サークルで活動するには参加が必要です。
「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
※参加を制限しているサークルもあります。
-
from: にしき鯉さん
2009年10月02日 21時24分01秒
icon
無題(よそのブログから)
今日、cosmo77さんが提示したブログを読んでいました
http://blog.goo.ne.jp/mryupa/e/87044f59e5a58ef37a3dce848e8783f2
ここで8月27日のコメントを読んでびっくりしました
「戦いは仏教思想に反しないの?」の題で書いてあった内容です
「国家の気概 」という大川さんの本からの抜粋でした
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以下、大川さんの話のコピーです
この弱点自体は、釈迦の時代からありました。この思想のために、釈迦族は、ほぼ全滅しています。出家して僧侶になっていた約五百人は生き延びましたが、残りの人たちは、ほとんど殺されました。釈迦族は、他国に攻められた際に、仏教思想が弘まっていて争わなかったために滅びているのです。
不殺生(アヒンサー)の思想を説いたのはよいのですが、相手が殺生をしてくる場合についての考え方が十分ではありませんでした。その結果、釈迦国は、慈悲を説き、平和を説いている宗教を信仰していたにもかかわらず、大量虐殺に遭って滅びてしまったわけです。
やはり、「原始仏教には思想的に欠陥がある」と見るべきであり、修正をかける必要があると思います。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
これは大川さんが防衛論を説明した時の話らしいですが完全に信徒に対して間違った印象を与えてます
大川さんの防衛論を推奨するために間違った仏教感を植えつけてはいけません
まず、釈迦は「不殺生」は説きましたがそれと釈迦族が滅ぼされたのは関係がありません
パセーナディ王の子と釈迦族の怨恨が原因です、それに釈迦は3回侵攻を止めていますが4度目であきらめています
血統を重視する釈迦族のエリート意識がパセーナディ王をだました事が一番の原因です
ここのオーナーのゆ〜ばさんも大川さんの話を歴史的事実と言っています(だから正しいんだとも)
この頃釈迦はすでに釈迦族とは離れていて政治にも参加していませんでした、それをあたかも釈迦が「不殺生」を説いたから抵抗しないで全滅させられたという言い方は原始仏教を誤解させます
大川さんは防衛論を語る上で「理論のすり替え」をしました
ueyonabaruさんはこの本を読んでいると思います
私も防衛に関してはROの方と同じ考えの部分がありますが歪曲した方法を使ってはいけません
自分の思想を通すのにマジックを使うのは「方便」とはいいません
ueyonabaruさんの意見を聞かせて下さい
コメント: 全16件
from: hiraokaさん
2009年10月14日 01時33分08秒
icon
「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:無題(よそのブログから)」
みなさん、こんばんは。
>ueyonabaruさん
>> ぼくたちには、「群盲、像をなでる」と同じことしかできないのです。
>これは、先端の極小の物質の世界の現象をいっておられるのでしょうか。
いえ、どんな場合でもです。極微であっても極大であっても、人間の視点であっても、どんな意識であってものはずです。
>> この原則は、どんな人にでも当てはまるのです。
>> 釈迦、イエス、ソクラテス、孔子、・・・・大川隆法・・・、ueyonabaruさん・・・、ぼく・・
>> いまだかつて、そしてこれからもおそらく「真実・真理」のイデアを発言・表現できる人は居ないはずです。
>もっと分かりやすく言っていただけますか。
ゾウ(真理)を良く知っている人が、ゾウ(真理)をまったく知らない人にその説明をするとしましょう。
現代であれば、写真・動画を見せ生態の記録を語り、まったく知らない人にかなり詳しく伝える事ができるようにはなりました。
しかし、それですべて解決したわけではありません。
まず、ゾウを良く知る人はゾウの凡てを知っているわけではないこと、・・・・
さらに、ゾウを良く知る人は自分の知ったことを他の人に正確には伝えられないこと・・・
さらに、ゾウを知らない人にとっては、かならず自分の知っていることをとおしてでなければ、理解しえないこと、・・・・
このようなことは、いくらコミュニケーションが発達したとしても理想にはほど遠いわけです。
釈尊も、自分の見てきた涅槃体験を人に伝えようとしても、まず無理であったはずでしょう。
イエスの云う「愛なる父」も同じであろうと思います。
四大聖人の云うことは、すべて違います。
しかし、僕らは言葉としてはバラバラであるのに、そこに「真理があるようだ」と感じ取ることができます。
これをこそ、プラトンはイデアと名づけたのだと思われます。
戦場で勇ましく戦うのも「勇気」、戦場を退却する決断も「勇気」
行動・表現としては真反対ですが、ぼくたちは「勇気」と云うイデアをそこに認めるわけです。
しかし、表現としてはその時ひとつしか選べないのです。
>無理して信じようとしているわけではないのです。分からないことが、一生続くかもしれないと思うんです。そのままほっておくのも一つの知恵だとのご意見もありますので、私の場合もそうするしかありません。
おっしゃるとおりですね。
どこまで行ってもわからないのでしょう、きっと・・・・。
さらに、どこまで行っても分からないのか? いつかは分かるのか?、それも分からないんですねぇ・・。
>昔の国の防衛論については語りません。当時の状況はあまり知りませんので、またあの地域の歴史もあまり知りませんので、私が大川先生の弁護論を展開することは不可能です。
ぼくも同じく推論をして判断を選び取っているに過ぎません。
歴史学者もそうなんです。
ueyonabaruさんが、「まず大川さんの弁護論を無意識に選び取っている」事を指摘しているのです。
ueyonabaruさんは、「イデオロギー史観はよくない」と発言されていました。
まったく、その通りであります。
おなじく、「仏教国がイスラム教に侵略された」、・・・・これも、イデオロギー史観の轍を踏んでいるのです。
はたして、それは仏教の防衛論の欠如によるものでしょうか?
じっさいには、仏教国と云っても7〜800年以上は経っているはずです。
そうなれば仏教の意味もほとんどわからなくなっていますし、・・・
第一、仏教をなんとなく国是にしている国がほとんどなんです。
アショーカ王が仏教を国是にしたと誤解されていますが、じっさいには凡ての宗教を認めているんです。
大川さんの云う、「小乗仏教防衛論欠如が国を滅ぼした」は、「濡れ衣」あるいは「牽強付会」としかいいようがありません。
しかも、大川さんはこの発言によって、さも「自分は釈尊の生まれ変わり」であるかのようなニュアンスを信者さんたちに投げかけています。
こういう大川さんの「断言」によって信者さんたちは、自分の思考の責任を回避し神格化したものにゆだねてしまうのです。
>宮沢賢治の幸せな神秘的な世界は多くのファンをもっておりますね。私は、この人のようになりたい願望があります。
宮沢賢治については、大川さんは最初あまり肯定的な評価をしていなかったと思います。
「彼もほんとうは、この運動のさきがけになるはずの人でした。」(注・・・はっきり、思い出せません)
ぼくは、大川さんの初期のころの世界観からたいへんに大きな恩恵を頂きました。
そのことについては、とても感謝をしております。
たしか、大川さんは宮沢賢治をあまり評価しなかったと思います。
それで、ぼくも盲目的に宮沢賢治のランク付けを下げた覚えがあります。
教団から離れた後に、宮沢賢治の研究家の書いたものを読み、さらに人からも教えていただき、宮沢賢治のランク付けを上げたいきさつがあります。
この私的な自分の体験をもってしても、自分が神格化してしまった人の言葉をそのまま受け入れるのは大変にまずいことであるかを、身をもって感じ入ります。
>むかし、小林秀雄と岡潔の対談があり、新潮社から出版されましたが、その本はお読みになりましたか?懐かしいお二人です。
すみません、読んでいませんです。
ぼくが、大川さんを「友達」として遇することを薦めるネタ本をここでバラシておきますね。(*^_^*)
「神との友情」ニール・ドナルドウォルシュ著を応用しました。
hikaruさんが、「そんなことできるのはhiraokaさんくらいではないですか」と評価してくださいました。
ありがたくhikaruさんの評価をいただきますが、・・・・
意外にも簡単なんです。
まず、同胞付き合いできるのはこの世に同時代に生まれた人たちの特権でもあります。
イエスと同時代を生きてイエスを評価したのは、信者と弟子とマリアと妹くらいのものです。
孔子は父親からは理解されませんでしたし、クサンチッペも同じでしょう。
釈迦にいたっては、ほとんんどの人が理解できなかったであろうと思います。
それで、いいんです! そういう、ひとたちが必要なんです。そういうひとたちのおかげで真理があぶりだされてくるんです。
大川さんを神格化しない人たちは、「信者でない人たち」ともう一つの集合があります。
ほかでもない、「大川さんと身近なひとたち」です。
きょう子さんやお子さん達は、けっして大川さんを「神格化」しないでしょう。
さらに、大川さんを個人的に知る人たち、このひとたちも「神格化」しないはずです。
教団幹部の人たち、お世話をするひとたち、同窓生、家族、親類縁者、近所の人たち・・・・・・
イエスは「預言者、故郷に入れられず」と嘆きましたが、・・・・
これは、どちらも真実なんです。
近くで見ればそうなるんです。
ぼくたち大川さんから遠くにある人たちは、大川さんを「神格化」するがゆえに、さらに大川さんを遠ざけているのです。
ぼくらは、遠くに置くことによって「神格化」の認識をしたいのです。
>如来界の音楽家は、若干難しいところがありますね。マ-ラ-の大きな騒音のような部分はいまだなじめません。
大川さんが評価したからと云って、むりになじもうと思っているからなんですよ。
大川さんは初期のころにマーラーを評価しました。
おそらく、そのときの大川さんの評価だったはずです。
大川さん云うことは、おそらくマーラーの未完の交響曲第10番だったかなんだったかを想像してのことだったはずです。
彼の未完の交響曲は天界を表すものでした。
そのイメージを拝借しただけのことだろうと思います。
ぼくは見ていませんが、「ベニスに死す」と云う映画があります。
マーラーを題材にしたものです。
彼は「少年愛」の衝動に翻弄されていました。
映画もそれを強調していたようです。
はっきり云って、著名な音楽評論家も「マーラーは病的」といいます。
そこが、いいところでもあるのですが・・・・・・。
たしかに未完の交響曲はスバラシイです。
イメージしながら聞くと天界の雲に中にただようような至福感を覚えます。
ですが、これは古典インド音楽の伴奏楽器で常に鳴り響くタンブーラと同じもののように思えます。
東洋がすでに知っていることを、西洋が再発見したようなものです。
>ジャズは詳しくないのですが、中には地獄的なものもあるということを先生はおっしゃっておりましたね。
大川さんのこの言葉で、ぼくは音楽観を再構築しました。
そして、いまあらたに再・再構築しなおしました。
大川さんはジャズの初期の頃のブルースのことを云っていると思います。
「非常に悲しみを表したジャズなどは・・・・」と云っていました。
ビリー・ホリデイの「奇妙な果実」(Strange Fruits ,処刑された黒人の首吊り死体のこと)などを連想して言っていると思われます。
たしかに、地獄的あるいは天国的な音楽はあります。
しかし、地獄があるからこそ天国が相対的に浮き上がってくるんです。
from: ueyonabaruさん
2009年10月13日 15時32分49秒
icon
「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:無題(よそのブログから)」
hiraokaさんへ
> これも、非常に大切な事ですね。
> 先日のぼくの主張と重なるのですが、・・・
> 「真実は真実ですし、真理は真理」の意味をよくよく考えてみてください。
> なんと、「真実も真理も、それを表したと同時に一つではなくなるのです。
> 「そんな、バカな!」と思われるかもしれませんが、じつはそうなっているのです。
>
> これが、霊界と現実界の関係のカラクリなんです。
> 現実界は、時間と空間があるためにそうなってしまうんです。
> 「真実は真実、真理は真理」と云えるのはあくまでも「イデア界」での事なんです。
> 現象界に生きる限り、「真実は真実、真理は真理」として発言・表現・解説されたとたんにそれは、「真実は真実、真理は真理」のある一面だけになってしまうんです。
> ぼくたちには、「群盲、像をなでる」と同じことしかできないのです。
これは、先端の極小の物質の世界の現象をいっておられるのでしょうか。
> この原則は、どんな人にでも当てはまるのです。
> 釈迦、イエス、ソクラテス、孔子、・・・・大川隆法・・・、ueyonabaruさん・・・、ぼく・・
> いまだかつて、そしてこれからもおそらく「真実・真理」のイデアを発言・表現できる人は居ないはずです。
もっと分かりやすく言っていただけますか。
> 大川さんの発言・表現の良いところだけありがたくいただいておいて、
> 大川さんの発言・表現の「不思議だ!。そうなんだろうか? わからない!」と云う部分を無理に信じようとするのが、「信仰の本当のすがた」ではないと思うのです。
> このことは、まえにhikaru0827さんが、ぼくを代弁して書いてくださった通りなんです。
無理して信じようとしているわけではないのです。分からないことが、一生続くかもしれないと思うんです。そのままほっておくのも一つの知恵だとのご意見もありますので、私の場合もそうするしかありません。
> 言葉の表現の限界のために、信者さんから見れば僕を敵と見たくなる人も多いかと思いますが、ぼく自身はみなさんの味方だと思ってるんです。
言葉の限界はありますね。
昔の国の防衛論については語りません。当時の状況はあまり知りませんので、またあの地域の歴史もあまり知りませんので、私が大川先生の弁護論を展開することは不可能です。
> >岡潔、宮沢賢治が菩薩界におり、小林秀雄が6次元神界にいるというのも、私の見方からすれば、その逆ではないのかと思います。
>
> 大川さんは一種の評論家もやっているのだと見れば、「ああ、そういう見方もあるんですね」と認められるでしょう。
これは、肯定も否定もできない私の知らない分野のことです。ただ、示されている次元の考え方を基に推量をするだけですが、小林秀雄が神界におり、宮沢賢治が菩薩界にいるというのは、宮沢賢治が愛の実践家の面があったことによるのかも知れないな-と、一人がてんをしております。宮沢賢治の幸せな神秘的な世界は多くのファンをもっておりますね。私は、この人のようになりたい願望があります。
むかし、小林秀雄と岡潔の対談があり、新潮社から出版されましたが、その本はお読みになりましたか?懐かしいお二人です。
> >音楽界でいえば、バッハ、ヘンデル、ハイドン、マ-ラーが如来界の人方々で、モ-ツアルト、ベ-ト-ベンは菩薩界、ショパンは梵天界の方となっておりますね。
>
> 格付けランキングを表現すれば、まあ大川さんのランキングと、ぼくのランキングは似ていなくもありませんね。
> モーツァルトはもうちょっと上げてあげてもいいかな? とは思いますけど。 (*^_^*)
> この調子で大川さんが「地獄音楽」と評したジャンルの音楽家たちは、・・・・怒るでしょうねぇ。・・・・
私が好む作曲家は、モ-ツアルト、ベ-ト-ベン、ショパンです。人気のある作曲家達ですね。いずれも菩薩界あたりの方々です。ショパンはマズルカも好きです。
如来界の音楽家は、若干難しいところがありますね。マ-ラ-の大きな騒音のような部分はいまだなじめません。しかし、交響曲1番「巨人」のある楽章はとてもとても好きです。静かで、力強く、悲しいようで幸せ感にあふれているようで、なんともいえない不思議な感動を覚えます。
わたしは、クラッシックのファンでもあります。
ジャズは詳しくないのですが、中には地獄的なものもあるということを先生はおっしゃっておりましたね。
from: hikaru0827さん
2009年10月08日 19時37分34秒
icon
「Re:Re:Re:Re:Re:無題(よそのブログから)」
ueyonabaru さんへ・みなさんへ
> 疑問という言葉が私は好きです。疑うだけでは、その対象を否定するイメ-ジがあり、疑問となると、疑い且つ問うの意味が加わり、対象の真偽を吟味するというニュアンスがあるように思います。
以前に、発言したことがありますが、もう一度書かせてもらいますね。
私の思う、
「疑問と、三毒に数えられる疑との違い」
は、その対象によるのではないか、と思います。
つまり、対象が「人間性」である場合は、それを否定するのが「疑」であり、
対象が「行動や考え方」などの場合、その真偽を探究するのが「疑問」かと思っています。
例文でニュアンスを確認してみます。
( )内、どちらが自然でしょう。
●子供の担任教師の、教育方針 (に疑問を持っている・を疑っている)
●子供の担任教師は、一部の生徒をひいきしている。お金をもらっているかもしれないと (いう疑問がある・疑っている)
●彼のミスで、私の仕事にも遅れが出た。彼の担当業務についての適正に (疑いがある・疑問がある)
●彼のミスで、私の仕事にも遅れが出た。これは彼の嫌がらせではないかと (疑っている・いう疑問がある)
どうでしょう。分かりにくいですかね。
「罪を憎んで、人を憎まず」という言葉がありますよね。
この「罪を憎む」の部分が、「行動や過ちに対して疑問を呈する」であり、
「人を憎まず」の部分が、「その人の人間性まで否定してはいけない、疑ってはいけない」という事だと思っています。
要するに、
「罪を憎んで、人を憎まず」は、
「疑問を持つのは良いが、疑は良くない」
を表しているように思います。
from: hiraokaさん
2009年10月08日 00時43分45秒
icon
「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:無題(よそのブログから)」
みなさん、こんばんは。
>ueyonabaruさん
>幸福の科学の信者であってもそうでなくても、真実は真実ですし、真理は真理です。だれが説こうと、真理は真理であるはずです。
これも、非常に大切な事ですね。
先日のぼくの主張と重なるのですが、・・・
「真実は真実ですし、真理は真理」の意味をよくよく考えてみてください。
なんと、「真実も真理も、それを表したと同時に一つではなくなるのです。
「そんな、バカな!」と思われるかもしれませんが、じつはそうなっているのです。
これが、霊界と現実界の関係のカラクリなんです。
現実界は、時間と空間があるためにそうなってしまうんです。
「真実は真実、真理は真理」と云えるのはあくまでも「イデア界」での事なんです。
現象界に生きる限り、「真実は真実、真理は真理」として発言・表現・解説されたとたんにそれは、「真実は真実、真理は真理」のある一面だけになってしまうんです。
ぼくたちには、「群盲、像をなでる」と同じことしかできないのです。
この原則は、どんな人にでも当てはまるのです。
釈迦、イエス、ソクラテス、孔子、・・・・大川隆法・・・、ueyonabaruさん・・・、ぼく・・
いまだかつて、そしてこれからもおそらく「真実・真理」のイデアを発言・表現できる人は居ないはずです。
大川さんの発言・表現の良いところだけありがたくいただいておいて、
大川さんの発言・表現の「不思議だ!。そうなんだろうか? わからない!」と云う部分を無理に信じようとするのが、「信仰の本当のすがた」ではないと思うのです。
このことは、まえにhikaru0827さんが、ぼくを代弁して書いてくださった通りなんです。
> このブログでの論戦も勉強の一つですから、論戦の勝ち負けにとらわれず、その中で得られるなにかがあればと思います。
おっしゃるとおりです。
ぼくはこのブログでueyonabaruさんから、ぼくの発言をさせてもらっていることにとても感謝しています。
言葉の表現の限界のために、信者さんから見れば僕を敵と見たくなる人も多いかと思いますが、ぼく自身はみなさんの味方だと思ってるんです。
>hiraokaさんの仏教における防衛論、なかなか説得性のあるものではありましたが、反論もあります。釈迦族が武人の集団であったからといって、防衛論があったとは必ずしもいえません。
ueyonabaruさんが、そのように反論をされるかも知れないことを憂慮して、大川さんの話を、1)と2)に分けたのです。
このことについては、にしき鯉さんがすでに指摘されているので分かっていらっしゃると思いますので、別の観点から述べます。
>隣国から攻められたときに必要な武器は十分であったか、小国であるから別の力のある国との集団安全保障は図っていたのか、外交は適切であったのか等々色々の観点からのチェックが必要になります。
ぼくの書き込みに一部かいてありますが当時の事情をもう少し書きます。
釈迦族を滅ぼしたビドゥーダバは、クーデターに近い王権奪取をしてすぐに釈迦族への怨恨晴らしを始めたのです。
それまでは、二大国とコーサラ国は安定状態でした。
仏典では、釈尊がビドゥーダバの行軍の来る街道にひとり座禅を組み、それに気付いたビドゥーダバをさとして兵を引き返させたいきさつが、二度あるそうです。
釈尊は、どうしても変えられない怨恨の宿命を洞察していたようです。
もとはと云えば、長老マハーナーマーの失策が原因なのですが、マハーナーマーは入水してその原因の結果をみずから刈り取りました。
新王ビドゥーダバは、伯父であるマハーナーマーの献身を見て自分の所業を少しは後悔します。
釈尊は、近親の者に「ビドゥーダバは七日後に死ぬ」と漏らします。
釈尊の予言を伝え聞いたビドゥーダバたちは、その間恐れおののきます。
しかし、七日後になっても、なにも起きませんでした。
すっかり安堵したビドゥーダバたちは祝宴を挙げます。
そこへ、雷が落ちて彼らは亡くなったそうです。
脚色もあるかもしれませんが、歴史と云うものは壮絶なものです。
だからこそ、後の世にまで語り次がれるのでしょう。
>後に仏教国の多くがイスラムの国に滅ぼされていったことを考えるとき、防衛論の欠如という見方が生まれてくるのは自然です。
どこの国でも、防衛を忘れているわけではありません。
イスラム教圏がスペインにまで広がったのは、たんに領土拡大、他民族征服のためにやったからではありません。
「剣か? コーランか?」(あなたは、どちらを取るか?)だったのです。
だから、大虐殺などやらずに政権指導者の首だけすげかえて、あらたな指導者がイスラム教に帰依する者であれば、そのあとは神のもとに全員平等としたのです。
共産革命が急激に広がったのと似た構図です。
それだけ、当時の庶民には不満が多かったとも言えます。
また、略奪などは許されませんでした。
十字軍は、略奪を許されたのです。
こういった事情はあとから分かるものであって、たんなる防衛論の欠如によって滅ぼされたわけではありません。
このような、さまざまな衰亡とドラマが歴史そのものなんです。
単純に、「防衛論の欠如によって滅ぼされた」とは云えないのです。
>「防衛論の欠如という見方が生まれてくるのは自然です。」
そう云うばあいもあるでしょうが、そうでないことのほうがほとんどです。
釈迦族は、防衛強化に着手した段階で二大国から牽制されていたはずです。
>岡潔、宮沢賢治が菩薩界におり、小林秀雄が6次元神界にいるというのも、私の見方からすれば、その逆ではないのかと思います。
大川さんは一種の評論家もやっているのだと見れば、「ああ、そういう見方もあるんですね」と認められるでしょう。
大川さんが、「だれそれは地獄。だれそれは菩薩界」と断言するから、ueyonabaruさんは信じたくなってしまうのです。
これは、教祖の宿命でもあります。
>音楽界でいえば、バッハ、ヘンデル、ハイドン、マ-ラーが如来界の人方々で、モ-ツアルト、ベ-ト-ベンは菩薩界、ショパンは梵天界の方となっておりますね。
格付けランキングを表現すれば、まあ大川さんのランキングと、ぼくのランキングは似ていなくもありませんね。
モーツァルトはもうちょっと上げてあげてもいいかな? とは思いますけど。 (*^_^*)
この調子で大川さんが「地獄音楽」と評したジャンルの音楽家たちは、・・・・怒るでしょうねぇ。・・・・
>大川先生の分からないところは、私にとっては生涯分からないかもしれませんが、この方の説かれる法についてゆき、現世的にもより良い生活がおくれることを望んでおります。
実害さえ無ければ、それでもいいと思います。
from: にしき鯉さん
2009年10月07日 17時13分42秒
icon
「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:無題(よそのブログから)」
ueyonabaru さんへ
趣旨を理解してもらえてよかったです
<後からできたものが、本流を主張している、幸福の科学は、傲慢であるとはどうぞ思わないでください。どうぞ、大川仏教へのご理解をお願いします>
わかりました、言いすぎの面もありました、すみません
釈迦族の話は自分の中で打ち切ります
瑣末な事よりお互いにプラスになるような話を多くしましょう
言葉は時代によって変容します、
仏典にある色界、無色界もアストラル、コーザルと今は名前を変えているようです、ROでは〇次元で表していると思います
ueyonabaru さん、「世界観」は大切です
たとえば
私が菩薩の道を歩みたいと思ったとしたら何を努力して一生を終えれば菩薩界にいけるんでしょうか?
また、地獄に行った景山さんが何の功徳を積んで菩薩界まで行けたのでしょうか?
この事は「世界観」が明確でないと判断のしようがありません(その為の書籍希望です)
<一般の仏教者が仏教の全体を通しての見方があると思うのですが、大川先生の説くことがそれと比べどうなのか是非ご意見を伺いたく思うのです。>
真理の体系ができてないような気がします
真理は一人では流布できないんです、
10年もROを続けて何故総てをまかせられる弟子がでて来ないんですか?(大川きょうこ夫人では無理ですよ)
真理は一人でも実行できますが団体となると各パートに別れて信徒を指導しないと絶対に行き詰ります
多くの人を幸福にする目的があるならばまず信徒からなんです
世界観をキチンと提示し、日々の生活で律するところを決め、教義に疑問があれば上まで上げられる、そういうシステムを作って下さい
それは信徒が熱望することによってのみ可能だと思います
from: ueyonabaruさん
2009年10月07日 15時38分15秒
icon
「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:無題(よそのブログから)」
にしき鯉さんへ
> 少し、意地になっていませんか?
> 「大川さんの書籍(教義)を否定したら自分が持っている信仰心まで壊れてしまう」くらいの勢いですよ
>
> 私が提議したのは「原始仏教の教え」と歴史の「釈迦族の滅亡」とは因果関係がないという事です
> 関係ない事を「防衛論」にこじつけた事に対して指摘したのであって「正しい」「間違っている」の討論ではないはずです
> 後世、イスラムに滅ぼされたから「釈迦の教え」には欠陥があると言うのも「すり替え」です
>
> 真面目で理想をかかげて生きていくのはueyonabaru さんの素晴らしいところだと思います
> しかし、それほどの方が教義の事となるとズレを修正するのも認めません、
>
> ここに信仰の怖さがあります
> 世間一般の人はこれが宗教を怖がる一番の理由です
> 「自分たちの信仰を少しでも否定する人は認めない、私たちの信仰こそが真理だから、そして真理を守るのが私たちだから」・・・
意地にならないよう気をつけましょう。
にしき鯉さんに意地を張っている気は毛頭ないのですよ。私がにしき鯉さんの論旨を良く汲み取れていないのかもしれません。そうであればすみませんです。
初期仏教に欠陥があったからといって、お釈迦様を否定しているわけではないのです。私達は、大川先生をお釈迦さまの生まれ代わりとしております。釈迦仏教の教えから幸福の科学がずれているわけでもないでしょう。むしろ、本流としております。
後からできたものが、本流を主張している、幸福の科学は、傲慢であるとはどうぞ思わないでください。どうぞ、大川仏教へのご理解をお願いします。先生のご著書、「沈黙のブッダ」、「悟りの挑戦上・下」が、伝統仏教の解説をしたものです。私は、これまで仏教の全体をとおしての本を読んだことがありませんでした。この分野での、入門は大川先生のご本が最初です。一般の仏教者が仏教の全体を通しての見方があると思うのですが、大川先生の説くことがそれと比べどうなのか是非ご意見を伺いたく思うのです。
徳一と最澄の「仏性」にかかる論戦のことは、大川先生にはじめて教えてもらいました。生長の家はむしろ最澄の考え方に近いなと思いながら、大川先生のご文章を読んでおりました。
> 話は変わりますが大川さんの本で色界、無色界の説明をした本はありますか、あれば書籍名を教えて下さい
> 九次元世界観と対応した本であれば尚いいんですが、、、
> よろしくお願いします
色界、無色界などの分類は難解ですね。幸福の科学では4次元から9次元で分離しますので、このことだと察します。「永遠の法」をお読みになることをお勧めします。
私は、丁寧に教義を学ぶような態度にかけているかもしれませんので、本を紹介してくれなどと言われたら、一瞬ギョットします。hikarru0827さんは丁寧に勉強しているように思われますので、このようなことをお訊きになるのは彼が適当かもしれません。むろん、どうしても私でなければとおっしゃるのであれば、それは構いません。
from: にしき鯉さん
2009年10月07日 13時23分31秒
icon
「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:無題(よそのブログから)」
ueyonabaru さんへ
少し、意地になっていませんか?
「大川さんの書籍(教義)を否定したら自分が持っている信仰心まで壊れてしまう」くらいの勢いですよ
私が提議したのは「原始仏教の教え」と歴史の「釈迦族の滅亡」とは因果関係がないという事です
関係ない事を「防衛論」にこじつけた事に対して指摘したのであって「正しい」「間違っている」の討論ではないはずです
後世、イスラムに滅ぼされたから「釈迦の教え」には欠陥があると言うのも「すり替え」です
真面目で理想をかかげて生きていくのはueyonabaru さんの素晴らしいところだと思います
しかし、それほどの方が教義の事となるとズレを修正するのも認めません、
ここに信仰の怖さがあります
世間一般の人はこれが宗教を怖がる一番の理由です
「自分たちの信仰を少しでも否定する人は認めない、私たちの信仰こそが真理だから、そして真理を守るのが私たちだから」・・・
もっと、ありのままに見ましょうよ
もっと心の奥底まで潜っていきましょうよ
話は変わりますが大川さんの本で色界、無色界の説明をした本はありますか、あれば書籍名を教えて下さい
九次元世界観と対応した本であれば尚いいんですが、、、
よろしくお願いします
from: ueyonabaruさん
2009年10月07日 08時18分58秒
icon
「Re:Re:Re:Re:Re:Re:無題(よそのブログから)」
hiraokaさんへ
> >疑うのはいいのですが、最後まで疑いのままでこの世の生を終えたとして、あの世で幸福の科学の説く真理が正しかったと気づいてしまうことにならなければ、いいのでしょう。これは、勝利です。逆であった場合には、敗北でしょう。
>
> ueyonabaruさん、ここですよ、ここ!
> これが、ueyonabaruさんの霊界にたいする勘違いなんです。
> 霊界における真実と云うのは、一つではないんですよ。
> 現象界の時間や歴史や場所と、同じ構造にはなってないんです。
>
> いちばん、わかりやすい例を出します。
> いまではどう云っているか知りませんが、日本にやってきた宣教師の頃、キリスト教会では、「イエス出現より前に生まれた人は、イエスの福音を得られなかったので天国には行く事ができない」でした。
> そんな、バカなことは絶対に無いんです。
>
> おなじように、「幸福の科学帰依者でよく教えを守ったものは霊界における勝者で、幸福の科学に反対した人は霊界における敗者である」と云うようなことは絶対に無いんです。
> 反対したからという理由で、自動的に敗者になることは決してありません。
> マルクス・アウレリウスがキリスト教弾圧に許可の指令を出したから、彼は地獄に行っただろうと思えますか?
幸福の科学の信者であってもそうでなくても、真実は真実ですし、真理は真理です。だれが説こうと、真理は真理であるはずです。幸福の科学の教えに忠実であったものが必ずしも天国に行くとはいえません。
hiraokaさんのお考えが真実かどうかは、あちらの世界に行かねば分からないことかも知れません。しかし、あちらに行ってもなお分からない人のケ-スもあるようですから、こちらにいる間に、しっかり勉強することが大事でしょうね。
このブログでの論戦も勉強の一つですから、論戦の勝ち負けにとらわれず、その中で得られるなにかがあればと思います。
hiraokaさんの仏教における防衛論、なかなか説得性のあるものではありましたが、反論もあります。釈迦族が武人の集団であったからといって、防衛論があったとは必ずしもいえません。隣国から攻められたときに必要な武器は十分であったか、小国であるから別の力のある国との集団安全保障は図っていたのか、外交は適切であったのか等々色々の観点からのチェックが必要になります。
釈迦生存時の防衛の体勢がどのようなものであったかなど、承知しておりませんが、後に仏教国の多くがイスラムの国に滅ぼされていったことを考えるとき、防衛論の欠如という見方が生まれてくるのは自然です。タイや日本が仏教国でありながら独立を維持しえたのはなぜかというと、その国に特有の文化が作用したということでしょう。
景山さんが菩薩界にいらっしゃるのかどうかは、私達には分かりません。行っているかもしれません。過去世の蓄積もあった筈ですから。
ともかく、霊界のこと、生まれ変わりのことなど分からない不思議なことが多いですね。岡潔、宮沢賢治が菩薩界におり、小林秀雄が6次元神界にいるというのも、私の見方からすれば、その逆ではないのかと思います。しかし、先生はそうおっしゃいます。
音楽界でいえば、バッハ、ヘンデル、ハイドン、マ-ラーが如来界の人方々で、モ-ツアルト、ベ-ト-ベンは菩薩界、ショパンは梵天界の方となっておりますね。
大川先生の分からないところは、私にとっては生涯分からないかもしれませんが、この方の説かれる法についてゆき、現世的にもより良い生活がおくれることを望んでおります。
from: hiraokaさん
2009年10月07日 02時17分40秒
icon
「Re:Re:Re:Re:Re:無題(よそのブログから)」
みなさん、こんばんは。
>#871 大川さんの話
>> この弱点自体は、釈迦の時代からありました。この思想のために、釈迦族は、ほぼ全滅しています。出家して僧侶になっていた約五百人は生き延びましたが、残りの人たちは、ほとんど殺されました。
釈迦族は、他国に攻められた際に、仏教思想が弘まっていて争わなかったために滅びているのです。
>> 不殺生(アヒンサー)の思想を説いたのはよいのですが、相手が殺生をしてくる場合についての考え方が十分ではありませんでした。その結果、釈迦国は、慈悲を説き、平和を説いている宗教を信仰していたにもかかわらず、大量虐殺に遭って滅びてしまったわけです。
> やはり、「原始仏教には思想的に欠陥がある」と見るべきであり、修正をかける必要があると思います。
↑ これは、完全な大川さんの間違いです。
大川さんの論旨を、二つに分けます。
1)釈迦族は、他国に攻められた際に、仏教思想が弘まっていて争わなかったために滅びた。
2)相手が殺生をしてくる場合についての考え方が十分では、なかったので「原始仏教には思想的に欠陥がある」
大川さんは、このあと「だから防衛は必要なんだ」と結論したいのだろうと思いますが、2)と、現代の防衛論については、ここではひとまず置きます。
問題は、1)の「釈迦族は、他国に攻められた際に、仏教思想が弘まっていて争わなかったために滅びた。」です。
釈迦族はゴータマの生まれる以前から以後もずっと防衛していたのです。
なぜなら、それが釈迦族クシャトリア身分の仕事だったのです。
大川さんの説は牽強付会と云うべきもので、自分の防衛論につごうのいいように理屈をこじつけた説です。
争わなかったから滅びたわけではありません。
争ったら、すぐに負けてしまう小国だったのです。
釈迦族は昔から、ふたつの大国にはさまれた小国でした。
もし、大国にせめこまれたら滅亡してしまうことを充分に知っていました。
だから、防衛論などを云われるよりも以前に、いつも外交政策と武芸に励んでいるような釈迦族だったのです。
釈迦族が滅んだのは原始仏教のせいではなく、外交政策の大失敗だったのです。
では、大川さんの云うような防衛論を仏陀が釈迦族に説法していたらどうなっていたでしょうか?
おそらく、釈迦教団も撲滅されていたはずです。
それどころか、釈迦族が兵力増強や築城をはじめた段階で、ビドゥーダバは兵を起していたはずです。
以前、大川さんと仏教界の法論戦が話しに上がりましたが、大川さんが原始仏教思想の欠陥のせいで釈迦族が滅びたなどと云ったら、みんなからコテンパンにやられますよ。
もし、大川さんが知っていて云ったのなら。ウソつきになります。
もし、大川さんが知らずに云ったのなら、釈尊の生まれ変わりではないことになります。
釈尊は、釈迦族の安寧とコーサラ国の安寧を同時に願っていたのです。
>ueyonabaruさん
>hiraokaさんが、景山さんが菩薩界にいっていられないと断ずる根拠をお聞かせください。できたら、どちらの世界にいると思われるのかも教えてください。
ぼくは、景山さんが菩薩会に行っていないなどとは、ひとことも書いていません。
なぜなら、ぼくは景山さんが霊界のどこにいるか知らないからです。
菩薩界に居ると云うのは、大川発表であってほかのだれも知りようがありません。
ueyonabaruさんは信じたいのでしょうが、ぼくには、「まあ勲章でもあげとけ」と云った急な昇格に見えます。
なぜなら、大川さんは以前の講話で「菩薩界に上がるには、何百年もかかる」というふうに、仏典にあることと同じことを云いました。
急に昇格するものなんでしょうかねぇ?
そんな、仏陀につぐ大人物が霊界からやってきたのに、大川さんは「いやだなあ・・・と思ったんですが・・・」、なんて人前で公表するものでしょうかねぇ?
信者はみんな不思議とは思いませんでしょう。
世の大多数の人たちで良識ある人なら、どう判断するかは自明です。
>疑うのはいいのですが、最後まで疑いのままでこの世の生を終えたとして、あの世で幸福の科学の説く真理が正しかったと気づいてしまうことにならなければ、いいのでしょう。これは、勝利です。逆であった場合には、敗北でしょう。
ueyonabaruさん、ここですよ、ここ!
これが、ueyonabaruさんの霊界にたいする勘違いなんです。
霊界における真実と云うのは、一つではないんですよ。
現象界の時間や歴史や場所と、同じ構造にはなってないんです。
いちばん、わかりやすい例を出します。
いまではどう云っているか知りませんが、日本にやってきた宣教師の頃、キリスト教会では、「イエス出現より前に生まれた人は、イエスの福音を得られなかったので天国には行く事ができない」でした。
そんな、バカなことは絶対に無いんです。
おなじように、「幸福の科学帰依者でよく教えを守ったものは霊界における勝者で、幸福の科学に反対した人は霊界における敗者である」と云うようなことは絶対に無いんです。
反対したからという理由で、自動的に敗者になることは決してありません。
マルクス・アウレリウスがキリスト教弾圧に許可の指令を出したから、彼は地獄に行っただろうと思えますか?
>疑問という言葉が私は好きです。疑うだけでは、その対象を否定するイメ-ジがあり、疑問となると、疑い且つ問うの意味が加わり、対象の真偽を吟味するというニュアンスがあるように思います。
「疑問」の語のほうがいいですね。ぼくも、これから「疑問」の語を使いましょう。
>それは、大川さんのおっしゃるほうに信頼があるからです。
それが分かっているから、、ぼくはどこかのサイトみたいに「すぐ、やめるべき」などと云うことは云わないのですよ。
from: ueyonabaruさん
2009年10月06日 16時19分46秒
icon
「Re:Re:Re:Re:無題(よそのブログから)」
hiraokaさんへ
> また、hiraokaは大川さんにうらみがあるのか? と聞かれそうですが、・・・
>
> 景山さんは、その後なっとくして菩薩界に行ったと云う話しは、まったく信用できません。
> こういうのを、「大本営発表」と云うのだと思います。
> 最近の言葉なら、「北朝鮮発表」でしょうか。 (^.^)
hiraokaさんが、景山さんが菩薩界にいっていられないと断ずる根拠をお聞かせください。できたら、どちらの世界にいると思われるのかも教えてください。
> 疑う事はけっして、信仰に反するものではありません。
> 神はうたがうことをも、許しておられるはずです。
> ぼくは、このことを論理学から証明できると思っています。
疑うのはいいのですが、最後まで疑いのままでこの世の生を終えたとして、あの世で幸福の科学の説く真理が正しかったと気づいてしまうことにならなければ、いいのでしょう。これは、勝利です。逆であった場合には、敗北でしょう。
疑問という言葉が私は好きです。疑うだけでは、その対象を否定するイメ-ジがあり、疑問となると、疑い且つ問うの意味が加わり、対象の真偽を吟味するというニュアンスがあるように思います。
> ここのサイトでも、大川さんの間違いについてこれだけ多くの事例をだしているのに、
> どうして、信者さんはこのように大川さんの云うことを、丸々信じようとするのでしょうか?
それは、大川さんのおっしゃるほうに信頼があるからです。さらに説得性のあるご説明があれば、変わるかもしれません。人間としての大川隆法であれば、間違いがあります。全能ではありません。
> よくよく、考えれば「ものみの塔」の人たちの、あの情熱と同じものではないでしょうか。
> ものみの塔の人たちは、心底「人を救いたい」と云う一心からやっているのです。
>
> ここに、宗教のむずかしさ、宗教の奥深さを感じるのです。
信仰ですから、一緒ではないでしょうか。
> >エマーソンの詩
> ほんとに、エマーソンと成長の家の思想はよく似てますよね。
> 大川さんもソクラテス→エマーソンとせずに、エマーソン→谷口雅春とすればよかったんですけどねぇ。
ホントに谷口雅春の思想ともいえるほど生長の家の教えに似通ったエマ-ソンですね。
from: hiraokaさん
2009年10月06日 00時34分20秒
icon
「Re:Re:Re:無題(よそのブログから)」
みなさん、こんばんは。
#865の、ぼくの間違いを訂正させてください。
>そのまま寝込んで自分のたばこの消し忘れから出火したそうです。
書き込んだ後に思い出したのですが、、、、
たばこではなくてストーブの火が何かに燃え移ったのが原因だったように思い出しました。
階下の家族は逃げる事ができましたが、景山さんは泥酔していたようです。
景山さんは自分の人脈を生かして、あらゆる有名人に布教していました。
大橋巨泉さんが、景山さんから入信を薦められたいきさつを読んだ事があります。
また、hiraokaは大川さんにうらみがあるのか? と聞かれそうですが、・・・
景山さんは、その後なっとくして菩薩界に行ったと云う話しは、まったく信用できません。
こういうのを、「大本営発表」と云うのだと思います。
最近の言葉なら、「北朝鮮発表」でしょうか。 (^.^)
疑う事はけっして、信仰に反するものではありません。
神はうたがうことをも、許しておられるはずです。
ぼくは、このことを論理学から証明できると思っています。
ここのサイトでも、大川さんの間違いについてこれだけ多くの事例をだしているのに、
どうして、信者さんはこのように大川さんの云うことを、丸々信じようとするのでしょうか?
よくよく、考えれば「ものみの塔」の人たちの、あの情熱と同じものではないでしょうか。
ものみの塔の人たちは、心底「人を救いたい」と云う一心からやっているのです。
ここに、宗教のむずかしさ、宗教の奥深さを感じるのです。
>ueyonabaruさん
>常識で考えれば、hiraokaさんのおっしゃるとおりです。なんだか常識家に一発くらった感じです。
ぼくは、一発食らわしたりなんかしませんよぅ〜〜 (*^_^*)
>エマーソンの詩
ほんとに、エマーソンと成長の家の思想はよく似てますよね。
大川さんもソクラテス→エマーソンとせずに、エマーソン→谷口雅春とすればよかったんですけどねぇ。
>にしき鯉さん
にしき鯉さんの解説、説得力あると思います。
ぼくも、ずいぶんむかしにこのことを読んだ覚えがあります。
>この後、祖父のマハーナーマの犠牲により一旦は城民の生命を助けたビドゥ-ダバだったが、・・・
たしかマハーナーマーは、
追っ手に「わしが川の中に沈むから、わしが浮き上がってくるまでは逃げる者を見逃してくれ」と頼み、みずから入水し髪の毛を岩にくくりつけるのでしたよね。
いつまでも浮き上がってこない間に、五百人が逃げたのでした。
いつも、歴史と云うのは壮絶なものですね。
from: hikaru0827さん
2009年10月06日 00時09分32秒
icon
「Re:Re:Re:無題(よそのブログから)」
> 法は普遍の哲学です、防衛論は時代の哲学かも知れません
> その辺をすり替えては絶対にいけないと思います
ueyonabaruさんの言うように、釈迦の教えに国防という概念が無かった事、それによる釈迦族の外交音痴さを指摘したものかという気がします。
「 不殺生(アヒンサー)の思想を説いたのはよいのですが、相手が殺生をしてくる場合についての考え方が十分ではありませんでした。」
上の不殺生についての記述をどう捉えるかで、にしき鯉さんの言われる齟齬が生まれるのではないでしょうか。
「国が滅びたのは、不殺生を説いたからだ」という解釈も出来ますが、「不殺生は説いたが、国防論は説かなかった」と言われてるだけだと思います。
> 出家の八正道についてはこの後まとめます、 hikaru0827さんに誤解されたくないので慎重に書きたいと思います
> (ちょっと待ってネ)
なんか手間掛けさせてすみません。
期待して、待ってますね。
from: にしき鯉さん
2009年10月05日 20時43分57秒
icon
「Re:Re:無題(よそのブログから)」
hikaru0827 さんへ
八正道の件、真っ直ぐに受け取ってもらえて嬉しいです
・・・
ほぼ史実に忠実なブログがあったので転用します
<コーサラ国のパセーナディ王は〝釈尊の近親から皇后を迎えれば、弟子等にも信頼せられ、誉れ高い釈迦族と縁を結べる〟と考え、カピラ城に使者を送った。しかし釈迦族の人々は〝コーサラ国は大国だが、系図の正しくないパセーナディ王に姫を嫁がせることはできない〟とし、一族の長老マハーナーマが侍女に生ませた娘を偽って王に嫁がせた。
やがて王妃に王子が生まれビドゥ-ダバと名づけられた。太子が8歳になったとき、祖父のマハーナーマのもとへ射術を学びに行ったが、ある日「下婢の子」と罵られ、事情を知った太子は釈迦族への憎しみを深くしカピラ城の殲滅を誓った。
パセーナディ王は晩年、仏教に深く帰依し法塔を立てて供養したが、釈尊に正しい信心を申し述べている間に、ビドゥ-ダバに王位を奪われ、やがて病死する。
王位を得たビドゥ-ダバは、将軍テーガ・カーラヤナとともにカピラ城を攻めようとした。釈尊は三度に渡ってこれを諫めたが、四度目には宿縁の止め難いことを知られ、世の無常を観じて精舎に留まられた。
カピラ城内に入った毘瑠璃王は、まず釈迦族を捕らえて老若男女の別なく生き埋めにして殺した。この後、祖父のマハーナーマの犠牲により一旦は城民の生命を助けたビドゥ-ダバだったが、五百人の釈迦族の女たちが悉く王の手から身を護ったため、王は怒って女たちの手足を縛り深い穴に投げ入れて殺した。 >
これが歴史の史実です
> 以下、大川さんの話のコピーです
> この弱点自体は、釈迦の時代からありました。この思想のために、釈迦族は、ほぼ全滅しています。出家して僧侶になっていた約五百人は生き延びましたが、残りの人たちは、ほとんど殺されました。釈迦族は、他国に攻められた際に、仏教思想が弘まっていて争わなかったために滅びているのです。
> 不殺生(アヒンサー)の思想を説いたのはよいのですが、相手が殺生をしてくる場合についての考え方が十分ではありませんでした。その結果、釈迦国は、慈悲を説き、平和を説いている宗教を信仰していたにもかかわらず、大量虐殺に遭って滅びてしまったわけです。
> やはり、「原始仏教には思想的に欠陥がある」と見るべきであり、修正をかける必要があると思います。
違和感を感じませんか?
防衛というのは国のありかたです、民族、宗教、時代によっても違います、
釈迦の説いた「法」は輪廻転生とその理論的な背景の因果の法則です
不殺生は個々の心を統御するために説いたのであって「無抵抗の精神」とは違います
法は普遍の哲学です、防衛論は時代の哲学かも知れません
その辺をすり替えては絶対にいけないと思います
さらに言えば釈迦族はゴータマに帰依はしたが実践はそれほどでもなかったようです
現代でいえばマザー・テレサやガンジーは尊敬するが同じようには生きられないというところでしょうか
釈迦族はエリート意識が強く血統を大事にする種族だったようです
それは野蛮なパセナディー王に親戚になりたくないという事からもわかります
以上が私のだいたいの考えです
出家の八正道についてはこの後まとめます、 hikaru0827さんに誤解されたくないので慎重に書きたいと思います
(ちょっと待ってネ)
from: hikaru0827さん
2009年10月04日 22時56分36秒
icon
「Re:無題(よそのブログから)」
にしき鯉さんへ
> 私も防衛に関してはROの方と同じ考えの部分がありますが歪曲した方法を使ってはいけません
> 自分の思想を通すのにマジックを使うのは「方便」とはいいません
私から一言よろしいですか。
確かに、仏教や、お釈迦様について語らせば、このあたりで、にしき鯉さんの右に出る人はいません。
ただ、にしき鯉さんが知っている事が、全てでもないと思うのです。
釈迦族の滅びた原因は何か?それも1つでないかもしれません。明らかになっていない原因があるかもしれない、という事については、考慮なさってください。
from: ueyonabaruさん
2009年10月03日 14時18分38秒
icon
「Re:無題(よそのブログから)」
にしき鯉さんへ
> 以下、大川さんの話のコピーです
> この弱点自体は、釈迦の時代からありました。この思想のために、釈迦族は、ほぼ全滅しています。出家して僧侶になっていた約五百人は生き延びましたが、残りの人たちは、ほとんど殺されました。釈迦族は、他国に攻められた際に、仏教思想が弘まっていて争わなかったために滅びているのです。
> 不殺生(アヒンサー)の思想を説いたのはよいのですが、相手が殺生をしてくる場合についての考え方が十分ではありませんでした。その結果、釈迦国は、慈悲を説き、平和を説いている宗教を信仰していたにもかかわらず、大量虐殺に遭って滅びてしまったわけです。
> やはり、「原始仏教には思想的に欠陥がある」と見るべきであり、修正をかける必要があると思います。
> ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>
> これは大川さんが防衛論を説明した時の話らしいですが完全に信徒に対して間違った印象を与えてます
> 大川さんの防衛論を推奨するために間違った仏教感を植えつけてはいけません
>
> まず、釈迦は「不殺生」は説きましたがそれと釈迦族が滅ぼされたのは関係がありません
> パセーナディ王の子と釈迦族の怨恨が原因です、それに釈迦は3回侵攻を止めていますが4度目であきらめています
> 血統を重視する釈迦族のエリート意識がパセーナディ王をだました事が一番の原因です
原因はにしき鯉さんがおっしゃるとおりです。大川先生は、小乗の仏教には、相手が殺生をする、自分を殺しに攻めてくる場合の対処することを説いた法はないとのことをおっしゃりたいのではないですか。仏教国は、後に、イスラム教の国に滅ばされました。
from: ueyonabaruさん
2009年10月17日 11時48分20秒
icon
「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:無題(よそのブログから)」
hiraokaさんへ
> >> ぼくたちには、「群盲、像をなでる」と同じことしかできないのです。
> >これは、先端の極小の物質の世界の現象をいっておられるのでしょうか。
>
> いえ、どんな場合でもです。極微であっても極大であっても、人間の視点であっても、どんな意識であってものはずです。
>
> >> この原則は、どんな人にでも当てはまるのです。
> >> 釈迦、イエス、ソクラテス、孔子、・・・・大川隆法・・・、ueyonabaruさん・・・、ぼく・・
> >> いまだかつて、そしてこれからもおそらく「真実・真理」のイデアを発言・表現できる人は居ないはずです。
> >もっと分かりやすく言っていただけますか。
>
> ゾウ(真理)を良く知っている人が、ゾウ(真理)をまったく知らない人にその説明をするとしましょう。
>
> 現代であれば、写真・動画を見せ生態の記録を語り、まったく知らない人にかなり詳しく伝える事ができるようにはなりました。
>
> しかし、それですべて解決したわけではありません。
> まず、ゾウを良く知る人はゾウの凡てを知っているわけではないこと、・・・・
> さらに、ゾウを良く知る人は自分の知ったことを他の人に正確には伝えられないこと・・・
> さらに、ゾウを知らない人にとっては、かならず自分の知っていることをとおしてでなければ、理解しえないこと、・・・・
>
> このようなことは、いくらコミュニケーションが発達したとしても理想にはほど遠いわけです。
> 釈尊も、自分の見てきた涅槃体験を人に伝えようとしても、まず無理であったはずでしょう。
> イエスの云う「愛なる父」も同じであろうと思います。
おっしゃるとおりだと思います。
> 四大聖人の云うことは、すべて違います。
> しかし、僕らは言葉としてはバラバラであるのに、そこに「真理があるようだ」と感じ取ることができます。
> これをこそ、プラトンはイデアと名づけたのだと思われます。
>
> 戦場で勇ましく戦うのも「勇気」、戦場を退却する決断も「勇気」
> 行動・表現としては真反対ですが、ぼくたちは「勇気」と云うイデアをそこに認めるわけです。
> しかし、表現としてはその時ひとつしか選べないのです。
そうですね。
> >無理して信じようとしているわけではないのです。分からないことが、一生続くかもしれないと思うんです。そのままほっておくのも一つの知恵だとのご意見もありますので、私の場合もそうするしかありません。
>
> おっしゃるとおりですね。
> どこまで行ってもわからないのでしょう、きっと・・・・。
> さらに、どこまで行っても分からないのか? いつかは分かるのか?、それも分からないんですねぇ・・。
生長の家式に言えば、実相の自分は知っているという風に教えます。現実の自分は分からないもの、分かるもの様々です。
> ueyonabaruさんが、「まず大川さんの弁護論を無意識に選び取っている」事を指摘しているのです。
かならずしも無意識的ではないんです。大体が弁護しようという意識でやっておりますので・・・・・。
> ueyonabaruさんは、「イデオロギー史観はよくない」と発言されていました。
> まったく、その通りであります。
イデオロギ-史観というと、マルクスの唯物論史観のことを普通言いますが、これが間違っているのです。イデオロギ-という語はイデアから派生してきていると思うんですが、一種の理想主義であり、人生観のようなものでしょう。イデオロギ-の語そのものに罪はありませんので、大切なのはその内容でしょうね。間違っていたら問題です。
おなじく、「仏教国がイスラム教に侵略された」、・・・・これも、イデオロギー史観の轍を踏んでいるのです。
>
> はたして、それは仏教の防衛論の欠如によるものでしょうか?
> じっさいには、仏教国と云っても7〜800年以上は経っているはずです。
> そうなれば仏教の意味もほとんどわからなくなっていますし、・・・
> 第一、仏教をなんとなく国是にしている国がほとんどなんです。
> アショーカ王が仏教を国是にしたと誤解されていますが、じっさいには凡ての宗教を認めているんです。
> 大川さんの云う、「小乗仏教防衛論欠如が国を滅ぼした」は、「濡れ衣」あるいは「牽強付会」としかいいようがありません。
> しかも、大川さんはこの発言によって、さも「自分は釈尊の生まれ変わり」であるかのようなニュアンスを信者さんたちに投げかけています。
> こういう大川さんの「断言」によって信者さんたちは、自分の思考の責任を回避し神格化したものにゆだねてしまうのです。
大川さんを神格化するということについては、今後も議論してまいりたいと思います。
> ぼくが、大川さんを「友達」として遇することを薦めるネタ本をここでバラシておきますね。(*^_^*)
> 「神との友情」ニール・ドナルドウォルシュ著を応用しました。
> hikaruさんが、「そんなことできるのはhiraokaさんくらいではないですか」と評価してくださいました。
> ありがたくhikaruさんの評価をいただきますが、・・・・
> 意外にも簡単なんです。
> まず、同胞付き合いできるのはこの世に同時代に生まれた人たちの特権でもあります。
> イエスと同時代を生きてイエスを評価したのは、信者と弟子とマリアと妹くらいのものです。
> 孔子は父親からは理解されませんでしたし、クサンチッペも同じでしょう。
> 釈迦にいたっては、ほとんんどの人が理解できなかったであろうと思います。
> それで、いいんです! そういう、ひとたちが必要なんです。そういうひとたちのおかげで真理があぶりだされてくるんです。
ウォルシュの考えだったんですか。
彼は不思議な人ですね。内在の神性を語るのに、宗教的悟りや哲学的思弁によらず、神が口頭(実際はどのようなかたちなのか)で応えてくれるのですね。その神なるものが語る言葉は、内容を吟味しても瑕疵はないように思えますし、沖縄の多くのユタさんたちのものとは大分違いますね。これも、色々とお考えを聞かせてください。
> 大川さんを神格化しない人たちは、「信者でない人たち」ともう一つの集合があります。
> ほかでもない、「大川さんと身近なひとたち」です。
> きょう子さんやお子さん達は、けっして大川さんを「神格化」しないでしょう。
> さらに、大川さんを個人的に知る人たち、このひとたちも「神格化」しないはずです。
> 教団幹部の人たち、お世話をするひとたち、同窓生、家族、親類縁者、近所の人たち・・・・・・
>
> イエスは「預言者、故郷に入れられず」と嘆きましたが、・・・・
> これは、どちらも真実なんです。
> 近くで見ればそうなるんです。
>
> ぼくたち大川さんから遠くにある人たちは、大川さんを「神格化」するがゆえに、さらに大川さんを遠ざけているのです。
> ぼくらは、遠くに置くことによって「神格化」の認識をしたいのです。
友人や家族、隣近所の方々は信じないでしょうね。この人はすぐれているとは思えるかもしれません。そのような方々の中にあって大川隆法を神だと見られるひとがいるとすれば、その方は達人かもしれません。自分のうちに神性の自覚があるので、相手を神だとすることができるのでしょう。自分も神、相手も神なのです。でもその相手はどうも自分よりも優れたもののように思える-という感覚でしょうか。
> たしかに、地獄的あるいは天国的な音楽はあります。
> しかし、地獄があるからこそ天国が相対的に浮き上がってくるんです。
おっしゃるのは分かります。これは二元的思考ですね。この世は二元的な思考法で成り立つものだと思います。このことについて、先生は、霊界でもある程度のところまでは二元的思考でものごとをすすめてゆくが、高次の霊界にいたれば一元的な思考が見えてくるとおっしゃっております。二元的な思考を超えるのに、このような説明は聞いたことはありませんでした。
サークルで活動するには参加が必要です。
「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
※参加を制限しているサークルもあります。
閉じる
icon拍手者リスト