
ものみの塔の人達と話してみると、このことがよく分かりますよ。
自分達は「安寧の真理」を知ったと信じているんです。あるいは、そう信じたいようです。
ところがおもしろいことに、彼らは「自分ひとりが救われたのでは、さみしい!」と思っているんです。
だから、あなたも救いたいと熱望してるんです。
ですが、完全であるはずの神が墓場から死体をよみがえらせて千年王国をつくれるはずなのに、輸血をしたら神でさえもそれが不可能になるとは・・・・!
かれらこそ、論理を勉強して欲しいものです。 (^.^)
>地獄論もう少し続けたいのですが、いかがでしょうか。
再度、書きますね。 どうぞ、続けてください。
ぼくに対するご返事は、義務ではありませんよ。気にしないでください。
from: ueyonabaruさん
2009年09月19日 10時37分12秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:地獄論」
hiraokaさんありがとうございました。
今後とも互いの異なる意見をぶつけてまいりましょう。人はみな異なるが持論です。そして異なる人を理解しようするのもこの世の大切なテ-マだと思っております。
> 「完璧な教えは無い」と断言しても、おそらく間違いではないとぼくは思います。
> ここでちょっとueyonabaruさんの苦手な論理を考えてみてください。
>
> 1:「完璧な教えは無い」と云うのは「完璧な教えである」
> 2:「上述は完璧な教えである」とすると、その結論自体も完璧でないはずである。なぜなら、完璧な教えは無いのだから。
>
> だとすると、ひとがどのようにあがいても完成には至らないのでしょう。
>
> もともと、矛盾の無いものは見当たらないんです。(←これすらも、先の命題を作れます)
完璧な教えを求めているという気持ちは私にはありません。プラトン、ソクラテス、イエス、大川隆法、ブッダが好きであり、私を導いてくれるものとして大変な信頼をおいております。
> そのような世界の構造の中で、パウロは人生最大の大改心を経験しました。
> だれにとっても経験こそが、自分を自分たらしめる根拠であると暗黙に了解していますね。
>
> パウロにとっては、自分の人生を生きてきたあかしの経験です。
> おそらく、その後ほとんどそのような(イエスのまぼろしが出てきて、『あなたは、なぜそんなに私を苦しめるのか?』と云うリアルな経験をしていないだろうと思います。
> ここで、パウロは自分の経験をよりどころ(信心)として、まっしぐらに信仰の世界に突き進みます。
>
> ですが、パウロはそれ以前も、まっしぐらに信仰の世界を突き進んでいたんです。
> 熱心なユダヤ教徒パウロはイエスの弟子に群集と一緒になって石を投げていたわけです。
>
> どこに違いがあるのでしょうか?
>
> まさに解釈の違いなんです。同じものを別解釈したために起こった出来事だったわけです。
>
> 解釈とはこの世をどのようにとらえ、どのように理解しているかと云うことであり、それがつまりその人自身をあらわし、その人はそのように行動するわけですね。
>
> では、どういう解釈がもっとも良いのでしょうか。
> まさにここまで来て、現代の科学も宗教も哲学も答えを出せないんです。
解釈という言葉をお使いになるので、少し惑わされますが、パウロは信仰の人と単純に考えます。元々ユダヤ教徒であったが、不思議な体験もあり、のちに改宗をしたのです。私も生長の家教徒であったものが、のちに幸福の科学教徒になったのと同じことでしょう。
パウロがキリスト教徒に改宗したのは、馬上で聞いたイエスの声で突然に、驚き、それで改宗をしたというものではなさそうです。
パウロはその不思議な体験の前に、すでにキリスト教に触れていたそうです(例の私の叔母のシスタ-の言)。彼の内部での思想の熟成があったと思われ、それとともに不思議な言葉で心動かされたのではないでしょうか。熱心なユダヤ教徒も熱心なキリスト教徒に変わるということです。アウグスティヌスも前はマニ教徒でした。
解釈という言葉は、信仰者の大事件である改宗ということを述べる際には、少しなじまない言葉のように思います。解釈というのが間違いというのではありません。
> ようやく分かった事は、真理は一つではないかもしれない、真理は不確実なものかもしれないと云う事です。
分かるような気がします。真理の多様性というのは、これで一つの大きなテ-マでもありますね。
ひとは真理を知りたいと熱望しながら、その実は安寧の天国を希求するものかもしれません。
そうかもしれません、それがひとです。
> ひとつのものにすがって、「これで安心」と思いたがるものですね。
> ですが、「それでは、楽しみが少なかろう?」と云うのが、神の思し召しのようです。
神様は「これで安心」である状況をけっして継続させようとはしませんね。
実は、パウロはキリスト教の基礎をつくった重要な人物ですが、彼の無理したところ、旧約との整合性を強引にもたせようとしたところなどがあればお聞きしたかったのですが・・・・・。
とは言うものの、私はキリスト教の教会の解釈についてはそんなに目くじらをたて矛盾を探そうという気はないのです。カトリックの教義も受け入れがたいというか理解しがたい点はありますが、大切なのは信仰だと思います。また、旧約はなじめないのであまり読んではおりません。私には難しすぎます。
ハイデッガ-も、スウェ-デンボルグも難しすぎて、現在お蔵入りの状態です。幸福実現党ができて以来、政治・経済に関心が強くなっており、大前さんの本も読んでいる状況です。
地獄論もう少し続けたいのですが、いかがでしょうか。
from: hiraokaさん
2009年09月19日 02時00分14秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:地獄論」
皆さん、こんばんは。
>>ueyonabaruさん
>>せいいっぱい頑張ったのでしょうが、ほんのちょっとの解釈違いがその後、信心するがゆえの苦しみ悩み疑問を多く作ってしまったと思います。
>ここのところ、具体的にもう一度ご説明願えませんか。
はい、できるだけがんばってみます。
ユーミン(←ご存知でしょうか?)の唄に、こんなのがあります。
「♪♪・・ちぃ〜さなころは〜〜、か〜みさまが居て〜、なぁんでも夢を〜かなえてくれた〜〜〜」
けだし名歌詞だと思います、・・・おおくの人は共感できると思うのです。
この充足したパラダイス状況は、おそらく・・・天上界の持ち越しだろうと推測します。
つまり、じぶんの中に在るわけです。
だとすると思い出しさえすれば、・・・利便性も自然の摂理も親の恩も知らずとも人類はしあわせな気持ちになれるわけです。
イエスの云った事は、「神の王国」だとか修辞されていますが、ようは「自分と人と自然界は神の現われだから、自分のことのように人と自分と自然界を愛しなさい」、でした。
ではそれで、童話のように「王子様とお姫様は末永く幸せにくらしましたとさ」とは終わらないところが、この世の苦しみでもあり、面白さでもあり妙味でもあり経験するだけの価値あるものなのでしょう。
本題です。
「完璧な教えは無い」と断言しても、おそらく間違いではないとぼくは思います。
ここでちょっとueyonabaruさんの苦手な論理を考えてみてください。
1:「完璧な教えは無い」と云うのは「完璧な教えである」
2:「上述は完璧な教えである」とすると、その結論自体も完璧でないはずである。なぜなら、完璧な教えは無いのだから。
だとすると、ひとがどのようにあがいても完成には至らないのでしょう。
もともと、矛盾の無いものは見当たらないんです。(←これすらも、先の命題を作れます)
そのような世界の構造の中で、パウロは人生最大の大改心を経験しました。
だれにとっても経験こそが、自分を自分たらしめる根拠であると暗黙に了解していますね。
パウロにとっては、自分の人生を生きてきたあかしの経験です。
おそらく、その後ほとんどそのような(イエスのまぼろしが出てきて、『あなたは、なぜそんなに私を苦しめるのか?』と云うリアルな経験をしていないだろうと思います。
ここで、パウロは自分の経験をよりどころ(信心)として、まっしぐらに信仰の世界に突き進みます。
ですが、パウロはそれ以前も、まっしぐらに信仰の世界を突き進んでいたんです。
熱心なユダヤ教徒パウロはイエスの弟子に群集と一緒になって石を投げていたわけです。
どこに違いがあるのでしょうか?
まさに解釈の違いなんです。同じものを別解釈したために起こった出来事だったわけです。
解釈とはこの世をどのようにとらえ、どのように理解しているかと云うことであり、それがつまりその人自身をあらわし、その人はそのように行動するわけですね。
では、どういう解釈がもっとも良いのでしょうか。
まさにここまで来て、現代の科学も宗教も哲学も答えを出せないんです。
ようやく分かった事は、真理は一つではないかもしれない、真理は不確実なものかもしれないと云う事です。
ひとは真理を知りたいと熱望しながら、その実は安寧の天国を希求するものかもしれません。
ひとつのものにすがって、「これで安心」と思いたがるものですね。
ですが、「それでは、楽しみが少なかろう?」と云うのが、神の思し召しのようです。
具体的な「信心するがゆえの苦しみ悩み疑問」については、すでにueyonabaruさんはよくご存知と思います。
from: にしき鯉さん
2009年09月18日 23時51分05秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:地獄論」
<地獄行き決定のシステムについてです。
<その光には、浮力があると仮説を立てます。すると、光不足の人<は、霊界空間に満ちる何か(地上で言えば空気ですが)の比重に対<し、心が重たくて、自ずと沈んでしまう事になります。
同感です、その光(浮力)をカルマと考えてみて下さい
チベット仏教には転生の時は自分の光と同質の世界に転生するといった記述があります
・・・
ただ、仏教には絶対の「神」はいないんです
人格的「神」と言うより人間より知性が高く徳のある魂が「神」と呼ばれるようです(もちろん欲望の残っている神の事です)
ですので仏教では創造主は神ではありません、
したがって、因果の法則を作ったのは神とは説きません
「因果の法則」は作ったという考え方ではなく作用、反作用のようなものだと考えます、まあ、その作用、反作用も神という宇宙の意思みたいなものが創造したと言われればそうかも知れません
ここがキリスト教と相容れない神の定義だと思います
そしてこれこそが「宗教の世界統一」が無理という理由です
・・・
<私が思うに「本人の光量が増して、軽くなれば、いつでも上がれ<る」と思います。
その通りだと思います、
しかし、心は簡単には変わりません、と言うより変わるチャンスがなかったから地獄にいるんです{自分でチャンスを潰していても}
大川さんも何かの本で「盲亀浮木」の話をしています
<真理は→大海を漂う、目の見えない亀が流木の穴に遭遇する程の稀少な確率>
人間の世界でさえそうなんです、地獄にいればもっと確立は少ないでしょう
・・・
それにしても hikaru0827 さんは話をまとめる能力はすごいですね
hiraoka さんの聖書の解釈もとても納得できます
違う人の考えがこれほどまでに自分に影響を与えるとは思ってもいませんでした、感謝です!!
from: hikaru0827さん
2009年09月18日 15時03分26秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:地獄論」
地獄か、天国か、その行き先を決めるのは、視覚的、感覚的には、その人自身の心がどれだけ光輝いているか、その光の量と質が、左右するのでしょう。
この「光」に着目したいと思います。
光というものは、神の性質を強く現わしていて、同一性をも感じます。また、明るさや、暖かさといった性質を含有します。
全ての人は仏性を宿し、仏性が視覚的には光であるとするなら、その人の心の光が強くなればなるほど神に近づいていると、言えます。
逆に、よどみ、暗くなった心は、神の心から遠ざかった状態といえます。
地獄に落ちる人は、光が陰り、暗くなった状態だと思います。
それを踏まえ、地獄行き決定のシステムについてです。
その光には、浮力があると仮説を立てます。すると、光不足の人は、霊界空間に満ちる何か(地上で言えば空気ですが)の比重に対し、心が重たくて、自ずと沈んでしまう事になります。
芥川龍之介の蜘蛛の糸で、カンジダが握っていた糸は、彼が他人を蹴落とす心を起こした途端、切れました。その瞬間彼の心の重さが増加した事を示唆してるようにも思います。
またお釈迦様のこんな話もあります。
『ある男が、お釈迦様に詰め寄りこう言い放ちました。「皆が言うに、お前さんは、神通力があるらしいな。もしそれが本当なら、町に行って今実際に苦しんでいる人間を救えばいいじゃないか!」
お釈迦様は、やおら地面に落ちている小石を拾い、沼に投げ入れました。沈んでいった小石を見せて、そして、こう言います。
「小石は、私がずっと持っていれば沼に沈む事はない。しかし、放してしまえば今のように沈んでしまう。」男は納得し帰っていった。』
この話の意味は、
「その人を救うのは、その人本人である。」
「霊能力や超能力は重要ではなく、自己変革し心を改める事が大事だ」
という事だと思いますが、
「沈む小石は、自らの重さにより、自ずから沈む」姿は、人が地獄に落ちる姿と同じではないかと思えます。
つまり本人の光の量によって浮力が働き、浮く=天国行き、沈む=地獄行き、という現象が起こる、というのはどうでしょう。
皆さんがおっしゃるように、そういう仕組みを作ったのが神なら、結局は神が決めたと言えなくもありませんが…。
(しかし、神が世界を創造する時、天国に戻れなかった魂は、消滅するという設定にも出来たはずです。それを思うと、地獄はセーフティネットであり、とても有難いものだと思います。)
閑話休題、では次に何が光の量を決定しうるのか。影響するのか、という点を考えます。
もちろん自身の心の境地が神に近づけば、光量は増えるのは自然な事です。
問題は、その人の為した仕事、行為、もしくは想いが、本人の知らないどころで与えた社会や個人への影響です。
例えば、ダーウィンの進化論は、その考え方が世の中に及ぼした影響が悪すぎて、彼は地獄に行ったと言われています。心境になんら問題無くても、その仕事によって個人や社会に悪影響を与えた場合、どういう仕組みで地獄行きとなるのか…。
ここからは、完全妄想、半分冗談です。
守護霊は、自分の担当する地上に生まれ生きている人間の報告書作成の義務を負います。
さまざまある報告書の中、「社会影響管理図」もあります。
もちろん偽装は許されません。
その報告書と、本人の心の心境とを総合的に判断され、行先が決まります。
死後は、その報告書を受け取った「天の倉管理部」が、彼の仕事の社会への影響を吟味し続け、追加の光の付与もしくは、剥奪を行う。
…なんだかSF小説が書けそうです。
実際は、そんな面倒な作業がなくても、「分かる」のではないかと思います。
にしき鯉さんが、いつまで地獄に居ないといけないのか、という事を問われてましたが、私が思うに「本人の光量が増して、軽くなれば、いつでも上がれる」と思います。
禅宗において、前後裁断という言葉があります。昨日の自分、1時間前の自分、1分前の自分、そんなものに拘らず、今現在、この瞬間から、あなたは過去の自分から決別し、変われるのだ。覚悟し、自己変革せよ!という考えがあります。
原則的には、自己変革出来た時点、もしくは己の過ちに気付いた時に、地獄卒業だと思います。
300年という話は、覚えてないんですが、平均的な実情なんですかね?それとも地獄滞在最小単位というものがあったりするかもしれませんが・・・。
from: ueyonabaruさん
2009年09月18日 11時30分54秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:地獄論」
hiraokaさんへ
せいいっぱい頑張ったのでしょうが、ほんのちょっとの解釈違いがその後、信心するがゆえの苦しみ悩み疑問を多く作ってしまったと思います。
ここのところ、具体的にもう一度ご説明願えませんか。
from: hiraokaさん
2009年09月18日 01時09分54秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:地獄論」
みなさん、こんばんは。
>ueyonabaruさん
>そのとおりですね。因果律は神様の一側面に違いないでしょう。それでも慈悲の神、愛の神ということと両立させねばと思います。
このことは、時間空間と存在の根源的な疑問に直接関係があると思います。
時間と空間はは神の発明なのでしょうが、もし時空間のみしかなく、空間に存在する物がなければドラマは始まりません。
存在を在らしめている意思が、神の愛と云えるかもしれませんね。
>私の受け取りはすこし違います。旧約も新約も人格的な神ではないでしょうか。
ぼくも、ueyonabaruさんと同じ解釈です。
たしかにイエスは人格的なユダヤの神を考えていました。
それは、イエスと自分の子供の病気を癒す奇跡を求めてやってきたローマの婦人との対話のなかに見て取れます。
この部分は聖書に誤訳が入っているようです。
>聖霊に対する罪のくだりは、聖書のどこにあったでしょうか・・・
マタイ 伝の中に「・・・ 人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」 です。
>聖霊とはなんでしょうか、なかなか分かりずらいものがありますね。
以下に書く事は、まったくぼくの解釈です。何かの本に書いてあったことではありませんので、何の権威も証拠もありません。
当時、「科学」と云う概念はまったくありませんでした。天変地異も天候もすべての自然現象は「聖霊」の仕業と受け取られていました。
ちょうど、日本でも江戸時代くらいまでは、雷は「神 鳴る」のように、雷神さまが天で暴れるからと受け取られていたようにです。
おそらく、イエスも当時の人達もほぼ似たような解釈だったろうと思います。
キリスト教会の発足当時、父なる神とイエスは分かるとして、この「聖霊」と云うのをどう位置づけてよいのかなかなか分からず、会議でずいぶんもめたいきさつがあります。
結局のところ苦し紛れに会議で出した結論は、
「創造主としての父なる神、人の罪をあがなうために受肉したイエス、昔からよく言われている聖霊なる神」の、三っつにまとめました。
そして、これらは全体的な神の三っつの側面だとしたんです。
当時としてはしかたのなかったことであろうと思います。
「聖霊」が俗的な神と自然現象をごっちゃにしたものだったからです。
イエスの云った「聖霊に対する罪は許されない」と云うのは、「自然現象には逆らえない」と解釈すれば、とてもすんなりと腑に落ちます。
>旧約聖書との整合性をとるのにパウロなども苦労したと思うんですが、hiraokaさんは、この点を不適当だとおっしゃるのでしょうか。
パウロはもともと熱心なユダヤ教の信者でしたし、イエスの弟子を迫害してますし、直接イエスから教えを受けたこともありませんし、イエスの弟子達はばらばらになった後ですし・・・
そんなわけで、有名なパウロの改心の経験をしてからは、自分のなかでイエスを受肉した神と想像するしかなかったと思います。
せいいっぱい頑張ったのでしょうが、ほんのちょっとの解釈違いがその後、信心するがゆえの苦しみ悩み疑問を多く作ってしまったと思います。
>また、イエスの呼んだ神は、ブラ-フマンであったということでしょうか。
イエスはブラーフマンの側面を提示したと云うことです。
ヒンドゥー教は、一つひじょうに大切な良き伝統を繋げています。
それは、「梵我一如」を理想として連綿と続けているからです。
創造神と云う意味では、ユダヤの神もブラフマンも同じことを指します。
>> 「新約」と「旧約」の「約」の意味は、「神との契約」の「約」であることはご存知と思います。
> >このように、人としての道は変化するものだと思われますね。
> そう思います。
ueyonabaruさんも、そのように思われるならば、戒律を乱す罪はあんがいゆるいものと思って差し支えないかと、ぼくもそう思います。
つまり、推奨された表現(かくあるべし)としての戒律は、国の法律と似たような効果と限界をもっていると云うことでしょう。
>存在するものとはなにでしょうかと言えば、哲学的な話になってまいりますが、身近なことばで、存在するものとはなにでしょうか。悪も含むのでしょうか。
ぼくの考えでは悪も含みます。
身近なことばで存在するものといえば、まず第一にあげられるのは人間でしょう。
どんな人間でも、その存在を否定するものではないと強く思います。
その人に好意的かどうかは別問題であってその人の存在だけは認めてあげて、できたら尊重できるまでになるべきだと思っています。
多くの人達は直感的にそのことをすでに知っているがゆえに、「死ね」「消えろ」「失せろ」と短絡的に反応するのだと思っています。
ですから、もし霊言者でヒトラーや大川さんの存在を否定するようなことを言う人がいたとしたら、それは本物に近くない霊言者である証拠になると思います。
以前のueyonabaruさんの書き込みで大川さんの霊言のなかに「存在自体を消してしまうぞ」と云う高級霊がいたそうで、ueyonabaruさんも不審に思われたようですが、・・・・
ご安心ください。そんなことはぜったいにできません。
このことも、大川さんの霊言が大川さんの世界だと主張するぼくの根拠の一つです。
from: ueyonabaruさん
2009年09月17日 11時59分00秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:地獄論」
にしき鯉さんへ
> 地獄はどの位の期間いなきゃならないんでしょうか?(ROでは)
> 仏典ぬきにして論議したいと思います、
> 後、実際にueyonabaru さんやhiraoka さんが考える地獄はどんなものですか?(自分が絶対行きたくない世界を教えて下さい)
自分が絶対行きたくない世界を教えて下さい というのは面白い表現ですね。地獄ってホント恐くて行きたくありませんよ。地獄がどのようなものなのかは、感覚、直感で感じ取るしかないのだろうと思います。。霊感のある方々は、そこへ赴いて、直接見ることもできますが、我々には推察という手段しかありません。霊能力のあった方々は歴史上数々おられるわけですが、彼らの霊界見聞記を読み自分自身で地獄を考えるしかないでしょうね。古典的な地獄として、地の池地獄、火炎地獄、無間地獄等々多くのものがありますが、これらは馬鹿にしてはいけないようです。もっとも時代とともに、地獄も変化していくようでして、現在ではサラリ-マン地獄というものもあるようで、サラリ-マンをして苦労の多かったような人で地獄に行った人たちの世界もあるそうです。彼らは、地中に体を埋めており、頭だけを出している姿でいるが、何かあるとすぐにおびえて頭を地中にひっこめるという所作をするようです(大川先生)。
前にご紹介した日蓮正宗の地獄、極楽観ですが、日蓮上人の言葉にもあるように、どこかしこにあるというようなものではなく、己の心の内にあるとする考えですが、これは非常に気の利いた悟りの言葉として受け入れられるものではあります。しかし、これが地獄はない極楽もない、これらはすべてただ心の内の問題であるとしたならば、過つことになるでしょう。日蓮正宗や創価学会が即物的な思考をするように感じとれるのは、そのような、日蓮上人解釈からきているような気がします。
全て心の問題だとする考えは、他の仏教の宗派の中にも実際はあると思います。禅宗の僧侶の中にもあるし、宗教学者、仏教学者にもある考えなのでしょう。これらに対し、幸福の科学は霊的な存在として、地獄界があるとします。伝統の仏教、既存の仏教が霊的な世界を説くことを怠っているのを悲しく思います。ほんとに葬式仏教になってはおりませんか、そうでないお寺もあるようですが、信仰心から離れ教義解釈だけの仏教に成り下がってはおりませんでしょうか。
地獄について昔の人々は心から怖れ、日々自分を律したようです。現代人は、地獄を迷信として受け入れず、宗教から遠ざかっております。地獄がないと思っているんです。お陰で、地獄人口は増えるばかりとなっているようです。hikaru0927さんがおっしゃっているように、地獄論を言うと伝道の妨げになるのかという懸念もありますが、一般社会的にみればもっと地獄思想が広まればと思います。恐怖心をあおり宗教に引き込む作業はしたくありませんが、地獄もない極楽もない霊界もないというような世の中ではあって欲しくないですね。
地獄にいる期間はおよそ300年だと先生はおっしゃております。長すぎますか。例外もあるようです。霊界のことは、不思議なことが多く捉えようがないというのが私の実感です。
> 地獄から抜け出す方法というのはあるんでしょうか?
> <西郷さんは本来天上界に帰られるひとだったが、いまだに地獄に<居る人達を放ってはおけない彼のやさしさのために地獄界にみず<から行き共に苦しむ心やさしいひとです・・・」
> 本当に一緒に苦しめば地獄滞在期間は短くなると思いますか?
> なるとすれば理由を教えて下さい
地獄のことは感覚的、直感的に捉えてまいりますが、西郷さんが地獄にとどまり、自分の部下達をいとおしむのは、病人の介護のようなものではないかと思います。当然、プラスの効果がでると思われますが、画期的な効果があるとは思っておりません。
地獄から抜け出せるのは、過去の自分のあやまちを悟り、反省(懺悔)することが、最初の一歩であり、また、繰り返しなされる地獄での同じパタ-ンの争いから、ついには倦んでしまうという自分の心理状況も作用するようです。
from: ueyonabaruさん
2009年09月17日 10時44分27秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:地獄論」
hiraokaさんへ
> その後、西郷地獄説を思い出しました。
> ごく初期の頃、大川さんの本が出るたびに有料の研修会が開催されていました。
> 「坂本竜馬の霊言」講習で、善川さんが「西郷さんは本来天上界に帰られるひとだったが、いまだに地獄に居る人達を放ってはおけない彼のやさしさのために地獄界にみずから行き共に苦しむ心やさしいひとです・・・」
> と、云っていたと記憶していたのを思い出しました。
そうでしたね、思い出しました。近頃の先生のご本では天国におられるとのことを書いております。
> 仏教的に因果の理法によるのだったら、因果の理法は神が創ったのだから、間接的に神のさばきとなるかもしれません。
そのとおりですね。因果律は神様の一側面に違いないでしょう。それでも慈悲の神、愛の神ということと両立させねばと思います。
> イエスの云った父なる神を、人格的に解釈したのはパウロ以降のキリスト教会であって、
> イエスははっきりと「父なる神はすべてをお許しくださる。ただ、精霊に対する罪だけはだれも許されない」と云っています。
私の受け取りはすこし違います。旧約も新約も人格的な神ではないでしょうか。
聖霊に対する罪のくだりは、聖書のどこにあったでしょうか、お分かりなら教えてください。記憶を辿るのが面倒であれば、結構です。
聖霊とはなんでしょうか、なかなか分かりずらいものがありますね。聖霊に対するは罪は許されないというのですから、相当に大事な概念ですね。
> ぜひ、ぼくの主張をお考えください。
> キリスト教会の教えとイエスの云ったことを分けて考えていただきたいのです。
> たしかに、イエスはユダヤの神を念頭に置いていたとは思います。
> しかし、イエスの云う父なる神は仏教またはヒンドゥー教で云うブラフマン、またはイスラム教で云うア・ラーの事です。
キリスト教の教会は、イエスの教えを広めるために組織されますね。教義も、イエスの教えの解釈により教会ごとに決まってまいります。イエスの発した言葉をどのように解釈するかについても、教会により、個人により異なる場合があります。
旧約聖書との整合性をとるのにパウロなども苦労したと思うんですが、hiraokaさんは、この点を不適当だとおっしゃるのでしょうか。また、イエスの呼んだ神は、ブラ-フマンであったということでしょうか。
> 十戒のなかには、「神は男が女の服を着ることを好まず。女が男の服を着ることを好まず」と云うのもあります。
> わざわざ、こんなことを戒律に盛り込むということは当時にも結構な人数のそのような人達がいたと云うことにほかなりません。
> 現在、このような人達はその存在を法律的に分け隔てなく認められつつあります。
>
> 「新約」と「旧約」の「約」の意味は、「神との契約」の「約」であることはご存知と思います。
> このように、人としての道は変化するものだと思われますね。
そう思います。
> ぼくの結論を書かせていただきます。
>
> 「存在を否定する思考は地獄に通じる」
>
> なぜなら、存在する以上、それは神の内に在るものだからなんです。
>
> どうぞ、地獄論の考察を進めてください。
> 皆さんの意見に感心しながら、読んでいます。
存在するものとはなにでしょうかと言えば、哲学的な話になってまいりますが、身近なことばで、存在するものとはなにでしょうか。悪も含むのでしょうか。
from: にしき鯉さん
2009年09月15日 20時09分03秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:地獄論」
皆さん、いろいろな意見があって本当に考えさせられます
多くの違う意見があって戦わないで参考にする、これが今の宗教全体に必要な事かも知れません
・・・
地獄はどの位の期間いなきゃならないんでしょうか?(ROでは)
仏典ぬきにして論議したいと思います、
後、実際にueyonabaru さんやhiraoka さんが考える地獄はどんなものですか?(自分が絶対行きたくない世界を教えて下さい)
地獄から抜け出す方法というのはあるんでしょうか?
<西郷さんは本来天上界に帰られるひとだったが、いまだに地獄に<居る人達を放ってはおけない彼のやさしさのために地獄界にみず<から行き共に苦しむ心やさしいひとです・・・」
本当に一緒に苦しめば地獄滞在期間は短くなると思いますか?
なるとすれば理由を教えて下さい
from: hiraokaさん
2009年09月15日 01時22分45秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:地獄論」
皆さん、こんばんは。
地獄論について、まずはみなさんの意見を聴きたいと思っていましたが、お伝えしたくなりましたので書き込みます。
そのまえに、
忘れないうちに、西郷さんのことを先に書いておきますね。
その後、西郷地獄説を思い出しました。
ごく初期の頃、大川さんの本が出るたびに有料の研修会が開催されていました。
「坂本竜馬の霊言」講習で、善川さんが「西郷さんは本来天上界に帰られるひとだったが、いまだに地獄に居る人達を放ってはおけない彼のやさしさのために地獄界にみずから行き共に苦しむ心やさしいひとです・・・」
と、云っていたと記憶していたのを思い出しました。
さて、本題です。
>宗教を誹謗中傷したら、即地獄堕ちというわけでもないと思われます。
そうだろうと思います。
>それは、総合的に何ものかが判断すると思われます。
判断する何者かは、イエスの云うとおりだったら神は裁かないのですから、神ではないはずですね。
もしそうだったら、地獄に行くのは神以外の判断または理由によると云うことになります。
仏教的に因果の理法によるのだったら、因果の理法は神が創ったのだから、間接的に神のさばきとなるかもしれません。
>仏教的には、そうですが、キリスト教は人格的にこれを表現するということではないでしょうか。
イエスの云った父なる神を、人格的に解釈したのはパウロ以降のキリスト教会であって、
イエスははっきりと「父なる神はすべてをお許しくださる。ただ、精霊に対する罪だけはだれも許されない」と云っています。
また、イエスは「ひとは誰でも、撒いた種は刈り取らねばならない」と云っていますね。
これこそ、仏教の因果応報のことと解釈できます。
>しかし、モ-ゼの十戒もあることはあります。
ぜひ、ぼくの主張をお考えください。
キリスト教会の教えとイエスの云ったことを分けて考えていただきたいのです。
たしかに、イエスはユダヤの神を念頭に置いていたとは思います。
しかし、イエスの云う父なる神は仏教またはヒンドゥー教で云うブラフマン、またはイスラム教で云うア・ラーの事です。
十戒のなかには、「神は男が女の服を着ることを好まず。女が男の服を着ることを好まず」と云うのもあります。
わざわざ、こんなことを戒律に盛り込むということは当時にも結構な人数のそのような人達がいたと云うことにほかなりません。
現在、このような人達はその存在を法律的に分け隔てなく認められつつあります。
「新約」と「旧約」の「約」の意味は、「神との契約」の「約」であることはご存知と思います。
このように、人としての道は変化するものだと思われますね。
>あるいは、その何ものかは、我々のなかに存する善悪を識別する先天的な基準ではないでしょうか。我々一人一人の心の奥にそのような基準があり識別能力があり、これが自分自身を裁くのではないでしょうか。
まったくそのとおりだと、ぼくも賛同します。
ソクラテスの云うとおり、「我々はだれでも、善きものは何であるかを知っている」ですね。
ぼくの結論を書かせていただきます。
「存在を否定する思考は地獄に通じる」
なぜなら、存在する以上、それは神の内に在るものだからなんです。
どうぞ、地獄論の考察を進めてください。
皆さんの意見に感心しながら、読んでいます。
from: ueyonabaruさん
2009年09月14日 23時35分32秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:地獄論」
幸福の科学を誹謗中傷したら地獄へ堕ちるか、キリスト教を誹謗中傷したら地獄へ堕ちるか、法華経から外れたら地獄堕ちなのか、等々いろいろ言われております。
真理を誹謗中傷したら地獄へ堕ちる、その誹謗中傷も一時的でなく、恒常的にそのようなことをしたら地獄へ堕ちると言ってよいのではないかと思います。これは、間違っているからです。おっしゃるように、誹謗中傷するなかでもその人の心の状況も影響するのでしょう。宗教を誹謗中傷したら、即地獄堕ちというわけでもないと思われます。それは、総合的に何ものかが判断すると思われます。
その何ものかは何であるかというと、因果の理法ではないでしょうか。仏教的には、そうですが、キリスト教は人格的にこれを表現するということではないでしょうか。しかし、モ-ゼの十戒もあることはあります。
あるいは、その何ものかは、我々のなかに存する善悪を識別する先天的な基準ではないでしょうか。我々一人一人の心の奥にそのような基準があり識別能力があり、これが自分自身を裁くのではないでしょうか。
今はそのように考えております。ご意見を請います。
> よく「真理を誹謗中傷するものは地獄に落ちる」と言います
> 脅しではなく真面目に使ってる団体もあります
> 何故地獄へ落ちるんでしょう、考えてみませんか?
> ・・・
> ROが仮に真理の団体だとします(部外者なのでこういった書き方ですみません)
> ROを誹謗中傷した場合どんな因果応報があるんでしょうか?
> 神が制裁を加えるという事はないと信じてます
> その人の発言によって本来、縁があって新しい道を歩める人が遠ざかる事はあります、これは重いカルマになると思います
> 誹謗する時の心の状態も勝ちたい、つぶしてやりたいという気持ちが優先してるんじゃないでしょうか
> そして口からでる言葉は悪口のたぐいです
> これらが積み重なって地獄へ落ちる要因になるんじゃないでしょうか?
> ・・・
> もっと地獄へ行く「定義」みたいなのがあればわかりやすいですね
> cosmo77 さんは科学的に考えたいと言っていました
> 賛成です、科学というのは整合性、倫理性という意味で捉えました
> ぜひ、意見をお願いします
from: にしき鯉さん
2009年09月14日 19時27分02秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:地獄論」
よく「真理を誹謗中傷するものは地獄に落ちる」と言います
脅しではなく真面目に使ってる団体もあります
何故地獄へ落ちるんでしょう、考えてみませんか?
・・・
ROが仮に真理の団体だとします(部外者なのでこういった書き方ですみません)
ROを誹謗中傷した場合どんな因果応報があるんでしょうか?
神が制裁を加えるという事はないと信じてます
その人の発言によって本来、縁があって新しい道を歩める人が遠ざかる事はあります、これは重いカルマになると思います
誹謗する時の心の状態も勝ちたい、つぶしてやりたいという気持ちが優先してるんじゃないでしょうか
そして口からでる言葉は悪口のたぐいです
これらが積み重なって地獄へ落ちる要因になるんじゃないでしょうか?
・・・
もっと地獄へ行く「定義」みたいなのがあればわかりやすいですね
cosmo77 さんは科学的に考えたいと言っていました
賛成です、科学というのは整合性、倫理性という意味で捉えました
ぜひ、意見をお願いします
from: hikaru0827さん
2009年09月14日 16時23分19秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:地獄論」
> 大川さんは地獄をどんな所だと説明しているんでしょうか?
> 幸福になる方法があるとすれば不幸になってしまう方法もあるはずです
> 地獄がリアルに感じるほど幸福になろうとする原動力も強くなるんじゃないでしょうか?
> その意味でもこの地獄論は大切だと思います
地獄は、怖いところですよ、というのは脅しと取られるので、伝道の方法としては、難しいかなと思います。
「地獄」は「心の病院であり、リハビリセンター」だと思います。
生きている間に犯した罪や、心の塵を落とす為、一時的に滞在する場と、認識しています。
地獄も極楽も心の中にあるというのも、その通りだと思います。
しかし、死後、その心の様相と同じ世界に赴く事を信じます。
事務局さんの言われている、文証理証現証のくだりを聞いていると、目に見えるものしか信じない、と言ってるように思います。地獄があるなら、目の前に出せ、って事でしょうか。
しかし、目の前に有るものを、「有る」とするのは、事実の確認であって、信じるという行為ではありません。目の前に有るものの確認なら犬や猫でも出来ます。
見えないものを信じる事が出来るのは人間だけであり、だからこそ人間の尊厳というものがあるのだと思います。
彼らがしてるのは、「信仰」ではなく、「確認」です。
from: ueyonabaruさん
2009年09月13日 21時07分17秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:地獄論」
前段面白い表現ですね。
だれか私以外の方で、お応えをお願いします。1人しゃべりすぎてもどうかと思っております。
ここまできて、皆さんそれぞれ一家言おありであることを知り、楽しいです。そういえば2001aさんの声が聞こえませんが、いかがお過ごしでしょうか。
(にしき鯉さんの言)
> 大川さんは地獄をどんな所だと説明しているんでしょうか?
> 幸福になる方法があるとすれば不幸になってしまう方法もあるはずです
> 地獄がリアルに感じるほど幸福になろうとする原動力も強くなるんじゃないでしょうか?
> その意味でもこの地獄論は大切だと思います
> ・・・
> ただ一つ気になるのはキリスト教のヘルと仏教の地獄では少し意味が違うと思うんですが大川さんはどのように解釈しているんでしょうか?
> ROを理解するためにも教えてください、お願いします
from: にしき鯉さん
2009年09月13日 19時09分30秒
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「Re:Re:Re:Re:地獄論」
大川さんは地獄をどんな所だと説明しているんでしょうか?
幸福になる方法があるとすれば不幸になってしまう方法もあるはずです
地獄がリアルに感じるほど幸福になろうとする原動力も強くなるんじゃないでしょうか?
その意味でもこの地獄論は大切だと思います
・・・
ただ一つ気になるのはキリスト教のヘルと仏教の地獄では少し意味が違うと思うんですが大川さんはどのように解釈しているんでしょうか?
ROを理解するためにも教えてください、お願いします
from: ueyonabaruさん
2009年09月12日 22時06分57秒
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「Re:Re:Re:地獄論」
にしき鯉さんへ
> 日蓮は天台チギの五時八教を元に理論が展開していますがこれは分類しただけでどれが正しい、どれが間違っているという分け方ではありませんでした
天台チギは分類しただけだという意味でしょうか?
from: ueyonabaruさん
2009年09月12日 21時55分36秒
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「Re:Re:Re:地獄論」
私は、まず、この事務局氏のおっしゃることを肯定してみたいのです。間違っているとは思えません。皆様はいかが思いますか。
私が、「幸福の科学研究会」を退会したのは、創価学会のような論理を先方が展開してきたからなんです。日蓮以外は認めないとの固まったものがあるように感じ取ったからなんです。リアリスさん(かつて、このブログにいた方)を通じて知ったところでは、この事務局氏は日蓮正宗の幹部のようです。リアリストさんは、日蓮正宗を正法であると思うとも言っておられましたので、この宗教のシンパなのでしょう。
不可侵条約を結んでおりますので、どうぞ皆さん、ご自分の自由な意見を、思いを発表してください。地獄はあるのか、どこにあるのか、どんな感じなのかザックバランに語り合いませんか。
顕正会と日蓮正宗は同じものですか?
> ueyonabaru さんへ
> 面白いです、興味ある内容です
> ・・・
> ①は宗教を信じる者と信じない者の話ですね、これは体験で解決します、たとえばあるマントラ(真言)を唱えながら呼吸を整えると鐘の音が聞こえます、これはキチンとしたやり方で行えば誰でも聞こえます(近くに鐘など置かなくても)
> 自分がそれを体験できた時、空耳ですます人か、何かあるんじゃないか?と疑問を持つ人の違いです
>
> 地獄に対する考えは保険みたいなものではないでしょうか?
> 人間は80年位しか生きられません、もし地獄がなかったらその内の何年かをムダに過ごすだけです、ですがもし地獄があったとしたらどうでしょう、仏典では気が遠くなるくらい長い時間地獄にいると書いてあります、リスクの度合いを考えてもあると考えた方が無難です、転生も同じです、あるとしたら死後の世界の知識も入れて準備しておかないと大変な事になります
> ・・・
> ②の事務局という方の考え方は創価学会か顕正会の考え方ですね
>
> <文証:文献上の証拠があること
> <理証:その文献に書かれていることが、理屈に合っているか
> <現証:その宗教を信じその信じる原因により、現実生活にその効<果が現れるこ
>
> 法華経の文献が歴史上、間違っていると指摘しても認めない
> 日蓮の攻撃性を色濃く受け継いだ団体です
>
> <・・では、この世で悪いことをして逝去した場合はどうなるの
> <か?
> <「地獄界」へと堕するのであります。しかしこの地獄という概念<は仏教では、あなたの言う「地獄という世界」では決してありま<せん。・・・永遠に苦しむ「生命の状態」を指すのであり、これ<を仏教では「地獄」というのであります。
> ↓ ↓
> どの場所で永遠に苦しむのですか?と聞きたいです
> ・・・
> 「声聞界」の説明も学会独特の解釈です
> 日蓮宗では心の境界を十に分けて表します(十界互具)
> それが心に内在してるので高い世界に意識を合わせなさいという教えです(その教えそのものは間違ってないと思います)
> しかし、仏典では声聞は「教えを聴聞する者」で四つの目標、四つの結果を表した世界とウィキペディアでも書かれてます(四向四果)ようは心のレベルを指した言葉です
> ・・・
> 日蓮は天台チギの五時八教を元に理論が展開していますがこれは分類しただけでどれが正しい、どれが間違っているという分け方ではありませんでした
>
> 日蓮が時の権力者に迫害されたのは事実です
> しかし、「真の仏法」かどうかではなく「立正安国論」(法華経を国の宗教にしろ)の手紙を北条氏に出したからです
> かなり強引な文面だったのでこの時からマークされていました
> 奇跡はあったようですが「奇跡が起こるのは正しい仏法だからだ」というのが創価学会の言い分です
> ・・・
> こう書くと日蓮は悪い僧侶のように聞こえますが当時、他の宗派は権力と結びついていて民衆のために真剣に法は説いてなかったんです、それを仏教は民衆のためにあると言って布教したのが日蓮です
> 私は日蓮は努力家であり秀才で仏教の歴史の中で「刻印」を残した人だと思っています
> その時代は日蓮のような方が必要な時代だったと思います
> 誤解されると困るので補足しました
>
>
>
>
>
>
from: にしき鯉さん
2009年09月12日 20時05分49秒
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「Re:Re:地獄論」
ueyonabaru さんへ
面白いです、興味ある内容です
・・・
①は宗教を信じる者と信じない者の話ですね、これは体験で解決します、たとえばあるマントラ(真言)を唱えながら呼吸を整えると鐘の音が聞こえます、これはキチンとしたやり方で行えば誰でも聞こえます(近くに鐘など置かなくても)
自分がそれを体験できた時、空耳ですます人か、何かあるんじゃないか?と疑問を持つ人の違いです
地獄に対する考えは保険みたいなものではないでしょうか?
人間は80年位しか生きられません、もし地獄がなかったらその内の何年かをムダに過ごすだけです、ですがもし地獄があったとしたらどうでしょう、仏典では気が遠くなるくらい長い時間地獄にいると書いてあります、リスクの度合いを考えてもあると考えた方が無難です、転生も同じです、あるとしたら死後の世界の知識も入れて準備しておかないと大変な事になります
・・・
②の事務局という方の考え方は創価学会か顕正会の考え方ですね
<文証:文献上の証拠があること
<理証:その文献に書かれていることが、理屈に合っているか
<現証:その宗教を信じその信じる原因により、現実生活にその効<果が現れるこ
法華経の文献が歴史上、間違っていると指摘しても認めない
日蓮の攻撃性を色濃く受け継いだ団体です
<・・では、この世で悪いことをして逝去した場合はどうなるの
<か?
<「地獄界」へと堕するのであります。しかしこの地獄という概念<は仏教では、あなたの言う「地獄という世界」では決してありま<せん。・・・永遠に苦しむ「生命の状態」を指すのであり、これ<を仏教では「地獄」というのであります。
↓ ↓
どの場所で永遠に苦しむのですか?と聞きたいです
・・・
「声聞界」の説明も学会独特の解釈です
日蓮宗では心の境界を十に分けて表します(十界互具)
それが心に内在してるので高い世界に意識を合わせなさいという教えです(その教えそのものは間違ってないと思います)
しかし、仏典では声聞は「教えを聴聞する者」で四つの目標、四つの結果を表した世界とウィキペディアでも書かれてます(四向四果)ようは心のレベルを指した言葉です
・・・
日蓮は天台チギの五時八教を元に理論が展開していますがこれは分類しただけでどれが正しい、どれが間違っているという分け方ではありませんでした
日蓮が時の権力者に迫害されたのは事実です
しかし、「真の仏法」かどうかではなく「立正安国論」(法華経を国の宗教にしろ)の手紙を北条氏に出したからです
かなり強引な文面だったのでこの時からマークされていました
奇跡はあったようですが「奇跡が起こるのは正しい仏法だからだ」というのが創価学会の言い分です
・・・
こう書くと日蓮は悪い僧侶のように聞こえますが当時、他の宗派は権力と結びついていて民衆のために真剣に法は説いてなかったんです、それを仏教は民衆のためにあると言って布教したのが日蓮です
私は日蓮は努力家であり秀才で仏教の歴史の中で「刻印」を残した人だと思っています
その時代は日蓮のような方が必要な時代だったと思います
誤解されると困るので補足しました
from: ueyonabaruさん
2009年09月20日 14時34分20秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:地獄論」
hiraokaさんへ
> プラトン、ソクラテス、イエス、ブッダは自分の前言と矛盾することを行った記録はありません。
> ですが、すでにお伝えしたように大川さんは自分の前言と大きく矛盾する行動を現在行っています。
> 孔子は「過ちて改めざる、是を過ちと云う」
> ならば、大川氏には初期の頃に言っていたことと現在が違う理由を述べていただきたい。
> 大川氏の矛盾は歴然と残っています。
> このままでは、後の世の人達は大川氏を捨象せざるを得ません。
>
> このブログを見た事がありますでしょうか?
> http://blogs.yahoo.co.jp/ornouso
上のブログを読んでみました。確かに、そのとおりだと思う点が多くあります。このブログで言われていることが私の悩みであることは、ご承知のことと思います。
ここでは、霊界事情などからの大川批判が中心ですが、他の分野、哲学、仏教などの観点からの批判が少ないようです。
憲法論からの批判がありますが、これに対しては、そのまま受け入れるわけにはまいりません。もっと専門的な掘り下げが欲しいです。大川先生は憲法草案について、コンパクトにまとめることに腐心したということを述べておられますが、他のブログでは、これぐらいの分量しか書けないのかという具合に批判するわけで、これではまったく噛み合っておりません。
ただひたすら大川隆法を悪く言えば良いというものでもないでしょう。良き批評は相手を愛し理解することから生まれるはずです。そのような批評精神は全くないように見受けられます。霊言だけから批判をするだけでも足りないと思うんです。大川隆法の他の側面もよく理解した上で暖かい目で見るのが良き批評家のたしなみでしょう。彼の哲学者、仏教者として見たらどうなのかという観点です。
私はご紹介いただいたブログ氏のおっしゃることに反論はありません。そのとおりです。困ったことです。また、何らかの予言をしてそれが外れるということが続くのを怖れます。
大川隆法の一面を非として、全てを否定することをしようとは思いません。霊言が間違っていたとして、他の霊言を持ち出すのもやりたくありません。霊のことは私にはよく分かりません。大川隆法以外に相当な霊能力者がおり、彼がどのように言うのか聞いてみたいものです。残念ながらそのような方はおられません。大川隆法の分からない霊界のことであっても、私の心を打つものも多いというのが実情です。
彼の他の側面、すなわち哲学や仏教思想の分野での批判があればと思います。大川隆法と哲学者の議論、もしくは仏教者との議論があればと思います。そのときにはまた、反対論をおっしゃる方がどれぐらいの力量があるのかということも、第三者の目にさらされることになるでしょう。
幸福の科学信徒としては、大川先生を護る立場があり、反対者の意見を折伏してゆくことは当然ですが、こちらサイドに非があるとなれば、潔く白旗を揚げるつもりです。
> ここの管理人は、ぼくよりはるかに真摯に幸福の科学について検証を行っていますよ。
>
他の反対ブログに比べ、穏健であり、管理者自信が本も読んでおられるようでもあり、好感はもてます。でも、まだ私が信頼できる域にはありません。ブログ氏が引き合いに出された、チャンネル桜の論客である高森さんの力量も若干疑っております。単純すぎます。やはり、良き批評は相手のことを相当に勉強してからなされるべきなのでしょう。皆さん急ぎすぎです。大川隆法をやっつけるのはそう簡単にはにはいかないはずですよ。長時間かけて勉強して、それから攻撃を開始しなければ、ただ彼の欠点をあげつらうだけに終わってしまうでしょう。
すぐれた大川隆法批判がでれば、どうぞ読ませてください。
追伸: hiraokaさんへこのお便りをしてから、再度先ほどのブログをいろいろと見ましたが、ガッカリしました。それほどのものではないですよ。むしろ、hiraokaさんの反大川論を聞かせてください。
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