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from: にしき鯉さん
2011年05月23日 22時04分37秒
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仏教考察「無我」について
仏教でよく「無我」という言葉が使われます
簡単にいうと「我欲を滅した心」というのが一般の捉え方ですね
我欲は自己のエゴ、損得、プライドなどをいいます
でも、本当は意味が違います
修行を進めて煩悩を消したとき何が残るかという意味です
大乗では何も残らない、「我は無い」と言う考えです
「般若心経」もこれに準じています
対して「非我」という言葉があります
これは、転生にしても事象にしても「相互関係の中で成り立っている」だけで、その中にに「我」(私)というものは存在しない
心も肉体もわたしの物ではない、真の私は「真我」=「純粋意識」である
ヒンドゥーやサンキャ哲学では「プルシャ」といっています
仏教では「無我」と「非我」、この二つの考え方があります
これはけっこう重大な事で「輪廻転生」を考える場合、心が転生するのか、その奥にある何かが転生の原因なのかが論争されていました
(私は経験上、「非我説」をとります)
でも、こんなのは理論上の事であり、その地点に到達しない限り意味の無いことです
こういう論争こそ無意味なんですが「考察」という意味で書いてみました(あまり、面白くなかったでしょうか?)
コメント: 全32件
from: ueyonabaruさん
2011年05月27日 12時20分39秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:仏教考察「無我」について」
にしき鯉さんへ
欲界」の魂はすべて肉体があると思います > おそらく、想像でいえば地獄のボディは相当に重いのではないでしょうか > 自分の体が300キロあって視覚、聴覚すべてが思うようにならないとしたら受ける苦しみは常人の数百倍ではないでしょうか? >
ボディ-が幽体であるというのは分かりますが、肉体ではあまりに唐突な解釈だと思いますよ。中有のときにも幽体としてあるのではないでしょうか? その幽体は肉体と同じ形状をしており、霊能力がなければ見えないものです。
霊界通信などスピリチュアリズムの本なども読んだのですが、幽体と解釈した方が良いように思います。肉体であれば、我々にもみえるはずです。
> 体重ではなく、心が同じように縛られていたら、真理がそばにあっても見つめる余裕はないと考えます > > 一メートルの立方体で鉄と木材があったとします > 重さは当然違います、密度も違います > これを、心に置き換えたら、わかるのではないでしょうか > > > > > > > > > >
その感じは分かります。
from: にしき鯉さん
2011年05月26日 23時39分56秒
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「Re:Re:Re:Re:仏教考察「無我」について」
ueyonabaru さんへ
<ここでボディを肉体と書いておられますが、我々の持つ肉体とは違うものでしょうね、そうでないとおかしいと思います。気になっていたので、お聞きします。>
ここで、書くのは私が過去の「記憶としての確信」がないので断言はできません
ただ、仏典では欲を持った世界は、六欲界と表現しています
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%95%8C
(このわけ方には少し疑問がありますが、、、、)
もちろん、天には肉体の必要の無い意識も存在すると思っています
でも、十二縁起や中有の思想からすると、「欲界」の魂はすべて肉体があると思います
おそらく、想像でいえば地獄のボディは相当に重いのではないでしょうか
自分の体が300キロあって視覚、聴覚すべてが思うようにならないとしたら受ける苦しみは常人の数百倍ではないでしょうか?
体重ではなく、心が同じように縛られていたら、真理がそばにあっても見つめる余裕はないと考えます
一メートルの立方体で鉄と木材があったとします
重さは当然違います、密度も違います
これを、心に置き換えたら、わかるのではないでしょうか
from: ueyonabaruさん
2011年05月26日 21時56分41秒
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「Re:Re:Re:Re:仏教考察「無我」について」
ともともさんへ
> > 医者仲間の仏教論については理解できませんでしたが、引用して頂いた「悟りの挑戦」の説明はすっきり理解できました。 > > 「悟りの挑戦」はしっかり読んでいませんでしたので、今度じっくり読んでみます。ありがとうございました。 > >
悟りの挑戦(上・下)、沈黙の仏陀は是非お読みください。一般的な仏教論があり、それに先生独自の見方が加わった感じです。
仏教に詳しいお医者さんの言論も、これらからある程度のことは分かるはずです。難しいので、何度も読み返しました。
このような議論の機会が与えられると、また読み返します。これにより、また少し理解が進みます。まさに、議論の効用ですね。
from: ueyonabaruさん
2011年05月26日 12時25分38秒
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「Re:空について考えてみました」
mainamikazeさんへ
さらに言えば、この地球をも俯瞰して見るとするならば、この宇宙空間に、縁起の理法を得て生まれ、はるかなる未来には、消滅していくものですから、無限遠点から見れば、長い歴史を有するこの地球でさえも、一瞬空間に現れ、やがては消えていく儚い存在だということになります。そのように、どのようなものでも、自らを根拠として成り立っているものはない、ということを見抜くことが、空を理解する第一歩ではないかと、自分なりに、考えてはいます。 > まだまだ未熟者ですが、今後とも、このような話ができれば、幸いです。
そのように私も思います。
from: ueyonabaruさん
2011年05月26日 09時32分08秒
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「Re:Re:Re:仏教考察「無我」について」
にしき鯉さんへ
> > 天界でもボディ(肉体)はあるし、地獄界でもボディはあると思います > > 人間界だけがボディがあって心がある、なのに天界は魂だけで自由に変えられるというのは無理があると思いますがどうでしょうか?
#727についてです。
ここでボディを肉体と書いておられますが、我々の持つ肉体とは違うものでしょうね、そうでないとおかしいと思います。気になっていたので、お聞きします。
from: hikaru0827さん
2011年05月26日 08時02分48秒
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「Re:空について」
私の「空」の理解を支えているのは、ある講演…エルカンターレ祭の「空と阿羅漢」だったと思います。
その講演で「八不中道すなわち空」と言われていました。
そして「霊的エネルギーこそ空である」と。
八不中道は、皆さんご存知の通り、
不一不異(一つのものでもなく、異なるものでもない)
不生不滅(生まれることなく、滅するものでもない)
不来不去(来るものでもなく、去っていくものでもない)
不常不断(常にあるのでなく、断ち切れるものでもない)
…河の姿を例えに使われていたでしょうか…。
この8つの否定を八不中道と言い、それこそ「空」であると言われました。
霊的エネルギーとは、神の念いでもあり、神の光でもあり、ギリシャ哲学ではイデアと呼ばれていたものではないかと思っています。
「空」と言えば、「空即是色・色即是空」は、一般の人でも知っているフレーズです。
色を単純に言えば、物質又は物質世界とすると、
霊的エネルギーも物質も不即不離の関係であるという意味にとれます。
物質は霊的エネルギーが顕在化したもの、という事です。
そこからの教訓は、
①この物質世界に生きていても、霊的な事(精神性・宗教性)を決して忘れてはならない。
②この物質世界は仮の世界ではあるが、しかしながら霊的エネルギー(神の念い、光)に支えられた世界であり、ゆめゆめおろそかにしてはならない。
そのような教えを含んでいると理解しています。
ueyonabaruさんへ
勧戒についてのコメントありがとうございました。
にしき鯉さんへ
メール受け取りました。ありがとうございます。
from: minamikazeさん
2011年05月26日 01時26分29秒
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「空について考えてみました」
にしき鯉さん、こんばんわ。議論が盛り上がっているようで、何よりです。
さて、空についてですが、僕は、「諸々の事象は過ぎ行くものである」という釈尊の言葉にもあるように、変化こそが本質であると見抜いて、さまざまな執着から距離を置いて生きることができれば、それは、空に近づいている状態ではないかと考えます。
さらに言えば、この地球をも俯瞰して見るとするならば、この宇宙空間に、縁起の理法を得て生まれ、はるかなる未来には、消滅していくものですから、無限遠点から見れば、長い歴史を有するこの地球でさえも、一瞬空間に現れ、やがては消えていく儚い存在だということになります。そのように、どのようなものでも、自らを根拠として成り立っているものはない、ということを見抜くことが、空を理解する第一歩ではないかと、自分なりに、考えてはいます。
まだまだ未熟者ですが、今後とも、このような話ができれば、幸いです。
from: ueyonabaruさん
2011年05月25日 23時47分39秒
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「空について」
にしき鯉さんへ
空を理解するのは難しいです。
大川先生の説かれる、空論をまず見てみます。三つあります。
① この世の生活は、自分が演じる劇のようなもので、劇が終われば、普通の生活に戻る。この世の生活は、仮の世界であり、普通の生活が霊界での生活である。この世と霊界を行き来しているのが、人間である。
② 仏の光が霊的な状態で止まっている場合は、人間は実在界(霊界)の存在としてあり、もっと比重が重いような粗い波長の状態まで降りてきたら物質化し、現象界の存在になってくる。しかし、霊体も肉体も、仏光物理学(物質が消えたり、現れたりする可逆の現象)から見れば、両方とも、仏の光からできている。霊と肉とは二元論で説明ができるが、同時に、もともとは同じ素地からできている。
③ 伝統的な仏教の縁起による説明。この世にあるものは、すべて実体があるものではなく、縁起により生じているに過ぎない。他の原因や条件があって、それに依存して存在するものだから、実体ではない。だから、空なのである。空とは縁起である。
以上は、悟りの挑戦 上巻から引用しました。
私は、空についての体得的理解はいまだできておりません。ユックリ参りましょう。
from: にしき鯉さん
2011年05月25日 21時43分07秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:仏教考察「無我」について」
皆さん、いろいろな意見ありがとうございます
「無我」というと「空」という表現がいつも出てきますね
空は大乗の根幹となる教えですが、定義が曖昧です
皆さんの「空」論を是非、聞かせてください
理論的でなくてもかまいません、自分はこんな風に思ってる程度でけっこうです、お願いします
ueyonabaruさんが言っているように哲学は細かいんですよね
哲学論議になると、言葉の端々で「揚げ足取り」になってしまいます
本質的にこういう物だ、というニュアンスが伝わればOKです
ただ、貴方方が伝道する場合、どうしても知識的なものは必要ではないでしょうか?
日本は仏教国です、それは子供に常識を教える時でも、叱るときでも仏教が応用されます
いつまでも、「エル・カンターレを信じれば総てがうまく行く」ではないでしょう
キチンと理論の大筋を理解して、他に説明できるようにならないといけません
「本を読めばわかる」よくそういう人が居ます
これは創価学会が「信仰すればわかる、半年やればわかる」と同じ事を言っているんですよ
本当の「法施」は自分が体得したことを相手に伝えることだと思いますよ
意見、お待ちしています
from: もん吉。さん
2011年05月25日 20時00分53秒
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「Re:Re:Re:Re:仏教考察「無我」について」
そうか、そうか。
なるほど、万物を内界に捉えるのが諸法無我で万物を外界に捉えるのが諸諸行無常なんだ。
万物の流転を内界に捉えれば、一切の事象は過ぎさっていくわけだから、今のところこだわっている執着も仮相であって実相ではないってことだよね。
であるからして、神仏のエネルギーのみが実在だってことを伝えているわけだ。
from: ueyonabaruさん
2011年05月25日 13時53分39秒
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「Re:Re:Re:Re:仏教考察「無我」について」
もん吉さんへ
> 諸法無我だからもろもろの法はって意味じゃあないかな? >
私の大川仏教の理解によると、諸法とは、万物のことであり、そして、それには確固とした存在であるという証拠はないということになります。現在現れている世界、即ち諸法は、仏がかくあれという意念があり存在しているわけで、仏の意念がなければ存在しないものです。
先生は、時間を止めてしまうと、果たしてこの世界は存在するのかという言い方もなさいます。時間は、仏の発明、神の発明なのでしょう。
> でこの場合の法と言うのは心の塵や垢だよね。 > > たとえていえば。 > > 電球に汚れがつけばちょっと暗くなるけど洗えば明るくなるってことだと思うんだけど。
from: ueyonabaruさん
2011年05月25日 13時35分55秒
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「Re:Re:仏教考察「無我」について」
ともともさんへ
仏教理論というのは難しいです。お医者の仲間たちで、仏教のことを研究しておられる方が二人もいるとは、少し、驚きました。
このような方々は、よほど仏教に縁の深い魂なのかもしれません。
私は、ともともさん同様、仏教の基本的な考えが分かればそれで満足するたちです。哲学も好きですが、ハイデッガ-などになると、もうホントおてあげですね。専門の論理学など、見たくもないほどです。私は、文系の頭脳なんでしょうね。
それでも、理系の学問でも仏教でも、自分のところに関わるところがあれば、関心を持ちます。自分のところ、というのは、自分の心のことです。知らない世界のことでも、興味をそそられるところはあるものです。
大川先生は、仏教理論に精通している方です。仲間のお医者さんの説明の専門的仏教論についても、先生は理解しておられるのでしう。「悟りの挑戦 下巻」の197pでは、次のように書いておられます。
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ですから、因と縁の両方が必要です。原因があれば、すぐ結果がパッと出るというように考えてはいけないのです。条件が積み重なります。
この条件のところが、たとえば人間で言えば、修行ということに当たるわけです。みなさん一人ひとりの心のなかには、仏性、如来の性質があります。これが「楞伽経 りょうがきょう」でいうところの「蔵識 ア-ラヤ識、あるいは無明の働きを静止した場合
の「阿梨耶識 ありやしき(真諦三蔵訳 大乗起信論では信妄和合識とされるので)、または、「如来蔵」「自性清浄心」、あるいは九識説として、無垢識としての「阿摩羅識 あまらしき」、さらに「真如」などと説明されています。そういう如来の仏性をみなさんが持っています。ところが、仏性があるから、みなさんが如来になれるかといえば、まずなれないのです。これが因縁の説明です。
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難しい仏教論ですが、要するに、人間には仏性、如来性があるが、それは修行という縁がなければ、果としての仏性の顕現、即ち、悟りは得られないというものでしょう。
我々段階では、専門の仏教理論ま入り込むことは、普通には無理であり、専門の哲学者の世界に入りこむこともまた無理があります。
難しい仏教理論、難解の哲学を語れても大衆に訴えることができなければあまり意味を成しません。大衆の実生活に役立つこと、大衆の心を支えること、大衆に希望を与えることが大変に重要なことだと思います。
その意味からも、幸福の科学の仏教論には説得性があると思います。大衆にも、その意味が確かに伝わるのです。
from: もん吉。さん
2011年05月28日 00時44分30秒
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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:仏教考察「無我」について」
えーと、
実在界(天界)は多重構造になっていて、進化の程度によって精妙度が変わってくるって説かれてますね。
進化するほど神の万能の創造性にちかずいて行くんだって。
だから、進化した個性はなろうと思えばどんな姿にもなれるらしいよ。
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