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from: ueyonabaruさん
2011年05月24日 11時56分16秒
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識と般若
にしき鯉さんのご提示の「無我」のテ-マについて、色々と調べていたら、先生のご著書「沈黙の仏陀」に、表題の箇所がありました。
識ということについての説明です。識とは、三次元的な力を持った知性というのです。例えば、成績が良いという人、仕事ができるという人は、この識という領域で優れているわけです。分析能力もそのうちに入ります。人を鋭く批判してゆくのも、この識という智慧がすぐれているのでしょう。2chの方の鋭さも、この識の部分が優れているからだと思われますね。
他方、智慧には、般若というものがあるわけです。般若の智慧といわれるものです。先生の言葉を引きますと、
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一方、般若の方はどうかというと、識が分析していく力であるのに対して、つながった面や、全体を見ようとする傾向が非常に強いのです。
そして、さらに般若そのものに踏み込んだ説明をすると、洞察力、あるいはじかに見抜く力である直観力、これに近いのです。
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さらに、次のようにもおっしゃいます。
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要するに、識が自我意識に裏付けられているとするならば、般若というものは、無我の認識、あるいは無執着の境地に裏付けられているのです。無我の境地、無我の認識があるからこそ、自己という視点以外の視点で見ることができるのです。
この反対に、自我というものが強固であると、自分の見方以外の見方ができません。「自分はこういう人間である。こういう家に生まれて、こういう環境に育って、こういう教育を受けて、いま社会的にこういう立場にあるから・・・・・」と、この見方以外にできないのです。
たとえば会社の社長なら、社長という目以外では人が見えないということがあります。普通はこうなのです。そのように、だんだん膠(にかわ)みたいに固まってくるのです。
ところが無我の境地になると、自己を離れて自己を見ること、あるいは他の人を見ることができるのです。「善意なる第三者の目」という言葉もありますが、無我の境地が進んでくると、自己を離れた立場で、他人を見、自分も見ることがきるようになります。ですから、無執着の境地になると、自も他も同じく、等しく観察することができるようになるのです。これが般若の智慧の現れ方なのです。
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先生の珠玉の言葉はさらに続きますが、どうぞ、この本を手にとって直にご自身でお読みくださるよう、皆さんにおすすめします。
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