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from: ueyonabaruさん
2011年04月28日 19時09分26秒
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イエスは創造神?
今月の文芸春秋誌は皆さんお読みになりましたか?
博学で柔和な池上彰氏が各宗教の有識者たちと対話の形式で話されております。
実際に信仰の真っ只中にある者にとっては、若干表層的であり、ハガユイものがありますが、一般的な宗教観がどのようなものであるか分かるし、また、今まで知らなかった点も教えられる面があり、結構興味深い記事です。
キリスト教について、山形孝夫氏(宮城学院女子大学名誉教授)は、神について次のとおり述べております。
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まずはこの世を創造した唯一絶対の「創造神」。ここまではユダヤ教やイスラム教と同じ。違うのは、ユダヤ教やイスラム教の神が人間の目にはまったく閉ざされた不可視の存在であるのに対し、キリスト教では、神がイエスという可視的な存在者の姿をとって、人々の前に姿を現した、という点にあります。「父なる神」と「子なるイエス・キリスト」ですね。そして第三に「聖霊」が加わり、この三つが一体だというのが、キリスト教独自の「三位一体」の神観念です。
復活した後、イエスは天にのぼります。可視的な存在から不可視の存在への変化です。しかし地上には聖霊が残り、イエス・キリストと同じ働きを人間と世界に対して果たしていると考えるのです。
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幸福の科学では、イエスが父と呼んだ神はエル・カンタ-レ神であるとしておりますね。私は、幸福の科学の説明が正しいと思います。人格神であるとしなければおかしいと思うんです。
エマソンはイエスを創造神としてはおりませんし、生長の家でも創造の神は五感を超越した存在と教えております。論理的に、絶対者がこの地に生活するというのはやはり無理があるでしょう。
キリスト教で、聖霊はこの世に残り、イエス・キリストと同じ働きをするとしたのは、面白い工夫ではありますね。死してなお、イエスは生きているとしたいのですね。幸福の科学では、イエスは霊界にあり、天使たちとともに、この世の人々を指導していることになりますね。こちらの方が、私には受け入れやすいです。
分かりにくい「永遠の仏陀」というご本ですが、同書の179pでは次のように書かれております。
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神を知らんと欲せば、
我が教えを見よ。
その教えこそが、
姿なき神の実体なのである。
おまえたちは空を見上げて、神を見んとするか。
おまえたちは目を閉じて、神を見んとするか。
あまえたちは想像のなかで、神を見んとするか。
それとも、おまえたちは、
霊的なる目を開いて、神の姿を見んとするか。
いずれの試みも虚しく終わるであろう。
そう、真実の神とは、姿形なきものである。
真実の神とは、この地上をも超えた、
実在世界にあるところの高級霊の姿をとった、
その霊的実在でもない。
その霊的実在を超えたるものが真実の神であり、
真実の神の姿は、教えに顕れているのだ。
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コメント: 全24件
from: Ayumuさん
2011年05月03日 01時44分40秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:イエスは創造神?」
こんばんは
にしき鯉さん
コメントありがとうございます。
自分の意見ですが、イスラムは戒律の宗教ですね。ユダヤ教もモーゼ五書とかみると、同じなんですよね。この流れで、キリスト教が非常に異質に感じます。
エホバ(ヘブライ語のヤハウエ)とアラーは同じような霊団がそれぞれ神と名乗って指導していたと思っています。
兎に角、神の言葉と、母親の説教と、父親のぼやきと、おばーちゃんの知恵が一つの教典になっている感じですね。また母親の説教的にくどくどという感じです。
ただ、この流れのもう一つの特徴は非常に言葉が美しいのです。ヘブライ語では聞いたことはないですが、詩編はとても美しいと言われています。またコーラン(クルアーン)は詩の最高傑作と言われるくらいとても美しいです。意味がわからなくても、コーランの詠唱を聞いてイスラムに改宗した人がいるという理由もわかります。
ueyonabaruさん
すごく苦労されているようで。。
>会員獲得も、今まで随分おかしなものがあるようですよ。私は、現在支部においては、名簿の整理作業をボランティアでやっておりますが、三帰信者とされている方々が、実際は支部に顔を見せず、また会費も払ってないのが多いのです。植福をされている方々に、機関紙を送ってなかったりで、実に嘆かわしいものがあります。今後、整理作業をしてゆかねば思っております
パソコン一台ですむ話なのですが、20年間からなんのイノベーションも無いのですね。。。悲しいことです。このようなやり方をすれば、企業ならばとっくに倒産しているのですが、支える善意が存在しているということですね。
基本的に経営管理というかマネジメントが無いのと無いという現実に気がついてくれないのでしょう。また信者の組織化もかなり弱いままなのですね。
エルカンターレの教団だから、みたいなものがあるのでしょうね。
生長の家もご存知なのですね。私も祖母が熱心な信者です。母はそういう祖母の影響は受けていますが、あまりまじめな信者ではなかったですね。でも教育方針とかは生長の家の方針で育てたつもりだそうです。
生長の家は、女性組織が強力ですごく組織化されていますね。信念の宗教なので、一度組織化されると、ものすごく強いですね。
もん吉さん
コメントありがとうございます
下記は自分の感覚に自身が無いので、話半分で。。
上からみた姿はわかりませんというか、階段の話を持ち出してしまいましたが、本当の自分の感覚は、空間ではなく、波なんです。物理としては変ですが、波が空間を作っているように見えます。。。
波として感じる方は多数派なのですが、感じ方の多くは光+色なのです。なぜか私は、資格的には波そのものでかつ、色が見えず、音として感じるんです。。ピタゴラスは天体の音が聞こえたそうで、そのことが自分の救いになっていますね。。
明確な空間認識を持っている方って、スエーデンボルグのような専門の方か大如来かのように思いますね。
学生の時に、数学さぼっていましたから。。。そのように解釈できる素地がないのでしょうね。
from: ueyonabaruさん
2011年05月01日 21時27分44秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:イエスは創造神?」
Ayumuさんへ
エマソンの言葉の延長ですが、人は自分の考えの外にはなかなか出れないので、思いつく範囲内でしか、因果の理解が及ばないという意味です。 >
たくさんお書きして申し訳ないですが、お読みくださいね。
エマソンは、相当に高い真理を語ります。大川先生と同じように語れるところがあります。
エマソンがいう、人間には人格神しか想定し得ないという言葉は、人間能力の限界を尽くしても、人間は最高に優れた個人というイメ-ジでしか神を表現できないということかと思います。ですから、我々人間個人個人の認識力の差とは直接関係しないのではないでしょうか?。
人間は、しかし、その根源のものを、象徴的な表現でとらえてきました。いわく、神とは、「一なるもの」、「アルファでありオメガであるもの」「陰陽未分化のときにあるもの」「無限であり有限であるもの」等々です。しかし、それでは、神に語るということはできませんね。その神秘性は分かるのですが。アルファでありオメガであるお方と、人間は想定してしまいます。これが人間精神の構造だと思います。神は、我々には、その全容は分からないものです。大宇宙のことも、小宇宙のことも、人類はまだ知るに至っておりません。創造の神は永遠に謎を残しているものです。
人間は祈るときに、自己の魂の全力を尽くして、偉大なる人格を想像しようとするものであり、そしてこれに語りかけることこそが、祈りではないでしょうか?
この間、先生がインド、ネパ-ルご巡錫の際に、「我はアルファでありオメガ」であると説教されました。これは、自分自身が神であると言っていることになりますね。先生が、精神の高揚するとき、即ち神と一体となった境地のときにそのようにおっしゃるのだと思います。
光明思想では、人間は神の子と教えます。猫の子は猫です。神の子は神なのです。先生が神だとおっしゃるのなら、私たちもまた神ということになります。大川先生が神であることと、私たちが神であることは同じです。その点においては同じであり、平等でしょう。しかし、そこには差別があるということだと思うんですね。平等と差別の見方が同時にあるのでしょう。
幸福の科学の信者さんが、大川先生を優れた人格として、神として拝むのは、自然でもあると思うんです。
主エル・カンタ-レとは、偉大なる神として拝むことも可能でありますが、もっと身近に考えても良いのではないでしょうか。主という言葉を、辞典で調べると、lordとは、「主人、首長、支配者、封建領主、貴族、上院議員、指導者、大家などの意味があるようです。The Lordと言えば、造物主になるようです。
先生のことを我々のリ-ダ-と考えても良いのではないでしょうか。人類救済のリ-ダ-ですね。
人に先生のことを説明するのに、エル・カンタ-レ神として現在は説明しておりますが、もっと柔らかい表現で、我々の精神的指導者としても良いのではないかと思うんです。方便でしょうが。
因果律についてですが、「一なる神」が創造のときに、張り巡らせたのが因果律ではないでしょうか。大川先生は、神様の偉大な創造は時間を創ったことだとおっしゃいます。時間とともに創られたのが因果律なのかもしれませんね。今は、そのように考えております。
from: もん吉。さん
2011年05月01日 18時37分55秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:イエスは創造神?」
なるほど〜
今現在において自分としては真実一路にベストを尽くす生き方をしているとしても、より高次の存在から見れば至らない自分であるっていうことはあるからね〜
これは、学びの反復の中で魂を一歩進めることができた時にそれまでの生き方を振り返って みれば分かるんだよね。
より高次の認識を持った存在にとって魂の進化は縦と横の高みと幅の中での螺旋に見えるでしょうね。
from: ueyonabaruさん
2011年05月01日 15時11分25秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:イエスは創造神?」
Ayumuさんへ
色々と忙しくなりましたが、是非頑張って議論を続けてくださいね。皆さん、新しい言論が始まって、元気いっぱいのようですよ。
信者さんは、概ね天使になりたい人の集団でしたね。
そのような感覚は私にはありませんが、大変な時代だったようですね。焦りのなかの信仰というのは、やりたくないものです。そのときの方々を批判したい気持ちはありませんが、私には苦手な熱狂です。
大川総裁からも同じようなお話があったりして、大丈夫か????ですね。
先生ご自身も危機感を抱いておられたと思います。「世紀末の危機は乗り越えられたが、いまだ危機は去らず」の考え方が、幸福の科学にはあるようです。私は、精一杯の努力はするつもりですが、力及ばずして、人類が滅びるようにでもなれば、今度の震災で被害に遭われた方々のように従容として運命に従うしかないだろうと思います。 「努力が足りないで、人類の災難を防ぎ得なかった」 とあの世に行ってから後悔するだろうとの非難にも今は屈しないつもりです。強制的な物言いには反発してしまいますね。
どんな手段も正当化される空気が流れ始めていましたね。 >
エル・カンタ-レ信仰が過ぎて、手段を選ばず的なものが出てくるのは困ることです。これは是非避けたいものです。熱狂的な信仰心は、えてしてそのような過ちをおかすものでしょうね。
当時、女性の学生部会のリーダしていた方で、目標の獲得会員数に到達しないので、大川総裁の写真に向かってひたすら私の責任ですすみませんみたいな反省行を行っていました。その状況では、正直、心は完全に下を向いているのでね。なんか気の毒でしたね。
その人の性格であり、生き方でしょうね。その方は、時間がたつとまたすぐに明るい自分に戻ってしまったのかもしれません。私なら、そんなに思いつめたら、悲壮な思いで潰れるでしょう。
> 会員獲得数よりも、伝道の原理を守っているかの方が宗教には重要だと思うのです。
会員獲得も、今まで随分おかしなものがあるようですよ。私は、
現在支部においては、名簿の整理作業をボランティアでやっておりますが、三帰信者とされている方々が、実際は支部に顔を見せず、また会費も払ってないのが多いのです。植福をされている方々に、機関紙を送ってなかったりで、実に嘆かわしいものがあります。今後、整理作業をしてゆかねば思っております。
おっしゃるように、伝道の原理は人救いであります。この原則は徹底すべきでしょうね。
> > 義とは、守らないといけない原理原則のことですね。精神的な利益も含めて利のみで動くことは、いい結果がもたらせるとは限らないと思います。概ねKKの場合、判断は利による判断です。判断基準として義という考え方を持っていないのではないかと思わせるくらい、偏っていました。
義という言葉をそのようにとらえましたか。義とは正しさぐらいに考えておりますが、その意味から、実現党の方向は正しいと考えております。また、利とは、衆生への「抜苦与楽」が現実にできるかという観点からとらえております。
> > ご存知かもしれませんが、『泣いて馬謖を切る』という三国志の故事があります。非常に優秀で、将来は、蜀という国のためにも必要な人材と考えていた馬謖を、孔明が、軍律を違反したことで処刑するというものです。軍律違反で処刑することが『義』で、国のために優秀な人材が必要であるから許すことが『利』です。どちらが正しいか正直難しいですが、義だけに偏っても利だけにかたよってもだめで、中道を選べないといけないということですね。そもそも何が義であるか考慮されないので、利しか選べない状況になっているという理解を私はしています。 > > > > > > > > >
from: Ayumuさん
2011年05月01日 13時42分05秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:イエスは創造神?」
ueyonabaruさん
> 義がないと言われることは、定かには分かりませんが、教団運営のことが中心に物事を考え、お布施などを募ることでしょうか? それとも、信者さんが、自己の悟りをのみ求めているように思われたということでしょうか。
20年前ですが、お布施に関しては、現在の本部を作るので、集め始めた段階くらいでしょうか。(そのころ本部は紀尾井町にありました)信者さんは、概ね天使になりたい人の集団でしたね。そのころは、1999年に天変地異がやってくるとみんな信じていて(影山民雄さんの、リバイアサン1999でしたっけ会員の世界観は、そこに書かれているものでした)その終末を回避するために、伝道しよう、ミラクルだみたいな感じですね。
正直、天変地異が来ても来なくても、伝道の原理はかわらないので、やることはかわらないですよね。教団が焦っている感じはまだわかるのですが、大川総裁からも同じようなお話があったりして、大丈夫か????ですね。真理の伝わり方は個人の神性から神性にしか伝わらないので、守らないといけないことはやはりありますね。この時期から、法を広めるという目的やKKという団体維持のためには、どんな手段も正当化される空気が流れ始めていましたね。
当時、女性の学生部会のリーダしていた方で、目標の獲得会員数に到達しないので、大川総裁の写真に向かってひたすら私の責任ですすみませんみたいな反省行を行っていました。その状況では、正直、心は完全に下を向いているのでね。なんか気の毒でしたね。非常に、きさくで明るい方で、その方が普通に皆さんに与えているものをもっと認識できれば、いいのにと思いましたけど。
会員獲得数よりも、伝道の原理を守っているかの方が宗教には重要だと思うのです。会員になったけれども地獄にいってしまえば何の意味も無いからです。会員になった縁により、いつかは仏教系の天使が救ってはくれるでしょうけど。。。
> 幸福実現党を立ち上げ、不利な戦いをしているものの、大義にかなうことだと思うのですが。
>
> 利についてですが、宗教には、功徳が伴わねばならないと思うんです。利というものは、個人の物質的利益のみでなく、精神的な利益も含みます。
義とは、守らないといけない原理原則のことですね。精神的な利益も含めて利のみで動くことは、いい結果がもたらせるとは限らないと思います。概ねKKの場合、判断は利による判断です。判断基準として義という考え方を持っていないのではないかと思わせるくらい、偏っていました。
ご存知かもしれませんが、『泣いて馬謖を切る』という三国志の故事があります。非常に優秀で、将来は、蜀という国のためにも必要な人材と考えていた馬謖を、孔明が、軍律を違反したことで処刑するというものです。軍律違反で処刑することが『義』で、国のために優秀な人材が必要であるから許すことが『利』です。どちらが正しいか正直難しいですが、義だけに偏っても利だけにかたよってもだめで、中道を選べないといけないということですね。そもそも何が義であるか考慮されないので、利しか選べない状況になっているという理解を私はしています。
from: にしき鯉さん
2011年05月01日 12時43分05秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:イエスは創造神?」
Ayumu さんへ パート②
ちょっと、イスラムの事を指摘したので補足しておきます
私の前の職場での話です
セネガル共和国から日本に来た方と友達になりました
イスラムでラマダーンと言う断食月がありますね、これの意味を聞くと
<断食は日の出から日没まで食を断つ事です、これはムスリムとして当然のおこないです>
私は、当初、お昼を抜くだけか、ふ〜ん、と思っていました
一日だけなら、簡単ですがこれが一ヶ月も続くと大変です
お昼には日本の従業員は当然ご飯を食べます、食後の缶コーヒーも飲みます
それを、ニコニコしながら、見ていられる「教え」はすごいの一言です
食は我慢できても体力仕事(製紙の加工)、水分はかかせないはずです
一週間位たつと、彼もバテてきて私が見かねて、ジュースを買ってやっても、
「ありがとう、後で飲むから、、、」と言って絶対に仕事中は飲みませんでした
あの頃は、はたして自分にこんな事ができるだろうか?
神にそこまで、忠誠を尽くせるものだろうかと考えました
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
日本人は読経にしても祈りにしても形式化しています
朝晩、真剣に祈れば、それでOK、後の時間はおざなりが多いです
現世に流される、でも,教えの根本は忘れない、便利な言葉です
でも、生きることに真剣なのは、日々の生活そのものを経典に照らし合わせながら実行する事なのかもと思います
再度、言わせてもらえばイスラム教ほど、細かく規範を決めている宗教はありません
from: にしき鯉さん
2011年05月01日 12時41分20秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:イエスは創造神?」
Ayumu さんへ パート①
返事、ありがとうございます
思っていた通り、素晴らしい感性だと推察します
私は、イスラムは否定しませんよ、と、言うより一神教を否定しません
イスラムの「アラー」とキリスト教の「父」は同じものと考えています
イスラムの人達は物の見方が均一なんです(良い意味で)
人間社会で生きる場合、合理的で妥協を踏まえても規範的で素晴らしいものだと思います
ただ、規格外の考えを認められないのです
それは私はコーランだけを根本として考えているからだと思います
同じことはKkの信徒にしても言えます
大川さんの言葉が「唯一、絶対の真理」という概念をはずさない限り
他の教えは受け入れられないでしょう
ある意味で宗教は「とらわれ」です
キリスト教もイスラム教も仏教も儒教もすべてそうです
もちろん、前に書きましたが哲学も論理の形をとった「とらわれ」です
その「とらわれ」を自分の人生にどう生かすかが大切なのかと思います
from: Ayumuさん
2011年05月01日 10時19分53秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:イエスは創造神?」
にしき鯉さん
コメントありがとうございます。
仏教が哲学であるというお話で、気を悪くされたらすみません。
妹の旦那が、アルジェリア人のムスリムで、彼らの考え方に触れることがあるのですが、彼らのアラーを前にしたときの、謙虚さ、思い、誇りというものに対して、非常に心うたれるものがあります。申命記の『心をつくし、精神をつくし、力をつくして汝の主なる神を愛せ』というのがごく普通に行われていて、絶対神の信仰で得られるものが大変よくわかります。彼らが仏教を知っているわけではありませんが、奈良に案内して、仏教は人間に対する深い洞察があるという説明とともに大仏に観光したときの彼らの印象ですね。
私個人としては、宗教は、神から与えられたものであり、かつ神への道筋を示すものであると考えています。正直、仏教に関しては、まじめに読んだのは法句教、阿弥陀教、法華経というぐらいしかないので、それほど知識があるわけではありません。ただ法華経には非常に感銘を受けました。ヨーガに関しては、まったく縁がなく、どういうものかは理解していません、世間一般のイメージ程度です。
道を求めているかどうかについては、自分自身は、俗の中で生きることを決めています。KKに入っての結論です。自分の道は特殊な世界には無いと思っています。
四正道も実践すれば、結果は得られます。霊能力も付随してきます。ただこえられない壁を感じたからです。中道に入ろうにも、右端はわかりますが、左端がわからない。左端は俗の中に現れているのではないかという思いです。
もん吉さん
コメントありがとうございます。
因果と信仰を並べてしまったのですみません。
因果を理解するのは、理性により理解されます。(これは普通の人という意味です)その理性により解釈される因果の世界がすべてと思ってしまうことが多くあります。本来は悟性でしか把握できないものもあります。信仰がなければ、悟性がうまくはたらかないというように自分自身は思っています。魂の進化の過程は不連続な所があるように思います。連続した階段ではなく、途中で全く別の階段があるように感じています。自分で考えるだけであるのであれば、別の階段がどこにあるかわからず、階段を上っているように見えて、ただ同じ階段をひたすら上りおりしているだけになります。
信仰があれば、別の階段が示されるという感覚です。理性で理解する因果と縁起はどこか閉じたところがあるように思います。
KKでいう3次元の世界ですが、神の世界の基本的な法則、神の働きが非常に弱くなるように作られていると思うのです。弱くなるが故に、自分と一緒に入れないような人とも一緒にいれますし、何より、すべての人が同じものを共有できるということがあります。同じ時間を共有し、例えば、赤いコップが赤いコップとしてすべての人が共通の認識を持てるのは、この3次元のみではないかということです。それがこの世界が作られた一番の目的のようには思います。そのような世界は、人などはるかに超えるかなり高次の神の意思でしか成立できず、それ故、木の葉一枚の因果と縁起を完全に説明することはできないと思っています。悟りにより把握できるかもしれませんが、一部でありすべてでは無いということですね。神秘は永遠に理解しきれない謎。それが、今の私の感覚です。
from: ueyonabaruさん
2011年05月01日 08時40分44秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:イエスは創造神?」
Ayumuさんへ
> 疑問を生じるのは、まじめに学ぶ信徒として当然ですし、その疑問の先に、進歩があると思うのです。 >
支部長さんは、素直に先生のおっしゃることを受け取れる方でしょう。Ayumuさんは、支部長とは異なるご性格だということですよね。私は、Ayumuさんに近い性格ですね、多分。誰も、人の心を支配できません。本人が納得するしかないのですよ。
教団を離れたのは、『義』がないからですね。すべて『利』で判断するようなところがあったからです。
義がないと言われることは、定かには分かりませんが、教団運営のことが中心に物事を考え、お布施などを募ることでしょうか? それとも、信者さんが、自己の悟りをのみ求めているように思われたということでしょうか。
幸福実現党を立ち上げ、不利な戦いをしているものの、大義にかなうことだと思うのですが。
利についてですが、宗教には、功徳が伴わねばならないと思うんです。利というものは、個人の物質的利益のみでなく、精神的な利益も含みます。
from: もん吉。さん
2011年05月01日 00時06分28秒
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「Re:Re:Re:Re:イエスは創造神?」
木の葉一枚落ちることを縁起で説明できるかですか。
宇宙が成立した時点での事物の生起それ自体が原因と結果の連鎖によって続いているから、あらゆる出来事は誕生から衰亡に至りますわね。
これを、人間に当てることも当然出来るわけで、人間は悟りの種々として生まれてくるっていうことになりますわね。
現在の運命それ自体が過去の想念行為の集積であり、現在の自分の心のあり様を縁起として未来の自分を選択することになるよね。
from: もん吉。さん
2011年04月30日 21時57分26秒
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「Re:Re:Re:Re:イエスは創造神?」
ああ、だいたい言わんとされてることがわかったような気がします。
人間は環境によって思考の鋳型にはまっているから。
宗教も魂の教育という鋳型だわね。
真理は多面体なんだけど、一つの真理の言葉によって心を縛ると違う思考をする人に対する認識の受容性を狭めるからね。
でも本当は魂の進化の可能性は実に多様性があるからね〜
from: にしき鯉さん
2011年04月30日 21時54分24秒
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「Re:Re:Re:Re:イエスは創造神?」
Ayumu さんへ
なるほど、仏教は宗教ではなく哲学ですか?
興味深く拝見させていただきました、私は哲学も宗教の一つだと思っています
Ayumu さんの考える宗教と哲学の線引きはどのあたりでしょうか?
・・・・・・・・・・・・・・・・
仏教は因果律に終始するという意見は自分も聞いています
(間違いではありませんが、それは釈迦の代表的な「教え」であって総てではありません)
因果の理法は教科書なんです、釈迦は人間が苦しむのは何故か?
その問いに、答える形で「因果の法則」と「四諦八正道」を説いています
(当時はそれが一番必要、かつ欲していたものだからでしょう)
今、現代に必要なのはなんでしょう?
キリスト教における「愛」のかたち、調和を大切にするイスラムの教え
どちらも、有意義だと思います
私はイスラム教の考えは最も人間社会に適合した教えだと考えています
キリスト教(カトリック)は最も美しい生き方だと思います
しかし、現実にはイスラム教の考えでは、神の思考になる事はありえません、それをムスリムは良しとしています
キリスト教も神の国に生まれるという事を最終目的としています
どちらも、人間の生において、幸福になるための教えではあると考えます
しかし、実際に修行をしてみれば、わかることがあります
私はヨーガの行と仏教の教えを学んできました
自分の考えうる思考の中でさえ、本気で追いかけると神は見えますよ
それは人格神もいますし、それを超えた存在の神もいます
一つだけ、断言します
仏教が哲学(思考的科学)と考えている人は明らかに勉強不足です
実践があれば結果が出るのが仏教です、不可視の部分でも
(それはヨーガも仙道も同じですが、、、)
思いついたまま書いてしまいましたが、 Ayumuさんがまだ、道を求めているような気がしました
気を悪くされないで読んでもらえることを望みます
from: Ayumuさん
2011年04月30日 20時10分01秒
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「Re:Re:Re:Re:イエスは創造神?」
> はじめまして。
>
> よく分からないけど、木の葉一枚落ちるのも縁起の理法の内にあるから、因果律から抜けることは不可能だと思うんだけど。
>
> 物事に対する認識として次元を超えるってことかな?
説明不足ですみません。木の葉一枚落ちることを縁起で説明しきれる人がいるかどうかです。エマソンの言葉の延長ですが、人は自分の考えの外にはなかなか出れないので、思いつく範囲内でしか、因果の理解が及ばないという意味です。
天災は人間の悪想念でおこるというような理解があったとします。よい想念を広げればで天災は回避されるとか、さらに、レムリアルネッサンスのように地球が金色の光に覆われていることをイメージしましょうとかという理解になるわけです。
でも、上記では説明がつかないし説明がつかなければ『人間の信仰が足りない』という理由付けをすることが、ローマカトリックの時代から行われてきています。
天災に対して人間は縁でしかないですし、どちらかというと新陳代謝的な意味合いで、定期的におこるものもありますので、影響は与えるかもしれませんが、直接の原因とは考えられないです。
因果の閉じた輪と書いたのは、人間の理解の範囲内でしかわからないことで、同じところをぐるぐる回ってしまうようなことがあるのかなという意味です。
ちょっと腹立たしく思っているのは、日本は、非常自然が豊かで、生命にあふれた土地柄です、地球の生命が他の場所に比べて集中するので、新陳代謝も活発であるということですね。そのような土地柄であるが故調和や秩序を大切にする歴史もあるからです。日本の美しさは損なわれてきている部分はありますが、地震の後をみても、やはり誇れるものはあると思うのです。それが一律に信仰が足りないということになるのは、ちょっといかがとは思います。
ただ、因果律の見え方も、どこかの段階で見え方はかわるのかなとも思います。例えば、現在の瞬間に、既に起こった過去と、既に起こった未来が存在するからです。起こっていない未来がありますので、完全にわかりませんが、既に起こった未来は人間にもわかります。
from: Ayumuさん
2011年04月30日 19時38分49秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:イエスは創造神?」
ueyonabaruさん
コメントありがとうございます。
> 私は、その頃は、大川先生のご本を読んでいただけでした。いまは、この宗教にどこまでの可能性があるか、実践の上確かめていきたいと思っているんですよ。疑問も生じますが、これも糧として学ぶしかないと思っております。
>
私は、既に会員ではありません。ただ、宗教団体に所属したのはKKのみですね。私が、いた当時から、100%の信仰のお話はありました。一度当時の、支部長さんにあえてきいたことがありますが、疑念をはさむことはよくないという返答でしたね。でも信仰は服従ではないので、服従は、自分の神性まで否定することになります、ある意味霊的な自殺ですねみたいな答えを返すとその後は適当にあしらわれた記憶があります。
疑問を生じるのは、まじめに学ぶ信徒として当然ですし、その疑問の先に、進歩があると思うのです。
教団を離れたのは、『義』がないからですね。すべて『利』で判断するようなところがあったからです。そのような団体はやはり社内の表にはなれないというような生意気なことを当時は考えていました。
> 今は、新しい宗教が求められていると思うんですよ。
そうですね。価値観が混乱していますからね。宗教の役割として、色々ありますが、社会共通の価値観を作ることや、コミュニティーを作ることとか日本には失われて必要とされているものがかなりありますね。KKは四正道というすばらしい体系があるのですがどうもうまく社会に広まりそうにないですね。
> 「畏れと謙虚さ」肝に銘じたいと思います。
私も、悲しいことに、すぐ忘れてしまうので、絶えず、自戒しています。
from: ueyonabaruさん
2011年04月30日 12時27分51秒
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「Re:Re:Re:Re:イエスは創造神?」
Ayumuさんへ
ようこそいらっしゃいました。自由にお書きくださいね。
東大講演のときに会員さんであったとのことですが、随分前のことですね。現在は、非会員であると察します。
私は、その頃は、大川先生のご本を読んでいただけでした。いまは、この宗教にどこまでの可能性があるか、実践の上確かめていきたいと思っているんですよ。疑問も生じますが、これも糧として学ぶしかないと思っております。
イスラムの方が、仏教は宗教ではなくて哲学であると言ったのは、面白いですね。これをどう受け止めるかですが、現在の仏教を見るとき、そのように言われても仕方ないと思われますね。力を失っていんるのでしょう。昔は、力がありましたよね。政治にも強い影響を及ぼした時代がありました。
「人間を信仰してしまうと傲慢さができてしまう」とのことですが、これは改めるべき、個人の問題かとも思います。私もそうならないよう、気をつけねばならないことですね。
因果論に縛られるだけでは、面白くもありません。因果論を逆手にとり、善因果による未来の開拓という視点も持ちたいものです。
お釈迦様の教えを、輪廻転生の繰り返しから抜け出るために、出家し修行をするという画一な見方についても、私は好きではありませんし、また現代人にはほとんどアピ-ルしないと思いますね。
今は、新しい宗教が求められていると思うんですよ。
「畏れと謙虚さ」肝に銘じたいと思います。
from: Ayumuさん
2011年04月30日 10時51分33秒
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「Re:Re:Re:イエスは創造神?」
1989-1991ぐらいまでの会員だったものです。大川総裁の東大での講演が最後くらいでした。こんにちは
> 論旨とはずれるかもしれませんが、エマソンのいい言葉を思い出したので書いておきます。
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> 祈りとは何だろう? それは、人間の願望を神に向かって表現したものである。では神とは何だろう?それは、人間精神のなかに形成し得るもっとも高い人格概念である。完全の域に達した個人自身の魂である。なぜなら、個人は、これ以外の神を考え得ないからだ。私が有限であるように、神は無限なのだ。私が有限であるように、神は罪なき存在なのだ。私が無知であるように、神は全知なのだ。私が弱いように神は強いのだ。ところで、いのりとは、人間の魂がそのすべてをあげてこの至高の理念にささげようとする努力、この大きな精神を痛感し、私たちが人びとと話すようにこの大きな精神と言葉を交わそうとする試みである・・・・・。
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インターネットでの議論をよく拝見いたしますが、概ね信仰に関わること、特に上記のような視点での話が多いですね。KKの会員の方にも、総裁が自分の理想の人格であるというような部分が信仰の中に入っているようなケースもあるように感じます。キリスト教もカトリックは三位一体で、それ以外の解釈は異端になってしまうのですが、(ニケーアの公会議というところで決まって異端は追放されてしまいましたから)プロテスタントは、どちらかというと聖書中心主義で、聖書の言葉を糧として生きてゆくことが、信仰の中心に据えられていると記憶しております。
ここからは、自分の考えなのですが、上記は、神への道を進むときの方向を見定めている部分でありますが、信仰の結果として、畏れを感じているかどうかが大切ではないかと思います。畏れは恐れではないです。
人知を超える部分を認めることと、今神から既に与えられていることに対する感謝する気持ちを持っているかということですね。
イスラム教は、神と人間との間に絶対的な線引きを行っています。例えば未来のことを人間が決めるのは傲慢だとかという考え方があります。(アラブの人はこれを縦にとって、時間を守ってくれず苦労することが多くあります。。。)人間が予言を行うことはあり得ないことですね。
さらに彼らの考え方では仏教は宗教ではなく哲学であるそうで、なぜかというと人間が考えたものだからだそうです。
これは極端ですが、人間を信仰してしまうと、どこかに傲慢さができきてしまうこともありますし、例えば、因果や、縁起で理解できる世界もありますが、そこにはまってしまうと、因果や縁起の閉じた輪から抜けられなくなることもあるということも今更ながら感じています。
from: ueyonabaruさん
2011年05月03日 08時57分45秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:イエスは創造神?」
Ayumuさんへ
悲しいことです。このようなやり方をすれば、企業ならばとっくに倒産しているのですが、支える善意が存在しているということですね。 > 基本的に経営管理というかマネジメントが無いのと無いという現実に気がついてくれないのでしょう。また信者の組織化もかなり弱いままなのですね。 > >
ドラッカ-の霊言も出すぐらいなので、マネジメントは得意であるべきはずが、これができておりません。エマソンの書籍を出版するのに、エマソンをあまり読んでいないようです。エル・カンタ-レ信仰一辺倒ですね。その信仰あっての教団ですが、先生のお説きになるように、教養をもっと強くしなければなりませんね。
生長の家は、女性組織が強力ですごく組織化されていますね。信念の宗教なので、一度組織化されると、ものすごく強いですね。
女房は現在も生長の家の活動をしております。こちらも、組織総体としては弱いです。女性は、幸福の科学でも生長の家でも信仰心が強いですね。
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