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from: にしき鯉さん
2011年01月05日 21時19分02秒
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功徳について
新年あけましておめでとうございます
今年もよろしくお願いします
功徳とは何でしょうか?
日本の宗教全般に言える事ですが、
勘違いしているように思えてなりません
功徳とは良い事の積み重ねでできる「善因善果」の事
人間にとって普遍的な良い事は総じて同じような物
もちろん、国や風習の違いによって善悪そのものは違ってきます
だから、人間としての功徳と仏教者独特の功徳もあります
ですが、信仰心の無い人や唯物主義の人に話す事ならばueyonabaruさんの言うように「経典を読むのが功徳」という話もうなずけるのですが、、、
少なくとも、ここに来ている方は信仰を持っている人たちです
もっと、経典の意味を深く探求する必要があるのではないでしょうか
経典の意味を深く考え、日々の生活に生かさなければ功徳にはならないと思います
<「大川隆法先生に騙されて地獄に堕ちても構わない。私の人生を見れば、どうせ地獄に行くような身であり、このままで行けば地獄行きだから、騙されて地獄に行ってもよい。先生が言うのだから、それを信じ、ついていこう。地獄に行き、次の転生で、もし人間以外のものに生まれ変わったとしても、しかたがない。それは、今生の精進が悪かったのだろうから、あきらめる。だから、とにかく先生についていこう」という決意をしてくださればよいのです。>
これは間違いに思えます
私たちは、人間として生まれたチャンスを生かさなければならないのです
私たちは全員が地獄に行く可能性があるんです
だからこそ、真剣に指導者を探さなければなりません
大川さんの経典を信望しているなら、疑問があったらそのまま妄信してはいけません
支部に行き、礼をつくして質問するべきです
自分の心が納得していないのに、そのまま進むのは指導者に対しての侮辱です
(安心したいがための「疑問の据え置き」は良くありません
私はここに来ている方々にもっともっと仏教を知ってもらいたいと思って書いています
「功徳」という言う言葉を教団を維持するものに使ったり、布施の意味に流用したりする事は本末転倒のような気がします
釈迦が説いた布施の意味は「貪る心を減らすための施し」です
当時、在家信徒が釈迦の教団に布施をしたのは
今生、縁が出来た時点で「妻がいたり、仕事に責任があったり、老齢だったり」して修行に専念できない人たちに説いた教えです
(カースト制度があったことも一因です)
釈迦教団は一日一回の托鉢、布施も金品は受け取らず食事だけです
そこまで、徹底していたから民衆は教えを求め布施して縁を強くする事に喜びを感じていたんだと思います
コメント: 全16件
from: にしき鯉さん
2011年01月16日 11時12分26秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:功徳について」
hikaru0827 さんへ
ご意見ありがとうございます
ここまで、真剣に捉えられるともっと奥に行きたくなります
hikaruさんの考えは古くから言われている「聖と俗」の話ですね
日本でも僧侶と在家の区別があります
しかし、今の大乗の僧は生活のために日々の行いをしています
その中に本当に信徒や自分のための精神の練磨があるんでしょうか?
今の僧の一番の欠点は「自覚」でしょう
経典がそばにありながら、先人が体験した事も自分では体験できていない
なぜでしょう、
それは、自らを凡夫と肯定し、煩悩を肯定しているからです
「寺を守る」「〇〇宗の系譜だから余計な事はできない」「総本山の目が怖い」など言い訳ばかりです
「行ない」にしても、そうです
肉食は良くない、殺生は良くない、知っていても守らないでしょう
理由は「信徒からの布施だから」「他の生き物の生命を食わなければ生きていけない」「酒は神々の飲み物だから」
これまた、言い訳ばかりです
私はこう考えます
僧侶と言えど、最初は皆、凡夫です、
しかし、高いレベルの魂(教え)に感動して上を目指した以上、信徒の先を行かなければなりません
ueyonabaruさんがよく言う六大煩悩(貪・瞋・癡・慢・擬・悪見)、この内、前の三つは生まれた時にすでに生じています
僧は、在家の布施を受ける以上、これらの煩悩のつぶし方を教えなければなりません
それが、「教え」であり、僧侶の修行です
今の僧侶のほとんどは、闇(下位の世界)の世界に転生しますよ
それはキチンとした理由があります
今生の行いが転生を左右するなら
①恵まれた環境に甘えている
②自分が確信の持てないものをお金をとって提供している
③修行をしない者が布施を受けている
(本来、布施を受けていいのは阿羅漢レベルからです)
そして最大の理由は釈迦の説いた「解脱への道」を捻じ曲げ
「煩悩を破壊する」を「煩悩を肯定する」教えにすり替えた事です
まして、墓を売って儲ける、数珠を売って儲ける、読経で儲ける
とんでもない話です
from: hikaru0827さん
2011年01月16日 08時28分42秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:功徳について」
にしき鯉さんへ
返信ありがとうございます。にしき鯉さんのご意見に概ね同意出来ます。
少しだけ私の思うところを…。
組織としては「土台から柱へ」は失敗が少ない堅実な方法だったと思います。
…まずは少数精鋭で学習中心の活動をして、ある段階で希望者を受け入れる。伝道活動に力を入れる。そしてまた学習に軸足を置き、学習や指導経験を通して成長を目指す。その繰返しです。
個人としては「上求菩提、下化衆生」を基本としたいと思います。
…悟りを求めて修業しつつ、他人や社会に奉仕する事を念頭にすべきかと思います。
○僧侶と信徒について
> 幸福の科学では宗務局の方が僧侶ですか、
私の居た頃の幸福の科学会員は、「僧侶」のつもりか、「僧侶」を目指していた方が多かったように思います。上昇思考が強いんですね。『「その他大勢」で終わるつもりはない』という気持ちを感じます。
しかし、それは職員を目指すという事ではありませんでした。
職員でなくても、学習伝道で実績を重ねていけば「僧侶」と言えるかと思っていました。
職員さんは、時間や労力の布施をされていて素晴らしい仕事だと思いますが、社会に対する影響力という点では、自由な時間が確保出来る在家の方が動きやすいという面もあります。
要するに自覚の問題ですね。
今の時代は皆がみな、頭を丸めて袈裟を着る訳にもいきません。職員にも募集枠というものがあります。
立場がどうあれ、本人が会を背負って立つぐらいの自覚や気概を持っていれば、そして実力と実績があれば「僧侶」といってよいのではないでしょうか。
先生も結構、そのように自覚を求めておられました。「あなた方はアラハンの世界に帰るのでは不十分である。菩薩界を目指すべきだ」と。言葉の定義はさておき、つまり「自分づくりだけでなく、人を助ける側にゆけ」という事でしょうか。
私自身、受け身な時期は、会員で居る事にすら辛さを感じていました。
常に自己変革を求められる宗教団体で、そこが素晴らしいところでもあり、辛いところでもありました。
しかし「僧侶」の位置付けが「自覚次第」なんて曖昧な感じだとデメリットも生まれますね。
職制が不明確です。
> この僧侶と信徒が役割分担して進むのが教団の繁栄と法の流布として理想だと思います
にしき鯉さんの言われる様に、僧侶の役割、信徒の役割を定めると、分かりやすいのは確かです。
反面、信徒と呼ばれる人が自ら限界を作り、今の立場に甘えてしまう気もします。
しかし、最近は「信徒」を増やす事に転換しているようですね。
難行道から易行道というところです。
とりとめもなくダラダラと書きました。まだ考えがまとまっておりません。
○「修業」の捉えについて。
> 現実に24時間すべてを修行についやす事はよほどの覚悟がないとできないと思います > マントラ(真言)ひとつをとって見ても12時間となえ続けなさいと言われたら多分現代人は誰もできないでしょう
> プロである僧侶は24時間の内、祈り、瞑想などを主軸とし、残りの時間は総て信徒の心のケアにあてるべきだと考えます
今の時代、だれもが出家するわけにはいかないように、だれもが禅定、瞑想を日常的に出来るわけではありません。
普通の家庭生活、会社での仕事や人間関係…滝に打たれたり寺で座禅なんて特別な事ではなく、「日常」の中に修業はあり、成長のよすががあると思います。「僧侶(在家を含む)」であっても、です。
幸福の科学の書籍には、そのような「日常の教え」が様々あります。
もちろん、定、瞑想、読経もありますが、修業の意味をそこに特化されると、違和感がありますが。
from: ueyonabaruさん
2011年01月12日 17時39分50秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:功徳について」
にしき鯉さんへ
> > 一度、僧侶と話した事があります > 「死後の世界はある」と経典に書かれています、しかし、本当のところはわかりませんと言っていました > > なぜ、プロである僧侶が確かめようとしないんでしょう > 釈迦の経典にキチンとこういう瞑想修行をすればこういう経験ができるとあるではないですか > > 自分が経験した事がないのに経典を元に法を説いてるから信徒が真剣に聞かないのだと考えます >
そうですね。何事も、実体験、体感というのが大切だと思います。
from: にしき鯉さん
2011年01月12日 00時20分42秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:功徳について」
hikaru0827 さんが素晴らしい提案をしてくれました
<宗教団体として、如何なる姿が理想なのか?
また発展段階というものがあるのか?
地域や時代によってどう変わるべきなのか?>
理想としては一宗一派を立てた方は、教義の内容を総て把握しておくべきです
まず、自分が修行で経験する事です、その上で弟子が同じように経験できるように体系立てて組みなおす事です
もちろん、魂は前生からの引継ぎ部分がありますから、今生でプロとしての僧侶を目指す方もいれば、在家で教団を支える方もいます
現実に24時間すべてを修行についやす事はよほどの覚悟がないとできないと思います
マントラ(真言)ひとつをとって見ても12時間となえ続けなさいと言われたら多分現代人は誰もできないでしょう
幸福の科学では宗務局の方が僧侶ですか、でしたら全力で大川さんに続き
法を解析し信徒に勉強会を開き「法」そのものを理解する必要があります
いつまでも、霊言、予言のたぐいに振り回されても精神性は高まりません
自分を変えるのは自分です、「法」はその教科書にしかすぎません
しかし、人間は弱いものです、クリアな心を目指しても現実の人とのつきあいで、あっ、と言う間に清い心は崩れ去ります
その時に、先達が、慰めるのではなく叱咤激励して引っ張りあげる
それが「法友」であり、先を行く僧侶でなければなりません
修行する、心がカベにぶつかる、挫折するたびに「忍耐力」が培われます
修行とは自分の観念を破ることでもあるんです
この僧侶と信徒が役割分担して進むのが教団の繁栄と法の流布として理想だと思います
プロである僧侶は24時間の内、祈り、瞑想などを主軸とし、残りの時間は総て信徒の心のケアにあてるべきだと考えます
信徒は、布施と言う形で教団を援護し、奉仕として教えの流布を手伝い
それとは別に自分のこころを見つめる修行をするべきでしょう
hikaru0827さん、私はこんなふうに考えています
from: にしき鯉さん
2011年01月12日 00時17分50秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:功徳について」
ueyonabaru さんへ
<現代の仏教者たちが「死」についてどのような考え方をしているかということなんですね。僧侶たちへのアンケ-トがあったそうですが、「あの世は存在するのか」という問いに対して、半分以上の僧侶はあの世は存在しないと答えたそうです。>
<このような現代の仏教の僧侶の現状を見るとき、私は、危機意識をもつわけです。既存の仏教がもう救済力を失っているかのようです。>
本当にそうですね、堕落の原因はシステムだと思います
檀家制度に世襲制、これが一番でしょう
歴代の空海や日蓮は世襲しなかったでしょう
「道」を追いかけることが後に続く条件でした
世襲そのものが悪いとは思いませんが、二代目になると保身を第一に考えてしまいます
弟子や信徒を高い境地に上げることより、教団の維持、そして拡大による旨味を目指してしまいます
そして三代目、これは腐敗した二代目を見ていますから、堕落の一途です
檀家制度もそうですね、墓と言う「人質」に親をとられて自分が他宗を信じていても中々、反論はできないし、ましてや、宗旨替えは難しいものです
寺にしても堂々と寄進、布施を要求してきます
それが親の眠る墓などの改修費用ならば、納得のできるものですが
多くは自分たちの住まい、屋根などの生活のためのものです
一度、僧侶と話した事があります
「死後の世界はある」と経典に書かれています、しかし、本当のところはわかりませんと言っていました
なぜ、プロである僧侶が確かめようとしないんでしょう
釈迦の経典にキチンとこういう瞑想修行をすればこういう経験ができるとあるではないですか
自分が経験した事がないのに経典を元に法を説いてるから信徒が真剣に聞かないのだと考えます
from: ueyonabaruさん
2011年01月11日 17時50分39秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:功徳について」
hikaru0827さんへ
この間メ-ルでお送りした、中西常政教授の論文は読めましたでしょうか、案じております。もし、読めなかったのなら、FAXかコピ-でお送りいたしたいのですが、いかがでしょうか。
まさに、幸福の科学の初期の頃の形ですね。 > > 当時は入会審査も厳しく、会方針として人を増やす事を控えていたとの事です。まずは今の会員のレベルを上げる事に専念するという事でした。 > > 私の頃でも10冊以上書籍を読んでからでないと、ダメだと書いてあったので、読み終わるまで願書が出せませんでした。 > > 私の知り合いで、入会を断られた人も居ました。 > > 宗教団体として、如何なる姿が理想なのか? > また発展段階というものがあるのか? > 地域や時代によってどう変わるべきなのか? > 色々な要因がありそうですね。 >
初期の頃の仏教は、にし鯉さんがおっしゃるとおり、個人の悟りを中心とした宗教活動だったと思われますね。個人の救い、個人の向上は、いつの時代でも基本的な要請だと思います。個人の向上を無視した宗教の活動は、どこかに無理が生じてくることが考えられます。個人の向上を目指すというので、これは利己主義というものでもありませんね。初期仏教の小乗的なアプロ-チと大乗的な運動とは双方そろってこそ本物ではないでしょうかね。
お釈迦様の時代には、インドを中心としたものの考え方をしていたと思うんです。他方、グロ-バルな世界にいるわれわれ現代人には、それに相ふさわしい活動形態があると思います。
エル・カンタ-レ信仰一辺倒で行くといっても、基本的な宗教の目的でである個人の悟り・向上というものは、決してないがしろにしてはいけない筈です。常々、これをチェックしていきたいものです
省エネの件ですが、太陽電池を作り出すに要するエネルギ-消費量が、これから生み出されるエネルギ-総量とどちらが多いのか興味深いことです。以前、外国の方が、プリウスの製造にかかるエネルギ-総量は、プリウスが節約するエネルギ-よりも多いのだと書いていた記事があったことを思い出します(記憶は不確かですが)。いずれにしろ、簡単な問題ではなさそうです。
新しいエネルギ-を人類が使えるようになるために懸命な研究をしてもらいたいものです。それも、できたら、日本からその技術が生まれるのなら幸いなことです。このような、新エネルギ-の記事を読むのは、とても好きです。
from: hikaru0827さん
2011年01月11日 01時13分18秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:功徳について」
にしき鯉さん・ueyonabaruさんへ
横レス失礼します。
> > <お釈迦様は、個人救済だけが目的だったのでしょうか?
> いえ、目的ではなく個人の「苦脳」をとりのぞく方法を提示し、実践させたんです
> たくさんの人を救済する思想は釈迦滅後の大乗思想が作りました
> 自分はこの大乗思想は「釈迦の意思」の発展系だと思っています > 紆余屈折はあったにせよ、ここまで一般の人たちに仏教の教えが広まったのは大乗思想があったからです
> 釈迦が存命中は個人の個人の「解脱と悟り」だけを説きました > もちろん、国や団体はありましたが、国の繁栄やあり方はアドバイスだけに留まりました
> だからと言って、釈迦に大乗の気持ちがないという事ではありません
> 当時は、そこまでの必要性もなく遊行して各国をまわり、釈迦の教えを弟子たちが広めるだけで充分だったと思います
まさに、幸福の科学の初期の頃の形ですね。
当時は入会審査も厳しく、会方針として人を増やす事を控えていたとの事です。まずは今の会員のレベルを上げる事に専念するという事でした。
私の頃でも10冊以上書籍を読んでからでないと、ダメだと書いてあったので、読み終わるまで願書が出せませんでした。
私の知り合いで、入会を断られた人も居ました。
宗教団体として、如何なる姿が理想なのか?
また発展段階というものがあるのか?
地域や時代によってどう変わるべきなのか?
色々な要因がありそうですね。
from: ueyonabaruさん
2011年01月09日 13時22分06秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:功徳について」
にしき鯉さんへ
ソククラテスについてご理解ありがとうございます。
ソクラテスは自分で自分の思想を書いてはおらず、弟子のプラトンがソクラテスと色々の人物との哲学的な会話をするという形式でまとめた、いわゆる対話編に彼の思想が語られるわけですね。彼の思想と、プラトンの思想とどっちがどっちだかの区別も私にはわかりません。どちらも、偉大な方々には間違いありません。
有名なものは、「ソクラテスの弁明」です。私が、ソクラテスを手にしたのは、ほんの数年前なんです。当初、この本は、「悪法も法なり」という順法の精神が説かれたものとの先入観があったのですが、実際は、私の言葉で言えば、これは宗教の本です。あの世の存在を確信している、ソクラテスの考え方がその中心にはあるのです。
ここには、あの世へ旅立つのは、すなわち、死は決して忌むべきものではない、そこで、かつてこの世で生きた今はなき聖者たち、また神々とも語り合うことができるのだと言います。人は、死というのが分かりもしないのに、これを忌むべきものとしているが、これは間違いである言うのですね。死を知ってもいないのに、あたかも知っていると思っている大衆の無知を批判しております。いわゆる「無知の知」という言葉もこの「弁明」に出てる言葉です。
さらに、パイドンとの対話においては、霊界の荘厳さを具体的に表現をしております。ソクラテスの宗教的側面に焦点を当てて対話編を読むことは、我々仏教者としても、大いに参考になるところです。
そこで考えるのですが、現代の仏教者たちが「死」についてどのような考え方をしているかということなんですね。僧侶たちへのアンケ-トがあったそうですが、「あの世は存在するのか」という問いに対して、半分以上の僧侶はあの世は存在しないと答えたそうです。
このような現代の仏教の僧侶の現状を見るとき、私は、危機意識をもつわけです。既存の仏教がもう救済力を失っているかのようです。
幸福の科学は、あの世は存在するということを明言し、四諦八正道の修行の方法論を提示し、現代において、仏教の本来の救済力を復活させることを一つの目的としていると思っております。
from: にしき鯉さん
2011年01月09日 08時42分46秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:功徳について」
ueyonabaru さんへ
返信ありがとうございます
ソクラテスの件ですが、これはueyonabaru さんのおっしゃる通りです
自分が間違っていました、訂正してお詫びします
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<お釈迦様は、個人救済だけが目的だったのでしょうか?>
いえ、目的ではなく個人の「苦脳」をとりのぞく方法を提示し、実践させたんです
たくさんの人を救済する思想は釈迦滅後の大乗思想が作りました
自分はこの大乗思想は「釈迦の意思」の発展系だと思っています
紆余屈折はあったにせよ、ここまで一般の人たちに仏教の教えが広まったのは大乗思想があったからです
釈迦が存命中は個人の個人の「解脱と悟り」だけを説きました
もちろん、国や団体はありましたが、国の繁栄やあり方はアドバイスだけに留まりました
だからと言って、釈迦に大乗の気持ちがないという事ではありません
当時は、そこまでの必要性もなく遊行して各国をまわり、釈迦の教えを弟子たちが広めるだけで充分だったと思います
ueyonabaruさんが、かなり冷静に判断されている事に感謝します
ともすれば、アンチと思われそうな書き方ですので少し心配でした
from: ueyonabaruさん
2011年01月08日 15時07分18秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:功徳について」
にしき鯉さんへ
> ueyonabaruさんへ > >
おおむね、了解しました > > 信仰は時として妄信になってしまうのですが、本体を教義に置くなら > 道はそれほど外れないと思います > >
ありがとうございます。
妄信と信心は時に判別が難しいことがありますね。 幸福の科学の支部の方々を見ていると、そんなに常時ずれるというのは少ないのではないでしょうか。理性的なアプロ-チは結構強いようですから、あらぬ方向へ、チェックなしに進みつづけることはないかとおもいます。イスラム原理主義のような、また、日本のかつての軍国主義のようにはならないでしょう。
政治に参加する事自体は反対はしません > でも、知名度もなく実績もない状態での意見は一般の人は聞く耳を持ちません > >
今は、誰も支持してくれてない状況ですね。分かってはおりますよ。
ソクラテスなどの哲学者を引き合いに出されても民衆は「何を頭でっかちな理屈を吼えてる」としかとりません > >
ソクラテスは偉大な方ですので、取り上げても構わないのではないでしょうか。宗教者であれば、だれでも、この方のことは学んだほうが良いと思いますよ。役立ちます。 頭でっかちととらえる方もいるでしょう。しかし、幸福の科学は、知的な探求心が売りでもあるんです。
日本の仏教者も、もっと国際的にアピ-ルできるようにしなければならないのではないでしょうか。多くの僧侶は勉強が足りていません。伝統仏教の中で、社会に対し発言できる僧侶が現在いるでしょうか? 伝統の殻に閉じこもっているようにしか見えません。私は、伝統仏教よりも、新興宗教の方が社会に影響力があるように思いますが、・・・・・。
個人の悟りは大切ですが、社会を良くしようとする、あるいは、社会とかかわりをもつことも、また大切なことのよう思います。
インテリな思考が世間をリードすると大川さんが考えているなら、まず > 知識人を集め理論と防衛の展望で彼らを説得するのが先決でしょう >
インテリも仏教者も政治家も、同じ場所で議論できるととても面白そうですが、こんな場を誰か設定できるでしょうか。まだ、無理のようです。マスコミが主催したほうが良いでしょうね。
> 私、個人としては政治などに参加するより、個人の幸福を願う道を探求してもらえればと思います > > それこそが釈迦の説いた道であり、願っていた事でもあります > >
お釈迦様は、個人救済だけが目的だったのでしょうか?
そして、その途上にある多幸感、エゴを捨てて得られる安心感などを多くの方に知ってもらいたい > > 世界の大宗教の中で侵略や戦争を完全否定して何千年と実践してきたのは仏教だけなんです >
イエスが平和を説かなかったという断定もできません。誰も平和を望むのです。 しかし、平和は、平和、平和と唱えるだけで、実現できるものではありませんね。イエス様やお釈迦様のような心を人間皆が持てれば平和の可能性も出てくると思うんですが・・・・・。
戦国時代は、仏教にすがりながら、戦をしているのが実態でした。キリスト教も、同じようなものです。
ほとんど反論のような形になってしまいましたが、実は、おっしゃることは、気持ちは理解できますよ。幸福の科学も、血道な仏教徒としての態度が必要ではないかということではないでしょうか。この辺りは、欠点がありそうです。エル・カンタ-レ信仰といっても、一般には、全く知らないことですからね。 しかし、ともあれ、未来を信じて、そして未来を築くことこそが、私たちの役目だと観念しておりますので、まずは前進あるのみということでしょう。
from: にしき鯉さん
2011年01月08日 07時56分03秒
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「Re:Re:Re:Re:功徳について」
ueyonabaruさんへ
おおむね、了解しました
信仰は時として妄信になってしまうのですが、本体を教義に置くなら
道はそれほど外れないと思います
政治に参加する事自体は反対はしません
でも、知名度もなく実績もない状態での意見は一般の人は聞く耳を持ちません
ソクラテスなどの哲学者を引き合いに出されても民衆は「何を頭でっかちな理屈を吼えてる」としかとりません
インテリな思考が世間をリードすると大川さんが考えているなら、まず
知識人を集め理論と防衛の展望で彼らを説得するのが先決でしょう
私、個人としては政治などに参加するより、個人の幸福を願う道を探求してもらえればと思います
それこそが釈迦の説いた道であり、願っていた事でもあります
そして、その途上にある多幸感、エゴを捨てて得られる安心感などを多くの方に知ってもらいたい
世界の大宗教の中で侵略や戦争を完全否定して何千年と実践してきたのは仏教だけなんです
from: もん吉。さん
2011年01月07日 07時04分34秒
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「Re:Re:功徳について」
あれね〜
きょうこさんが、お布施を、かなりばらまいたらしいよ。
もう、笑うしかないよね。
まあ、お布施すれば菩薩だっていうのはだれが考えても中道からは外れてるよね。
大黒天の修行はそれはそれで深いものはあるのは分かるけどね。
財産も命も神様からあずかってるものだから、神様が返せって言われたら返さないといけないっていうのは信仰者なら当然だけどね。
大いなるものに殉じるっていうのは魂の飛躍があるから偉大なことではあるけどね。
でも.そればっかりだから本末転倒で喪われた20年だって神々が言ってるわけだよね。
だって、基準が信仰心じゃあなくなってノルマになってるんだもんねぇ。
みんな、おかしいとは思っていただろうけどね。
from: ueyonabaruさん
2011年01月06日 12時17分01秒
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「Re:Re:Re:功徳について」
にしき鯉さんへ
> > エル・カンターレの写真が100万、像が1000万、1500万これは尋常な事ではないですよ > > 教団の維持のお金がかかるのは仕方がありません > でも、それは本当に「道」を極めようとする方が使っているんですか? >
そう思わねばなりません。一番に、職員の給与でしょうね。背広を着た現代の僧たちです。その方たちの生活費でしょう。私には、教団の職員になろうという気持ちは毛頭ありませんが、信仰のため、教団に奉職した方々には敬意を表したいと思っております。 個人の悟りというより、大乗の運動だと考えておりますが、個人でも道を極めるという修行は併行して常に行っていると思います。それがなければだめでしょうね。
写真が買えない人は、私の場合ですが、先生のご本の写真を通して拝んでおります。単なる写真ではないのですね。仏像を通して拝むのと一緒と考えてください。幸福の科学の献金は尋常ではありません。しかし、多くの献金をしてくださる方々がいるということは何も悪いことではありません。
金のない人は出さなくてもいいのではないでしょうか。ないのですから、仕方ありません。決して献金を強制されることはありません。私は、無理をしようとは、決して思いません。本も、結構高いのが多いのです。
また、 ueyonabaruさんは選挙などは啓蒙活動だと言いますが結果が出ないものをいつまで続けるんでしょうか? > >
選挙の結果が、なかなか出ませんが、必要である限り啓蒙運動はやりつづけるべきだと考えております。もっと、経済、合理性を考えてやってもらいたいですね。多少の不満はありますが・・・・・。選挙も大乗の救済運動ではないでしょうか。
私は大川さんに続く者が多く現れ、次々と人格者が輩出され世間に認められるようならいくらお布施をしても良いと思います > >
そのような方々が輩出するようにならねばなりませんね。私も、期待しているんです。
ueyonabaruさん > > 本当に皆さんのお布施が生きて使われていると思っていますか? > これは自分たちが信じられればいいという話ではないですよ >
不正に使われているということは全く考えておりません。職員さんたちにもっと勉強して欲しいという不満がないかといえば、やはりあります。もっと、経営者感覚が欲しいです。救済活動の方、もっと個人を大事にするきめこまやかなものにしてゆきたいです。
献金の問題については色々のご意見がおありだと思いますが、無理をしているのであれば破綻はくるでしょう。今は、うまくいっているんでしょうね、きっと。資金が少なくなるようであれば、活動を絞るということもあるでしょう。このあたりは、教団の運営者の領分ですね。
from: にしき鯉さん
2011年01月06日 10時47分27秒
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「Re:Re:功徳について」
<お布施について、昔のインドではおっしゃるようなことがあったと思います。現代では、もっと教団に資金が必要とされておりますね。そうでないと、布教活動は停滞してしまうでしょう。お布施の形も変わってまいります。>
そうですね、昔とは変わって当然だと思います
しかし、今の日本の教団形態を見ているとあまりにも道が違ってきているような気がします
写真や物に価値があるような、、、伝道、それは大切な事ですが、形にとらわれている様な気もします
エル・カンターレの写真が100万、像が1000万、1500万これは尋常な事ではないですよ
教団の維持のお金がかかるのは仕方がありません
でも、それは本当に「道」を極めようとする方が使っているんですか?
また、 ueyonabaruさんは選挙などは啓蒙活動だと言いますが結果が出ないものをいつまで続けるんでしょうか?
私は大川さんに続く者が多く現れ、次々と人格者が輩出され世間に認められるようならいくらお布施をしても良いと思います
ueyonabaruさん
本当に皆さんのお布施が生きて使われていると思っていますか?
これは自分たちが信じられればいいという話ではないですよ
from: ueyonabaruさん
2011年01月06日 00時48分37秒
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「Re:功徳について」
にしき鯉さんへ
明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いします。
忌憚ないご指摘ありがとうございます。
>> > 功徳とは何でしょうか? > 日本の宗教全般に言える事ですが、 > 勘違いしているように思えてなりません > > 功徳とは良い事の積み重ねでできる「善因善果」の事 > 人間にとって普遍的な良い事は総じて同じような物 > >
功徳というのはおっしゃるとおりです。さらに、お経を読むことによる功徳というものがありますね。これは、実際に私が実感していることなんです。毎日、当会の「正心法語」を読誦しますが、心が明るくなり元気が出てきますので、これを、皆にお勧めしたいというのは、私の本心からのものです。段々に、自分自身の心境も良くなってまいります。
> だから、人間としての功徳と仏教者独特の功徳もあります > > ですが、信仰心の無い人や唯物主義の人に話す事ならばueyonabaruさんの言うように「経典を読むのが功徳」という話もうなずけるのですが、、、 >
お経を読むことにより、お経の力により、良い心境へ向かうということが果たせるなら、信仰ある人も無神論者も、まずは「正心法語」を読んで功徳を体感してもらいたいと思うんです。もっとも、無神論者がお経を読むということは考えられませんが。信仰ある人でも、日々の心の調律として、また、仏のお光をいただくためにお経を読むというのは必須でしょう。「正心法語」は功徳がある、お経ですよ。
> 少なくとも、ここに来ている方は信仰を持っている人たちです > もっと、経典の意味を深く探求する必要があるのではないでしょうか > > 経典の意味を深く考え、日々の生活に生かさなければ功徳にはならないと思います > >
お経の功徳を強調しておりますが、おっしゃるように、経典の学びもその他の学びもまた必要です。四正道(八正道)が幸福の科学で示される修行の要目です。まず、一つ目に愛です。これは他のもののために何事か良きことをなすことです。二つ目は、知です。これは教学などの学びです。三つ目に、反省があります。四つ目は、前三つの成果としての、発展があるわけです。発展につながらないとすれば、前三つに足らざるものがあったとしたいものです。お経については、その内容の理解ということもあると同時に、お経の読誦による功徳を求めるわけです。他力的な面がありますね。功徳のあるお経というのは、ホントにありがたく思っています。
<「大川隆法先生に騙されて地獄に堕ちても構わない。私の人生を見れば、どうせ地獄に行くような身であり、このままで行けば地獄行きだから、騙されて地獄に行ってもよい。先生が言うのだから、それを信じ、ついていこう。地獄に行き、次の転生で、もし人間以外のものに生まれ変わったとしても、しかたがない。それは、今生の精進が悪かったのだろうから、あきらめる。だから、とにかく先生についていこう」という決意をしてくださればよいのです。> > > これは間違いに思えます
信仰の基本は、大川先生のおっしゃるとおり、決心なのだと思っております。私には、親鸞の気持ちがよく分かるような気がします。
> > 私たちは、人間として生まれたチャンスを生かさなければならないのです > 私たちは全員が地獄に行く可能性があるんです > だからこそ、真剣に指導者を探さなければなりません > > 大川さんの経典を信望しているなら、疑問があったらそのまま妄信してはいけません > 支部に行き、礼をつくして質問するべきです > 自分の心が納得していないのに、そのまま進むのは指導者に対しての侮辱です >
教義に疑問が生じますが、支部長に質問して分かるようなことであればいいのですが、私が抱く疑問は、大方が自分自身で考えていかねばならないようなものが実際には多いのです。内面の問題なんです。minamikazeさんにしても、ご自身の信仰上の悩みがあったはずです。信仰者は、ある意味では、歩む道は平坦ではないのではないでしょうか。minamikazeさんは一つの関門を越えられたと今は推察するのです。
(安心したいがための「疑問の据え置き」は良くありません > >
手におえないようなものはどうしても据え置きにしておりますね。そうでないと前向きに行けません。ホントに大事なこと、宗教の根幹に関わることや基本的な事柄を据え置きにしているわけではないですよ。
私はここに来ている方々にもっともっと仏教を知ってもらいたいと思って書いています > >
仏教のこといろいろと取り上げていただき教えてください。
「功徳」という言う言葉を教団を維持するものに使ったり、布施の意味に流用したりする事は本末転倒のような気がします > > 釈迦が説いた布施の意味は「貪る心を減らすための施し」です > 当時、在家信徒が釈迦の教団に布施をしたのは > > 今生、縁が出来た時点で「妻がいたり、仕事に責任があったり、老齢だったり」して修行に専念できない人たちに説いた教えです > (カースト制度があったことも一因です) > > 釈迦教団は一日一回の托鉢、布施も金品は受け取らず食事だけです > > そこまで、徹底していたから民衆は教えを求め布施して縁を強くする事に喜びを感じていたんだと思います >
宗教に功徳がなければ、あまり意味がないように思っております。なぜなら、宗教は、大衆を救済していく役目があるのですから。お布施について、昔のインドではおっしゃるようなことがあったと思います。現代では、もっと教団に資金が必要とされておりますね。そうでないと、布教活動は停滞してしまうでしょう。お布施の形も変わってまいります。
from: にしき鯉さん
2011年01月16日 11時33分21秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:功徳について」
蛇足です
数珠の意味です
数珠の玉は、本来108個あります
煩悩の数は108あると言いますがこれは方便です
数珠は数の「数えおぼえ機」ったんです
マントラ(真言)を数える時、長時間唱えていると時間がわからなくなってきます
真言は神聖な言葉としても意味がありますが、くり返す事によって心に根付く事になります
その時に、左の爪で玉を押さえ、真言を唱える度に一つづつ爪をずらしていきます
108個の玉の内、一つは色が違うと思います
ここから初めて一周したら108回、真言をとなえたと言う事になるんです
今では簡略化されて短い数珠が多く、合掌してジャラジャラと音をだせばOKになっているのはちょっと残念です
少なくとも信仰者である皆さんには正しい理解を、と思い書かせてもらいました
参考になれば幸いです
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