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幸福の科学会員で教義上の疑問を解決したい

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  • from: ueyonabaruさん

    2009年12月01日 10時34分03秒

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    佐賀支部精舎などでのご講話から

     にしき鯉さん皆さんへ


     大川先生は佐賀支部の精舎において(10/12)次のように語っておられます。


     仏教は、この世は濁世、苦しみの世界であると認めており、釈尊は、人生の前半では、「悟りを開いて涅槃界に入れば、もうこの世に還ってくる必要はない」と考えていた節があります。

     ただ、晩年の仏陀は変わっています。晩年は「この世は美しい」と言い、人々が苦しみのこの世のなかで修行して、悟りの花を咲かせることの意味が分かってきたのでしょう。それは、いい心境であり、悟りが大きくなり、教団として成功したことでもありましょう。

     仏陀は再誕しないはずだという意見もありますが、仏教の思想は、途中から変わっているのです。釈尊は、前半生においては「二度と生まれ変わらない」と言っていたけれども、後半生では、この世の意味を積極的に認める境地になり、「万民の救済のために救い続ける」という気持ちも出て、そういう遺言も残しました。


     と、このようにお話されました。これが、大川仏教ですね。



     また、富山支部の精舎において(9/27)は、宗教の融和にも関する次のような内容を述べられました。


     ここ数千年くらいにこの世に生まれた光の指導霊、天使、如来菩薩といわれた方が、一定の信仰を集めた場合、あるいは天上界に還った後、信仰がこの世で続いて年数が経った場合に、神様的に扱われてきた---これが神様の正体です。

     当会の真理が広がると、霊界の本当の姿が見えて、諸宗教が文化的に矛盾したり、ぶつかっている意味が分かります。理解できると、寛容になれるのです。




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コメント: 全23件

from: hikaru0827さん

2009年12月13日 15時00分37秒

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「Re:Re:Re:Re:Re:偶然と必然」
ueyonabaruさんへ


>  ホントの偶然は、サイコロにあると思っており、これを作り出した人間の面白さを考えます。hikaruさんは、そこにも時間縁起を引き合いにして、偶然性を否定しようとなさいます。ナカナカ思いつかない発想であり、そして相当に努力されております。


 いちおう、偶然の存在を認めたつもりなんですけどね。


>  私はhikaruさんの綿密な作業を多としますが、自分自身は、もっと大くくりにまとめながら、真実を追究してまいります。違った方向にあるhikaruさんのご意見なども参考にさせてくださいね。
>

 了解いたしました。

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from: ueyonabaruさん

2009年12月12日 10時44分54秒

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「Re:Re:Re:Re:偶然と必然」
hikaru0827さんへ



> 人にとっては、原爆は、偶然ではない、という事ですよね。

 上のくだりまで読んで、hikaruさんのお考えと私の考えは大方一緒です。
 神様(根源神)から観れば、偶然であったというのは、そのように考えても良いのではないかということです。偶然すなわち想定外としたのも神様の関与がないということにより、人間の自由性と責任を強調したい意味があります。人間側から、責任逃れのように、神様のせいにしたり、無秩序な偶然性のせいにするのはよくないことです。そこまでの自由性を人間に与えられた神様の念いに感動するとともに、それは恐いことだとも思います。



> また「あらかじめ」という言葉を何度も言われてます。
> あらかじめ決まっている、というのは「必然」という意味です。
> そして、必然ではないから偶然だと言われている様な気がします。右

 そうではなくて、偶然必然という言葉の意味を人間は知っているのだから、それは存在するという単純なことを言っているのです。右と左、上と下も同じ例です。世界の存在における二元性のことです。



> 「あらかじめ決まっていない」を「偶然」だと捉えてられるように思います。
>
> そして、「あらかじめ決まっている必然」と、「人間の自由性」は、共存しないと、思われているように感じます。
> 確かに必然と自由は相反するものに見えます。
>
> 私は、この2つの言葉は、「時間」を組み込む事で、立体的な構造として、成立するのではないか、と思います。

 hikaruさんは、必然(因果律)に重点を置いて、真実を追究されているのです。それは、正しい行為だと思います。

 この議論の発端は、偶然は存在するのかが問われ、ここまで発展してきたのではないでしょうか。偶然はあるとして何の不都合がありましょうか。我々は、例えれば、偶然の嵐の吹きすさぶ中を生きていくもののようです。その中で、偶然を拒否し、必然を求め雄雄しく生きるべきであると思うんです。

 ホントの偶然は、サイコロにあると思っており、これを作り出した人間の面白さを考えます。hikaruさんは、そこにも時間縁起を引き合いにして、偶然性を否定しようとなさいます。ナカナカ思いつかない発想であり、そして相当に努力されております。

 私はhikaruさんの綿密な作業を多としますが、自分自身は、もっと大くくりにまとめながら、真実を追究してまいります。違った方向にあるhikaruさんのご意見なども参考にさせてくださいね。

> 私の定義では、
> 必然とは、原因が分かっているように見える事。
> 偶然は、原因がないように見える事。
> です。
> しかし、それは、人によって違いますから、偶然も必然も、客観的表現ではないのだと思います。
>
> 私の現在の結論は、
>
> 「森羅万象に、未確定から確定に至る時間が内包されており、その過程を律するものが時間縁起である」
> です。
>
> つまり
> 未確定→自由(時間縁起の下)→確定
> (矢印(→)は、時間の流れです。)
>
> という構図です。
>
> かなり偶然に近いという
> 「① サイコロの目の出方」を、この構図にあてはめるとどうなるでしょうか。
>
> 考えてみると、実はこの「サイコロの目の出方」という文章は、随分はしょった言い方ではないか、という気がしてきました。
> 実は、幾つもの行為や動作が含まれたものではないでしょうか。
>
> つまり、
> 1 サイコロを投げる
> 2 サイコロが転がる
> 3 サイコロが止まる(5が出る)
> と、少なくとも3つに分かれます。
>
> そして、私たちが「サイコロの目の出方は偶然では?」と言っているのは、実は
> 「1 サイコロを投げる」という時点での話しであって、その瞬間は、5の目が出る、という結果は、全く原因のない状態であり、その瞬間において、未確定(偶然)と言えます。
>
> 「2 サイコロが転がる」に移ると、
> あるスピードで、あちらに当たり、こちらに転がり、・・・と、因と縁が出てきます。
> つまり、5の目が出る、という結果に向けて因縁がどんどん積みあがります。
> そして、ついに「3 サイコロが止まり」5の目が確定します。
> その5の目は、この期に及んでは出るべくして出たと言える必然です。
>
> つまり、サイコロにおける偶然とは、
> 「サイコロを投げる瞬間においてのみ存在し、その後、ある数字が確定する必然へと変化する前提を持っている」
> のではないでしょうか?
>
>

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from: hikaru0827さん

2009年12月12日 01時23分20秒

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「Re:Re:Re:偶然と必然」
ueyonabaruさんへ


>  やはり、神様の想定外のことを人間は実行したと考えます。神様があらかじめ人間が原爆を落とすことを想定していたとお考えになりますか。そうなると、神様にも責任が及ぶことになります。自由を与えられた人間が責任をとるべきでしょう。



神と言う時、それが根源神か、人格神かで話が変わります。

根源神は、人霊を創造した時、
「失敗しないで欲しい」
と想いながらも、
「失敗するだろうな」
ということは分かっていた、と考えます。

根源神は、全てを在らしめ、ただ見守っている存在ですから、人が、どんな失敗をしようが、罪を犯そうが関与しません。
どこまでを想定していたかは分かりません。
もしかすると、神にとっても人間の動きは、予想外かもしれませんね。
しかし、関与する事と、想定している事は別です。
想定していても関与するとは限りません。
そして、責任は、自由を行使した人間にあります。

9次元霊の立場なら、想定も関与もあるかもしれません。
8次元霊なら、もっと関与しているでしょう。

原爆の罪は、第一義的には人間ですが、あの戦争にアメリカ村の神々が、アメリカの応援をしていた、という話もありますから、神々に責任がないとは言えません。

湾岸戦争時は、
「イエスは悲しみを持って見ていた」けども、
「ミカエルは、積極的に軍事行動を援けていた」
「マホメットは機嫌が悪かった」
と言われています。

人間社会のいざこざに、神界も、影響されているという話だったと思います。

ですので、人間社会に対し、根源神は関与しないが、人格神は関与してくると言えます。

何が言いたいのかというと、ある出来事に、神が関与してようが関与してなかろうが、偶然とも必然とも言えない、と考えますが如何でしょうか。



>  現在、私が考えて偶然性を現すものは、 ① サイコロの目の出方
> であり、また、人間が神様の理念に違う方向へ動いたことなんです。神様は、人間に自由性をお与えなさいましたから、人間が大きな過ちを犯してもこれにタッチしてはいないということなんですね



ueyonabaruさんは、「偶然」を「人間が神様の理念と違う方向に動いた事」と言われています。

それは、根源神にとって、予想外であった、という意味で、
根源神にとっては偶然偶発だと言われているわけですね。

しかし、当の本人にとっては偶然ではありません。

「原爆を落とした事を、神が知らない事であり、偶然と呼ぶ」なら、原爆を落とした人の責任は問えません。偶然ですから。
原爆を作った人の罪も問えません。
反省も、心を正す必要もなくなってしまいます。

人にとっては、原爆は、偶然ではない、という事ですよね。

また「あらかじめ」という言葉を何度も言われてます。
あらかじめ決まっている、というのは「必然」という意味です。
そして、必然ではないから偶然だと言われている様な気がします。
「あらかじめ決まっていない」を「偶然」だと捉えてられるように思います。

そして、「あらかじめ決まっている必然」と、「人間の自由性」は、共存しないと、思われているように感じます。
確かに必然と自由は相反するものに見えます。

私は、この2つの言葉は、「時間」を組み込む事で、立体的な構造として、成立するのではないか、と思います。

私の定義では、
必然とは、原因が分かっているように見える事。
偶然は、原因がないように見える事。
です。
しかし、それは、人によって違いますから、偶然も必然も、客観的表現ではないのだと思います。

私の現在の結論は、

「森羅万象に、未確定から確定に至る時間が内包されており、その過程を律するものが時間縁起である」
です。

つまり
未確定→自由(時間縁起の下)→確定
(矢印(→)は、時間の流れです。)

という構図です。

かなり偶然に近いという
「① サイコロの目の出方」を、この構図にあてはめるとどうなるでしょうか。

考えてみると、実はこの「サイコロの目の出方」という文章は、随分はしょった言い方ではないか、という気がしてきました。
実は、幾つもの行為や動作が含まれたものではないでしょうか。

つまり、
1 サイコロを投げる
2 サイコロが転がる
3 サイコロが止まる(5が出る)
と、少なくとも3つに分かれます。

そして、私たちが「サイコロの目の出方は偶然では?」と言っているのは、実は
「1 サイコロを投げる」という時点での話しであって、その瞬間は、5の目が出る、という結果は、全く原因のない状態であり、その瞬間において、未確定(偶然)と言えます。

「2 サイコロが転がる」に移ると、
あるスピードで、あちらに当たり、こちらに転がり、・・・と、因と縁が出てきます。
つまり、5の目が出る、という結果に向けて因縁がどんどん積みあがります。
そして、ついに「3 サイコロが止まり」5の目が確定します。
その5の目は、この期に及んでは出るべくして出たと言える必然です。

つまり、サイコロにおける偶然とは、
「サイコロを投げる瞬間においてのみ存在し、その後、ある数字が確定する必然へと変化する前提を持っている」
のではないでしょうか?

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from: ueyonabaruさん

2009年12月11日 13時50分35秒

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「Re:Re:偶然と必然」
hikaru10827さんへ

 再度整理して私の考えを提示してみますね。

 現在、私が考えて偶然性を現すものは、 ① サイコロの目の出方
であり、また、人間が神様の理念に違う方向へ動いたことなんです。神様は、人間に自由性をお与えなさいましたから、人間が大きな過ちを犯してもこれにタッチしてはいないということなんですね。

 やはり、神様の想定外のことを人間は実行したと考えます。神様があらかじめ人間が原爆を落とすことを想定していたとお考えになりますか。そうなると、神様にも責任が及ぶことになります。自由を与えられた人間が責任をとるべきでしょう。

 サイコロの目の出方も、神様は関知しないと考えるべきではないでしょうか。サイコロの自由です。もちろんほかのエネルギ-が加わらないことを前提にします。

 神様は、どのように人間に関わってくるかというと、人間が過ちを犯したあとのことではないかと考えるんです。あらかじめ、関わることはありません。あらかじめ関わっていたら自由を与えたことにはなりませんから。人間、守護霊、指導霊、高級霊、悪魔、魔王などは関わってくるでしょうが、第一原因者である神はそうでもないはずです。

 偶然性は人間に属するものかもしれません。人間の自由性が偶然を発生させ、善悪を発生させるのかもしれません。 

 今回は一方的な発言となり、申し訳ありませんでした。

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from: hikaru0827さん

2009年12月10日 19時35分24秒

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「Re:偶然と必然」
Ueyonabaruさんへ

> cosmoさんが前に言われた、「神は、偶然と必然を存在せしめている」という意味のご発言がありました。これについて、吟味してみましょう。偶然、すなわち原因の分からないものの例を探してみ
ます。

> ① サイコロの目の出方
> ② 地獄の発生
> ③ 迷宮入りの殺人事件の真相
> ④ うっかりしたミス
> ⑤ 日米の開戦
> ⑥ ナチスの大量虐殺
> ⑦ 原爆の発明と投下

> 以上、7つ挙げましたが、ホントに原因のないもの、推定できないものは、①のみしかないようです。それとて、変数の要素が加われば、偶然性を維持することが危うくなりますね。また、サイコロの偶然性を編み出したのは人間であり、自然ではありません。


原因がわからないものを他にあげるとすると、

⑧ なぜ光速は秒速30万キロで、不変なのか?しかも、なぜ光速だけ、スピードの足し算引き算が出来ないのか?
⑨ 重力は、質量により空間が曲がり、それにより発生するとなっているが、なぜそんなことが起こるのか?

などがあります。
…しかし、これは科学的テーマであり今なお科学者によって解明が続いているのでしょう。
彼ら、科学者は偶然だと思っていないのではないでしょうか?
すると、「偶然=原因のわからないもの」という定義は少し違うのではないでしょうか?



> しかし、神様は人間を善なるものとして創造したというのが、真実であるわけですから、神様のお立場から観れば、ご自身の思惑どおりに人間は進んでくれなか>ったということは、これは偶然の出来事であったといってもいいのではないでしょうか。

もう一つ、この部分に異議を唱えてみます。

「人は、神の思惑通りに動かなかった」というよりも、
「人は、神の理想通りには動かなかったが、しかし神の想定内である」
と考えます。

「神は、人間を善なるものとして創造した」という部分も、
補足しますと、
「神は、幼き子供を創造された」
「その幼き子供は、無限の可能性を持ち、いずれ神となる力を備えている」
「しかし、今現在は、未熟である」

と考えますが、どうでしょうか。

親は、子供に期待しますし、よりよい未来を希望します。
しかし、親もそんなに世の中、うまくいかないことも知っています。
子供は、失敗しながら、ゆっくり成長するものです。

神と人間の関係も同じではないでしょうか?



Hiraokaさんへ

上の話と、少し関連するでしょうか。

>「遊び」も重要な経験であろうと思われます。
>「後退」に見えるものも、神にとっては重要な経験かも知れません。
>だとすると、ここは「向上」であるよりも、「変化」と「変化を経験する場」が人生であるかも知れませんね。

そのとおりだと思います。

私は、向上とか、成長とかいう言葉を使ってますが、それは失敗も含むと考えています。
つまり、失敗も後退も、その経験を積んだ、という点で収穫です。
地獄に落ちた、という経験があってこそ、地獄にいる人の気持ちも分かるというものです。

そのような経験もしながら、人間完成への道を歩んでいるのだと思います。


つまり、Ueyonabaruさんとの話に出てきた、「人間の犯す罪・失敗」も神にとっては、意図したものではないけども、想定内ではあるかもしれません。

それも重要な経験であり、成長の過程だということです。

(とても耐えられないような極悪非道な事をそのように捉える事に、いささか苦痛も感じますが、それは、私たちが実相を知らないからかもしれません)


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from: ueyonabaruさん

2009年12月10日 13時43分57秒

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「偶然と必然」
hikaru0827さんへ


 色々と考えを巡らせている様子が伝わってきます。ギリシャのソフィストたちが自分の思考を頼りに真理を求めていたように、我々も自分自身の想像力、知性、経験、などを基に、考えてみましょう。



> >  そして、私のいう偶然というのは、まさしく運動の原点みたいなものなんです。因果律が秩序性だとすると、偶然はこれを破り、動きを生じせしめるもの。
> >森羅万象は、因果律とそれとともに偶然の双方が働くことにより新しい動きが生じる。
>
>
> Ueyonabaruさんが、偶然を運動の原点と言われたの事とも、イメージが近いと思いますが、どうでしょうか。
> ただ、“双方が働く”のではなく、偶然から必然へと変化する時間を、全てのモノが持っていて、その変化の規律こそ、時間縁起(原因結果の法則)と考えます。

 まず、言葉の定義をしてみます。偶然とは:ある結果が生じたとして、その原因がない分からないこととします。そして、必然とは:ある結果が生じたとして、その原因がある、推定することができるとします。ここでは、一切の変数というものは除きます。

 仮説ということで進めますので、前に言ったこととの整合性などあまり考えないようにしてみますね。

 cosmoさんが前に言われた、「神は、偶然と必然を存在せしめている」という意味のご発言がありました。これについて、吟味してみましょう。偶然、すなわち原因の分からないものの例を探してみ
ます。

 ① サイコロの目の出方
 ② 地獄の発生
 ③ 迷宮入りの殺人事件の真相
 ④ うっかりしたミス
 ⑤ 日米の開戦
 ⑥ ナチスの大量虐殺
 ⑦ 原爆の発明と投下

 以上、7つ挙げましたが、ホントに原因のないもの、推定できないものは、①のみしかないようです。それとて、変数の要素が加われば、偶然性を維持することが危うくなりますね。また、サイコロの偶然性を編み出したのは人間であり、自然ではありません。

 さらに考えを進めてみます。
②の地獄発生と⑥のナチスの大量虐殺についてですが、これらの発生は、人間に与えられた自由性に依るといえましょう。恐いことに、神様は、ここまでの自由性を人間に与えていると考えねばなりません。神様は、非情であるともいえます。神も仏もあるかという気持ちも分からないではありません。

 なぜ、人間は地獄を作り出したのか、それは精神の自由性でした。なぜ、そのような方向へ自由性を発揮したのかと考えると、分からないものです。それは人間の中にある悪ということも考えられます。悪魔であり、無明であり、共業でありましょう。

 しかし、神様は人間を善なるものとして創造したというのが、真実であるわけですから、神様のお立場から観れば、ご自身の思惑どおりに人間は進んでくれなかったということは、これは偶然の出来事であったといってもいいのではないでしょうか。

 人間は自由性をどのような方向で発揮するか分かりませんね。あたかも、サイコロのどの目がでるか予測できないように、どこに転ぶか分かったものではありません。

 どうも、偶然というのは、人間が起こすもののようです。神様はそのような人間を許し、そしてその手当てにいつも奔走しているのかもしれません。

 ここまで来て思うのは、やはり偶然論と必然論のどちらも正しいとしなければならないようです。 

 

 

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from: hikaru0827さん

2009年12月09日 16時23分08秒

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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:佐賀支部精舎などでのご講話から」
Ueyonabaruさんへ

>ご返事ありがとうございました。
>少し失礼かとも思いましたが、遠慮を棄て、お尋ねという言い方をしてしまいました。真理探究のためだと、ご容赦願います。


いえ何の問題もありません。
遠慮しないでくださいね。




> サイコロの目が次にどの目が出るか分からないような様子を表すのに偶然という言葉が使えると思えます。なんの因果関係もないと見立てることが可能ですから(サイコロの偶然性は認めていただけますか?)。


これまでの私の主張に沿ってお答えしますと、
「必然でもないし、偶然ともいえない」です。

サイコロの目は、1/6という確率があるにせよ、次に出る目が何かは、分かりません。
あらかじめ、決まっているわけではありません。
つまり必然ではない、といえます。
しかし、本当に何の法則性もないのか?という疑問は常にあります。
偶然としてしまえば、それで話はお終いですが、なにかしら法則性が存在するかもしれない、という探究心を維持するには、「偶然」ではなく、「分からない事」とするべきかと思います。


これまで私が「必然」と呼んでいたのは、「なるべくしてなった」という意味です。
「あらかじめ決まっている」という意味ではありませんでした。
そして、「なるべくしてなった」という意味の「必然」は、イコール、「因+縁=果」の法則が真実であるという事を指したものです。


> 偶然とは必然と対立する言葉です。同時に、偶然があるから必然もあるということも言えるのではないでしょうか。人間は、偶然も必然もその意味をあらかじめ知っているのです。
>それからすると、偶然も存在すると言えそうです。上があるから下もあるも、同じことです。


偶然と必然という言葉を改めて、考えなおしました。
偶然も必然も、そもそも存在しないのではないか、という仮説を立ててみました。
偶然必然は幻想であるという論です。
偶然必然は、人の主観です。その人がそのように感じた、という事です。
ある人にとって、「ハサミで怪我したこと」は、偶然だと思っても、他の人からすれば、「必然だ」と思うかもしれないのです。
偶然も必然も、思ったこと感じたことであり、事実とは限りません。
そういう意味で、hiraokaさんが言われた、
“「現象が偶然であるか必然であるかは、人間意識が決めるものではないだろうか?」”
は、正鵠を射たものだと思います。


私たちが、話しを続けるならば、「偶然と必然」は、「未確定と確定」と言い換えるべきではないかと、思います。
サイコロの出る目は、未確定なのか?確定したものなのか?という事になります。

そして、「サイコロの出る目は、未確定か、どうか?」に対して、
「否、否 ・ 然り、然り」
と答えてみます。

cosmo77さんの言われた、中道的答えとなりました。

これは、今まで私が言っていた「分からない」でもなく、「どちらも共存する」という意味でもありません。
『森羅万象すべての事象には、偶然と呼ばれる未確定から、必然と呼ばれる確定までの時間を内包している』
という意味です。

サイコロを振る瞬間は、その性質は偶然(未確定)です。そして、時間の流れとともに、必然(確定)へと変化していくのです。
偶然と必然は、別々に存在するものではなく、時間の流れの中で変化するものではないか、としてみます。

「森羅万象すべての事象を、宙に浮かんだシャボン玉1つ1つ」とイメージすると、浮かんでいる間は、偶然(未確定)という状態ですが、はじけて結果として顕れた時点で、必然(確定)となります。


>  そして、私のいう偶然というのは、まさしく運動の原点みたいなものなんです。因果律が秩序性だとすると、偶然はこれを破り、動きを生じせしめるもの。
>森羅万象は、因果律とそれとともに偶然の双方が働くことにより新しい動きが生じる。


Ueyonabaruさんが、偶然を運動の原点と言われたの事とも、イメージが近いと思いますが、どうでしょうか。
ただ、“双方が働く”のではなく、偶然から必然へと変化する時間を、全てのモノが持っていて、その変化の規律こそ、時間縁起(原因結果の法則)と考えます。

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from: ueyonabaruさん

2009年12月09日 12時31分09秒

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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:佐賀支部精舎などでのご講話から」
niraoakaさん皆さんへ


> 幸福の科学が嫌いなニーチェの言葉なんですが、・・・
> 「未知の物事を既知の物事にしようと解釈に努めるのは、人を癒し鎮め満足させる。未知の物事には危険、不安、心配が付きまとう。そして第一本能が働く。第一原理「どんな説明であっても無いよりはましだ」。ゆえに、原因を求めようとする衝動は、恐怖心によって起こるのである。」

 ニ-チェは恐い人だという印象がありますので、読んではおりません。一方、すごく思索の深い方であるとの感じがあります。

 日本の税理士界の草創のときに大きな仕事をした方のTV番組がありました。名前は忘れたのですが、税理士の独立の地位を確立するキッカケを創った方のようです。その方は、ドイツに行かれ、そこでドイツ人に向けての講演をしたのですが、その際、ニ-チェの言葉を引き合いにしてお話されました。

 上のニ-チェの言葉ですが、私の心理状況を見つめたときには、これとは若干異なるように思います。元々、神様が好きだったので、ニ-チェのようには思わなかったのかもしれません。「原因を求める衝動」というのは分かるのですが、それが「恐怖心」によるとは思えません。西洋キリスト教の原罪意識があって、彼はそのように思ったのでしょうか。

 ニ-チェの有名な言葉に、「神は死んだ」というのがありますが、その辺のところかいつまんで教えていただけますか。


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from: ueyonabaruさん

2009年12月08日 10時54分59秒

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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:佐賀支部精舎などでのご講話から」
hikaru0827さんへ

 ご返事ありがとうございました。
 少し失礼かとも思いましたが、遠慮を棄て、お尋ねという言い方をしてしまいました。真理探究のためだと、ご容赦願います。


> 因果の法則について、2つの視点があるように思います。
>
> 1つは、人の行為や思いに関する事です。ポイントは自由と責任・修行と成長です。
> この中で、私が「偶然」を否定するのは、偶然には”因果系列から外れた”と意味があるからです。
> 私は因果の法則を基本ルールだと思っています。
>
> 2つ目は、自然の摂理や、法則に関する事です。
> ueyonabaruさんは、こちらが気になっておられるようです。
>
> 現在、人類が発見している原理や法則は、数多くあります。
> 星の運行や、生物の自然淘汰についても、そうです。
> その「原理・法則がある」ということは、その法則に従った未来予測が出来るということです。
> それは、「偶然」に”予期せぬこと”という意味があることを思うと、日食も、鳥が空を飛ぶ事も、偶然とは呼ばない、という事ではないでしょうか。

 そうですね。

 サイコロの目が次にどの目が出るか分からないような様子を表すのに偶然という言葉が使えると思えます。なんの因果関係もないと見立てることが可能ですから(サイコロの偶然性は認めていただけますか?)。

 サイコロの偶然性で世の中の事象が説明できるとは思ってはおりません。すべてに因果関係があるとみるべきでしょう。

 cosmoさんが前に、神は偶然の存在を良しとしておられるという意味の言葉を述べられましたが、今でもそれが脳裏に残っております。
 私なりに解釈すれば、神は、不可知の世界に人間を置かれたというような感じがあります。そして、そのような世界の中で、我々一人一人が真理を求めていくという状況でしょうか。  色々と考えてみますね。

 偶然とは必然と対立する言葉です。同時に、偶然があるから必然もあるということも言えるのではないでしょうか。人間は、偶然も必然もその意味をあらかじめ知っているのです。それからすると、偶然も存在すると言えそうです。上があるから下もあるも、同じことです。

 われわれは、信心するものとして、偶然を拒否する方向に行こうとします。因果の理法を信頼し、それに基づき世界を考えていこうとするのですね。そしてその先には、仏神が控えているわけです。
 



> 考える上で、分かりにくいので、2つの視点として分類しましたが、この2つは絡みあっているものかもしれません。
>
> ですから、原理や法則であれば、その予測はかなり正確でしょうけど、人の意思や行為の因縁が、変数として絡んでくれば、その結果も予想外になるかもしれません。

 そうですね。



> > 私は、因果論ですべてを説明しようとすると窮屈になってしまうのではないのかと思っているんです。私達には、分からないことがあるというのを認めて、それを偶然(唯物論の偶然ではない)として、拘泥しないのも処世術ではないかと思うんです。

> 以前、先生の話の内容に疑問があった場合について
> 「分からない・・・本当だろうか?」という事案については、棚上げし保留することも、1つの知恵だと言いました。
> それと、同じですね。

 そうです。




> ただ、それを「偶然」という言葉で、表すのは適当ではないと思うんです。

 適当ではないかもしれません。




> 「分からない」事を棚上げしておけば、いざという時、下ろして再検討が可能です。
> 棚が、一杯になれば、「忘れる」という事もあるでしょう。
> どちらかといえば、忘れている事も多いかもしれません。
> しかし「忘れた」事は、思い出す事が出来ます。
> そのうえで、再検討出来るわけです。

 忘れることもよくあります。気をつけねば・・・。



> もし、「分からない」事を、「偶然」という棚にしまってしまうと、その棚から下ろしても、思い出しても、それは「偶然」の産物と認知されておしまい、という恐れがあります。

 そうはしないとは思いますが、私の場合は



> 日食や、鳥の生態について、「偶然」ではなく、ただ「分からない事」という棚に収納すればよいのではないでしょうか?

 そうですね。



> >  そして、私のいう偶然というのは、まさしく運動の原点みたいなものなんです。因果律が秩序性だとすると、偶然はこれを破り、動きを生じせしめるもの。森羅万象は、因果律とそれとともに偶然の双方がが働くことにより新しい動きが生じる。 
> >
> >  それでも、hikaruさんがおっしゃることは正しいとは思っているんですよ。
>
> なんとか、「偶然」以外で表現出来ない物でしょうか。
> 殆どの人が、そこまで分かった上で「偶然」という言葉を使いません。
> 日常で使う分には問題ないでしょうが、真理を語る時、「偶然」という言葉は使うと、誤解される危険があると思うのです。

 私の提示したモデルは適切なものでなかったようです。他になにか、ダイナミックな世界観が示せるようなモデルはないでしょうか
ね。



* みんさんと、このように真理の話ができることを感謝しております。

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from: hikaru0827さん

2009年12月08日 00時20分31秒

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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:佐賀支部精舎などでのご講話から」
ueyonabaruさんへ

>  そこで、hikaruさんにお尋ねしますが、日食はなぜ起こるのでしょうか。その意味はどうなのでしょうか。
>これを原因・結果の理屈で考えてみるとどうなのでしょうか。

>  鳥はなぜ空を飛ぶことができるのかについても、因果論で説明できるところと、そうではない部分が出てきます。これは、神様がそのように創ったからだということになるのでしょう。


まず、最初に結論を言っておきます。

「分かりません」
「今の私の認識力では分かりません」

というのが私の答えです。


因果の法則について、2つの視点があるように思います。

1つは、人の行為や思いに関する事です。ポイントは自由と責任・修行と成長です。
この中で、私が「偶然」を否定するのは、偶然には”因果系列から外れた”と意味があるからです。
私は因果の法則を基本ルールだと思っています。

2つ目は、自然の摂理や、法則に関する事です。
ueyonabaruさんは、こちらが気になっておられるようです。

現在、人類が発見している原理や法則は、数多くあります。
星の運行や、生物の自然淘汰についても、そうです。
その「原理・法則がある」ということは、その法則に従った未来予測が出来るということです。
それは、「偶然」に”予期せぬこと”という意味があることを思うと、日食も、鳥が空を飛ぶ事も、偶然とは呼ばない、という事ではないでしょうか。


考える上で、分かりにくいので、2つの視点として分類しましたが、この2つは絡みあっているものかもしれません。

ですから、原理や法則であれば、その予測はかなり正確でしょうけど、人の意思や行為の因縁が、変数として絡んでくれば、その結果も予想外になるかもしれません。



> 私は、因果論ですべてを説明しようとすると窮屈になってしまうのではないのかと思っているんです。私達には、分からないことがあるというのを認めて、それを偶然(唯物論の偶然ではない)として、拘泥しないのも処世術ではないかと思うんです。



以前、先生の話の内容に疑問があった場合について
「分からない・・・本当だろうか?」という事案については、棚上げし保留することも、1つの知恵だと言いました。
それと、同じですね。
ただ、それを「偶然」という言葉で、表すのは適当ではないと思うんです。
「分からない」事を棚上げしておけば、いざという時、下ろして再検討が可能です。
棚が、一杯になれば、「忘れる」という事もあるでしょう。
どちらかといえば、忘れている事も多いかもしれません。
しかし「忘れた」事は、思い出す事が出来ます。
そのうえで、再検討出来るわけです。

もし、「分からない」事を、「偶然」という棚にしまってしまうと、その棚から下ろしても、思い出しても、それは「偶然」の産物と認知されておしまい、という恐れがあります。

日食や、鳥の生態について、「偶然」ではなく、ただ「分からない事」という棚に収納すればよいのではないでしょうか?



>  そして、私のいう偶然というのは、まさしく運動の原点みたいなものなんです。因果律が秩序性だとすると、偶然はこれを破り、動きを生じせしめるもの。森羅万象は、因果律とそれとともに偶然の双方がが働くことにより新しい動きが生じる。 
>
>  それでも、hikaruさんがおっしゃることは正しいとは思っているんですよ。

なんとか、「偶然」以外で表現出来ない物でしょうか。
殆どの人が、そこまで分かった上で「偶然」という言葉を使いません。
日常で使う分には問題ないでしょうが、真理を語る時、「偶然」という言葉は使うと、誤解される危険があると思うのです。

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from: ueyonabaruさん

2009年12月07日 18時48分30秒

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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:佐賀支部精舎などでのご講話から」
 hikaru0827さんへ


 偶然と必然について、議論は尽きませんね。興味あるテ-マです。

 そこで、hikaruさんにお尋ねしますが、日食はなぜ起こるのでしょうか。その意味はどうなのでしょうか。原因は、月が太陽の光を妨げるということなんですね。これは、原因・結果の理屈で分かります。さらに、意味を考えてみます。どういう意味があってそのような現象は起こるのかと、これを原因・結果の理屈で考えてみるとどうなのでしょうか。

 そこまで考えを進めてしまうと、どうでしょう、不可解なところがでてきます。私は、それも原因というか何か意味のあることだろうとは実は感じているんですが、やはり分かりませんとしかいいようがないのですね。

 鳥はなぜ空を飛ぶことができるのかについても、因果論で説明できるところと、そうではない部分が出てきます。これは、神様がそのように創ったからだということになるのでしょう。

 日食については、私があげた原因のほかにもっと原因があるかもしれませんし、もしくはそれを科学が解き明かしてくれるかもしれません。

 しかし、鳥が空を飛ぶ意味については、すぐに創造主に原因を求めざるを得ないのではないでしょうか。そして、創造主の心が分かれば、その意味も解けるでしょう。

 とりとめもないことを書いてしまいましたが、私は、因果論ですべてを説明しようとすると窮屈になってしまうのではないのかと思っているんです。私達には、分からないことがあるというのを認めて、それを偶然(唯物論の偶然ではない)として、拘泥しないのも処世術ではないかと思うんです。

 私の認める偶然というのは、意味のある偶然というものです。言葉は矛盾してますね。意味があれば偶然ではないと・・・。

 そして、私のいう偶然というのは、まさしく運動の原点みたいなものなんです。因果律が秩序性だとすると、偶然はこれを破り、動きを生じせしめるもの。森羅万象は、因果律とそれとともに偶然の双方がが働くことにより新しい動きが生じる。 

 それでも、hikaruさんがおっしゃることは正しいとは思っているんですよ。

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from: ueyonabaruさん

2009年12月07日 11時14分41秒

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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:佐賀支部精舎などでのご講話から」
 hiraokaさん皆さんへ


> >・・・・・、しかし、佐倉哲さんは・・・・・
>
> この方は、「この世の裁判官」に向いた方なのではないでしょうか?
> それはそれで、立派に判断されていると思います。
> 同じく、「中立の正当性」を価値観として第一義にされる人に取っては「個人の神格化」や「ファッシズム」をもっとも嫌うと思います。
>
> > しかし、精神の世界においては独裁者というのはあり得ないのではないでしょうか。
>
> 自立した自由な精神で自己と他を位置づけられる人ならば、独裁者など「まっぴらごめん!」と云うはずです。


 佐倉さんが裁判官というのは面白いですね。裁判官になるとすれば、きっと優秀な裁判官でしょう。

 仏陀再誕では、次の言葉があります。

 
 大宇宙には、その大宇宙を統べるところの偉大なる大霊がある。
 その大霊が、その分身を地上に遣わした時、
 これが、現成の仏陀となる。
 現成の仏陀は、その使命、立場のゆえに、
 偉大なる大霊の法を説く。
 偉大なる大霊の法は、仏陀を通して説かれ、
 仏陀を通して説かれたその教えが、
 弟子たちの力によって、
 法典として編纂されていく。
 その法典のなかを流れている教えを、久遠の法という。


 佐倉さんは上の言葉にひっかかったのでしょうね。個人的な思索の世界を否定される思いがあったと思われます。精神の世界の独裁者である大川隆法となってしまいました。この気持ちは分かります。

 しかし、大川先生のおっしゃることを、そうですねと思い、素直に信じる方々もいるのですから、ものごとはやはり個人的な問題に帰結するわけです。主体は、その人一人です。まさしく個人がどのように決定するかなのです。

 ともあれ、大川先生のこの自信はどこから出てくるのでしょうか。ここで、イエス様の言葉を引いてみます。


ヨハネ伝14

 トマスはイエズスに言った。「主よ、どこへおいでになるのかわたくしたちは知りません。どうしてその道がわかりましょう」。イエズスはトマスに仰せになった。

「私は道であり、真理であり、いのちである。
 わたしを通らなければ、
 だれも父のもとに行くことはできない。
 もしあなたたちがわたしを知るならば、
 わたしの父をも知るであろう。
 今から、あなたたちは父を知ることになる。
 いや、すでに父を見たのだ」。
  

 この聖書の言葉にあるとおり、イエス様の自信も相当なものです。大川先生によく似ておりますね。

 救世主ともなると、このような言葉を発するのではないでしょうか。幸福の科学はある一面、キリスト教と非常によく似ております。大川隆法を救世主として、エル・カンタ-レとして信じなければならないようですよ。とくに、この頃は、教団はそのことを強調しておりますね。この間の、「仏陀再誕」の映画でもそうでした。

 いや、当初からそうであった筈です。私が、今頃になって気づいたという鈍感者だったのです。 





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from: hikaru0827さん

2009年12月07日 04時01分48秒

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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:佐賀支部精舎などでのご講話から」
hiraokaさんへ

>ぼくは、おふたりの討議を舌を巻くくらいに感心して読んでおります。

ご謙遜ですよ。遠慮なくご意見くださいね。


> ぼくは、「現象が偶然であるか必然であるかは、人間意識が決めるものではないだろうか?」と思われるのです。

> やはり、歴史上の真の智者たちが言い残したように、「分からない」と云うのがもっとも「正確?」な表現ではないかとも思えます。
> ぼくには「偶然と必然」の問題は、自分が選び取るもののように思えるのです。


一つの真理だと思います。
偶然だと思った人にとって、その出来事は偶然であり、
因果関係があると思った人にとって、それは必然なのかもしれません。


> ぼくには、「神は偶然を利用している」のではないかと思えるのです。
> それはちょうど、「神が完全であるとすると、不完全と云うものが無いと云う矛盾」を超越するもののように思えるのです。


不完全と見える事象や存在は、実は「不完全なもの」ではなく、「未だ完全ではないが、完全になろうとしているもの」ではないでしょうか?
完全なる神が存在するとして、その神が創造された多くの原石に与えられた性質が、向上指向であり、神はその成長過程を楽しんでいるとすると考えます。
これは、完全不完全の矛盾の説明になりませんか?
しかし、その大がかり、かつ、壮大なレースの、ルールこそ因果の法則だと思っています。


> ぼくたちは、ありとあらゆる可能性の現われをじかに観察してどのように思いどのように選び取るかをまかされた神の代理人としての人生を送っているとも思えるのです。


そのとおりだと思います。
私たち”神の代理人”こそ、、「未だ完全ではないが、完全になろうとしているもの」だと思います。

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from: hiraokaさん

2009年12月07日 02時22分34秒

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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:佐賀支部精舎などでのご講話から」
みなさん、こんばんは。

>hikaruさん、cosmoさん
ぼくは、おふたりの討議を舌を巻くくらいに感心して読んでおります。
お二人とも、ぼくなんかよりも遥かに徹底的に思考される素晴らしい逸材だと尊敬したくなります。
ぼくには、偶然と必然の問題は分かりません。

参考になるかどうか分かりませんが・・・・
ぼくは、「現象が偶然であるか必然であるかは、人間意識が決めるものではないだろうか?」と思われるのです。
たとえば、皆既日食は偶然なのかあるいは必然であるのか?、そして皆既日食の現象は意味があるのか無いのか? 
お二人の討議に触発されて、ぼくは一億年前の皆既日食は現在のものよりも暗かったかどうか?計算までしてみました。
しかし、こう云った事はどんな結論が出ようとも、断定はできません。
やはり、歴史上の真の智者たちが言い残したように、「分からない」と云うのがもっとも「正確?」な表現ではないかとも思えます。
ぼくには「偶然と必然」の問題は、自分が選び取るもののように思えるのです。
このことこそ、ueyonabaruさんが大事にされておられる「信仰心」に通じるものがあるように思えるのです。

最近の科学界は、すべての小さな現象(原子の振る舞いから、はては人間の行動も)偶然に任せて、そのなかから自己成立的に帰結するパターンを読み取る研究に軸足が移りつつあるようです。
還元主義(現象を分解してひとつひとつの性質を調べ、次を予想する)は行き詰まり、新たな手法が模索されているようです。
でも、この手法が大きな成果をおさめる未来には、きっと新たな疑問が生じるのだろうと思います。
ぼくには、「神は偶然を利用している」のではないかと思えるのです。
それはちょうど、「神が完全であるとすると、不完全と云うものが無いと云う矛盾」を超越するもののように思えるのです。

>ueyonabaruさん
>どのようなご返事がくるのか不安でありましたが、・・・

そんな不安は持たないでください。
ueyonabaruさんから何かを云われて怒るような僕でしたら、そのていどの僕です。
我を忘れて怒ったり、人の存在を否定したことがあるのは、ぼくにとって遠い昔のことでありたいです。

>私の元生長の家の友人のことが頭にあり、書きました。

以前その方のことを聞きましたので、その人のことだとすぐに分かりました。鵜呑みの表現が実に文学的に美しかったです。
しかし、ぼくたちも大同小異であることは否定できないように思えます。

幸福の科学が嫌いなニーチェの言葉なんですが、・・・
「未知の物事を既知の物事にしようと解釈に努めるのは、人を癒し鎮め満足させる。未知の物事には危険、不安、心配が付きまとう。そして第一本能が働く。第一原理「どんな説明であっても無いよりはましだ」。ゆえに、原因を求めようとする衝動は、恐怖心によって起こるのである。」

これは、ぼくらにとっても同じだと思います。
ぼくらにできることは、このことを楽しみと喜びに変えることなのだろうと思うのです。

>・・・・・、しかし、佐倉哲さんは・・・・・

この方は、「この世の裁判官」に向いた方なのではないでしょうか?
それはそれで、立派に判断されていると思います。
同じく、「中立の正当性」を価値観として第一義にされる人に取っては「個人の神格化」や「ファッシズム」をもっとも嫌うと思います。

> しかし、精神の世界においては独裁者というのはあり得ないのではないでしょうか。

自立した自由な精神で自己と他を位置づけられる人ならば、独裁者など「まっぴらごめん!」と云うはずです。

問題はふたつあります。
1)自分が何を喋っているのか分かっていない人達(自分も含めて)が、なんと多いことか!
  例:(居酒屋で『政治家なんてのは、みんな金儲けさ』)
2)大川さんは独裁者でないにしても多くのことを断言しているのですから、そのことについて責任を一身に負う覚悟があるのかどうかが、ぼくらには分からない。

佐倉哲さんや、ファッシズム嫌い、右翼嫌いの人たちは、このことを一番懸念しているのだろうと思います。(佐倉哲さんが右翼嫌いかどうかは知りません。少なくともファッシズム嫌いのようです)

もうひとつ、ヒトラーが自殺してくれても、武士が切腹してくれても、やくざが小指を詰めてくれても、歴史は戻せない。

>この方のように、ものすごく頭がよい方ですごい魅力のある方々が、最後の結論として出すものが、私からみれば、なんともつまらないものになってしまうことがよくあります。立花隆さんや佐藤優さんもそのような方々です。

だからと云って、ぼくらにも説明できないでいるのですよ。
そこへ、その説明をしてくれる大川さんが現われたわけです。
そして、大川さんの説明をぼくらは唯一と信じたいわけです。
なぜならニーチェの言う通り、そのほうが安心できるからです。
ニーチェの言うことは、「自分に自信が持てない」、「自分に責任が及ぶのが怖い」と云う誰もが持つ人間心理を云っていますね。ぼくも同じです。

ueyonabaruさんが、つまらない(ぼくもそう思いますが)と思われるのは、期待し過ぎかも知れません。あるいは、一種の「丸投げ」の真理かも知れません。

>やはり、ここらあたりからはもっとご説明が必要ですね。つながっているというのは、理解できます。

ぼくたち東洋人は比較的に生まれ変わりの概念を幼少の頃から言い聞かされているので、わりあいすんなりと受け入れますが、西洋人に取ってはもっとも分かりにくい概念です。
それもそのはず・・・、身に覚えのないことまで自分の責任にされるのですからね。
だからこそ、繋がっているのですが・・・・。
釈尊が「分けたことこそが、最初の間違いだ」と云われたのはそのとおりなのでしょう。
しかし、分けずに思考できる正常な人間はめったに無さそうですし、居たとしてもその人はおそらくその思考を表現できないかも知れません。
このことが、ぼくたちが存在する理由に思えるのです。
ぼくたちは、ありとあらゆる可能性の現われをじかに観察してどのように思いどのように選び取るかをまかされた神の代理人としての人生を送っているとも思えるのです。

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from: ueyonabaruさん

2009年12月06日 10時28分24秒

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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:佐賀支部精舎などでのご講話から」
hiraokaさん皆さんへ

 どのようなご返事がくるのか不安でありましたが、はからずも、ありがたいお褒めの言葉をいただいてしまいました。

> これも、執着なのかも知れません。
> ほとんどの人たちは考えたことも無いのがほとんどなのでしょうが、考えた上で分からなくとも平気な人たちもたくさん居ます。
> 後者のタイプの人たちは楽天的で人生をエンジョイしている人達が多いようです。
> ぼくらはわざわざ苦しんでいるかのようですよ。

 お互い、趣味が似ているようで・・・・・。執着でないような形ですすめたいものですね。



> >幸福の科学に入り、また抜けていった人々のことを考えているのです。このかたがたは、大川隆法のいうことを鵜呑みにしたのでしょう。鵜呑みにして、その後ちゃんと消化してくれればそれでも結構な結果がだせたとも思うんです。鵜呑みにしたものを、あとですぐに吐き出してしまいました。吐き出して後には、自分が飲んだものは悪いものだといい始めました。
>
> ぼくはueyonabaruさんの云われるような吐き出すタイプではないと思っています。
> 大川さんには感謝しています。

 私の元生長の家の友人のことが頭にあり、書きました。彼は、幸福の科学へ三帰誓願をしたのは私よりも早く、幸福の科学が有名になってマスコミで騒がれるようになったころにはすでに会員であり相当な熱中ぶりでした。しかし、まもなく退会をしたのですが、そのときには、大川隆法はペテン師、詐欺師と言う様になっておりました。この変貌は、いったい何なんでしょうね。大川隆法に過度の期待をしたかもしれませんね。

 私がたびたび言及する佐倉哲さんという方がおります。反大川隆法の考えの方です。大川隆法は、独裁者であるというのです。自分が仏陀であり、われのみを信じろというのは独裁者であるというのですね。これは、大川先生の仏陀再誕において、先生がおっしゃった言葉からそう感じたのだと思うんです。たしかに、仏陀再誕で書かれた言葉は、自由な思考を重んじる人間にとっては、一見、耐え難いものがあるといえましょう。

 しかし、精神の世界においては独裁者というのはあり得ないのではないでしょうか。精神は自由ですから、だれもその自由性を侵すことはできないでしょう。大川隆法がわれを信ぜよと言っても信じる信じないは個人の問題であることは厳然たる事実です。勝手に言わせておけばいい話ですから。

 この方は、しかし多くの反大川隆法派のものとは違う姿勢があります。彼のブログ上で、身内の者が幸福の科学に入って困っているとの相談を受けた際に、その相談者に対し、あなた自身が幸福の科学の本を読み学ぶことが必要である、単にやめろやめろと言ったところで問題は解決しないという風なことを言われる方です。また、ある大学生に対しては、幸福の科学がいいと思ってあなたはお入りになったのだから、そこにもよいところはあるはずだから・・・・・とも言います。グル-プをつくり、反大川隆法運動をすることに対しても批判しております。

 しかし、佐倉哲さんは、反宗教、反信仰、反形而上学、反観念論であることを明言し、自己自身の思想的立場を唯物論の色合いの濃い知球モデルとして最後には提案されるのですが、ここからは私と全く相容れないものとなってしまいました。
 
 この方のように、ものすごく頭がよい方ですごい魅力のある方々が、最後の結論として出すものが、私からみれば、なんとも
つまらないものになってしまうことがよくあります。立花隆さんや佐藤優さんもそのような方々です。




> ですが、大川さんは自身が釈尊の生まれ変わりであることを公言していますので、それを見極めたい気持ちがあります。

 そのお気持ちは当然分かりますよ。



> 現在のぼくは、大川さんは釈迦を恣意的に表現しているように思えますが、考えてみれば大川さんひとりに限らず、ぼくらも皆も釈迦でもイエスでも繋がっているはずですね。

 大川先生の解釈力だと思います。大川先生のお考えです。




> だとすれば、大川さんが「釈迦はこうであった・・・」と云うことは、すべてぼくらには否定できないことであろうと思われます。
> と同時に、誰がどのように釈迦を表現してもそれは否定できません。

 自分自身が受け入れるかどうかなのでしょう。



> このことは、「生まれ変わりの概念」の大変むずかしいところを表しています。
> つまり、ueyonabaruさんが釈迦の生まれ変わりであっても、ぼくがそうであっても不思議は無いことになるのです。
> そうであるからこそ、人と人は繋がっている証拠になりうるのです。
> ややこしいですが、わかっていただけるでしょうか。

 やはり、ここらあたりからはもっとご説明が必要ですね。つながっているというのは、理解できます。

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from: hiraokaさん

2009年12月06日 00時07分19秒

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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:佐賀支部精舎などでのご講話から」
皆さん、こんばんは。

>[99]ueyonabaruさん

素晴らしい文章です! 「文学的香り」を感じました。

>だれも自己を離れて思考をすることはできないのではないでしょうか。「鵜呑みにする」という言葉がでてきましたが、これは一時的に大川さんの言説に同感している状況であり、やがて別の言説に同感するようになれば、結局は大川さんから離れていくということもありえますね。腑におちるまでの理解が進まねば、あっちへいったり、こっちに行ったりでどうしても落ち着きません。

これも、執着なのかも知れません。
ほとんどの人たちは考えたことも無いのがほとんどなのでしょうが、考えた上で分からなくとも平気な人たちもたくさん居ます。
後者のタイプの人たちは楽天的で人生をエンジョイしている人達が多いようです。
ぼくらはわざわざ苦しんでいるかのようですよ。

>幸福の科学に入り、また抜けていった人々のことを考えているのです。このかたがたは、大川隆法のいうことを鵜呑みにしたのでしょう。鵜呑みにして、その後ちゃんと消化してくれればそれでも結構な結果がだせたとも思うんです。鵜呑みにしたものを、あとですぐに吐き出してしまいました。吐き出して後には、自分が飲んだものは悪いものだといい始めました。

ぼくはueyonabaruさんの云われるような吐き出すタイプではないと思っています。
大川さんには感謝しています。
ですが、大川さんは自身が釈尊の生まれ変わりであることを公言していますので、それを見極めたい気持ちがあります。
現在のぼくは、大川さんは釈迦を恣意的に表現しているように思えますが、考えてみれば大川さんひとりに限らず、ぼくらも皆も釈迦でもイエスでも繋がっているはずですね。
だとすれば、大川さんが「釈迦はこうであった・・・」と云うことは、すべてぼくらには否定できないことであろうと思われます。
と同時に、誰がどのように釈迦を表現してもそれは否定できません。
このことは、「生まれ変わりの概念」の大変むずかしいところを表しています。
つまり、ueyonabaruさんが釈迦の生まれ変わりであっても、ぼくがそうであっても不思議は無いことになるのです。
そうであるからこそ、人と人は繋がっている証拠になりうるのです。
ややこしいですが、わかっていただけるでしょうか。

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from: ueyonabaruさん

2009年12月05日 11時17分03秒

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「Re:Re:Re:Re:Re:佐賀支部精舎などでのご講話から」
 hiraokaさんみなさんへ


> まったく、おっしゃるとおり。
> では、「誰が知りえますか」の「誰」ですが・・・、大川さんだけ知りえているかもしれないとこちらで勝手に推測するわれわれの心理も不思議ですね。これが、宗教心だと勘違いしているのが僕たちの姿かも知れません。もちろん、ueyonabaruさんは大川さんの云うことを鵜呑みにしていないことは承知していますよ。

 鋭く突いてこられますね。「大川さんだけが知りえているかもしれない」という思いは私にはありません。大川さんは、その解釈力で、そう思うと言っていると解してもよろしいのではないでしょうか。

 そして、大川さんの解釈に同感する私がいるのです。私の魂の要求することを大川さんがおっしゃるので同感もするのでしょう。私を離れて真理が存在するとは考えられません。これは、実存主義の考えに似ているかもしれませんね。時おり、そのように考えることがあります。

 だれも自己を離れて思考をすることはできないのではないでしょうか。「鵜呑みにする」という言葉がでてきましたが、これは一時的に大川さんの言説に同感している状況であり、やがて別の言説に同感するようになれば、結局は大川さんから離れていくということもありえますね。腑におちるまでの理解が進まねば、あっちへいったり、こっちに行ったりでどうしても落ち着きません。

 幸福の科学に入り、また抜けていった人々のことを考えているのです。このかたがたは、大川隆法のいうことを鵜呑みにしたのでしょう。鵜呑みにして、その後ちゃんと消化してくれればそれでも結構な結果がだせたとも思うんです。鵜呑みにしたものを、あとですぐに吐き出してしまいました。吐き出して後には、自分が飲んだものは悪いものだといい始めました。

 人間は迷うものです。これについては、許しの原理があっても良いだろうとは思っております。しかし、簡単に鵜呑みにしてしまったその人の個人の責任はどうなのでしょうか、と考えることもあります。

 宗教心ですが、信仰というのは、ある面、分からなくても信じるという側面があります。人間自身におのずから備わったものとしての信仰心です。何でもよいとは言いませんが、人は信じたいのです。そして一方には、理性というものがあり、これが単純に信仰をしようとする人間の行動を制御しますね。信仰心と理性の綱引きのようなものがあり、それはしかし必ずどちらかに決着しなければなりません。その中間もあるとおっしゃいますか。それは決着がついてないだけでしょう。もしくは、綱引きに参加していない方々もいるのでしょうか。



 このブログは本音で語れるものであって欲しいものです。我々には、不可侵条約がにしき鯉さんの提案によりお互い結ばれていると理解しておりますが、表面的な意見交換だけでは頼りないので、条約に抵触しない範囲での議論が活発に行われるようにしてまいりましょう。

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from: hiraokaさん

2009年12月05日 00時20分00秒

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「Re:Re:Re:Re:佐賀支部精舎などでのご講話から」
皆さん、こんばんは。

参考になるかどうか分かりませんが・・・・

>75・・・そのあらしめようとする力は「仏性」という言葉で呼んでもよいのですが、表れ方においては、心の法則として表れています。「すべての存在が、心の法則を持ち、その心の法則に則って生きている」ということが、創られたものしての痕跡です。
痕跡が心の法則というくだりです。 どうぞよろしくお願いします。

大川さんの説明のみでは、神の「痕跡」と「心の法則」の関係を読み取ることは無理だと思います、説明されていませんから。

ひとつ、思い当たる事があります。
「神との対話」の中では、『神と生命は同義であり、置き換え可能である』と説かれています。
分かるような分からないような・・・ですが、まあそうなんでしょう。
我々としては、ここをいまひとつ教えていただきたいものではありますね。

>< ただ、晩年の仏陀は変わっています。晩年は「この世は美しい」と言い、人々が苦しみのこの世のなかで修行して、悟りの花を咲かせることの意味が分かってきたのでしょう。それは、いい心境であり、悟りが大きくなり、教団として成功したことでもありましょう。

これは、ぼくも初耳です。
いやだいやだと云いながら生きていくのも辛いことである事は百も承知のお釈迦様でしょうから、先に観念して寿命を全うしようとしたのだと思っていました。
原始仏典に次のようなくだりがあります。
釈迦が大吾を得た瞑想の直後の場面です。
釈迦は涅槃の境地から戻って、「もう思い残す事は無いこのまま死のう、だいいち自分が得た体験を人に伝えるのは無理だし、だれも分かっちゃくれまい・・・」と思ったそうです。
そのとき、拳闘士がその腕を伸ばすよりも早く梵天が現われて「ちょっと待て! おまえはお前が得た体験を人に話す務めがある。お前のように苦しんでいるものたちに教える務めがある。」と諭したそうです。

お釈迦様は、「しゃあないなあ・・・」って思ったみたいですよ。(^.^)

>> この世は美しいという言葉はどの経典にでてくるのでしょうか?

たしかに、これはぼくも知りません。
ひとつ思い当たるのは、「汚泥の上に咲く睡蓮の花のように生きなさい」と云う喩えが近いように思えます。
晩年はかわいそうな愚痴が多いですよ。

>お釈迦様やイエス様の実像とは、誰が知りえますか。ホントのことは誰も分かりません。仏典に書いてあるから、聖書に書いてあるから絶対にそうであるとは思えません。文書を否定しませんが、文書絶対主義でもありません。

まったく、おっしゃるとおり。
では、「誰が知りえますか」の「誰」ですが・・・、大川さんだけ知りえているかもしれないとこちらで勝手に推測するわれわれの心理も不思議ですね。これが、宗教心だと勘違いしているのが僕たちの姿かも知れません。もちろん、ueyonabaruさんは大川さんの云うことを鵜呑みにしていないことは承知していますよ。

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from: にしき鯉さん

2009年12月04日 20時12分13秒

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「Re:Re:Re:佐賀支部精舎などでのご講話から」
ueyonabaru さんへ

無礼な返答に返事いただき、ありがとうございます

<個人的に悟りについての考え方を申しますと、人間がものごとを知っていくことが悟りと思っております。それは小さな悟りと言えます。これを積んでいって、大きな悟りというものにつなげてゆくのです。いきなり大きな悟りだけを論じるのもどうかという思いがあります。小さな悟りの花を開かせるというのは、良い言い方だと思います。お釈迦様がおっしゃらなくても、これは私には大事なことです。>

そうですね、小さな悟りから大きな理解へとすすんでいくんだと思っています
私が提示した「悟り」は仏教の中の言葉の定義としての悟りです

<大乗の思想が生まれてきた時期は、おっしゃるとおりだろうと思います。しかし、大川先生は、すでに釈迦在世中にすでに、そのような思想はあったとおっしゃっていたように記憶しております。お釈迦様在世の当時には、大乗も小乗もなく、両方があったと見るべきでしょう。>

これは、私もそう思います、釈迦は存命中は直弟子にまず個人の解脱の方法を、在家の信徒には少ない戒と瞑想を説いてます

そして阿羅漢となった直弟子には大乗思想の原型を植え付けていきました、(遊行しながらの布教もその一つです)

釈迦にとって在家、出家はほとんど関係なく真理の道の二つのルートと考えていたんだと思っています
何百年かたって、優れた弟子たちが「大乗思想」を確立するまでは
表にでなかったものです

< お釈迦様やイエス様の実像とは、誰が知りえますか。ホントのことは誰も分かりません。仏典に書いてあるから、聖書に書いてあるから絶対にそうであるとは思えません。文書を否定しませんが、文書絶対主義でもありません。
 伝えられる過去の事象をどのように解釈していくのが、現在の私達の作業だと思うんです。歴史のことをお話しておりますが、これは宗教とて同じでしょう。解釈は大事なものです。>

これは了解です、一つの反論もありません
<解釈というものではありません>
けれはお詫びをこめて訂正します、すみませんでした

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from: ueyonabaruさん

2009年12月04日 14時08分40秒

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「Re:Re:佐賀支部精舎などでのご講話から」
 にしき鯉さんへ

> < ただ、晩年の仏陀は変わっています。晩年は「この世は美しい」と言い、人々が苦しみのこの世のなかで修行して、悟りの花を咲かせることの意味が分かってきたのでしょう。それは、いい心境であり、悟りが大きくなり、教団として成功したことでもありましょう。
>
> 申し訳ありません、これにははっきりと反論します
> 悟りの花などという情緒的な言い方は詩的ではあるけれど意味をすり替えているとしか思えません

 この件に関しては、たまたま支部精舎へ行く機会があって、このご講話を拝聴することができました。先生は、そのように、すなわち上の言葉どおりにお話されておりました。

 実は、私は、お釈迦様は、現実の世を見るに、不浄と観ることと同時にこの世を肯定的に観る見方の両方の視点がはやいときからあったと思っておりました。ですから、にしき鯉さんとは逆の思いから、意外でありました。晩年になってから、この世を肯定的に観る様になったというのは少なからずショックでした。

 私は、現実の世の存在を仮諦としてまず肯定した上で、無常、無我、空の仏教の思想で観るのが正しいと思っておりました。私の仏教的な観方の不徹底かもしれません。

 西洋哲学の祖とも言うべきプラトンは、現実の奥にイデアの世界があると言っております。このイデアの世界が、仏教の実相の世界と同じだと思うんです。西洋のイデア論、理想論の思想では、仏教のように人間の不浄性などを強調し、これからの脱却の方法を探るなどというなものは見当たりません。プラトンはこの世は幻のようなものだとは言っておりますが、この世が不浄であることを強調はしません。しかし、そうであっても、悟りは得られると思います。

 個人的に悟りについての考え方を申しますと、人間がものごとを知っていくことが悟りと思っております。それは小さな悟りと言えます。これを積んでいって、大きな悟りというものにつなげてゆくのです。いきなり大きな悟りだけを論じるのもどうかという思いがあります。小さな悟りの花を開かせるというのは、良い言い方だと思います。お釈迦様がおっしゃらなくても、これは私には大事なことです。



> この世は美しいという言葉はどの経典にでてくるのでしょうか?
>
> 私も経典の総てを知っているわけではないですが釈迦はこの世の無常を知り、仕組みを解析し、この世を越える世界観を説明しました

 経典のどこにあるのかは分かりませんが、とりあえず、私の持っている仏教関係の書籍で調べてみますが、時間をください。お釈迦様の遺言があったのどうかも分かりませんが、これも調べてみます。



> ある人は厭世的だといいますがそうではないんです
> 心の統御によってこの世を超える世界に行けると説明しているんです

 仏教の観方は、正しいと思っておりますので、世を不浄とするのも肯定します。



> 釈迦は入滅の時に言ったんですよ、「私の迷いの生は終わった、もはや、この世に再生することはないであろう」と、、、
>
> 救済という大乗思想ができたのは「根本分裂」が起きた部派仏教の時代で釈迦滅後500年後以降の事です

 大乗の思想が生まれてきた時期はは、おっしゃるとおりだろうと思います。しかし、大川先生は、すでに釈迦在世中にすでに、そのような思想はあったとおっしゃっていたように記憶しております。お釈迦様在世の当時には、大乗も小乗もなく、両方があったと見るべきでしょう。



> 大川さんが個人的に自分の宗教観を信徒に語るのは自由だと思います
> しかし、釈迦という実在の人物を捻じ曲げて伝えるのはいけません
> これは解釈などという問題ではありません
> 今回の事は間違った知識を植えつけるものです

 お釈迦様やイエス様の実像とは、誰が知りえますか。ホントのことは誰も分かりません。仏典に書いてあるから、聖書に書いてあるから絶対にそうであるとは思えません。文書を否定しませんが、文書絶対主義でもありません。

 伝えられる過去の事象をどのように解釈していくのが、現在の私達の作業だと思うんです。歴史のことをお話しておりますが、これは宗教とて同じでしょう。解釈は大事なものです。

 大川先生の解釈が、相当に的外れであれば批判されるべきですが、私はそうであるとも思っておりません。先生は、私よりも文書をよくお読みです。この面でも尊敬しているんです。ですから、文献的な理解も正しかろうと思っているのですが、先生が絶対に間違っていないと主張するつもりはありません。

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