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from: ueyonabaruさん
2011年01月19日 08時08分24秒
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「救世の法」を読んで ④
「救世の法」の第6章は、先生の英語の説法を翻訳したものです。
Forecastと題され、地球の未来を創造する力とは、という説明がついております。この章の最後には、第4節として「エル・カンタ-レを信じ、未来社会を築け」というものがあります。ここで、次のように書かれております。
―
私は、全ての人々、すべての魂を救うために、
地上にあらわれました。
なぜなら、私は「創造」そのものだからです。
私は、この地球の創造力の顕現であり、
この大宇宙の創造力なのです。
これは、幸福の科学の、
そして、人類にとっての、
最大の秘密です。
今こそ、その秘密が明らかにされるべきです。
創造力とは何でしょうか。
それは、どこから来るのでしょうか。
私を見るとき、
あながたは、みな、
その創造力を、その目で見ているのです。
愛の根源、慈悲の根源、
全宇宙の創造のエネルギ-を、
目の当たりにしているのです。
その「隠されていた名」は、すでに明らかにされました。
その名前を、私は、あえて示しました。
しかし、「それ」は、物質的なものではありません。
人間ではありません。
そういう存在です。
だから、ここでは「それ」と表現しているのです。
あなたがたは、その霊的な力を知っているでしょう。
その霊的な根源を知っているでしょう。
そして、あながたは、いま、この根源の力とつながっているのです。
この根源的な力を信じ、それと心を同通させ、
それを愛している自分を発見するでしょう。
この根源の力とは「根本仏の偉大なる力」なのです。
未来社会は、あなたがたの信仰の上に築かれます。
エル・カンタ-レを信じよ。
さすれば、あなたがたの未来社会が開けてくるのです。
これが本章の結論です。
―
この文章を読んでどのように感じられますでしょうか? 次回は、これについての、私の理解などについて書いてみたいと思います。 また、皆さんのご意見などもくださいね。
コメント: 全2件
from: hikaru0827さん
2011年01月20日 07時03分43秒
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「Re:「救世の法」を読んで ④」
> この章の最後には、第4節として「エル・カンタ-レを信じ、未来社会を築け」というものがあります。ここで、次のように書かれております。
内容的には、「永遠の仏陀」と重なっている部分が多いと感じました。永遠の仏陀での発言を分かりやすく説明された感じです。
今回は特に「エル・カンターレを信じよ」という願いにも聞こえるメッセージが印象的です。
「我を信じ集いこよ」と、言われていた時より、大衆に広く訴えているように思えます。
「自分を、エル・カンターレを信じて欲しい」という念いはどのような心から生まれるでしょう。
組織運営といったものを超える、大きな念いでしょうか。
法の構築という毘盧遮那佛の仕事でもなく、「救世の念い」でしょうか。
from: ueyonabaruさん
2011年01月21日 21時19分41秒
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「Re:Re:「救世の法」を読んで ④」
hikaru0827さんへ
>永遠の仏陀での発言を分かりやすく説明された感じです。
私も永遠の仏陀のことを思い出しました。これは、私には、分かりにくいところでもあるんです。先生が仏教の理論を展開されるときには、私には、ストレ-トに受け入れることができ、頭の整理もうまくいくのです。
しかし、「永遠の仏陀」での言葉や今般の「エルカンタ-レを信じよ」の言葉には、しり込みするところがあります。いまだに、幸福の科学の教義の悟りが足らないというべきかもしれません。
私のエル・カンタ-レ信仰は、この方よりほかに頼るべき指導者はいないという事実に発するもです。この方が智者であり、私がもっとも関心を寄せる方なんですね。一種、決意のようなわたしの信仰です。 hikaruさんの自然な受け取りとは若干違うのかもしれませんね。この辺り、いつも参考にさせてもらっております。
> > 今回は特に「エル・カンターレを信じよ」という願いにも聞こえるメッセージが印象的です。 > > 「我を信じ集いこよ」と、言われていた時より、大衆に広く訴えているように思えます。 > > 「自分を、エル・カンターレを信じて欲しい」という念いはどのような心から生まれるでしょう。 > > 組織運営といったものを超える、大きな念いでしょうか。 > > 法の構築という毘盧遮那佛の仕事でもなく、「救世の念い」でしょうか。
それは「救世の念い」でしょう。
先生は、わたしは「創造」そのもであるとおっしゃいます。また、私は「使命」そのものであるとも、私は「法」であるともおっしゃいましたね。 非常にインパクトのある表現です。
「私は愛である」と私が言うとき、それは、私は愛深い人間であるという意味になります。あるいは、「愛」についてよく知っているという意味もあるでしょう。普通の考え方は、このようなものでしょう。
しかし、先生がここでおっしゃるのは、そうではなくて、「創造そのもの」ということですから、創造力に満ちた、あるいは創造についてよく知っている人間であるという次元の話でもないようです。それは、人間ではなく、「それ」としか言いようのないものと言っておられます。不思議な表現です。
キリストも、ヨハネ伝で、「わたしは道であり、真理であり、いのちである。」ということを言っております。これは、同じような表現だと思います。真理をよく知っている人間という意味ではないようですね。
むかし、英文学の授業で習った、W B イエ-ツという詩人の作品を思い出します。その詩では、ダンスとダンサ-が一体となっている情景〈佳境〉を描写したもので、詩人イエ-ツは、それを、「そこにあるのはダンスそのもの」であると表現するのです。若いころですが、神秘的な詩人の言葉に感動したことがありましたね。
仏教の一念三千という言葉も、心がどこにでも行ってしまうという意味と、人間は、肉体ではなく、「念い」そのものであるという意味もあるのかもしれませんね。
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