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from: にしき鯉さん
2010年12月24日 21時06分08秒
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仏教の「静か」と言う表現
仏教に「涅槃寂静」と言う言葉があります
一般に寂静、静寂と言うと静かなイメージがあります
静かな朝に湖の湖畔にたたずむような、、、
物音一つしないような綺麗な空間に自分を置くような、、、
そんな場所を想像すると思います
私が経験したものは違いました
静かなんですが満ち足りているんです(暗くはありません)
一日、仕事をして成果を残した時の達成感に似ています
クタクタに体は疲れているのに心が満足しているんです
まるで、暖かい光の中で遊泳しているような感じです
自分の個性、自我はもちろんあります
でも、それとは「別の自分」が明らかに存在します
しかし、「別の自分」はとても危うくまだまだ掴み切れません
それが自分の意識で何も考えないのにその状態が持続するんです
まだ、コントロールは全く効きませんが
この先に涅槃があるような気が少ししています
コメント: 全6件
from: ueyonabaruさん
2010年12月26日 23時39分21秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:仏教の「静か」と言う表現」
にしき鯉さんへ
にわとりの件、野良猫の件、ご親切にありがとうございました。
可哀想という思いだけの親切では、後に悩みを抱えてしまいますね。去勢手術なども考えます。もし、そうすると、この猫たちの死を見取ってしまえば、再度猫を飼う(餌付け)ということはしないと思います。
この世は、矛盾に満ちており、娑婆世界の様相を帯びております。気持ちは、おっしゃるように良いことを念じることしかありません。
from: にしき鯉さん
2010年12月26日 19時14分40秒
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「Re:Re:Re:Re:仏教の「静か」と言う表現」
ueyonabaru さんへ
現実に教えを生かそうとする気持ちに心、打たれています
<庭先にニワトリを9羽飼っております。1羽は雄鶏ですが、こいつが、ときおり、夜中の3時頃に大きな声で鳴くことがあります。静かな夜には、ご近所からクレ-ムが来ないかと心配になっております。ほかの雌鳥たちにしても、やがて卵を産まなくなるころには、更新のため処分もしなければなりません。>
< さらに、野良猫を5匹にえさをあげております。これのえさ代が馬鹿になりません。これ以上増えなければ、辛抱しようとは思っておりますが、さらに倍にでもなってしまうようであれば、もう対応できません。>
戒は必要なもので大切なものですが囚われすぎてはいけません
自分の考えを述べます
動物や虫などにもカルマ(業)はあります
ニワトリは生まれてから何ヶ月かで食料にされるのが普通です
残念ですが人間の世界では、人間の魂が優位ですので仕方がありません
泣き声だけの心配であれば、方法はいくつかあります
http://park2.wakwak.com/~toyonaka/tori/qanda.html
しかし、生命はいつか終わるものという考えのもとに処分されても仕方の無い事です
我々人間は万能ではありませんし、「他の生命をもらって生きている」ことも事実です
ニワトリを養護学校などで引き取ってはもらえないでしょうか?
養護学校などは情緒教育などの一環で育てているところは多いです
やむなく、処分しなければならない場合でも、一つの魂として認めて玉子を産んでくれた事、エサをあげる喜びを与えてくれた事に感謝してお別れすればいいと思います
・・・・・・・・・・・・・・・・
野良猫にエサの件は個人メールで送ります
from: ueyonabaruさん
2010年12月26日 14時39分25秒
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「Re:Re:Re:仏教の「静か」と言う表現」
にしき鯉さんへ
ご返事ありがとうございました。真摯な求道の精神は私を啓発するところがあります。
久しぶりに、先般、にしき鯉さんの宗教的書き込みを読ませてもらった晩は、エル・カンタ-レへ祈る私も、普段とは違い、ことのほか高揚した気持ちになりました。
さて、ここで、にし鯉さんには申し訳ないことですが、白状しなければなりません。
だから釈迦は殺生を第一の戒とし、他を害する気持ちを最初に除く事を薦めています > > 入り口は違ってもゴールは同じような状態を目指していると思っています、頑張りましょう > > > > >
この、殺生戒のところです。我が家には、庭先にニワトリを9羽飼っております。1羽は雄鶏ですが、こいつが、ときおり、夜中の3時頃に大きな声で鳴くことがあります。静かな夜には、ご近所からクレ-ムが来ないかと心配になっております。ほかの雌鳥たちにしても、やがて卵を産まなくなるころには、更新のため処分もしなければなりません。
さらに、野良猫を5匹にえさをあげております。これのえさ代が馬鹿になりません。これ以上増えなければ、辛抱しようとは思っておりますが、さらに倍にでもなってしまうようであれば、もう対応できません。
というような状況ですので、私には殺生戒を守ることができません。その他にも、厳しい仏教の戒律を守っているとはいえない状況でしょうね。
from: にしき鯉さん
2010年12月26日 12時54分54秒
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「Re:Re:仏教の「静か」と言う表現」
ueyonabaru さんへ
ご理解いただき、ありがとうございます
< 毎日、幸福の科学のお経である、正心法語を読誦します。私は、瞑想行なしに修行ができないものかと考えているかのようです。一回の正心法語の読誦では効果が薄いような気がしたので、今は朝夕の二回にしております。これは良いようです。
現実生活をしながら、自己のホントの魂に導かれて生きているような感覚があればいいと思っております。>
これは素晴らしい事ですよ
「継続は力なり」とよく言いますが、肉体鍛錬にしても精神にしても
持続する事で、「いざ」というときに発揮できる力になります
お経にしても本来、生き方をつづったエピソード集です
葬式のためにあるんじゃありません
仏教には「四無量心」というのがあります
四つのどこまでも成長させることができる心のベースになるものです
一つ目は皆さんご存知の「慈愛」です
総ての魂に愛を持って接する、、、
簡単な事のようですが、実際はそうではありません
たとえば、自分を口汚くののしる者、自分に敵意を向ける者にそういった「慈しむ」心を向けられるでしょうか?
多くの人が「俺はキリストやお釈迦様ではないから」といい自己の言い分を通す事に専念します
ですが、待ってください、
憎しみの心や征服心でいっぱいの状態と、、、
自分が傷つくのを覚悟で他の魂を愛そうとする気持ちは
どちらが、自分の心を幸福に近づけると思いますか、、、
経典(正心法語)の読誦は、「心の田畑の苗」の植え替えなんです
「自分の心を上に上げる」苗と「下に下げる教え」の苗のどちらかを
私たちは毎日、植え続けているんです
総ての魂がいろんな事柄で悩んだり苦しんでいます
そして苦しんでいる魂を救いたいと言う気持ちは「魂」本来の物です
だから釈迦は殺生を第一の戒とし、他を害する気持ちを最初に除く事を薦めています
入り口は違ってもゴールは同じような状態を目指していると思っています、頑張りましょう
from: ueyonabaruさん
2010年12月25日 00時52分17秒
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「Re:仏教の「静か」と言う表現」
にしき鯉さんへ
静かなんですが満ち足りているんです(暗くはありません) > > 一日、仕事をして成果を残した時の達成感に似ています > クタクタに体は疲れているのに心が満足しているんです > まるで、暖かい光の中で遊泳しているような感じです > >
分かるような気がします。瞑想の修行から得られる境地でしょうか。
私は瞑想というものをやりませんが、おっしゃる境地は、光の中に自分があるようなもの、心地よい疲れで感じるもののようなという表現ですので、きっと歓迎すべきものかと思います。
前にも申しましたように、瞑想は苦手です。少し避けております。幸福の科学の精舎などに行き、瞑想をするということもありません。下手をすると、暗くなるんではないかと、恐れます。また、現実を遊離した世界に遊ぶことに対する警戒感があるのです。
毎日、幸福の科学のお経である、正心法語を読誦します。私は、瞑想行なしに修行ができないものかと考えているかのようです。一回の正心法語の読誦では効果が薄いような気がしたので、今は朝夕の二回にしております。これは良いようです。
現実生活をしながら、自己のホントの魂に導かれて生きているような感覚があればいいと思っております。
いずれは、精舎に行くようなこともあるかもしれません。特に、田沢湖正心館の、自分の幽体の一部を分け霊界を体験するという神秘的な行(瞑想)には興味があります。しかし、これは先のことですね。
現実生活に真理を生かす方法について、しばらく関心を向けていこうと思っております。
> > 自分の個性、自我はもちろんあります > でも、それとは「別の自分」が明らかに存在します > しかし、「別の自分」はとても危うくまだまだ掴み切れません > > それが自分の意識で何も考えないのにその状態が持続するんです > まだ、コントロールは全く効きませんが > この先に涅槃があるような気が少ししています >
from: hikaru0827さん
2010年12月28日 08時11分04秒
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「殺生について思う事」
ueyonabaruさん・にしき鯉さんへ
横レス失礼します。
> というような状況ですので、私には殺生戒を守ることができません。その他にも、厳しい仏教の戒律を守っているとはいえない状況でしょうね。
殺生についてなんて子供の頃は、気にもしていませんで、普通の子供と同様に残酷な好奇心に従って虫に接していたものです。
高校生頃、宗教関連書を読み少し心が精妙になってくると、「残酷さ」や「死」というものに敏感になりました。
車に曳かれた猫など、死体死骸を見れば手を合わせる、なんて事をやっていると、段々恐怖を覚え、合掌は止めました。
豪放磊落な人間には、妖しきものは近寄らないものです。
バランスが大事です。
しかし、今でもエビの殻剥き(特に足)が苦手です。
そんな私ですが、嫁のお母さんの言葉を、とても面白いと思いました。
お義母さんの家は山中で虫もちょくちょく家に侵入します。(私も三回程お風呂でムカデに咬まれました)
それらを退治する時の掛け声です。
「お命頂戴!」
弱々しい優しさでもなく、無神経でもなく、命に敬意を払いつつ、覚悟を持ってやっつけるんです。
膝を打ちました。いい言葉だと感じます。
これは「生存競争」であり、「縄張り争い」なんです。
うちの嫁は、今の家で虫を捕まえたら殺さず外に出します。(…出すのは私の役ですけど。)
山の実家に居た時もそんな事していたのか問うと、「あの家でそんな事していたら間に合わない」という返事でした。
やっぱり縄張り争いです。パーソナルエリアに入ってこられると、なかなかノブレスオブリージュは発揮出来ないようです。命あっての物種という面もあります。
しかしながら、大切な何かのためには命を投げ打つ覚悟は持っておきたいと思います。”武士道とは死ぬ事とみつけたり”です。
>でも、自分の心が「それだけじゃ、たりない」と言うんです
>心の奥底で「自分が求めている世界」をもっと探せと言うんです
心の疼き、魂の声、…その内容は人それぞれなんだろうと思います。
私も自己実現に努力しないといけません。
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