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from: ainotaigaさん
2010年10月22日 11時45分13秒
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祈願について。
ueyonabaruさま、皆様こんにちは。ここは、「教義上の疑問を解決したい」という事なので、フランクにお話させて頂きます。
祈願についての考え方ですがueyonabaruさんや皆さんは、どの様にお考えですか。
不謹慎ですが、ズバリ「祈願は本当に効くのか」という事と、祈願の効き目を左右するものは何か。というものです。
ある方が講師に聞いたそうです。以下はQ&Aです。
Q・「どうして祈願が効くのですか?自分の努力ではなく病気や商売繁盛したら、濡れ手に粟で、修行にならないのでは?」
A.「祈願は、祈願することそのものが、修行です。
信じてないのに、祈願料を納めることは普通出来ません。
また、祈願の結果が、自分の願いとは違うこともありますが、それを仏の答えとして、どう受け入れられるかも修行です。
祈願を受けると、霊団から、守護霊に直接指導が行きます。
私達は学んでいても、自分の魂傾向を把握することは、難しいものです。
意識していないところで、霊的な指導が入ることにより、魂傾向が修正され、想いの向きが変わることにより、仏の光が入って、病気が治ったりするんです。
守護霊が指導を受けて、本人が気付いていない魂傾向に修正が入ることが祈願が効く理由です」
という返答だったようです。
私は、素晴らしい内容であると思う反面、それなら、わざわざ高いお金をかけて祈願しなくてもいいんじゃないかなと未熟にも思ってしまいました。
本当にそのような理念が本質であるならば、なぜ、「英会話べらべら祈願」や「「株価上昇祈願」や「収入倍増祈願」などの、一見、欲が増大しそうなものがあるのかが分かりません。
見返りえを求めない「感謝をささげる祈願」でよいと思いますし、願望が強い祈願ほど、祈願料金が高い設定になっているのも不思議です。純粋さが求められるとしながら、見返りを求める度合いは、高くなっている様に感るのですが、なぜでしょうか。
祈願とは、神仏への自分の決意報告なんでしょうか。
それでは、なぜ、祈願でのイイシラセは、達成された方のみのイイシラセなんでしょうか?願ったけど叶わなかった、けど、心はこの様に変わったとかあっても良い様に感じます。人目を引く宣伝かなと感じてしまいます。
コメント: 全16件
from: ueyonabaruさん
2010年10月27日 17時38分52秒
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「Re:Re:三法帰依について。」
ainotaigaさん皆さんへ
> 総裁先生からも今年に入って(ヘルメスの霊言だったかも)職員が会員の三法帰依を利用していると、ハッキリおっしゃった事があります。
このことは聞いてはおりませんが、気になりますね。
> これは、今の時代背景に合わせて今後、法が変わる可能性がある部分かも知れません。私の口からこれ以上ハッキリ言うと、たぶん支部では迫害を受けると思うので、表立っては言えませんが・・
どうでしょうか? 法は時代に合わせ変わることはありえましょうが、そんなに多くの部分が変わるとは思えませんが・・・・・。
> まあ私の悟りが浅いだけかも知れませんが、「指示待ち族」を大量生産した様な感じはしますね。
支持待ち族では面白くありませんね。私たち一人一人が小さな神様なのですから、独自の発想、運営なども提起してゆきたいものです。
from: ainotaigaさん
2010年10月27日 09時34分27秒
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「Re:三法帰依について。」
> このことについては、天上界の諸霊も言わないんだけど。
>
> 何ゆえに、今現在において幸福の科学の救世運動がほぼ失敗であると言われるかだけど。
>
> はっきり言うと、三宝帰依に原因があるんだよね。
>
> もちろん、初心の修行僧の心を守るために仏陀がなされたこととして当然ではあったんだけど。
>
> 半面において思索の自由と自灯明の精神を奪ってしまったんだよね。
もん吉さんのご指摘は、考え方として当然率直にありうる分かり易い材料だと思います。
総裁先生からも今年に入って(ヘルメスの霊言だったかも)職員が会員の三法帰依を利用していると、ハッキリおっしゃった事があります。
これは、今の時代背景に合わせて今後、法が変わる可能性がある部分かも知れません。私の口からこれ以上ハッキリ言うと、たぶん支部では迫害を受けると思うので、表立っては言えませんが・・
まあ私の悟りが浅いだけかも知れませんが、「指示待ち族」を大量生産した様な感じはしますね。
from: ueyonabaruさん
2010年10月27日 09時33分02秒
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「Re:Re:祈願について。」
もん吉さん皆さんへ
三宝帰依は、ある意味では組織の存在原理であるとも言えますでしょうね。
教えを述べる者、その教えと、そして教えを守るものと、いう具合になりましょうか。
私たちは、三宝に帰依するものです。
自由な発想、思索とは三宝帰依とどうかかわるのでしょうか。このことについて考えていくことは必要でしょうね。
今ここでは雨がちらつき、暗い朝です。曇りのときには、心も沈んできますね。私たちの心理は、天候によっても左右されてしまうものなんですね。暗い朝ではあるが、そこにも味わいを見いだすぐらいの気持ちは、一種悟りのようなものでもあります。
これから支部へ出かけますが、いろいろの事象に出くわすことでしょう。面白いことも、そうでないこともあるだろうと思います。それらすべてが経験なんでしょう。多く経験した方がよろしいでしょうね。
幸福の科学の救世運動がほぼ失敗であるという命題についても考えていきたいですね。
> このことについては、天上界の諸霊も言わないんだけど。
>
> 何ゆえに、今現在において幸福の科学の救世運動がほぼ失敗であると言われるかだけど。
>
> はっきり言うと、三宝帰依に原因があるんだよね。
>
> もちろん、初心の修行僧の心を守るために仏陀がなされたこととして当然ではあったんだけど。
>
> 半面において思索の自由と自灯明の精神を奪ってしまったんだよね。
>
> 過去の偉大な魂が底光りしている真実の修行者は自らの心と自らの経験を通して自らが悟りを求める当然の姿勢を持っているんだけど。
>
> 残念ながら、受け売りと自己欺瞞の正当化に使われたところが相当あるんだよね。
>
> まあこの問題は、過去の宗教集団にも常にあったことではあるんだけどね。
>
>
from: hikaru0827さん
2010年10月27日 07時47分30秒
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「Re:Re:祈願について。」
みなさんへ
> はっきり言うと、三宝帰依に原因があるんだよね。
> もちろん、初心の修行僧の心を守るために仏陀がなされたこととして当然ではあったんだけど。
> 半面において思索の自由と自灯明の精神を奪ってしまったんだよね。
本来は、三宝帰依と自灯明は矛盾するものではない、と思っています。
自灯明を頼りに、自由に思索するにしても、宇宙空間に1人漂う心細さと危うさを感じます。
やはり、シャトルからの命綱は付けておきたいところです。
そう思うのは弱さなのかもしれませんが、誰でも何かしら精神的支柱というものを持っていて、その柱と命綱で繋がっているものだと思います。
もん吉。さんが危惧されている事は分かります。
自分で考える事をゆめおろそかにしてはいけませんね。
本来は、仏の教えを消化し、知慧とし、薫重し、受け売りではなく、自分の考えだと言えるほどに血肉とすべきなんでしょう。
けど、最近の、供給される教えの幅広さと、量の多さに、今の会員の方々は、それが追い付かないという事情もあるのではないでしょうか。
時が経てば、消化も進むかもしれません。
それでも、消化不良である事の自覚は必要でしょうかね。
ソクラテスの無知の知を思います。謙虚さが大切ですね。
レプタリアンの評価が、先生の話1つで上がったり下がったり、という話を、どなたかされてました。
今の会上層部は、レプタリアンが多い、という話もありました。
名前にこだわり過ぎかもしれません。
社会主義者に色々な人がいるように、保守派にも色々な人がいるように、レプタリアン出身という人にも色々な人がいます。
人はレッテルを貼りたがります。なぜなら楽だからです。
人を評価し、理解するのは簡単ではありませんから。
大体の枠にはめて整理したくなるんですね。
先生の話1つでレプタリアンの評価が乱高下するのは、話の内容を充分消化出来ていない事と、レッテルで人を評価する安易さに流されているからではないでしょうか。
人を観るのは、レッテルではなく、人本位を基本とする事を肝に銘じたいと思っています。
from: もん吉。さん
2010年10月26日 23時43分26秒
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「Re:祈願について。」
このことについては、天上界の諸霊も言わないんだけど。
何ゆえに、今現在において幸福の科学の救世運動がほぼ失敗であると言われるかだけど。
はっきり言うと、三宝帰依に原因があるんだよね。
もちろん、初心の修行僧の心を守るために仏陀がなされたこととして当然ではあったんだけど。
半面において思索の自由と自灯明の精神を奪ってしまったんだよね。
過去の偉大な魂が底光りしている真実の修行者は自らの心と自らの経験を通して自らが悟りを求める当然の姿勢を持っているんだけど。
残念ながら、受け売りと自己欺瞞の正当化に使われたところが相当あるんだよね。
まあこの問題は、過去の宗教集団にも常にあったことではあるんだけどね。
from: hikaru0827さん
2010年10月24日 08時16分23秒
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「Re:Re:お布施と祈願。」
>うちの支部では、最近のご法話は感謝奉納という事でお金は任意ですが、他の支部や精舎では、必ず奉納袋に支部名と名前を記入する用紙が入っていますよね。
>
> 私の実家の支部では、ご法話じゃない時でも「感謝奉納の時間」と称して一人ずつ祭壇の奉納箱に一列ずつ並ばせてお布施させる儀礼があったりするんですよね。これもこの支部だけではないはずです。年金暮らしの父は気まずくて支部から遠のきました。
支部としてノルマのようなもの、目標額など設定されていて、支部長などにプレッシャーが掛かっているのでしょうかね?
しかしながら、和気あいあいの支部内雰囲気の中で、「あなた全然お布施してないよね?」なんて言えませんよね。
私も会員当時、特に機会も圧力もなければ、金銭的余力があってもお布施せずに、済ましてしまうという事も多々ありました。
「一列ずつ並ばせて」というのは苦肉の策のようにも感じます。
はい、ここまでは支部側の立場を推し量ったもです。
しかし、しかしながら、布施する側から見れば、半強制的なお布施は、布施の理念を逸脱しかねないものといえます。
感謝の心は不可欠です。
私は「一列に並ばせて」は賛成できません。
あえて反抗しますよ。私なら。若い頃はそこまでしなかったかもしれませんが、たぶん今なら反発します。穏やかに。
①まず、支部長にそのようなやり方はするべきでないと意見します。
(対案があればなおよし)
②次に、「一列に並ばせて」儀式が始まれば、動きません。言う事を聞きません。抵抗している事をみんなに分かるようにします。
それによって「ねばならない」という空気、逆らえない空気というのを壊したいんです。
③自分の中で、「お金が惜しいから」という目的にすり替わらないように、支部に来たとき、若しくは帰る時に、こっそりお布施します。
④出来れば、地区やチームで話し合い、皆で行います。
私は天の邪鬼なので、そのような「逆らえない空気」を作られると、反発心が出てきます。
さて、これは僧団に帰依するという三宝帰依に反するでしょうか?
私はそうは思いません。
僧団に帰依するということは、「僧団を守る」・「維持、成長に努力する」、という事であって、「意見してはいけない」という意味ではないでしょう。
僧団をより良くするための行動であれば、僧団に帰依することになんら矛盾しないと思っています。
会員一人ひとりが支部運営の主人公であるというぐらいの認識でよいのではないでしょうか。
from: ueyonabaruさん
2010年10月23日 19時47分08秒
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「Re:Re:Re:Re:お布施と祈願。」
ainotaigaさんへ
いろいろとご意見参考になります。良い方向へ行ってもらいたいと思いますね。特に新しく入信される方々への手当てがどうなのか、このままでいいのか大いに気になるところです。
私は、お布施の価値を認める立場ですが、そこにも自由なものが欲しいですね。自由と規律の両立です。教団はうまい方法を考えてくれないかな・・・・・。
どの宗教団体でも資金集めに苦労するのでしょうね。お金がなければ、教団は伸びられません。伝道も縮小してしまいます。
一つの支部で、100名の大黒天(毎月1万円)がおれば、運営はできるのではないでしょうか。まず、この目標を達成したら、先生のご法話などは、低額のお布施にするなどは、うまい方法ではないでしょうか。
幸福の科学が伸びる為のお布施の方法、私が考えるべきものでもありませんが、心配をしております。
> そういった事が、外部の人からも外護信者さんからも信じられにくい事であると感じています。
>
> これは、内部批判が起きにくい幸福の科学では見えていない事ではないかと感じています。
>
> 私が、活動において以前より一歩引いた立場にいるのも、ここが原因です。
from: ainotaigaさん
2010年10月23日 11時48分43秒
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「Re:Re:Re:お布施と祈願。」
そういった事が、外部の人からも外護信者さんからも信じられにくい事であると感じています。
これは、内部批判が起きにくい幸福の科学では見えていない事ではないかと感じています。
私が、活動において以前より一歩引いた立場にいるのも、ここが原因です。
from: ainotaigaさん
2010年10月23日 11時19分55秒
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「Re:Re:お布施と祈願。」
あと以前には、振込みが確認された後に受けられる研修もありました。
お布施が出来ないから支部から遠のいている方の話は、皆さんも良く聞くことでしょう。
この様に、実際は神仏に努力を理解して頂く前に、人間に理解して貰わないと活動し辛い環境になってると思います。
祈願においても、よく「今回のこの祈願は、本当によく効くんですよ」というセリフを効くことがあります。これもこの世的な宣伝だと思います。だったら今までの祈願は何だったのかもしりたいですよね。
また、最近、先生から、祈願の効き目は、各精舎や導師の悟りとも影響があるとも聞きました。
これだけの乱数がありながら、お布施の金額を信者にだけせまるのもどうかと思います。
from: ainotaigaさん
2010年10月23日 10時29分13秒
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「Re:お布施と祈願。」
ueyonabaruさん、hikaru0827さん、お話有難うございます。心から感謝いたします(礼)
>仕方がないので自分の出せるだけの低額でもお布施をして、先生のご講話を聴きたいのです。支部の方で、チェックでもするようであれば、これには抗議したいと思います。
私はこれまで、かなりの額をお布施して来ております。しかし今はお布施できていません。うちの支部では、最近のご法話は感謝奉納という事でお金は任意ですが、他の支部や精舎では、必ず奉納袋に支部名と名前を記入する用紙が入っていますよね。
私の実家の支部では、ご法話じゃない時でも「感謝奉納の時間」と称して一人ずつ祭壇の奉納箱に一列ずつ並ばせてお布施させる儀礼があったりするんですよね。これもこの支部だけではないはずです。年金暮らしの父は気まずくて支部から遠のきました。
とくに精舎では、最近チェック機能が強くてDVD拝聴時でも、申し込み記入をキチンとなしたか、しつこく確認されたり、
壁に「盗みを働くことは、〜」とかと、ベタベタ貼った紙が各精舎に散見されます。非常に行きにくくなりました。
であるならば、お布施ではないシステムで運用するべきに思います。しっかりした対価関係にすれば、税金がかかるから便宜的にお布施にしているのかなと勘ぐってしまいます。あくまでもお布施なら教えに忠実であって欲しいです。
主より株式会社みたいと云うご指摘がありましたが、この当たりの特徴が出ているのじゃないでしょうか。
>お金の多寡は目安だと思っています。
この世では、どこかで線を引くという作業が必要になります。目安にこだわりすぎてはいけないと思いますが。
はい、私も本当にそう感じます。
>貧者の一灯は、要相談で、話せば分かってもらえると思います。
分かってもらうのも大変です。いちいち毎回、人が変わるたびに説明しないといけなかったり、理解のある職員の裁量にまかせての事ではなくて、教えとして、ハッキリ浸透させるべきとも感じます。
from: hikaru0827さん
2010年10月23日 08時32分15秒
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「Re:Re:祈願について。」
ainotaigaさん・ueyonabaruさんへ
> > Q・「どうして祈願が効くのですか?自分の努力ではなく病気や商売繁盛したら、濡れ手に粟で、修行にならないのでは?」
> > A.「祈願は、祈願することそのものが、修行です。
> > 守護霊が指導を受けて、本人が気付いていない魂傾向に修正が入ることが祈願が効く理由です」
なるほど。明快です。
> > 本当にそのような理念が本質であるならば、なぜ、「英会話べらべら祈願」や「「株価上昇祈願」や「収入倍増祈願」などの、一見、欲が増大しそうなものがあるのかが分かりません。
> 祈願+努力が大切です。
幸福の科学の教えから考えれば・・・英会話の上達も、収入が倍増する事も、
「地上ユートピアを目指し少しでもお役に立てる自分になる為」
の手段であるということ、それを肝に銘じることが前提であるように思います。
利自即利他であって、決して自我我欲の願いであってはいけませんね。
しかしそれにしても一見、誤解を招きそうな、欲を誘うようなネーミング、内容です。
実際にこの祈願を受けている方に、その思いを聞いてみたいものです。
ueyonabaruさんが、自力他力というお話がありましたが、会が行っている祈願祭などは、法門を拡げているということなのかな?と思ったりします。
自助努力一辺倒では、やはりついて来れない人もいます。宗教団体としての引き出しを増やしているという面があるのかもしれません。
あと、祈願の肯定的見方として自分の理想像(ビジョン)を明確に出来るということがあります。
もちろん、「祈願」でなくても「誓願」でもそれは可能ですが、他力門から入ってくる人達に、そのような自己実現のプロセスに乗っかってもらうという側面もあるでしょうか。
お金の多寡は目安だと思っています。
この世では、どこかで線を引くという作業が必要になります。目安にこだわりすぎてはいけないと思いますが。
貧者の一灯は、要相談で、話せば分かってもらえると思います。
from: ueyonabaruさん
2010年10月22日 21時34分36秒
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「Re:お布施について。」
ainotaigaさんへ
> しかし、人により、心において真剣さに違いがある事に、神仏が査定するのは分かるのですが、客観的には能力の差や貧富の差があります。それなのに同じモノサシとして、お布施の金額を、この世的に一定に定めているのは、おかしな所だと思います。
>
> あの世の基準がこの世の基準に、話が摩り替わっている瞬間のように感じるのです。如何でしょうか?
お布施の額を定めるのはこの世の人です。
この世でこれを決めるのは、教団の人です。高い安いはあるでしょうね。お布施は目安ですので、出せない人は、少なくても良いのではないですか。わたしは、この頃は、ほんの小額のお布施しかいたしません。それでも、決められた目安の額には、いきたいとは思っております。学生は、500円ぐらいで、いいと思っております。
> 基本的に神仏への努力は人には見えないわけですから、金銭の額を一定にして、その額が支払わなければ、祈願やご法話を聞いてはならないとは、どうなんでしょうか?
祈願については三度ぐらいしか経験がありませんが、こちらの願い事を祈願するときには、決められた目安額を出したいものです。これは、値切らない方がよいという気持ちですね。
法話は、そうでもありません。値切っているのではなく、仕方がないので自分の出せるだけの低額でもお布施をして、先生のご講話を聴きたいのです。支部の方で、チェックでもするようであれば、これには抗議したいと思います。
発刊される本はほとんど購入しますので、その間DVDでのご講話なども多いとなると、出費はかさみます。他にもお布施運動がありますね。これにも少しでも出すようにはしているんです。
> お布施しないと、ご法話は、絶対聞いてはならないのでしょうか?
そんなことはないでしょう。私は、少ないときには1000円です。お布施は、小刻みでもよいので、できるだけ奉納するのが良いと思います。
from: ainotaigaさん
2010年10月22日 18時57分19秒
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「お布施について。」
ueyonabaruさん、お答え頂いて有難うございます。なるほどと思いました。長い間の疑問が氷解しそうな予感がしております。
しかし、なるほどの半面、更なる疑問が湧きました。お布施に関してです。
ueyonabaruさんがおっしゃる様に、人間に真剣さを求める度合いに応じて、お布施の多寡があると云うのは、ある程度納得でき妥当性がある様に感じました。
しかし、人により、心において真剣さに違いがある事に、神仏が査定するのは分かるのですが、客観的には能力の差や貧富の差があります。それなのに同じモノサシとして、お布施の金額を、この世的に一定に定めているのは、おかしな所だと思います。
あの世の基準がこの世の基準に、話が摩り替わっている瞬間のように感じるのです。如何でしょうか?
基本的に神仏への努力は人には見えないわけですから、金銭の額を一定にして、その額が支払わなければ、祈願やご法話を聞いてはならないとは、どうなんでしょうか?
お布施しないと、ご法話は、絶対聞いてはならないのでしょうか?
from: ueyonabaruさん
2010年10月22日 15時57分04秒
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「Re:祈願について。」
ainotaigaさんへ
> ある方が講師に聞いたそうです。以下はQ&Aです。
>
> Q・「どうして祈願が効くのですか?自分の努力ではなく病気や商売繁盛したら、濡れ手に粟で、修行にならないのでは?」
>
> A.「祈願は、祈願することそのものが、修行です。
> 信じてないのに、祈願料を納めることは普通出来ません。
>
> また、祈願の結果が、自分の願いとは違うこともありますが、それを仏の答えとして、どう受け入れられるかも修行です。
>
> 祈願を受けると、霊団から、守護霊に直接指導が行きます。
>
> 私達は学んでいても、自分の魂傾向を把握することは、難しいものです。
>
> 意識していないところで、霊的な指導が入ることにより、魂傾向が修正され、想いの向きが変わることにより、仏の光が入って、病気が治ったりするんです。
>
> 守護霊が指導を受けて、本人が気付いていない魂傾向に修正が入ることが祈願が効く理由です」
この説明は受け入れられますね。
> 私は、素晴らしい内容であると思う反面、それなら、わざわざ高いお金をかけて祈願しなくてもいいんじゃないかなと未熟にも思ってしまいました。
私もそのように思っておりました。
この頃は、違う方向で考えております。神様は、対価を求めておられるのです。人から祈願をされたら、その人の真剣度を問うことがあるのでしょう。それは、お布施ということでしょうね。
しかし、神様はお布施をいただなくても、祈願にお応えなさる面があるのです。祈る人の誠意なのではないでしょうか。
神様とお布施の問題、決定的な回答はないでしょうね。
> 本当にそのような理念が本質であるならば、なぜ、「英会話べらべら祈願」や「「株価上昇祈願」や「収入倍増祈願」などの、一見、欲が増大しそうなものがあるのかが分かりません。
正直に申しまして、、「英会話べらべら祈願」や「株価上昇祈願」や「収入倍増祈願」をすればかなえられるというのであれば、
こんなにいいことはありません。しかし、自分の努力なくして祈願がかなえられるものでもないことは明らかですよね。
祈願+努力が大切です。英会話の上達は「祈願+努力」でいいのですが、株価の上昇となると自分の努力の要素がなくなってくるような感じがありますね。株価を上げるというのは、多くの投資家の動きによるわけで、個人だけの力ではどうしようもないわけです。ですから、この場合においては、投資する銘柄の選択がうまくできるようにとの祈願でなければならないでしょう。そうすれば、投資家である祈願者の自己努力の要素が加わることになります。
> 見返りえを求めない「感謝をささげる祈願」でよいと思いますし、願望が強い祈願ほど、祈願料金が高い設定になっているのも不思議です。純粋さが求められるとしながら、見返りを求める度合いは、高くなっている様に感るのですが、なぜでしょうか。
願望が強い祈願ほど、祈願料金が高い設定とのことですが、これもしょうのないことかもしれません。祈願者が真剣であればあるほどお布施の額も上がってくるというのは、いかにも人間的でおかしくもありますが、神様の世界が、人間の世界とそう変わらないのだということかもしれません。
しかし、繰り返しになりますが、神様は、お布施の額に関わりなく人間達の祈願に応えることが多々あるということです。
> 祈願とは、神仏への自分の決意報告なんでしょうか。
そのように思いますね。
> それでは、なぜ、祈願でのイイシラセは、達成された方のみのイイシラセなんでしょうか?願ったけど叶わなかった、けど、心はこの様に変わったとかあっても良い様に感じます。人目を引く宣伝かなと感じてしまいます。
そうですね。宣伝はあるでしょう。私が幸福の科学の体験談を読んで感じるのは、祈願は叶えられなかったが、精神の満足感、悟りの達成感などが得られたとの記事は結構多く公表されているように思います。
自力の宗教と他力の宗教がありますが、祈願は他力を頼む宗教の一面ですね。幸福の科学には、両方の考え方が、共存しているように思います。光明思想でいう、「外に神あり内に神あり」の思想でしょうか。自力宗教は悟りを目的としますし、他力宗教は自分以外の神におすがりするものですね。どちらも正しいということでしょう。
from: ueyonabaruさん
2010年10月27日 18時20分48秒
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「Re:Re:Re:祈願について。」
hikaru0827さんみなさんへ
> 人を観るのは、レッテルではなく、人本位を基本とする事を肝に銘じたいと思っています。
大体において、同意見です。
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