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from: にしき鯉さん
2010年02月17日 19時15分53秒
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仏教考察②
minamikazeさん、みなさんへ
前に大乗仏典の間違いを書くといいました
とりあえず間違いというより「考察」と考えて読んで下さい
大乗経典は作り話が多すぎるんです
もちろん、時が流れれば解釈の違いはでてきます
しかし、本流を捻じ曲げては「本末転倒」になります
例をあげます
「維摩経」という大乗経典があります、
これは維摩結という人物が釈迦の十大弟子をやりこめるという物語的な経典です
背景には上座部(小乗仏教)の信徒を大乗仏教が根こそぎ奪うために釈迦の残した修行法方を徹底的に批判する経典です
維摩結は在家の人でありながら徳が高く梵天もお金持ちの長者方も尊敬してるという設定です
そして釈迦の高弟にいろいろ教えるという話です
舎利仏が瞑想していたそうです、そこに維摩結があらわれて話しかけます、
「のう、舍利仏、必ずしも坐ることだけが座禅ではありませんよ」
「座禅というものは、俗世間の中に在って、身と意(こころ)とを現さないことなのです。」
「何もせず、心の働きを止め、しかも諸の俗世間の行いをするのです。これが座禅です」
又、大目〓連にはこういいます
彼は乞食(こつじき)をしながら法を説いていました
またまた、維摩結がいいます
「のう、大目連、俗人の居士の為に法を説く時には、あなたがなさっているようになさるものではありません」
「法(事物)を説くということは、法の有るがままを説かなくてはならないのです。」
法として衆生を説いてはなりません。(法は)
衆生という考えから、かけ離れたものです。
法は五感では推し量れません。心では識別できないのです
法には形相がありません。虚空のようなものなのです。
法には言論は必要ありません。つまる所、空なのです。
法は、本性が空であり、知覚できる相はなく、他に作用することもありません。
・・・・・・・
こんな感じで物語が進んでいきます、しかし実態は机上の空論をこねくり回して真理を見えなくしているだけなんです
そして釈迦の高弟たちは反論できなくて困ってしまうという話です
民衆は「おお、高弟たちが反論できないということはやはり維摩結が高弟達よりも優れているんだ」と思い大乗の教えに感嘆したというお話です
そんな話が実際にあるはずがありません、釈迦は「悟り」を表現するために十二縁起を説き、七科三十七道品を修行の方法として説いたのです
原始経典では維摩結はでてきません(知っている限りでは)
・・・・・・・・・・・・
次に法華経です、
と、考えたのですが大川さんも法華経の影響を大分受けているようなので、、、
不可侵条約にふれそうなので今回は止めます
今、「太陽の法」(初期版)を読んでいます、もっと大川さんの思想を理解してから皆さんのやくにたちたいと思います
コメント: 全16件
from: ueyonabaruさん
2010年03月04日 11時32分08秒
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「Re::Re:仏教考察②」
にしき鯉さん皆さんへ
> 「本覚」「始覚」のついて
>
> どちらが正しいという事ではないような気がします
そうだと思います。その他、にしき鯉さんのご意見に同意します。
一つ、私なりの浄土教(念仏宗)についての考えを述べてみます。これらの宗教は、法然、一遍、親鸞その他の有名な方々がおられますが、共通するところは、阿弥陀仏の救いの本願におすがりするというまったくの他力の信仰ですね。おっしゃるように、民衆には仏教の悟りを得るための修行もかなわぬ時代背景があったのでしょう。
阿弥陀仏も、大乗の仏教者たちが編み出したものです。それにすがることを民衆に勧め、救済活動にはいるわけですが、この阿弥陀仏をどのように考えるかなんです。
法然も、親鸞も阿弥陀仏の存在を信じていたのではないのかと私には思われるのです。彼らは、内面の探求の結果、この仏の存在を自らも信じるようになり、そして大衆に説いていったのではないでしょうか。単なる、方便だけとも思えません。
キリスト教との類似性を指摘されますね。同じ原理が働いているように思います。
大川先生は、念仏宗のことを、仏教の本流からすれば、異端と言ってもよいぐらいのものであると言っておられますが、これも仏教の法門の広さとも言っておられます。仏教の印は、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の教えが入ればよいのですね。
from: にしき鯉さん
2010年03月04日 00時38分28秒
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「:Re:仏教考察②」
ueyonabaruさんへ
cosmo77さんが忙しいようなのでこちらから返事をしたいと思います
「本覚」「始覚」のついて
どちらが正しいという事ではないような気がします
当時、最澄とか空海のような特別な修行を積んだ方はともかく
一般民衆は「悟り」や「成仏」は夢の話であり現実的ではなかったと思います
仮に修行して悟ろうとしても、時代や身分ですんなりとはいかなかったでしょう
そんなところから「本覚」思想が生まれたんじゃないでしょうか
「生まれながらにして総ての生き物が仏性をそなえてる」
日々の生活に苦しんでいる人々にとっては救われる言葉です
たとえどんなに努力しても「いくさ」で総てが台無しになる時代です
どれほど心の支えになったかは計り知れません
仏教を信仰していれば回り道でも人の道を外れる事はない
まして「お釈迦様の教え(仏性)」がもともと自分のなかにある
人々は喜んでこの「本覚思想」を受け入れたでしょう
私は時代背景を考えると必要な「方便」だったと思います
ともすれば殺伐としがちな時代に情(やさしさ)や希望を持たせることは「生きがいを持つ」ことでもあります
あの理論派の空海でさえ否定しなかったのはそういった理由からではないかと思います
「始覚」のほうは説明はいらないでしょう
今生で気がついて段階的に修行をすすめ悟っていく
わかりやすい説明です、しかし元々自分にないものは得られないものです
「本覚」があるから修行によって見えなかったものが見えてくる
本覚と始覚、修行の過程を説明したのが「始覚」、最初から答えを言ったのが「本覚」という見方です
from: ueyonabaruさん
2010年03月04日 00時37分32秒
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「Re:Re:Re:仏教考察②」
にしき鯉さんみなさんへ
> <山川草木悉皆成仏 でしたっけ?
> 仏教に毒水を流した と言われていたと思います>
>
> これは「涅槃経」から持ってきた日本の大乗独特の考えですよ
>
> 空海も言っています、親鸞も言っています、最澄だけではありません
>
> 大乗仏教は
> 「仏性は衆生だけについて説かれるのでなく、やがて、縁起そのものの表れである現象世界の一切が、縁起ゆえに仏性である」といい
> ここから「山川草木悉皆成仏」が生まれました
>
> これが一人歩きしてやがて「仏性とは修行や菩提心と関係なしにそのまま成仏である」(だから修行などしないでひたすら祈れ)と曲解する宗派もでてきました
> 私は釈迦の教えからは逸脱した教義だと思っています
> 仏性と悟り(成仏)は別のものです
ここまで、にしき鯉さんのお話を伺い、大乗仏教というものの位置づけができそうに思えてきました。大乗でも、チベット仏教はまた、日本の大乗各派とは異なるとのご見解も伺っているところです。チベット仏教は、小乗の修行、戒律などを重んじているということでしょうか?
幸福の科学の見方は、「基本的に大乗であるとするも、小乗を棄てず」という立場にあると言えそうです。しかし、もっとも大事なのは、大川隆法の仏教であるということなんでしょう。大川先生は、ご自身が再誕のブッダであると位置づけておられます。これは、信者である私の信仰でもありますから、無視されても結構ですが、このような観点から意見を述べていくことはどうぞお許し願います。
とは言うものの、にしき鯉さんとは共通の土俵はあるわけで、それは現在に残されている仏典をどのように解釈するのが良いだろうかという点です。大川先生もまたご自身による仏典の解釈がございます。私は、大川隆法の仏教解釈をもっとも大事にしていることは事実です。
山川草木国土悉皆成仏という言葉は、非常に魅力的な神秘的な言葉のように思いましたが、何の修行もせず、また学ぶこともなくして、軽々しくこのような言葉を語り、あたかも仏教を理解したというような気になるとすれば、これは安易に過ぎるように思いますね。
仏性でも、ホントに理解するには、修行と悟りという道を通らねばならないと思います。心の奥底の方で、自分のホントの姿は仏であるということが分からねば、悟ったとは言えないと思います。そして、悟った人には、必ず何らかの印が現れるのではないでしょうか。悟りの程度にもよりますが、何らかの神通力のようなものが備わってくるのではないかと思っているんです。神秘的な能力ではない場合もあるでしょうが、何か変化が生じるのではと思っております。
大川先生は、最澄は地獄にいると言っておられます。地獄にいるというのは、彼の悟りに偏りがあったからだということになりますね。その偏りというのは、安易な仏性論を説いたからだと想像しております。修行、戒律を軽んじ、万人はすでに悟っている存在であるということを強調したのではないでしょうか。大川先生は、そのことを指摘されているように思います。
では、他の大乗の宗派の教祖達はどうかというと、仏性論を説くにあたって、修行、努力を軽視しなかったということがあったのでしょう。最澄のほかにはこのような堕地獄の話は聞いておりません。
しかし、親鸞などの念仏宗などは、仏教本来の修行、悟りの方法論をまったく棄て、阿弥陀仏を念じれば誰でも救われるとしたのですから、この方達も堕地獄かとも思われるものですが、そうでもないようですので、閻魔様のご判断は分かりがたいものがありますね。
最澄には、心の五毒に触れるようななんらかの精神的あやまちもあったのかもしれないと私は判断しております。
天台宗の方々がなにゆえ、抗議をしないのかは不思議です。現代の「三一権実」論争がありそうなものですが。
from: にしき鯉さん
2010年03月01日 23時27分36秒
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「Re:Re:仏教考察②」
cosmo77 さん、皆さんへ
<山川草木悉皆成仏 でしたっけ?
仏教に毒水を流した と言われていたと思います>
これは「涅槃経」から持ってきた日本の大乗独特の考えですよ
空海も言っています、親鸞も言っています、最澄だけではありません
大乗仏教は
「仏性は衆生だけについて説かれるのでなく、やがて、縁起そのものの表れである現象世界の一切が、縁起ゆえに仏性である」といい
ここから「山川草木悉皆成仏」が生まれました
これが一人歩きしてやがて「仏性とは修行や菩提心と関係なしにそのまま成仏である」(だから修行などしないでひたすら祈れ)と曲解する宗派もでてきました
私は釈迦の教えからは逸脱した教義だと思っています
仏性と悟り(成仏)は別のものです
端的に言えばインドの大乗経典「涅槃経」では衆生の定義に制約があるんです
「衆生」という意味合いが「(心があると当時思われた)動物や昆虫のたぐい」だけであって、植物はもちろん、無機物は想定されていないことです
日本に入ってきた時に「縁起そのものが仏性なんだから草や木も成仏する」というふうに観念的に解釈してしまったんです
だからどの草、どの山が成仏したという話はないはずです
大乗仏教の世界観をイメージで表現したと捉えるべきです
確かにこの話も修行途中の「迷い道」ですね
最澄の存命当時はこれで良かったのかもしれませんが、、、
最後にcosmo77 さんに質問です
最澄は地獄にいるという事ですが地獄に落ちた理由はなんですか?
大川さんがそういって断言する理由を教えてください
もし、私が天台宗系列の信徒だったら必ず聞くと思いますよ
毒水の理由もあわせてお願いします
from: ueyonabaruさん
2010年02月28日 19時55分04秒
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「Re:Re:仏教考察②」
cosmo77さんへ
> 本来、覚っている というのは間違いということですね
本来は悟っているのですが、現実には悟っていないという理解です。
from: cosmo77さん
2010年02月28日 17時08分15秒
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「Re:仏教考察②」
ueyonabaruさん
横レスすみません
> にしき鯉さんへ、誤って「三権権一」として書いてしまいましたが、正しくは、「三一権実」論争でした。訂正しますね。
大川先生のお話では
最澄は 地獄に行っているということですよね
山川草木悉皆成仏 でしたっけ?
仏教に毒水を流した と言われていたと思います
本来、覚っている というのは間違いということですね
from: ueyonabaruさん
2010年02月27日 22時54分31秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:仏教考察②」
にしき鯉さん皆さんへ
> > <徳一と最澄の「三権権一」論争のことをご存知でしょうか
> 大筋では知っていますがあまり詳しくはありません
にしき鯉さんへ、誤って「三権権一」として書いてしまいましたが、正しくは、「三一権実」論争でした。訂正しますね。
この論争の意味するところは、私にはとても大きなものなんです。私が、「生長の家」から幸福の科学へ宗旨替えをするに至ったのは、徳一の考えを正しいとする大川先生のご説明が私を納得させてくれたことが大きな原因なんです。
「生長の家」は、その仏教的側面をとれば、ホントに大乗仏教なんです。谷口先生は、いくつかの大乗経典を解説されておりますが、これは、「生長の家」の教えが、大乗の説く仏性論と同一線上にあるからなんですね。徳一・最澄論争では、「始覚」、「本覚」論争のかたちで論戦が行われたようですが、「生長の家」は本来人間は神仏の子としますので、「本覚」思想に似ております。
私は、「本覚」の思想が基本的に間違いとは思いませんが、「生長の家」の信徒であったときに、現実的な問題として、この仏性論(本覚)がそのままではおかしいのではという、疑問がありました。このことを、大川先生がご説明される、「理仏性」、「行仏性」という比較を通じてのご説明などにより、結局は、幸福の科学へと導かれたわけです。
私の感じでは、徳一はやはり小乗的修行を大事にした方のように思われます。徳一菩薩と呼ばれているのですか? 尊い方なんですね。行基といわれる方も私は尊敬します。現実的に、事業をした方々に私は惹かれるようです。
大方、にしき鯉さんのご見解に賛成します。
from: ueyonabaruさん
2010年02月27日 21時35分46秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:仏教考察②」
にしき鯉さんみなさんへ
にしき鯉さんのご意見に賛成です。亡くなった方がお経をあの世で聞くとしても意味が分からなければ、供養にはなりません。幸福の科学の信者としては、人間が亡くなると、大体49日ぐらいは(長くて)この世の近くの霊界でこの世の人々を見ていると教えられております。そうすると、お経は死者にも分かるものでなければなりません。その後の法事においても、死者は聞いているという前提が本来仏教にはあったはずです。
私が驚くことは、現在の仏教の僧侶の半分以上の方々は、あの世の存在を信じていないという現実です。これは、あるアンケ-トによる調査結果です。あの世を信じないのになぜお経を誦げるのかと問われ、それは遺族が安心し、満足するからだと答えたそうです。
そんなことってありますか。それでは、創価学会以下ではないでしょうか。創価学会はよくは知りませんが、そこまでの不信心ではないはずです(にしき鯉さんが創価学会には詳しいと思います)。
私は、霊界の存在を、生長の家にいたときも教えられましたし、自分でも霊界通信ものを多く読んでいましたので、当然信じております。幸福の科学では、これは当然のことですね。
そこで、単刀直入にお尋ねしますが、にしき鯉さんは霊界、死後世界をどのように考えておられますか?
> 私は常々、仏教は難解な言葉が多すぎると思っています
>
> お経だってそうです、意味のある教えがたくさんあるのに
> お坊さんから聞くのは葬式の時くらいです
>
> その宗派によって違いはあっても現代語のお経を霊前に上げれば
> 棺の中で故人も喜ぶと思うんですが、、、
>
> ・・・・・・・・・・
> 現在の大乗についての問題点です
>
> なぜ日本ではあんなに葬式の時にお坊さんにお金がかかるんでしょう
> 読経料5〜10万、戒名が10万〜50万、高い物になるともっとかかります
>
> たとえば〇〇院〇〇居士などになると100万〜200万クラスはあたりまえです
>
> その後が大変です、
>
> 49日、一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌、十七回忌、二十三回忌、二十七回忌とつづき、三十三回忌で長い法要が一応終わります
>
> この間、ずっとお寺に「法事という形で合法的に寄進」が行われます
>
> 法要で行われる内容は読経と卒塔婆の購入だけです(あと寺院の宣伝くらい)
>
> これで僧が真剣に自分たちの修行をいかした法話をするならかまいません
> しかし、一般には極楽へいったとか、大日如来が守っているとか
> くだらない話ばかりです
>
> 原因は日本の檀家制度ですが、それ以上に僧が堕落した事です
> 寺を維持することが職業となり生活となっているからです
>
> この状態で大乗が素晴らしいとか言うことすら傲慢におもえてなりません
>
> 大乗仏教はお経を現代語に直して下さい
> そして、死者に対しては道案内を、、、、
> 生きている者には「生きる糧」としての教えを説かなければ大乗仏教の未来はないと思います
>
> お経自体にありがたさなどはありません、内容に意味があるんです
> 真言も同じです、意味がわからない真言は「ただの言葉の羅列」です
> 秘密めいた真言がありがたいと思うのは愚者です
> 真言は意味を理解したうえでバイブレーションを同化させる瞑想です
>
> 以上、日本の大乗について嘆いている自分を書いて見ました
>
> 幸福の科学はこのようなシステム的なポケットに入らないようにお願いします
>
>
>
>
>
>
from: にしき鯉さん
2010年02月27日 19時12分13秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:仏教考察②」
皆さんへ
私は常々、仏教は難解な言葉が多すぎると思っています
お経だってそうです、意味のある教えがたくさんあるのに
お坊さんから聞くのは葬式の時くらいです
その宗派によって違いはあっても現代語のお経を霊前に上げれば
棺の中で故人も喜ぶと思うんですが、、、
・・・・・・・・・・
現在の大乗についての問題点です
なぜ日本ではあんなに葬式の時にお坊さんにお金がかかるんでしょう
読経料5〜10万、戒名が10万〜50万、高い物になるともっとかかります
たとえば〇〇院〇〇居士などになると100万〜200万クラスはあたりまえです
その後が大変です、
49日、一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌、十七回忌、二十三回忌、二十七回忌とつづき、三十三回忌で長い法要が一応終わります
この間、ずっとお寺に「法事という形で合法的に寄進」が行われます
法要で行われる内容は読経と卒塔婆の購入だけです(あと寺院の宣伝くらい)
これで僧が真剣に自分たちの修行をいかした法話をするならかまいません
しかし、一般には極楽へいったとか、大日如来が守っているとか
くだらない話ばかりです
原因は日本の檀家制度ですが、それ以上に僧が堕落した事です
寺を維持することが職業となり生活となっているからです
この状態で大乗が素晴らしいとか言うことすら傲慢におもえてなりません
大乗仏教はお経を現代語に直して下さい
そして、死者に対しては道案内を、、、、
生きている者には「生きる糧」としての教えを説かなければ大乗仏教の未来はないと思います
お経自体にありがたさなどはありません、内容に意味があるんです
真言も同じです、意味がわからない真言は「ただの言葉の羅列」です
秘密めいた真言がありがたいと思うのは愚者です
真言は意味を理解したうえでバイブレーションを同化させる瞑想です
以上、日本の大乗について嘆いている自分を書いて見ました
幸福の科学はこのようなシステム的なポケットに入らないようにお願いします
from: ueyonabaruさん
2010年02月26日 10時43分45秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:仏教考察②」
にしき鯉さんから、#437に対するご回答が手違いで、私あての個人レタ-のかたちで送られてきましたので、ご本人の了解を得て、ここにアップします。
#437ですね、わかりました
> <この帰依というのは、キリスト教のイエスへの帰依、あるいは、幸福の科学のエル・カンタ-レへ帰依するということと、同じ性質のものだと言ってよろしいでしょうか。帰依する対象が異なるだけだと。>
そうです、全く同じです
「帰依」は帰るよりどころ、心の原点の事です
私は釈迦は素晴らしいと思いますが人間としての釈迦は冷静に見ています
「大悟」を得たといっても個性は残ります
一つの完成形であると同時に解脱や悟りの道筋を作ったことに敬意を持って帰依しています
・・・・・・・・・・
> <徳一と最澄の「三権権一」論争のことをご存知でしょうか>
大筋では知っていますがあまり詳しくはありません
私は最澄も空海も徳一も部分的仏教だと思っています
特に最澄は天台智〓の五時教範が総ての考えの基本になっていますので「法華経」以外は認められなかったのでしょう
それが大乗だと言われればそれまでですが、、、
徳一さんもも大乗ですよ、ただ、行に裏づけされたものをを中心に考えるか、理論を中心に考えるかの違いです
私の中では「最澄」は評価があまり高くないですね
開祖としての実績は認めますが法華経の理論だけが空転してる感じです
法華経だけでは「悟り」に行き着かないのは最澄自身が一番知っていたのではないでしょうか
だから空海に弟子を送ったのだと思います
最後はその弟子も空海に帰依してしまいましたが、、、
・・・・・・・・・・
最澄は布教のため、東北に進出、そして徳一と論争になったんですよね
徳一の「声聞・縁覚・菩薩」の三乗と最澄の「菩薩乗一道」の論争です
前にも書きましたが「大乗」「小乗」というのは修行法方の違いです、どちらが正しいなんて事はないんです
考えて見て下さい、まわりの友人のなかでも大きな心の持ち主
いい人だけどうつわの小さな人がいるでしょう
その人にあった方法で行けばいいんです
小乗だからといって卑屈になる必要はないんです
大乗思想で進んでつぶれるよりは小乗の修行で悟った方がいいという考え方もあります
その人の心のスペースが広いか、狭いかによるもので「いい方法」「悪い方法」ではないのです
徳一さんは山岳宗教をしながら東北で信望者をふやしていきました
自分が修行で得た実体験を元に民衆に三乗の法を説きました
理論だけだったら民衆は「徳一菩薩」とまでは言わなかったでしょう
かたや最澄は「法華経」が最高にして「釈迦の教えの総て」だという考えから抜け出せなかった
時の権力者のバック・アップもあったから一層プレッシャーがあったと思います
結果は引き分けという事ですが本当は最澄が勝ちきれなかったという事です
もっと最澄に「真摯に学ぶ」「真理を得るためなら自分を捨てる」気持ちがあれば空海とも徳一とも上手くやれたんだと思います
徳一はまずしい天才、最澄は育ちのいい秀才というのが私の感想です
・・・・
<大川先生が取り上げておられます。この論争は、徳一の方が小乗的であり基礎的修行を重視したのに対し、最澄が大乗の仏性論を展開したのだろうと推察されます。>
この判断は公平に見て正しい解釈です
私もそう思います
from: ueyonabaruさん
2010年02月22日 17時14分02秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:仏教考察②」
にしき鯉さんへ
> <にしき鯉さんの両者に対する評価をお聞かせください。>
>
> はい、小乗の修行法は素晴らしいものがありますが在家の人には向かない方法がおおいです
> 私が財があり、家族を養う心配がなければ迷わず小乗を選び出家していたでしょう
> しかし、「縁」ができた時点でもう家族がいました
> 逆に言えば家族がいたからこの道に「縁」ができたのだとも思います
> 早い、遅いはあってもこれも自分のカルマだと考え納得しています
小乗の修行の具体的なことは知りませんが、自己を高めるための、色々の修行があるのだろうと推察します。瞑想もそうなんでしょう。 チベットの五体倒地のことは、テレビなどで見て知っております。僧や仏への礼拝だということですね。
小乗では在家の者に対しては、仏への帰依を教えるということですが、この帰依というのは、キリスト教のイエスへの帰依、あるいは、幸福の科学のエル・カンタ-レへ帰依するということと、同じ性質のものだと言ってよろしいでしょうか。帰依する対象が異なるだけだと。
小乗の仏教に惹かれるにしき鯉さんは、前世では、そのような生活をしておられたのだろうと思っております。
>>
> <上座部の仏教が最近になって、日本においても影響力を出し始めているように思いますが、いかがでしょうか?>
>
> はい、そうですね、頑張りに期待しています
>
> 上座部は権力や布教にあまり興味がなかったので「清貧」のイメージがあります、
> 唯物主義に嫌気がさした人たちが興味をもったのではないでしょうか
徳一と最澄の「三権権一」論争のことをご存知でしょうか。大川先生が取り上げておられます。この論争は、徳一の方が小乗的であり基礎的修行を重視したのに対し、最澄が大乗の仏性論を展開したのだろうと推察されます。
* 上の「三権権一」としたのはあやまちで、、正しくは、「三一権実」論争です。2月23日
from: にしき鯉さん
2010年02月18日 22時55分00秒
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「Re:Re:Re:Re:仏教考察②」
ueyonabaru さんへ
<日本に仏教が入ってきたときには、大乗仏教でしたね。そうすると、日本に入る前に大衆部が上座部を席巻したということが言えそうです。それはインドにおいて、起こったことでしょうか?>
そうですね、インドでもヒンズー教に飲み込まれたというか、大衆部が迎合したというか、両者が混じりあったのは事実です
玉石混同の大乗が中国に伝わって勝手に整理され、それが日本に伝わって来ました
<にしき鯉さんの両者に対する評価をお聞かせください。>
はい、小乗の修行法は素晴らしいものがありますが在家の人には向かない方法がおおいです
私が財があり、家族を養う心配がなければ迷わず小乗を選び出家していたでしょう
しかし、「縁」ができた時点でもう家族がいました
逆に言えば家族がいたからこの道に「縁」ができたのだとも思います
早い、遅いはあってもこれも自分のカルマだと考え納得しています
日本の大乗は生活の心構えとしての教えは素晴らしいと思います
ただ、ueyonabaru さん、勘違いして欲しくないんですが「日本の大乗」と「チベットやインドでいう大乗」は違うんです
チベットは小乗の上に立脚するのが大乗なんです
どちらが正しいではなく、小乗を完成させてから真の大乗が始まるという考えです
出家者には小乗の修行法をやりながら大乗思想を植えつけます
ですから擬似大乗ですね、
最初の修行は帰依です、五体当地という地面に体を打ちつける修行を10万回やります、これはものすごい長い時間がかかります
ueyonabaru さんもテレビなど膝をついて祈りをあげるような後景を見た事があると思います
ただ、在家の人には行よりも帰依の教えが説かれます
そして肝心なのは在家の「心構え」程度の修行では皆さんの言う「大悟」には届かないという事です
これははっきりと転生に向けての修行です
この辺を曖昧にするから日本仏教は「正しい教え」とか「方便の教え」だとかいつまでも固執するんだと思います
歴史途中の間違いを修正して教えを編纂していけば大乗が現代に合ってると思います
<上座部の仏教が最近になって、日本においても影響力を出し始めているように思いますが、いかがでしょうか?>
はい、そうですね、頑張りに期待しています
上座部は権力や布教にあまり興味がなかったので「清貧」のイメージがあります、
唯物主義に嫌気がさした人たちが興味をもったのではないでしょうか
<大川さんを否定ではなく、批判するのはよろしいのではないでしょうか。不可侵条約の主旨は知っているつもりです。どうぞ、遠慮なくご発言ください。そうでないと、幸福の科学の姿も見えてきません。>
了解です、ご理解ありがとうございます
from: ueyonabaruさん
2010年02月18日 11時58分16秒
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「Re:Re:Re:仏教考察②」
にしき鯉さんみなさんへ
> よって多勢に無勢、大衆部(大乗)に時代の流れを取られました
日本に仏教が入ってきたときには、大乗仏教でしたね。そうすると、日本に入る前に大衆部が上座部を席巻したということが言えそうです。それはインドにおいて、起こったことでしょうか?
> しかし、今の時代、歴史考察も進み小乗の欠点、大乗の欠点も明らかになっています
にしき鯉さんの両者に対する評価をお聞かせください。
> 維摩経は作り物、そして歴史上、こういう事があったとメンバーの方に知って欲しかっただけです
維摩経も法華経もその他の大乗経典は創作だということは知っております。説話風に、仏教を説いていったものだそうですね。にしき鯉さんが前にいわれたように、これらにも仏教的真理価値はありますね。私の感じでは、上座部の仏教が最近になって、日本においても影響力を出し始めているように思いますが、いかがでしょうか?
> 法華経に関しては大川さんが日蓮の発言を多く取り上げ、それがほとんど法華経の中から取り上げているからです
大川先生は、大乗仏教一辺倒のお考えではありません。法華経以外にも真理の書(仏典)はあると言っておられます。
> 日蓮の後継団体が大きいこともあるでしょう、それを意識して書いていたのかも知れません
> ただ、法華経の歴史的間違いを書くとそれを引用してる大川さんを否定する事になります
大川さんを否定ではなく、批判するのはよろしいのではないでしょうか。不可侵条約の主旨は知っているつもりです。どうぞ、遠慮なくご発言ください。そうでないと、幸福の科学の姿も見えてきません。
> だから、不可侵条約を提案しました
> そしてメンバーの個人個人が批判と取らずに「別の角度からの考え方」と理解して参考にしてくれることが望みです
ありがとうございます。でも、上品に議論という形式でも良いではありませんか。
from: にしき鯉さん
2010年02月18日 06時33分32秒
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「Re:Re:仏教考察②」
ueyonabaru さんへ
<上の見方は、誰のお考えですか?にしき鯉さんがそのようにお考えなのは分かりますが、テ-ラ-ワ-ダ仏教協会がそのようなお考えなのでしょうか。>
いいえ、違います、
テーラーワーダ仏教は絶対に他宗の批判はいたしません
と、言うか、論争自体を嫌います
よって多勢に無勢、大衆部(大乗)に時代の流れを取られました
しかし、今の時代、歴史考察も進み小乗の欠点、大乗の欠点も明らかになっています
私は大乗思想が良くないと言っているのではありません
(私の考えは不遜ながら大乗だと思っています)
しかし、歴史上、やってはいけない事が公然と行われてきました
これは今の時代に理解を深め、修正するべきところは直さなければならないと考えます
歴史は変えられません、しかし、真理を追う者は「正しい認識」と「間違った物を修正する義務」を負っていると思います
間違った歴史認識は正しい思考の邪魔にしかなりません
それは砂の上に作った城のような物です
<大川先生は、維摩経も法華経もあまり言及していないと思いますが・・・・>
いいえ、これは大川さんの事を言っているのではありません
維摩経は作り物、そして歴史上、こういう事があったとメンバーの方に知って欲しかっただけです
法華経に関しては大川さんが日蓮の発言を多く取り上げ、それがほとんど法華経の中から取り上げているからです
日蓮の後継団体が大きいこともあるでしょう、それを意識して書いていたのかも知れません
ただ、法華経の歴史的間違いを書くとそれを引用してる大川さんを否定する事になります
宗教はどこも独自の見解を持っています
私が大川さん本人と対談できるのであれば討論も可能ですが現実にはそれは無理です
だから、不可侵条約を提案しました
そしてメンバーの個人個人が批判と取らずに「別の角度からの考え方」と理解して参考にしてくれることが望みです
from: ueyonabaruさん
2010年02月17日 22時38分29秒
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「Re:仏教考察②」
にしき鯉さんみなさんへ
> 背景には上座部(小乗仏教)の信徒を大乗仏教が根こそぎ奪うために釈迦の残した修行法方を徹底的に批判する経典です
上の見方は、誰のお考えですか?にしき鯉さんがそのようにお考えなのは分かりますが、テ-ラ-ワ-ダ仏教協会がそのようなお考えなのでしょうか。
大川先生は、維摩経も法華経もあまり言及していないと思いますが・・・・・。どうぞなんなりと遠慮なくご発言ください。
from: cosmo77さん
2010年03月05日 20時56分16秒
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「Re:仏教考察②」
にしき鯉さん
> これが一人歩きしてやがて「仏性とは修行や菩提心と関係なしにそのまま成仏である」(だから修行などしないでひたすら祈れ)と曲解する宗派もでてきました
グーグルで 「本覚 堕落」で検索すると それらしいのが出てきますが
例えば 以下はWebの抜書きです(大川先生の文ではありません)
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田村がひとことでまとめるように、「天台本覚思想にたいしては、現代の学者のほとんどが堕落退廃の思想とみなしている。」(p541)
実際に、上記の著作の中で、本覚思想を積極的に肯定するものはいない。袴谷のように積極的に批判するのが主流である。
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天台本覚思想が日本仏教を堕落させて大きな要因であるのは明白である。
そして、それとの兼ね合いで、大乗戒による「戒」によって戒を弱体化させ、また、「真俗一貫」と出家者と在家の区別が曖昧になり、実質的に「戒」が生活の基盤になり得なくなってしまったのは、他でもない、最澄に端を発するように思う。
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のように 最澄が堕落の始まりになった という考えがあるかと思います
大川先生には「悟りの挑戦」など 釈迦仏教の解説書も何冊かあります
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