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from: ueyonabaruさん
2010年06月14日 19時14分31秒
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大川先生を拝むこと
minamikazeさんへ
先生のお写真、先生の像を拝むことの不思議さですね。おかしさですか?
私は、生長の家の信者でした。生長の家のご本尊は何だったでしょうか、正式に登録されたものは知りませんが、確か皆さんは「実相」と書かれた掛け軸や、がくに入れられた「実相」の文字の前で祈りや、瞑想、お経の読踊をするはずです。本尊は、哲学的な概念である実相なのかもしれません。また、別に、住吉の大神の像というのもありますが、霊感のある信徒の前に現れた白いヒゲの翁が生長の家に現れた応化神であるとして、原宿の本部にはその像がかざられておりますね。
大川先生のお写真を拝むのは、お写真を通じて、実相(ホントのもの)の大川隆法(エル・カンタ-レ)を拝んでいると解釈できますが、この考えにご賛同はいただけませんでしょうか?
私は、大川先生は、キリストと同じ格の方のように思っております。クリスチャンは十字架を通じイエスを拝みます。個人の持ち物としての十字架もありますね。イエスが人間を救ってくれると考えているのですね。十字架はイエスを信仰するための手段です。大川像も手段です。仏像も手段です。手段と思っていたものが、奇跡を起こすとしても、やはり手段として考えるべきでしょう。
コメント: 全5件
from: ueyonabaruさん
2010年06月29日 17時34分43秒
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「Re:Re:大川先生を拝むこと」
cosmo77さんへ
> 他の 救世主もみんな 何百年たって 神格化される ということではないでしょうか
>
>
> さらに 何年か前から 像はなくなって 法輪を拝むというのも 出てますよね
>
> 写真が嫌いな方は こちらを 拝まれたらいかがでしょうか
>
>
> 像は 祈りに対象として 念を集中させるためのものであり 囚われることは やめた方がよろしいかと。。
わたしも大方、cosmoさんのご意見と一緒です。ただ、個人崇拝ではないかとの疑義でもありましたので、個人崇拝ではあるが、エル・カンタ-レ崇拝であることを明らかにしたくて、表現が難しくなってしまったのかもしれません。よきにしろあしきにしろ、我々はクリスチャンのように、誰が主であるかということを、明らかにするように求められております。
> 後世になれば それを ありがたがる方々がたくさんいる ということだと思います
> 祈りの対象として ということですね
>
> 現在進行形では なかなか 難しいのだと ボクは思います
>
>
from: cosmo77さん
2010年06月27日 15時04分25秒
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「Re:大川先生を拝むこと」
> このように考えておりますが、これについて、大方のご意見を請います。
失礼ですが 像というものに こだわり過ぎではないでしょうか
実は 昔は私もそうでした (ノ_<)
まず 救世主が 地上におられるときは まだ 神格化している 人が少ない ということです
イエスさまなんかは 罪人として殺されました
釈迦も 程度はいろいろでしょうが 後世に神格化されているのではないでしょうか
みんな 神格化されると像になっても 違和感感じなくなるんです
イエスさまが 自分を像にして 拝ませようとしたら もっとすごい反発だったのでしょうね
難しく考えすぎなんではないでしょうか
まず そういう像のようなものが 人類に必要だ と考えてみてはいかがでしょうか
宗教の存在にしても 同様ですよね
大川先生が 今地上におられて あんな風に 普通のおにいさん?と変わらなく見えるので 反発してしまうのでしょう
他の 救世主もみんな 何百年たって 神格化される ということではないでしょうか
さらに 何年か前から 像はなくなって 法輪を拝むというのも 出てますよね
写真が嫌いな方は こちらを 拝まれたらいかがでしょうか
像は 祈りに対象として 念を集中させるためのものであり 囚われることは やめた方がよろしいかと。。
後世になれば それを ありがたがる方々がたくさんいる ということだと思います
祈りの対象として ということですね
現在進行形では なかなか 難しいのだと ボクは思います
from: ueyonabaruさん
2010年06月27日 12時58分06秒
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「Re:Re:大川先生を拝むこと」
minamikazeさんへ
> 「実相」の前での祈りや瞑想は、僕はよく理解できます。その実相とは、老子の言うところの道であるかもしれないし、スピリチュアリズムで言うところの宇宙法則かもしれません。いずれにせよ、個人ではなく、人間を超えた根源的存在を感じさせます。
人間大川隆法と大川隆法の実相であるエル・カンタ-レの二つを考えてみます。現実の大川先生の像を通して、エル・カンタ-レという先生の実相を拝むと一応考えてみるのです。エル・カンタ-レ神を拝むのですね。これが、幸福の科学の信仰です。
しかしながら、ご著書「永遠の仏陀」では、ご自身を永遠の仏陀と宣言しております。永遠の仏陀とは天上に在る高級霊であるエル・カンタ-レをも超えたものです。あたかも創造の神であるかのように語りますね。ここが分かりにくいところなんです。大川隆法あるいはエル・カンタ-レを超えた存在、これが永遠の仏陀なわけですが、これは形なきものであり、法、真理なんですね。言葉なんでしょう。創造主の意思でもあります。真実の神なんです。
大川先生が法と一体となり、光と一体となり、神と一体となり、神そのものを、教えという形を通して、知らしめている仏陀なんですね。原理的には、私でも、法と一体となるような心境になることができれば、大川先生と同じきものになりうるということなんでしょう。
大川先生は創造主ではありませんが、と同時に、創造主のことを言葉で語るときに、創造主のごときものになるのでしょう。真理を語るときに、そこに創造主、真実の神が現れているいうことでしょうね。これは、難しい表現しがたい事実だと思います。
このように考えておりますが、これについて、大方のご意見を請います。
> しかし、大川さんの写真であるとか、像を拝むということは、たとえそこにどんな理由付けがされるにせよ、個人崇拝に、結局は帰着するのではないでしょうか。
個人を崇拝するのですが、真実の神を崇拝する側面もあるのでしょうか。
> クリスチャンは、確かに主イエスに祈りを捧げますが、主イエス自身が、神の右に座していることを否定しています。この神の右に座すとは、クリスチャンが毎日曜日に、使徒信条で唱えている内容でもあります。
もう少し分かりやすくご説明お願いできますか?
> スピリチュアリズムを学ぶと、本質が見えてきます。
> イエスが望んでいるのは、自分を拝んでもらうことではなく、神を愛することと隣人を愛することです。
イエスが真理と一体になって語る箇所がありますね。ヨハネ伝14-6の箇所です。
「わたしは道であり、真理であり、いのちである。 わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない。」
相当の自信あふれるイエス様の言葉ですね。わたしを拝むことが悪いとは言ってはおりませんし、私の像を拝むなとも言っておりませんね。後世のものは、イエスを神の独り子として崇拝してゆくことになります。イエス様を拝み、イエス様の教えを学ぶことが大切なんでしょう。このことは、幸福の科学でも同じです。
> イエスは高級霊の一人であって、神ではありません。
> そのことは、大川さんにも当てはまるでしょう。高級霊の一人かもしれないが、神そのものではない。
> そもそも神は、人として生まれてはきません。
わたしもそのように思います。
from: minamikazeさん
2010年06月27日 08時01分21秒
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「Re:大川先生を拝むこと」
ueyonabaruさんへ
返事が大変遅くなりました。
「実相」の前での祈りや瞑想は、僕はよく理解できます。その実相とは、老子の言うところの道であるかもしれないし、スピリチュアリズムで言うところの宇宙法則かもしれません。いずれにせよ、個人ではなく、人間を超えた根源的存在を感じさせます。
しかし、大川さんの写真であるとか、像を拝むということは、たとえそこにどんな理由付けがされるにせよ、個人崇拝に、結局は帰着するのではないでしょうか。
クリスチャンは、確かに主イエスに祈りを捧げますが、主イエス自身が、神の右に座していることを否定しています。この神の右に座すとは、クリスチャンが毎日曜日に、使徒信条で唱えている内容でもあります。
スピリチュアリズムを学ぶと、本質が見えてきます。
イエスが望んでいるのは、自分を拝んでもらうことではなく、神を愛することと隣人を愛することです。
イエスは高級霊の一人であって、神ではありません。
そのことは、大川さんにも当てはまるでしょう。高級霊の一人かもしれないが、神そのものではない。
そもそも神は、人として生まれてはきません。
ここがきわめて重要なポイントだと思っています。
しかし同時に、僕は大川さんの認識力の高さには、充分感銘しています。だから僕は、強制ではなく、自分の意思で、幸福実現党も応援しています。
大川さんは神ではない。
神でもない、優れていても人である存在を、拝むことは本質的にできない。これが、今の僕の考えなのです。
> minamikazeさんへ
>
> 先生のお写真、先生の像を拝むことの不思議さですね。おかしさですか?
> 私は、生長の家の信者でした。生長の家のご本尊は何だったでしょうか、正式に登録されたものは知りませんが、確か皆さんは「実相」と書かれた掛け軸や、がくに入れられた「実相」の文字の前で祈りや、瞑想、お経の読踊をするはずです。本尊は、哲学的な概念である実相なのかもしれません。また、別に、住吉の大神の像というのもありますが、霊感のある信徒の前に現れた白いヒゲの翁が生長の家に現れた応化神であるとして、原宿の本部にはその像がかざられておりますね。
>
> 大川先生のお写真を拝むのは、お写真を通じて、実相(ホントのもの)の大川隆法(エル・カンタ-レ)を拝んでいると解釈できますが、この考えにご賛同はいただけませんでしょうか?
>
> 私は、大川先生は、キリストと同じ格の方のように思っております。クリスチャンは十字架を通じイエスを拝みます。個人の持ち物としての十字架もありますね。イエスが人間を救ってくれると考えているのですね。十字架はイエスを信仰するための手段です。大川像も手段です。仏像も手段です。手段と思っていたものが、奇跡を起こすとしても、やはり手段として考えるべきでしょう。
from: cosmo77さん
2010年06月29日 21時17分05秒
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「Re:大川先生を拝むこと」
ueyonabaru さん
> わたしも大方、cosmoさんのご意見と一緒です。ただ、個人崇拝ではないかとの疑義でもありましたので、個人崇拝ではあるが、エル・カンタ-レ崇拝であることを明らかにしたくて、表現が難しくなってしまったのかもしれません。
神さまを ある意味個人崇拝することが 信仰だということではないでしょうか
一神教 多神教の 違いはあるでしょうけど。
阿弥陀如来信仰でも ある意味 個人崇拝でしょう
以前は 阿弥陀如来とは イエスさまのことだ という説もありましたが。。
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